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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-06-10T14:32:50Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%A4%9A%E7%94%B0%E6%AD%A6%E5%BD%A6&amp;diff=68873</id>
		<title>多田武彦</title>
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		<updated>2014-05-20T11:37:27Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.24.201.211: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Portal クラシック音楽}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;多田 武彦&#039;&#039;&#039;（ただ たけひこ、[[1930年]]11月 - ）は、[[合唱]]曲を中心に手掛けている[[作曲家]]。[[大阪府]][[大阪市]]生まれ。合唱、殊に[[男声合唱]]に関わる者からは「タダタケ」の愛称で親しまれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
[[大阪高等学校 (旧制)|旧制大阪高校]]在学中に合唱を始める。先輩には[[東京混声合唱団]]桂冠指揮者の[[田中信昭]]がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[京都大学]][[法学部]]を卒業。大学在学中、京都大学男声合唱団の指揮者として活躍。当時知遇を得た作曲家[[清水脩]]に作曲上の指導助言を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本人は父や祖父が[[松竹]]の役員だった事から本人は[[映画監督]]を志望していたが諸般の事情により断念。京都大学卒業後は[[富士銀行]]（現・[[みずほフィナンシャルグループ]]）に入行。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1954年]]（昭和29年）に[[北原白秋]]の詩による男声合唱組曲『柳河風俗詩』を発表、当時としては数少ない男声合唱のレパートリーとして歓迎された。以降、銀行勤務の傍ら日曜作曲家として多数の作品を発表した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1961年]]（昭和36年）に、男声合唱曲「雨の来る前」が[[全日本合唱コンクール]]の課題曲に入選（のち、この曲は組曲「雨」の第1曲となった）。[[1963年]]（昭和38年）には混声合唱組曲『京都』で[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]に参加、文部大臣奨励賞を受賞した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
銀行を退職した現在でも、作曲や、独自の理論による合唱指導などの活動を展開している。その作品数は組曲単位だと70作を超え（男声合唱組曲だけでも、2006年に作曲・初演された『冱寒小景』が65作目）、単品でカウントすると500曲に及ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 作品の特徴 ==&lt;br /&gt;
作品のほとんどは[[ア・カペラ]]による合唱曲、それも男声合唱曲が全作品の大部分を占める。その作風は抒情性が高く、決して派手ではない[[和声]]を駆使してのテクスト（主に日本の近代詩）に寄り添うような表現が特徴とされる。特に男声合唱の作品では、制約が厳しい男声合唱の声域を踏まえた中で、より良い[[ハーモニー]]と表現性の工夫が追求されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「詩に寄り添うように」を作曲におけるモットーとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ピアノつき女声合唱作品については、組曲「白き花鳥図」「観音」や三部作・京都の「京おんな」などがある。アカペラ男声合唱版「白き花鳥図」初演時の演奏会プログラムに作曲者が記した所では、「白き花鳥図」を同声3部合唱ピアノ伴奏付で作曲・出版したあと清水脩から「君はアカペラだけ書くように」との注意を受けたとのことで、実際それ以降はピアノつきの合唱曲はほとんど発表していない。なお、組曲「白き花鳥図」については、後年の改作（後述）を基にしたピアノつき女声合唱版が2006年に出版された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聴衆の意表をつく技巧を用いた作品も少なくない。以下に例を示す。&lt;br /&gt;
*音程のない語り&lt;br /&gt;
*:（例：男声/混声合唱組曲「中勘助の詩から」第6曲「ふり売り」の呼び声、男声合唱組曲「蛙」第3曲「五匹のかえる」の絶叫、男声合唱組曲「蛙・第二」第5曲「勝手なコーラス」の名乗り声）&lt;br /&gt;
*口笛を用いた曲&lt;br /&gt;
*:（例：男声合唱組曲「中原中也の詩から・第二」第6曲「漂々と口笛を吹いて」）&lt;br /&gt;
*声部が12に分かれる曲&lt;br /&gt;
*:（例：男声合唱組曲「草野心平の詩から・第二」第3曲「鬼女」）&lt;br /&gt;
*歌が終始ユニゾンの曲&amp;lt;ref&amp;gt;厳密な斉唱ではない。パートソロやオクターブユニゾンで歌われる箇所や、一部のパートが無声音で「kwo」と連呼する個所が含まれる。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*:（例：男声合唱組曲「草野心平の詩から・第二」第6曲「龍安寺方丈の庭」）&lt;br /&gt;
*Repeat &amp;amp;amp; Fade Outで終わる曲&lt;br /&gt;
*:（例：男声合唱組曲「中原中也の詩から・第二」第1曲「砂漠」）&lt;br /&gt;
*原詩によるテクストを歌うのが独唱だけで合唱はバックコーラスのハミングしか歌わない曲&lt;br /&gt;
*:（例：混声合唱組曲「季節のたより」第4曲「祖母」、男声合唱組曲「小学生の詩による男声合唱組曲」第6曲「死んだおかあちゃん」、男声合唱組曲「草野心平の詩から・第二」第8曲「竹」）&lt;br /&gt;
*同じタイトルの曲をアタッカでつなぐ&lt;br /&gt;
*:（例：男声合唱組曲「追憶の窓」第1，2曲「村」「村」、男声合唱組曲「草野心平の詩から・第二」第7，8，9曲「竹」「竹」「竹」）&lt;br /&gt;
*原詩によるテクストを歌う独唱と一緒に、既存曲の合唱編曲をバックコーラスが歌う曲&lt;br /&gt;
*:（例：男声合唱組曲「樅の木の歌」第5曲「樅の木の歌」、男声合唱組曲「秋の流域」第1曲「夏の最後の薔薇」、男声合唱組曲「尾崎喜八の詩から・第二」第5曲「夕暮の歌」）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な作品 ==&lt;br /&gt;
（）内は作詩者。作品の多くは[[音楽之友社]]、[[メロス楽譜]]から刊行されている。&lt;br /&gt;
=== 男声合唱 ===&lt;br /&gt;
* 柳河風俗詩（[[北原白秋]]）：合唱組曲第1作。白秋の第2詩集『思ひ出』から4篇がテキストになっている。第1曲「柳河」は、[[全日本合唱コンクール]]課題曲の佳作として、先に世に出た。&lt;br /&gt;
* 富士山（[[草野心平]]）：合唱組曲第2作。同名の詩集から5篇に作曲。&lt;br /&gt;
* 雨：数年の休筆の後に初めて書いた作品。休筆直前は混声合唱組曲「京都」など技巧的で難解な作品が多くなっていたことへの反省から、この作品は原点回帰の意味も籠めて平易で分かりやすいものをと意識して書かれている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.meijiglee-ob.net/special/rain 第16回東京六大学合唱連盟定期演奏会プログラムパンフレット（男声合唱組曲「雨」初演に際しての作曲者メッセージ）]。&amp;lt;/ref&amp;gt;。全曲が単曲として取り上げられる完成度を持っていながら、難易度はそれほど高くなく、聴き易く親しみやすい。特に終曲の「雨」は多田の代表作の1つとして愛唱されている。また多田自身この作品を書いた際「第2曲『武蔵野の雨』を作曲し始めてから、芸術の神ミューズが宿った」とライナーノートに記したり、あちこちで「終曲『雨』は私自身の鎮魂歌である」といった旨の記述をしたりなどから、多田にとって特別な作品であると考えられる。&lt;br /&gt;
なお、第4曲は当初「十一月に降る雨（堀口大学）」であったが、のちに「雨　雨（尾形亀之介）」に差し替えられている。&amp;lt;!-- 歌詞にいわゆる差別的な言葉が含まれていたためではないかと考えられる。 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
（同様に、「人間の歌（堀口大学）」の第6曲も「年の別れ」→「宮城野ぶみ」に、「中原中也の詩から」の第3曲も「朝鮮女」→「間奏曲」に、それぞれ差し替えられている）&lt;br /&gt;
* 北陸にて（[[田中冬二]]）&lt;br /&gt;
* 海に寄せる歌（[[三好達治]]）&lt;br /&gt;
* わがふるき日のうた（三好達治）&lt;br /&gt;
* 草野心平の詩から&lt;br /&gt;
* [[山村暮鳥]]の詩から&lt;br /&gt;
* 父のゐる庭（[[津村信夫]]）&lt;br /&gt;
* [[中勘助]]の詩から&lt;br /&gt;
* 山の印象&lt;br /&gt;
* [[中原中也]]の詩から&lt;br /&gt;
* 中原中也の詩から・第二&lt;br /&gt;
* みどりの水母（[[大手拓次]]）&lt;br /&gt;
* [[尾崎喜八]]の詩から&lt;br /&gt;
* 尾崎喜八の詩から・第二&lt;br /&gt;
* 尾崎喜八の詩から・第三&lt;br /&gt;
* 三崎のうた（北原白秋）&lt;br /&gt;
* 三崎のうた・第二（北原白秋）&lt;br /&gt;
* 北斗の海（草野心平）：組曲のタイトルは草野心平が本作品のために考えたものである&amp;lt;ref&amp;gt;深沢眞二『なまずの孫　3びきめ』メロス音楽出版、2002年、pp.147-148、&amp;lt;br&amp;gt;[http://www.wagner-society.org/shiono/program/copy105.htm#TADA105 慶應義塾ワグネルソサィエティー男声合唱団第105回定期演奏会プログラム]。&amp;lt;/ref&amp;gt;。なおこのタイトルを貰う際に心平邸を訪問した際、多田は心平による蛙の詩の朗読を聞いている。それが後年、組曲「蛙」「蛙・第二」の誕生につながった。&lt;br /&gt;
* 雪国にて（[[堀口大學]]）&lt;br /&gt;
* 若しもかの星に（[[百田宗治]]）&lt;br /&gt;
* 優しき歌（[[立原道造]]）&lt;br /&gt;
* 吹雪の街を（[[伊藤整]]）&lt;br /&gt;
* 東京景物詩（北原白秋）&lt;br /&gt;
* 遠い母に（[[大木惇夫]]）&lt;br /&gt;
* 遠いふるさと（[[山村暮鳥]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 混声合唱 ===&lt;br /&gt;
* 潮風のうた（[[中村千栄子]]）&lt;br /&gt;
* 太海にて（[[間所ひさこ]]）&lt;br /&gt;
* 京都（[[安水稔和]]）&lt;br /&gt;
* 季節のたより（三好達治）&lt;br /&gt;
* 柳河風俗詩（北原白秋）&lt;br /&gt;
* 雨&lt;br /&gt;
* 海鳴りをきく（[[中山正善]]）&lt;br /&gt;
* わが心の詩（[[池田大作|山本伸一]]）&lt;br /&gt;
* 信濃の民話による三つのバラード&lt;br /&gt;
* 観音（[[山崎澍朗]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===女声合唱===&lt;br /&gt;
* 白き花鳥図（北原白秋）：当初はピアノ付き同声合唱（初演は男声だが、出版後は女声での演奏がほとんどであった）。一部の曲目を差し替えてアカペラ混声・男声合唱に改作、のち混声・男声合唱版を基にピアノ付き女声合唱に再び改作。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注記・参考文献 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:たた　たけひこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:みずほフィナンシャルグループの人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:京都大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:大阪市出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1930年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;br /&gt;
{{people-stub}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.24.201.211</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%AD%A6%E4%BA%95%E5%A4%A7%E5%8A%A9&amp;diff=160715</id>
		<title>武井大助</title>
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		<updated>2014-05-20T11:36:32Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.24.201.211: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;武井 大助&#039;&#039;&#039;（たけい だいすけ、[[1887年]]（[[明治]]20年）[[4月25日]] - [[1972年]]（[[昭和]]47年）[[3月30日]]）は、日本の[[大日本帝国海軍|海軍]][[軍人]]、[[実業家]]。最終階級は海軍主計[[中将]]。[[安田銀行]]・[[文化放送]]の元社長。1940年[[勲一等旭日大綬章]]受章。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==生涯==&lt;br /&gt;
[[茨城県]]生まれ。武井松太郎の三男として生れる。旧制[[土浦中学校]]（[[茨城県立土浦第一高等学校|茨城県立土浦第一高等学校]]の前身）卒業後、明治37年7月、[[東京高等商業学校]][[予科]]（[[一橋大学]]の前身）に入学し、翌月、海軍主計学生となる。[[緒方竹虎]]らとともに[[申酉事件]]のリーダーとしての責任をとり専攻部へは進まず、予科卒業後、海軍少主計に任官し[[海軍経理学校]]乙種で学ぶ。以後、海軍の主計科[[士官]]として活躍する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大正6年4月から8年8月まで[[アメリカ合衆国]]駐在として[[コロンビア大学]]に留学。以後、[[海軍省]]経理局員、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]随員、経理学校幹事、技術研究所会計課長、経理学校教頭、[[艦政本部]]総務部第2課長、[[佐世保鎮守府]]経理部長、[[横須賀鎮守府]]経理部長などを歴任し、昭和12年12月、海軍主計中将に昇進した。13年5月、主計科士官としては最高の地位である海軍省経理局長となり、15年[[勲一等旭日大綬章]]受章。[[軍令部]]出仕を経て、19年4月、[[予備役]]に編入された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
19年4月から22年5月まで[[安田財閥|安田保善社]]常務理事を務めたのち、[[公職追放]]となる。27年2月、公職追放解除となり、以後、戦後の経済界でも活躍した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==申酉事件==&lt;br /&gt;
東京高等商業学校の専攻部廃止の文部省令に対し全校生徒・同窓会が抗議、学生総退学した[[申酉事件]]の中心人物であり、一橋大学の同窓会館である[[如水会]]館の14階の記念室に掲額されている「申酉事件」の時の「悲風惨憺天日曇る・・・」で始まる『校を去るの辭』の檄文を起草した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==逸話==&lt;br /&gt;
*「戴剣歌人」と呼ばれるほど和歌の道にも通じ、宮中[[歌会始]]の召人を務めたこともある。&lt;br /&gt;
*日本人で初めて[[アダム・スミス]]の足跡を辿り、お墓からその生地まで訪ねた人物である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==履歴==&lt;br /&gt;
*旧制土浦中学卒&lt;br /&gt;
*東京高等商業学校卒&lt;br /&gt;
*海軍経理学校卒&lt;br /&gt;
*[[海軍大学校]]教官&lt;br /&gt;
*[[横須賀鎮守府]]主計長&lt;br /&gt;
*[[海軍経理学校]]教頭&lt;br /&gt;
*[[海軍省]]経理局長&lt;br /&gt;
*[[大日本帝国海軍]]主計[[中将]]&lt;br /&gt;
*[[安田銀行]]（旧[[富士銀行]]、現[[みずほ銀行]]）社長&lt;br /&gt;
*[[文化放送]]三代目社長&lt;br /&gt;
*[[勲一等旭日大綬章]]受賞&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たけい たいすけ}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の実業家]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の銀行家]]&lt;br /&gt;
[[Category:大日本帝国海軍将官]]&lt;br /&gt;
[[Category:みずほフィナンシャルグループの人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:茨城県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1887年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1972年没]]&lt;br /&gt;
{{people-stub}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.24.201.211</name></author>
	</entry>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%9D%89%E5%B1%B1%E8%8C%82%E4%B8%B8&amp;diff=201013</id>
		<title>杉山茂丸</title>
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		<updated>2014-05-20T11:34:48Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.24.201.211: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{出典の明記|date=2013年4月|ソートキー=人1935年没}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;杉山 茂丸&#039;&#039;&#039;（すぎやま しげまる、[[元治]]元年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]（[[1864年]][[9月15日]]） - [[昭和]]10年（[[1935年]]）[[7月19日]]）は、[[日本]]の[[政治運動家]]、[[実業家]]。[[明治]]から[[大正]]、[[昭和]]初期にかけて、それぞれの時代の政界実力者と結び、経済や外交、内政などにさまざまな献策を行った人物である。自らは官職も議席も持たない在野の浪人であったが、[[山縣有朋]]・[[松方正義]]・[[井上馨]]・[[桂太郎]]・[[児玉源太郎]]・[[後藤新平]]・[[寺内正毅]]らの参謀役を務め、&#039;&#039;&#039;政界の[[黒幕]]&#039;&#039;&#039;などと呼ばれた。実は[[戦国大名]]・[[龍造寺隆信]]の末裔である。長男は作家の[[夢野久作]]。孫はインド緑化の父と言われる[[杉山龍丸]]、詩人の[[杉山参緑]]。「夢野久作と杉山三代研究会」の[[杉山満丸]]は曾孫。戯号として其日庵（そのひあん）。戒名は其日庵隠忠大観居士。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
=== 出生から青年期 ===&lt;br /&gt;
[[福岡藩|福岡]][[藩士]]・[[杉山三郎平]]の長男として、現在の[[福岡市]][[天神 (福岡市)|天神]]あたりで出生する。明治3年（[[1870年]]）ごろ、父の帰農に従って[[遠賀川]]河口の[[芦屋町|芦屋村]]に移住、[[士族]]の一家が営む[[農業]]はうまくいかず貧困生活を送る。その後[[筑紫郡]][[山家村 (福岡県)|山家]]や[[朝倉郡]][[夜須町 (福岡県)|夜須村]]などを転住。父は寺子屋を開き貧困の中で[[平民]]に学問を授ける。その後、[[四書五経]]をもとに明治11年（[[1878年]]）[[敬止義塾]]を[[筑前町]]にひらく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
民約論や仏蘭西革命史などを読んで政治に目覚め、明治13年（[[1880年]]）、諸国巡遊に旅立ち、初めて東京へ。この間、[[山岡鉄舟]]の門人となり、また[[後藤象二郎]]や[[大井憲太郎]]などと知遇を得た。滞京一年半で帰郷するが、明治17年（[[1884年]]）、熊本の[[佐々友房]]から旅費を借りて上京、[[伊藤博文]]を悪政の根源、脱亜入欧、藩閥の巨魁と目してその暗殺を企て、山岡鉄舟の紹介状を持って面会に成功するが、逆に、お互い国家のために身を大事にと説伏されて断念した。（杉山茂丸『其日庵叢書第一編』『俗戦国策』『百魔続編』、室井広一『杉山茂丸論ノート』など）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 玄洋社時代 ===&lt;br /&gt;
伊藤暗殺を果たせなかった杉山は、官憲の追及を避けて北海道に渡るなど、各地を転々としていたが、明治18年（[[1885年]]）、熊本県人・[[八重野範三郎]]の紹介により同郷の[[頭山満]]に出会い、心服して以後行動を共にした。頭山とともに福岡に戻った杉山は、[[玄洋社]]の経済基盤確立のため、頭山に[[筑豊炭田]]の取得を勧め、自らその資金調達に奔走、そのために当時元老院議官であった[[安場保和]]を福岡県知事に就任させた。明治21年（[[1888年]]）[[九州鉄道]]を創立。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
玄洋社機関紙『[[福陵新報]]』（のち[[九州日報]]を経て、[[福岡日日新聞]]と合併し、現在の[[西日本新聞]]）創刊などにも関わり、[[結城虎五郎]]とともに「頭山の二股肱」と呼ばれた。またこの時期、玄洋社員・[[来島恒喜]]による[[大隈重信]]外相襲撃事件が起こり、多くの玄洋社員とともに杉山も嫌疑をかけられ収監されるという経験をした。（杉山『百魔』、藤本尚則『巨人頭山満翁』など）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 香港貿易と不遇の頃 ===&lt;br /&gt;
明治25年（[[1892年]]）、[[第1次松方内閣]]による流血の選挙干渉事件の際、杉山は頭山の指示のもと、民党圧迫に協力するが、頭山が松方の豹変に激怒して政界との関わりを絶った頃、杉山も玄洋社から離れた。この前後から杉山は[[香港]]との間に石炭貿易を始め、何度も現地に渡航している。杉山は香港貿易を通じて経済知識を蓄え、同時に西欧列強による中国の経済支配の様相を実見して、国家の経済的自立の重要性に目覚めた。しかし貿易事業そのものは失敗し、杉山は妻子を福岡に残して上京した。この時期、福岡に残された家族が貧窮のどん底にあったことは、後年杉山の長男・夢野久作が書き残している。（室井『杉山茂丸論ノート』、夢野久作『父杉山茂丸を語る』など）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本興業銀行の設立運動 ===&lt;br /&gt;
明治27年（[[1894年]]）、杉山は同郷の先輩である[[金子堅太郎]]の知遇を得て、経済政策を語り合うようになった。またこの前後、[[東京日日新聞]]主筆の[[朝比奈知泉]]と知り合い「暢気倶楽部」と呼ばれる会合を持つようになって伊藤博文・[[桂太郎]]・[[児玉源太郎]]・[[後藤新平]]と人脈を広げた。杉山は金子と協力して工業資本の供給を行う興業銀行設立運動を始め、朝比奈は金子や杉山の動静を東京日日新聞で報道して世論形成に一役買った。杉山は明治30年（[[1897年]]）年に初めて渡米し、アメリカの工業事情を視察すると、翌明治31年（[[1898年]]）にも渡米して、世界の金融王[[J・P・モルガン]]と単独面会し、かつ巨額の借款を約定することに成功した。杉山らの興業銀行設立運動は、伊藤博文総理や井上馨蔵相の理解を得たものの、地租増徴問題をめぐる内閣と議会との混乱の中で握りつぶされる結果となり、[[隈板内閣]]を経て[[第2次山縣内閣]]によって、明治33年（[[1900年]]）に「[[日本興業銀行法]]」が成立する。しかし、[[貴族院 (日本)|貴族院]]や国内の銀行家の反対により外資導入は不可とされ、杉山がモルガンとの間に結んだ資本導入は実現しなかった（室井『杉山茂丸論ノート』、杉山『百魔』など）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 台湾統治への関わり ===&lt;br /&gt;
明治31年（1898年）、現地住民の抵抗により統治が進まなかった[[台湾]]に、児玉源太郎が第4代総督として就任し、民政局長には後藤新平が抜擢された（1898年6月20日に民政長官）。杉山は児玉らに対し、製糖産業の振興による台湾経済の確立を献策し、自らも製糖会社の設立に関わった。また[[台湾銀行]]の創設や[[台湾縦断鉄道]]の建設などにも関与したと見られ、[[添田壽一]]・[[中川小十郎]]らを台湾銀行総裁として推薦している（杉山『俗戦国策』など）。また、[[蓬莱米]]の普及に尽力した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 政友会創設資金の提供 ===&lt;br /&gt;
伊藤博文が明治33年（1900年）に[[立憲政友会]]を結成するに際して、杉山はその創設資金の一部を提供した。杉山は元来[[政党政治]]を否定する立場であったが、将来の日露開戦を睨んで、伊藤によって政府の方針を助ける政党が結成されることは必要と考えていた。このとき伊藤に提供された十万円の資金の出所は明らかにされていないが、杉山の友人であった[[小美田隆義]]や実業家の[[岡田治衛武]]が有力視されている。（杉山『俗戦国策』、一又正雄『杉山茂丸』、野田美鴻『杉山茂丸傳』など）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 桂太郎、児玉源太郎との盟約 ===&lt;br /&gt;
杉山は暢気倶楽部などを通じて陸軍の児玉源太郎と親しく交際し、対露開戦に向けて努力することを盟約した。のちにこの盟約には、明治34年（[[1901年]]）に総理大臣となった桂太郎も加わった。桂・児玉・杉山の三者による活動は、対露戦争回避、[[日露協商]]を主張する伊藤博文への対処が中心となった。明治35年（[[1902年]]）1月、伊藤博文がロシアとの協商を目的に[[ペテルブルク]]滞在中、桂内閣が電撃的に[[日英同盟]]を締結したのは、伊藤を「日露戦争の戦死者第一号」にしようという杉山の献策に従った政略であった。また、明治36年（[[1903年]]）7月、桂内閣を攻撃していた伊藤博文が[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長に親任され政友会総裁を辞任せざるを得なくなったのも、杉山が桂や児玉に伊藤の祭り上げを献策した結果であるという。（杉山『俗戦国策』）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
児玉源太郎との結びつきについては、東京築地本願寺境内に日露戦争戦勝を記念して杉山が児玉に茶釜を贈ったことを記念する「凱旋釜」碑がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日露戦争の幕引きと満鉄設立 ===&lt;br /&gt;
明治38年（[[1905年]]）、[[奉天会戦]]のあと児玉源太郎が密かに帰国して、政府首脳に講和の必要性を説いたのは、杉山が児玉に秘密電報を打電して講和を進めるべき時期であると進言したことによるという。この年の夏、山縣有朋は講和の聖旨を伝達するため、密かに渡満して[[大山巌]]以下の満洲軍首脳と会談したが、その際、杉山は一民間人でありながら山縣に随行して満洲へ渡った。杉山は[[奉天]]で児玉源太郎の宿舎に同宿し、そこで児玉から満洲の地誌などの資料を託され、戦後の満洲経営策を立案するよう依頼された。杉山は帰国後、半官半民の合同会社の鉄道会社創設を立案した。この案が児玉によって採用され、[[南満州鉄道|南満洲鉄道株式会社]]（満鉄）が設立された。（杉山『俗戦国策』、一又『杉山茂丸』など）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日韓合邦運動 ===&lt;br /&gt;
[[日露戦争]]後、日本は[[大韓帝国|韓国]]の保護国化を進め、伊藤博文を[[韓国統監]]として派遣した。杉山は伊藤に、渡韓に際し[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]を同行するよう薦め、伊藤は内田を統監府嘱託に採用した。内田は韓国において、親日派団体である[[一進会]]の[[李容九]]や[[宋秉畯]]と親交を結び、一進会の[[日韓合邦運動]]を支援した。杉山は日本国内にあって、内田からの情報を政府首脳に伝え、また内田や一進会からのさまざまな要請について政府との交渉窓口となった。杉山は一進会の懇請により顧問となっていた。一進会が目指したものは日韓が対等の立場で合併する「合邦」であったが、現実には韓国が日本に併合される結果となった。このため大正10年（[[1921年]]）、杉山は旧一進会の会員たちから自決を要求された。併合後の朝鮮に対する政府の施政の実情を憂慮した杉山は、大正12年（[[1923年]]）に総理大臣に宛てた『建白』を著し、朝鮮の施政改革を強く訴えた。（西尾陽太郎『李容九小伝』など）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 郷土開発への意欲 ===&lt;br /&gt;
大正期、杉山は郷里の経済発展に力を注いだ。博多港を築港するための株式会社を設立し、船成金と呼ばれた親友の[[中村精七郎]]が資金を提供して[[博多築港]]は進められたが、予想外に工事費が高騰し、中村は破産して築港事業は中断に至った。また杉山は[[関門鉄道トンネル|関門トンネル]]を民間の力で開鑿しようとして出資者を募り、政府に許可申請まで行ったが、遂に許可は下りず、関門トンネルは後年政府によって築造された。（杉山『百魔続編』、高野孤鹿『大熊浅次郎君追悼録』など）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
=== 海外の革命家を支援 ===&lt;br /&gt;
* 大正3年（[[1914年]]）、インド総督暗殺未遂犯の[[ラス・ビハリ・ボース]]が日本に亡命してきた際、日英同盟をたてに政府は黙殺したが、杉山、頭山らは彼を保護した。&lt;br /&gt;
* [[孫文]]とも交流があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 出版事業と著述活動 ===&lt;br /&gt;
* 明治41年（[[1908年]]）に[[森山守次]]が日本最初の週刊誌『サンデー』を創刊するに際し、杉山はさまざまな支援をした。この週刊誌に杉山は随筆や政談などを執筆した。&lt;br /&gt;
* 大正6年（[[1917年]]）からは門下生が創刊した月刊雑誌「[[黒白]]」に舞台を移して代表作『百魔』の連載など、執筆活動を行った。生涯の著作は二十篇を超える。（室井『杉山茂丸論ノート』）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 伝統文化への傾倒と庇護 ===&lt;br /&gt;
* 杉山は[[義太夫]]節に関しては玄人はだしであり、明治大正期の義太夫界の大立者であった[[竹本摂津大掾]]や[[竹本大隈太夫]]らと親しく交際し、それらから聞いた芸の真髄を書き記した『浄瑠璃素人講釈』という著作を遺した。自らも義太夫を語り、伊藤博文にとって死出の旅立ちとなった満州渡航の前には、伊藤の大森恩賜館に招かれて、送別の義太夫を語った。杉山の死後には、女義太夫の[[竹本素女]]が追悼義太夫会を開催し、『杉山其日庵遺作浄瑠璃集』が編まれた。&lt;br /&gt;
* 日本刀の蒐集鑑定も杉山が傾倒した趣味のひとつで、『刀剣譚』を執筆（『其日庵叢書第一編』に収録）したほか、若干の随想を遺している。晩年の伊藤博文が刀剣を趣味としたのは、杉山の勧めによるものと言われる。&lt;br /&gt;
* 相撲界に対しても様々な支援を行っている。関東大震災で国技館が焼失した際には再建資金の調達を援助したほか、[[日本相撲協会]]の設立や天皇賜杯授与の聴許などの動きに、年寄春日野（のち入間川）を助けて相撲界の振興に力を注いだ。&lt;br /&gt;
* 政財界人との交際の場であった茶の湯に関しても造詣が深く、「電力の鬼」と呼ばれた[[松永安佐ヱ門]]が六十歳を過ぎてから茶の湯に熱中したのは、杉山が茶器を贈ってそのきっかけを作ったものである。（一又『杉山茂丸』、杉山『浄瑠璃素人講釈』、松永安佐ヱ門『茶道三年』など）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 医学への貢献、献体 ===&lt;br /&gt;
杉山は医学への関心が強かった。長女瑞枝は[[東京慈恵会医科大学]]学長であった[[金杉英五郎]]の甥に嫁ぎ、次女たみ子は耳鼻咽喉科医の[[石井俊次]]に嫁した。自宅には医務室を設け、数多くの医薬品を備えていたという。実弟[[龍造寺隆邦]]が癌腫に倒れたときは、当時の最新医療を種々試みさせ、脳溢血で死去した際は、解剖に付して病因を探らせた。杉山は自ら遺言して、死去後は遺体を医学研究のため献体することとした。このため、昭和10年（1935年）7月19日の没後、杉山の遺体は[[東京大学|東京帝国大学]]で解剖に付された。門弟[[星一]]の岳父で東京帝大教授の[[小金井良精]]らが立ち会った。杉山の妻幾茂も、夫に従ったのか、死去の際献体した。現在[[東京大学|東大]]医学部には、杉山夫妻の骨格標本が並んで保存されている。（室井『杉山茂丸論ノート』、杉山『百魔』、星新一『祖父小金井良精の記』など）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な著作 ==&lt;br /&gt;
* 「其日庵叢書第一編」1911&lt;br /&gt;
* 「其日庵叢書第二編　青年訓」1914　　合本新版　[[書肆心水]]　 &lt;br /&gt;
* 「児玉大将伝」1918　[[中公文庫]]&lt;br /&gt;
* 「浄瑠璃素人講釈」1926　岩波文庫上下&lt;br /&gt;
* 「百魔」1926　講談社学術文庫上下　ただし改変が多い&lt;br /&gt;
* 「百魔続編」1927　正続併せて　書肆心水　 &lt;br /&gt;
* 「俗戦国策」1929　新版　書肆心水　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[室井廣一]]「杉山茂丸論ノート」、[[東筑紫短期大学]]研究紀要など、1981〜1999年&lt;br /&gt;
* [[一又正雄]]『杉山茂丸－明治大陸政策の源流－』、[[原書房]]、1975年&lt;br /&gt;
* [[野田美鴻]]『杉山茂丸－もぐらの記録－』、[[島津書房]]、1992年&lt;br /&gt;
* [[多田茂治]]『夢野一族－杉山家三代の軌跡－』、[[三一書房]]、1997年&lt;br /&gt;
* ちくま文庫版『夢野久作全集11』に息子の茂丸像が書かれている。&lt;br /&gt;
* [[堀雅昭]]『杉山茂丸伝』-アジア連邦の夢-[[弦書房]]、2006年、ISBN 978-4902116496&lt;br /&gt;
* [[浦辺登]]『太宰府天満宮の定遠館』、[[弦書房]]、2009年、ISBN 978-4-86329-026-6&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[龍造寺隆信]]&lt;br /&gt;
*[[一進会]]&lt;br /&gt;
*[[李容九]]&lt;br /&gt;
*[[宋秉畯]]&lt;br /&gt;
*[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]&lt;br /&gt;
*[[南満州鉄道|南満洲鉄道株式会社]]&lt;br /&gt;
*[[頭山満]]&lt;br /&gt;
*[[山縣有朋]]&lt;br /&gt;
*[[松方正義]]&lt;br /&gt;
*[[井上馨]]&lt;br /&gt;
*[[後藤新平]]&lt;br /&gt;
*[[後藤猛太郎]]&lt;br /&gt;
*[[夢野久作]]&lt;br /&gt;
*[[杉山龍丸]]&lt;br /&gt;
*[[杉山参緑]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www1.kcn.ne.jp/~orio/sonohi-an/bunkenlist.html 其日庵資料館 / 杉山茂丸関係文献リスト]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:すきやま しけまる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の政治運動家]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の実業家]]&lt;br /&gt;
[[Category:みずほフィナンシャルグループの人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:幕末福岡藩の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡市出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:夢野久作]]&lt;br /&gt;
[[Category:1864年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1935年没]]&lt;br /&gt;
{{people-stub}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.24.201.211</name></author>
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		<title>河合斌人</title>
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		<updated>2014-05-20T11:25:55Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.24.201.211: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;河合 斌人&#039;&#039;&#039;（かわい あやと、[[1918年]]（[[大正]]7年） - [[2005年]]（[[平成]]17年）[[9月6日]]）は[[日本]]の[[実業家]]、[[教育者]]。元[[河合塾]]理事長、元[[山一證券]]副社長。1992年[[フランス]]{{仮リンク|教育功労章|fr|Ordre des Palmes académiques}}（パルム・アカデミク・オフィシエ）受章。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
愛知県のローカル予備校に過ぎなかった河合塾を、弟の[[河合邦人]]と共に全国展開し、[[三大予備校]]の1つに育てた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
[[静岡県]]生まれ。旧制愛知第一中学（現[[愛知県立旭丘高等学校]]）（59回）、[[名古屋高等商業学校]]（現[[名古屋大学]]経済学部）を経て、1941年12月[[東京商科大学]]（現[[一橋大学]]）（[[井藤半彌]]ゼミナール）を繰り上げ卒業。卒業論文は「国際租税論の基本問題」。高商及び大学では[[剣道]]部に所属。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1942年]]（[[昭和]]17年）[[日本興業銀行]]（現[[みずほ銀行]]）入行。同年[[短期現役士官]]として[[海軍]]に入隊。名古屋海軍[[監督官]]事務所[[主計]][[中尉]]、[[海軍省]]経理局、海軍主計大尉を経て、[[第二次世界大戦]]終戦に伴い[[1945年]][[10月]]から再び日本興業銀行勤務となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1945年[[12月]][[経済安定本部]]（現[[内閣府]]）産業資金課に出向。[[中山素平]]日本興業銀行復興金融部長の命を受け、[[連合国軍最高司令官総司令部]]の意向に反し[[石炭]]産業へ維持・保全投資分を超えた投資を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1949年]]日本興業銀行融資第一部に復帰。[[1954年]][[名古屋造船]]に出向し同社再建策を策定、[[1955年]]日本興業銀行外国部次長、[[1959年]]同行[[ロンドン]]事務所主席駐在員。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1964年]]、証券不況による経営危機にあった[[山一證券]]に経営再建のため[[日高輝]]らとともに送り込まれ、常務就任。同社専務、代表取締役副社長を歴任。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山一証券退職後、父親が創業した[[学校法人]][[河合塾]]に入社。弟[[河合邦人]]と共に1979年の広島校開校を皮切りに同塾の全国展開を図り[[三大予備校]]の1つに育てる。1982年理事長就任、後会長。[[学校法人河合塾学園]]理事長や[[河合文化教育研究所]]所長も兼務。[[2004年]]から[[札幌予備学院]]理事長兼務も、翌2005年[[肺炎]]で死去。享年87。[[増上寺]]光摂殿にて学枚法人河合塾及び学校法人河合塾学園の合同葬が行われ、葬儀委員長は大学同期の[[鵜沢昌和]]（[[経営学者]]、元[[青山学院大学]]学長）が務めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[河合弘登]]（学校法人[[河合塾]]理事長 兼 [[学校法人河合塾学園]]理事長、元[[札幌予備学院]]学院長）は長男。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*[[片山修]]『塾経営こそわが人生:河合斌人』&lt;br /&gt;
*[[城山三郎]]『今日は再び来らず』（[[講談社文庫]]）&lt;br /&gt;
:河合塾が東京進出を開始した時期の[[代々木ゼミナール]]、駿河台高等予備校（[[駿台予備学校]]）、河合塾の[[三大予備校]]をモデルとした予備校業界に関する経済小説。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:かわい あやと}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本の実業家]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の学校法人の理事長]]&lt;br /&gt;
[[Category:大日本帝国海軍短期現役士官]]&lt;br /&gt;
[[Category:みずほフィナンシャルグループの人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:山一證券の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:静岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1918年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2005年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:河合塾|人かわい あやと]]&lt;br /&gt;
{{people-stub}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.24.201.211</name></author>
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		<title>糸瀬茂</title>
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		<updated>2014-05-20T11:18:50Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.24.201.211: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;糸瀬 茂&#039;&#039;&#039;（いとせ しげる、[[1953年]] - [[2001年]][[6月30日]]）は、[[福岡県]]出身の[[エコノミスト]]。専門は[[金融|金融論]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
[[福岡市]]生まれ。[[福岡県立修猷館高等学校]]、[[上智大学]][[外国語学部]]英語学科卒業。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1977年[[第一勧業銀行]]に入行。第一勧銀在職中に社費で[[スタンフォード大学]]へ留学し[[経営学修士|MBA]]取得。その後、転職活動をするも邦銀に職が得られず、外資系投資銀行へ活動の場を移し、ソロモン・ブラザース・アジア証券ディレクター、DBモルガン・グレンフェル証券（東京支店副支店長）などを転々とする。[[長銀総合研究所]]客員研究員を経て、1997年に[[宮城大学]]事業構想学部助教授に就任。1999年に同教授に昇格。[[公共事業]]における無駄を指摘し、[[不良債権]]問題の先送りに警鐘を鳴らすなど、メディアにも積極的に登場した。経済審議会グローバリゼーション部会特別委員を歴任。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2001年6月30日、[[食道癌]]のため死去&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20010630000319 糸瀬茂氏死去/宮城大教授、金融論] [[四国新聞]] 2001年6月30日&amp;lt;/ref&amp;gt;。生前から病状を公表し、同年4月に誕生した[[小泉内閣|小泉政権]]や[[竹中平蔵]]の入閣についてコメントするなど死の直前まで活発な活動を続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著書 ==&lt;br /&gt;
=== 単著 ===&lt;br /&gt;
* 銀行のディスクロージャー（[[東洋経済新報社]], 1996年, ISBN 449265190x）&lt;br /&gt;
* ビッグバンを超える『スーパー金融マンの条件』 -- 会社が変わらなければ自分が変わる --（[[経済法令研究会]], 1997年, ISBN 4766840259）&lt;br /&gt;
* なぜ銀行を救うのですか -- ポストビッグバンの金融ビジネス --（東洋経済新報社, 1998年, ISBN 4492652175）&lt;br /&gt;
* アングロサクソンになれる人が成功する -- なぜ、彼らのビジネス・スタイルが最強なのか --（PHPソフトウェアグループ, 1998年, ISBN 4569603025）&lt;br /&gt;
* スーパー図解 パッと頭に入るIT革命（[[実業之日本社]], 2000年, ISBN 4408103977）&lt;br /&gt;
* 「デパートを税金で救う国」の行く末 -- 総括256ページ --（[[小学館]], 2000年, ISBN 4094046518）&lt;br /&gt;
* 日本経済に起きている本当のこと（[[日本経済新聞社]], 2000年, ISBN 4532163679）&lt;br /&gt;
* 図解 金融のしくみ -- たった40項目で金融の基本がすっきりわかる --（東洋経済新報社, 2001年, ISBN 4492091351）&lt;br /&gt;
=== 共著 ===&lt;br /&gt;
* しのびよる平成金融恐慌（[[藤原洋二]]（著）, 東洋経済新報社, 1995年, ISBN 4492392092）&lt;br /&gt;
* 「日本」が破綻するとき -- 先送り国家の行く末を問う --（[[木村剛]]（著）, 実業之日本社, 2000年, ISBN 4408104191）&lt;br /&gt;
* 金融ビッグバン・IT革命と郵貯・簡保（[[藤野次雄]]（著）, [[田尻嗣夫]]（著）, [[保坂尚郎]]（著）, [[日本評論社]], 2000年, ISBN 4535552452）&lt;br /&gt;
=== 翻訳 ===&lt;br /&gt;
* ヒトラーを支えた銀行家（ジョン・ワイツ（著）, [[青山出版社]], 1997年, ISBN 4900845531）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:いとせ しける}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経済学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:宮城大学の教員]]&lt;br /&gt;
[[Category:みずほフィナンシャルグループの人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1953年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2001年没]]&lt;br /&gt;
{{people-stub}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.24.201.211</name></author>
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		<title>木内信胤</title>
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		<updated>2014-05-20T10:12:21Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.24.201.211: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;木内 信胤&#039;&#039;&#039;（きうち のぶたね、[[1899年]][[7月30日]] - [[1993年]][[12月5日]]）は、[[日本]]の[[経済評論家]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[木内重四郎]]・磯路夫妻の次男として[[東京府]]（現・[[東京都]]）に生まれる。父・重四郎は[[内務省 (日本)|内務]][[官僚]]で、母・磯路は[[三菱財閥]]の創始者・[[岩崎弥太郎]]の次女。従って三菱の3代目総帥・[[岩崎久弥]]は母方の伯父にあたり、[[エリザベス・サンダースホーム]]の創設者・[[沢田美喜]]は母方の従妹ということになる。また妹・登喜子は[[渋沢敬三]]に嫁ぎ、多代夫人は[[福澤諭吉]]の孫娘にあたる。兄・良胤と甥・昭胤（良胤の長男）はともに[[外交官]]。[[民主党 (日本 1998年-)|民主党]]所属[[国会議員|衆議院議員]]の[[木内孝胤]]は昭胤の次男なので、信胤は孝胤の大叔父にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[第一高等学校 (旧制)|旧制一高]]時代は野球部で活動。[[1918年]]、名投手・[[内村祐之]]（[[内村鑑三]]の長男）らと一高が早稲田・慶應義塾を久しぶりに撃破し野球界の覇者に復帰した年は一年生でレフトを守った。三年時には四番捕手・主将を務めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[吉田茂]]のブレーンであり、[[池田勇人]]・[[佐藤栄作]]の御意見番でもあったことから「歴代内閣の経済指南番」と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
音楽にも造詣が深く、アマチュア合唱団「宗教音楽研究会合唱団」の会長を務めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
* [[1917年]] - [[東京高等師範学校]]附属中学校（現・[[筑波大学附属中学校・高等学校]]）を卒業。&lt;br /&gt;
* [[1923年]] - [[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法学部]]独法科を卒業。&lt;br /&gt;
* [[1925年]] - [[横浜正金銀行]]に入行、頭取席調査部に配属される。&lt;br /&gt;
* [[1941年]] - 上海支店副支配人となる。&lt;br /&gt;
* [[1944年]] - 東京支店副支配人となる。&lt;br /&gt;
* [[1945年]] - 総務部長権調査部長に就任するが退職し[[大蔵省]]終戦連絡部長となる。&lt;br /&gt;
* [[1947年]] - 日本経済復興協会専務理事に就任。&lt;br /&gt;
* [[1955年]] - [[世界経済調査会]]理事長に就任。94歳で死去するまで同会理事長の職にあった。&lt;br /&gt;
* [[1956年]] - [[日本国有鉄道]]理事に就任。[[産業計画会議]]常任委員（議長・[[松永安左ヱ門]]）就任。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著書 ==&lt;br /&gt;
*外国為替の話 同友社, 1948. &lt;br /&gt;
*綜合經濟政策の提案 眞日本社, 1948.4. &lt;br /&gt;
*物価体系再建論 インフレの収束と統制の整理のために 日本経済復興協会出版部, 1948. &lt;br /&gt;
*国の個性 その発見のために 文芸春秋新社, 1955. &lt;br /&gt;
*綜合経済政策の提案 回顧と反省の上に立って 日本経済復興協会, 1959. 日本再認識シリーズ   &lt;br /&gt;
*現代の台湾 世界経済調査会, 1961. &lt;br /&gt;
*世界の見かた 論争社, 1961. &lt;br /&gt;
* 『国策を考える』時事通信社・新書（[[1964年]]）&lt;br /&gt;
*経済危機を見つめて 佐藤内閣への忠言 ダイヤモンド社, 1965. &lt;br /&gt;
*農業新政策の提唱 佐藤内閣への第二の忠言 ダイヤモンド社, 1967. &lt;br /&gt;
*こうすれば日本はよくなる インフレ・不況を越えて新しい進路へ ダイヤモンドタイム社, 1975&lt;br /&gt;
*外国為替の話 復刻版 外国為替貿易研究会, 1978.11. 外為新書 &lt;br /&gt;
*『当来の経済学』プレジデント社（[[1979年]]）&lt;br /&gt;
*行革を考へる その「本番」の出発に当って 善本社, 1981.9. &lt;br /&gt;
*行革を考へる その2 (その「理念」と「手順」とについて)  善本社, 1982.4. &lt;br /&gt;
*日本経済の秘密 その活力の源を探る 潮文社, 1982.2. &lt;br /&gt;
*国の個性 アメリカも日本も、「国の個性」に生きよう、世界の国々もみな。 プレジデント社, 1986.12. &lt;br /&gt;
*二つの決断 「よりよき日本」に成るために プレジデント社, 1990.2. &lt;br /&gt;
*僕の自画像 善本社, 1991.12. 善本選書 &lt;br /&gt;
*木内信胤語録 三人会編. 警備科学研究所, 1994.12. &lt;br /&gt;
==共編著==&lt;br /&gt;
*変りゆくアメリカ 監修. 世界経済調査会, 1953.12.&lt;br /&gt;
*アメリカ農業の研究 [[市橋靖子]]共著 世界経済調査会, 1965. &lt;br /&gt;
*南アジアの研究 編著. 世界経済調査会, 1976. &lt;br /&gt;
*西アジアの研究 編著. 世界経済調査会, 1981.10. &lt;br /&gt;
*私の履歴書 文化人 20 日本経済新聞社, 1984.7. &lt;br /&gt;
*アメリカ経済危機の本質 世界経済調査会共編著. プレジデント社, 1985.11. &lt;br /&gt;
*当来の世界秩序を模索して 木内信胤先生米寿記念 世界経済調査会編. 行人社, 1986.12. &lt;br /&gt;
*エロスとの対話 女は男を知らず、男は女を知らない [[田中喜美子]]共著. 新潮社, 1992.7. &lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
==翻訳==&lt;br /&gt;
*世界経済入門 A.J.ブラウン 監訳. ダイヤモンド社, 1960.&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[筑波大学附属中学校・高等学校の人物一覧]]&lt;br /&gt;
* [[太平洋問題調査会]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/kiuchinobutane.php 国立国会図書館 憲政資料室 木内信胤関係文書]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:きうち のふたね}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経済評論家]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:三菱UFJフィナンシャル・グループの人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1899年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1993年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
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