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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<title>二条城</title>
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		<updated>2014-08-25T09:53:46Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.209.104.105: /* さまざまな二条城 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{日本の城郭概要表&lt;br /&gt;
|name = 二条城&lt;br /&gt;
|pref = 京都府&lt;br /&gt;
|img = ファイル:Nijo-jo Ninomaru-goten 2009.jpg&lt;br /&gt;
|img_capt = 二の丸御殿（遠侍と車寄）&lt;br /&gt;
|img_width = 300px&lt;br /&gt;
|ar_called =&lt;br /&gt;
|struct = 輪郭式平城&lt;br /&gt;
|tower_struct = 複合式望楼型5重5階（[[1603年]]移築）&amp;lt;/br&amp;gt;複合式層塔型5重5階（[[1624年]]築）（非現存）&lt;br /&gt;
|builders = [[徳川家康]]&lt;br /&gt;
|build_y = [[1603年]]（慶長8年）&lt;br /&gt;
|revamp =&lt;br /&gt;
|rulers = [[徳川氏]]&lt;br /&gt;
|reject_y = [[1871年]]（明治4年）&lt;br /&gt;
|remains = 御殿・櫓・門&amp;lt;br /&amp;gt;石垣、堀、庭園&lt;br /&gt;
|cultural asset = 国宝（二の丸御殿6棟）&amp;lt;br /&amp;gt;国の重要文化財（建造物22棟、二の丸御殿障壁画1016面）&amp;lt;br /&amp;gt;国史跡、特別名勝（二の丸庭園）&amp;lt;br /&amp;gt;世界遺産（古都京都の文化財）&lt;br /&gt;
|location = {{ウィキ座標2段度分秒|35|0|50.96|N|135|44|51.0|E|region:JP-26_type:landmark|display=inline,title}}&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二条城&#039;&#039;&#039;（にじょうじょう）は[[京都市]][[中京区]][[二条通]][[堀川通|堀川]]西入二条城町にある[[江戸時代]]の[[城]]である。京都市街の中にある[[平城]]で、後述する足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがあるが、現在見られるものは、徳川氏によるものである。城跡全体が国の[[史跡]]に指定されている他、二の丸御殿（6棟）が[[国宝]]に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が[[重要文化財]]に、二の丸御殿庭園が[[特別名勝]]に指定されている。さらに[[1994年]]（平成6年）には[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]（[[文化遺産 (世界遺産)|世界文化遺産]]）に「[[古都京都の文化財]]」として登録されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[徳川家康]]の[[将軍宣下]]に伴う賀儀と、[[徳川慶喜]]の[[大政奉還]]が行われ、[[江戸幕府]]の始まりと終焉の場所でもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史・沿革 ==&lt;br /&gt;
=== さまざまな二条城 ===&lt;br /&gt;
日本の歴史書において「二条城」と呼ばれることのあるものは複数ある。当時の二条大路は朱雀大路が廃れた後、都一の大路であり、[[足利尊氏]]から[[足利義満|義満]]まで3代の[[征夷大将軍|将軍]]が二条に屋敷を構えたため、将軍家の屋敷を「二条陣」または「二条城」といった。後には、二条通に面していなくても将軍家の屋敷を二条陣または二条城といった{{要出典|date=2013年7月|title=事実か。この説を記す史料は？}}。[[室町時代]]に平安京の左京にあった唯一の城である。ちなみに右京にも唯一、「[[西院城]]（さいのしろ）」があった。二条城と西院城を平安京の両城ともいう。&lt;br /&gt;
# [[室町幕府]]13代将軍[[足利義輝]]の居城。「二条御所武衛陣の御構え」。&lt;br /&gt;
# 室町幕府15代将軍[[足利義昭]]の居城として、[[織田信長]]によって作られた城。二条通からは遠く離れていた。ただし平安京[[条坊制]]の「二条」（二条大路と中御門大路（現椹木通）に挟まれた地域）には城域の南部分がわずかに含まれる。義輝の「二条御所」とともに「二条」の名を冠して呼ばれるのはこのためと考えられる。&lt;br /&gt;
# 織田信長が京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸「二条新御所」。二条通にも面さず条坊制の二条にも属していない。二条家の屋敷跡に設けられたための呼称と考えられる&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記天正4年4月条「二条殿御構へ御普請の事」には「二条殿御屋敷幸い空間地にてこれあり」とある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
# [[徳川家康]]が京に滞在中の宿所として造った城。&lt;br /&gt;
現存する二条城は4の城である。1と2は同じ場所に造られたが連続性はない。1を「二条城」と称した例は当時から現代に至るまで無いが2の前史としてここに紹介しておく。2と3は同じものと見る説&amp;lt;ref&amp;gt;[[広辞苑]]、平凡社日本歴史地名大系など&amp;lt;/ref&amp;gt;もあるが、『[[信長公記]]』その他の史料、及び発掘結果、残存地名などを根拠として別のものとするのが現在では通説となっている。2及び3について「二条城」と呼ぶのは4.が完成した江戸時代以降のことであり、4と区別する趣旨で「旧二条城」「二条古城」などと呼ばれることもある。この節では、近世の二条城である4.の前史として1の「武衛陣の御構え」と2と3の「二条城」について略説する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 足利義輝の二条御所武衛陣の御構え ====&lt;br /&gt;
[[永禄]]8年（[[1565年]]）、戦国乱世のただなかにあって義輝は幕府の重鎮であった[[斯波氏]]の屋敷跡に自らの城を築いた。武衛とは斯波氏の職名を由来とし、その屋敷は洛中洛外図にも「ぶえい」として登場する。現在の旧二条城跡地の地名が「武衛陣町」であるのはこれを由来としている。堀もあったが完成寸前（「京公方様御館の四方に深堀高塁長関、堅固の御造作有り。未だ御門の扉以下は出来（しゅったい）せず」『足利季世記』）に[[三好義継]]・[[松永久秀]]らの攻撃を受け、義輝は自ら太刀を執って奮戦したがあえなく落命した（[[永禄の変]]）。合戦後、跡地には[[真如堂]]が移された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 足利義昭の二条城 ====&lt;br /&gt;
義輝の弟・義昭は織田信長の武力を後ろ盾として永禄11年（[[1568年]]）に上洛、将軍就任後は六条[[本圀寺]]を居所としていたが、翌12年（[[1569年]]）、[[三好三人衆]]による襲撃を受けた（[[本圀寺の変]]）。この時は京都にいた信長家臣団および義昭の側近らの奮戦により防戦に成功するが、この報を受けた信長はさらに防備の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城をすることを決めた。場所は義輝の武衛陣の城のあった地を中心に北東に拡張して約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「[[天守|天主]]」を備える城郭造の邸宅とした&amp;lt;ref&amp;gt;この城が二条にあったとするのは「信長公記」永禄12年[[2月2日 (旧暦)|2月2日]]（1569年[[2月17日]]）条「二条の古き御構へ堀をひろげさせられ」が初出か。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮を執り、御殿などの建築を統括する大工奉行には[[村井貞勝]]と[[島田秀満]]が任じられた。建物の多くは本圀寺から移築され（フロイス『日本史』）、[[細川氏]]一族で分家・典廐家の[[細川藤賢]]の旧邸から、文字通り「鳴り物入り」で名石「[[藤戸石]]」が搬入された。築城は約70日という短期間で終え、その年の4月に義昭はここに本拠を移した。この城の石垣には京都中から集められた墓石や石仏も使われた。山科言経は「石くら」に驚嘆している。石くらとは石垣のことで、この城が初めて本格的に石垣を積んだ城であったことを示している。周辺からは金箔瓦も発掘されており急ごしらえにしては豪壮な殿舎であったと考えられている。当時は「武家御所」「武家御城」「公方様御構へ」などと呼ばれていた。なお[[元亀]]3年（[[1572年]]）3月、信長は義昭の強い勧めもあってこの城の北方、武者小路辺に自らの屋敷を着工している（未完成）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが義昭と信長の関係は徐々に悪化し、元亀3年に義昭の信長追討令に応じた[[武田信玄]]が西上を開始し[[三方ヶ原の戦い]]で勝利を収めたのを知ると、翌[[天正]]元年（[[1573年]]）3月に義昭は二条城において信長に対し挙兵する。信長は上京の町屋を焼き払い二条城を包囲するが、城自体に対しては攻撃を控え[[正親町天皇]]の勅命を得て、和議が成立する。しかし、7月に再び義昭は[[宇治市|宇治]]の[[槇島城]]において挙兵する（[[槇島城の戦い]]）。この時、二条城には[[公家]]の[[日野輝資]]と[[高倉永相]]、義昭の側近で幕臣である[[伊勢貞興]]と[[三淵藤英]]が守備のため置かれたが、織田軍に包囲されると一戦も交えず降伏した。この際に御殿などは兵士たちによって、破壊されたと伝えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この直後、槙島城の義昭も降伏し畿内から追放され、室町幕府は実質的に滅ぶことになる。二条城に残った天主や門は天正4年（[[1576年]]）に解体され、安土へ運ばれ築城中の[[安土城]]に転用された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[昭和]]50年（[[1975年]]）から昭和53年（[[1978年]]）まで[[京都市営地下鉄烏丸線]]建設に先立つ[[烏丸通]]の発掘調査が行われ、この信長の二条城の石垣および2重の堀の跡が確認された。この際発掘された石垣にあった石仏が[[京都文化博物館]]及び西京区の洛西竹林公園内に展示されている。また、石垣の一部が[[京都御苑]]椹木口の内側及び現二条城内に復元されている。また、[[平安女学院]]の敷地の一角に「旧二條城跡」と彫られた石碑と説明板（「義昭二条城＝二条新御所」説を記す）が立っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 織田信長・誠仁親王の「二条新御所」 ====&lt;br /&gt;
織田信長が烏丸－室町の御池上る付近に設けた城館。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は天正4年（1576年）4月に京に滞在した際、二条通南側の[[妙覚寺 (京都市)|妙覚寺]]（現在地とは異なる）に宿泊したが、寺の東側に隣接する公家の&#039;&#039;&#039;[[二条家]]&#039;&#039;&#039;の邸宅の庭の眺望を気に入った。二条邸（二条殿・[[押小路烏丸殿]]）は当時、「洛中洛外図屏風」に必ず描かれるほどの名邸であった。前住者の[[二条晴良]]・[[二条昭実|昭実]]（妻は信長の養女）父子は直前に信長のはからいにより報恩寺の新邸に移徙して（『言経卿記』）空き家となっていたので、信長が上洛した時の宿所とするため、この旧二条邸を譲り受けて、改修を[[京都所司代]]の村井貞勝に命じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌年の閏7月に信長は初めて入邸、8月末には改修が終わり、以後2年ほどはこの「二条御新造」（「武家御城」とも）に自ら居住し、京の宿所（本邸）として使用する。天正7年（[[1579年]]）には、この屋敷を[[皇太子]][[誠仁親王]]に献上。同年11月22日に、誠仁親王とその皇子である五の宮（後の[[邦慶親王]]）がこの「二条新御所」に移徙した&amp;lt;ref&amp;gt;なお、この際信長は五の宮を[[猶子]]としたとされており、これを[[正親町天皇]]の五の宮である誠仁親王にあてる誤解があるが、正しくは親王の五の宮が猶子となったのである。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正10年（[[1582年]]）、[[本能寺の変]]が起きると、妙覚寺にいた信長の嫡男・[[織田信忠|信忠]]主従はそれを知るや[[本能寺]]の信長と合流するため出撃しようとしていた。しかし、そこに村井貞勝父子らが駆けつけ、本能寺が既におちた旨を伝え、防御能力に優れた二条新御所へ移ることを進言した。信忠は誠仁親王らを二条新御所から出した上でここに籠城し、これを攻囲する[[明智光秀]]勢と奮戦するが、信忠を始め貞勝ら60余名が討ち死にし、二条新御所も隣接する妙覚寺と共に灰燼に帰した{{要出典|date=2013年8月|title=妙覚寺も「灰燼に帰した」のか。信長公記やフロイス「日本史」には新御所の焼失しか記さない}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在は[[両替町通]][[御池通|御池]]上ルに「此附近 二条殿址」、[[室町通]]御池上ルに「二条殿御池跡」と彫られた石碑が建っている。付近には「二条殿町」「御池之町」及び本能寺の変ゆかりの「上妙覚寺町」「下妙覚寺町」の地名が残る。なおこの「御池」が現在の御池通の名前の由来となった。跡地には、変の直後、秀吉により信忠の菩提を弔うため[[大雲院]]が創建されたが、間もなく秀吉の京都改造に伴い寺町四条下ルに移転させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この二条新御所は義昭の二条城跡に設けられたとする説があるが、[[山科言経]]が天正4年[[9月13日 (旧暦)|9月13日]]（1576年[[10月5日]]）に&#039;&#039;&#039;「右大将家二条新邸を見物」&#039;&#039;&#039;、翌[[9月14日 (旧暦)|14日]]（[[10月6日]]）には&#039;&#039;&#039;「武家古城を見物」&#039;&#039;&#039;し石垣の取り壊し・搬出されている様子を目撃したことが『言経卿記』に記されているから、明らかに別の場所にあったと考えられる。また誠仁親王当時、禁裏「上の御所」に対し「下の御所」と呼ばれていたから二条新御所は禁裏南方にあったと思われ、御所西にあった義昭の二条城跡に築かれたとするのは不自然である。さらに本能寺の変の際、信忠は陣を妙覚寺から二条御所へ移しているから両者は近傍に在ったと推測される&amp;lt;ref&amp;gt;フロイス「日本史」には「（信忠は）宿舎にしていたその寺院は安全でなかったので、駆け付けた武士たちとともに、&#039;&#039;&#039;近くに住んでいた&#039;&#039;&#039;内裏（天皇）の息子（親王）の邸に避難した」とある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。同じ時、信忠恩顧の小沢六郎三郎は二条新御所に駆けつけたが明智軍に囲まれていたため「町通り二条（二条通のこと）」へ&#039;&#039;&#039;「上が」&#039;&#039;&#039;って御構えに駆け込んだと『信長公記』に記されているから、二条新御所は二条通南方にあったことが明らかであり、この点からも義昭の二条城とは別であったと判断できる。また、先に触れたように乱後、この地に信忠の菩提寺大雲院が建築されていることも有力な傍証となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 羽柴（豊臣）秀吉の「二条第」 ====&lt;br /&gt;
[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]（豊臣秀吉）も二条に城を構えている。秀吉は信長在世中にも二条御新造の隣接地に屋敷を有していたが、天正8年（[[1580年]]）に信長によって没収されてお気に入りであった前[[関白]]・[[近衛前久]]に献上されている（『[[兼見卿記]]』）。皮肉にも本能寺の変の際、[[近衛家]]家人が逃げ出したこの屋敷を占拠した明智軍がここから二条新御所を攻撃したという話があり（『明智軍記』）、やがてそれに尾ひれが付いて前久が光秀に加担したとの風説が流された。その後天正11年（[[1583年]]）、本拠地を大坂に定めた秀吉は京都における拠点として「二条第」を構えた。[[妙顕寺]]を移転させその跡地に建設されたことから「妙顕寺城」とも呼ばれる。周囲に堀を巡らし[[天守]]もあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[聚楽第]]完成まで秀吉の政庁として使われ普段は[[前田玄以]]が在城した。所在地は二条城の東200メートル、現中京区[[小川通|小川]][[押小路通|押小路]]付近、地名に「古城（ふるしろ）町」「下古城（しもふるしろ）町」をのこしている。[[天正遣欧少年使節]]を引き連れて聚楽第の秀吉を訪ねた巡察使[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]は前日に豪華な「秀吉の旧屋敷」に泊ったとあるが、位置、時期から言ってこれがこの二条第であった可能性が高い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 江戸時代の二条城 ===&lt;br /&gt;
==== 創建 ====&lt;br /&gt;
幕府は二条城と称したが、朝廷側はこれを二条亭と呼んだ。&lt;br /&gt;
* [[慶長]]6年（[[1601年]]）5月：[[関ヶ原の戦い]]で勝利した[[徳川家康]]は上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決め、町屋の立ち退きを開始、12月に西国諸大名に造営費用および労務の割り当てを行った（[[天下普請]]）。造営総奉行に京都所司代[[板倉勝重]]、作事（建築）の大工棟梁に[[中井正清]]が任じられた。&lt;br /&gt;
* 慶長7年（[[1602年]]）5月：御殿・[[天守]]の造営に着工。&lt;br /&gt;
* 慶長8年（[[1603年]]）3月：落成。但し、天守は慶長11年（[[1606年]]）に完成。&lt;br /&gt;
* 慶長8年（[[1603年]]）2月12日：家康は[[伏見城]]において[[征夷大将軍]]補任の宣旨を受け、3月12日に竣工間もない二条城に入城、同月25日、室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、御所への行列を発した。それに続き、27日に二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。この将軍就任の手順は2年後の慶長10年（[[1605年]]）に家康の息子の2代将軍[[徳川秀忠|秀忠]]が、[[元和 (日本)|元和]]9年（[[1623年]]）に孫の3代将軍[[徳川家光|家光]]が踏襲するが、曾孫の4代将軍[[徳川家綱|家綱]]以降は行われなくなった。&lt;br /&gt;
* 慶長16年（[[1611年]]）：二条城の御殿（現在の二の丸御殿）において家康と[[豊臣秀頼]]の会見（[[二条城会見]]）が行われる。この時、家康は秀頼の成長ぶりに驚き[[徳川氏]]の天下が覆されるかもしれないとの危機感を抱き、[[豊臣氏]]を滅ぼすことを決意したともいわれている。&lt;br /&gt;
* 慶長19年（[[1614年]]）：[[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]が勃発。二条城は[[大御所 (江戸時代)|大御所]]（家康）の本営となり、伏見城から出撃する将軍秀忠の軍勢に続き、家康は二条城から大坂へ駒を進めた。&lt;br /&gt;
* 元和元年（[[1615年]]）：[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]においては二条城に火をかけ、混乱の中で家康を暗殺しようとした陰謀が明らかとなり、徳川方についていた[[古田重然|古田織部]]の家臣[[木村宗喜]]が捕縛された。このため織部は切腹、家財没収となる事件もあった。&lt;br /&gt;
* 元和5年（[[1619年]]）：秀忠は娘・[[徳川和子|和子]]の[[後水尾天皇]]への入内に備え、二条城の改修を行う。この時の縄張（基本設計）は秀忠自らが[[藤堂高虎]]と共に行った（秀忠は2つの案から一方を最終選定しただけだが、将軍自らの縄張りであると高虎に持ち上げられたのだった）。&lt;br /&gt;
* 元和6年（[[1620年]]）[[6月18日 (旧暦)|6月18日]]：徳川和子は二条城から長大な行列を作り、後水尾天皇のもとへ入内した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 行幸 ====&lt;br /&gt;
* 寛永元年（[[1624年]]）：徳川家光が将軍、秀忠が大御所となった翌寛永元年から、二条城は[[後水尾天皇]]の行幸を迎えるため大改築が始まった。城域は西に拡張され、天守閣も拡張された西側に位置を変え、廃城となった伏見城の天守を移築した。作事奉行には[[小堀政一]]、[[五味豊直]]（後の[[京都郡代]]）が任じられる。[[尾張藩]]や[[紀伊藩]]などの[[親藩]]・[[譜代大名|譜代]]の19家が石垣普請を担当した。&lt;br /&gt;
* 寛永3年（[[1626年]]）：行幸は寛永3年[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]（1626年[[10月25日]]）から5日間に渡っておこなわれ、その間[[舞楽]]、[[能楽]]の鑑賞、[[乗馬]]、[[蹴鞠]]、[[和歌]]の会が催された。この行幸が二条城の最盛期である。行幸のために新たに建てられた行幸御殿は[[太上天皇|上皇]]となった後水尾院の御所に移築、その他多くの建物が解体撤去された。&lt;br /&gt;
* 寛永11年（[[1634年]]）7月：秀忠死後、家光が30万7千の兵を引きつれ上洛し、二条城に入城したのを最後に二条城が将軍を迎えることは途絶え、[[幕末]]の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その230年の間に暴風雨や地震、落雷で徐々に建物は破損し、老朽化する。[[寛延]]3年（[[1750年]]）には落雷により天守を焼失。さらに京の町を焼き払った[[天明]]8年（[[1788年]]）の[[どんぐり焼け|大火]]の際には、飛び火が原因で本丸御殿、隅櫓などが焼失した。破損部分に関しては修理が行われたが、失した建物については再築されることなく、幕末を迎える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 寛永2年（[[1625年]]）：二条城には、将軍不在の間の管理と警衛のために二条城代と[[二条在番]]が設置された。&lt;br /&gt;
* [[元禄]]12年（[[1699年]]）：二条城代が廃止され、その職務は二条在番が担当することとなった。&lt;br /&gt;
* [[文久]]2年（[[1862年]]）閏8月：交代制の二条在番は廃止され、それに代わって常勤制の二条定番が設置された。なお、朝廷の監視および折衝を担当する京都所司代は二条城の北に邸を構えそこで政務を執っていたため、将軍不在の二条城は幕府の政庁としては全く使用されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 幕末 ====&lt;br /&gt;
[[ファイル:Nijo Castle.jpg|thumb|300px|庭園側から見た二の丸御殿（左から大広間、式台、遠侍）]]&lt;br /&gt;
* [[万延]]元年（[[1860年]]）：[[京都地震]]が発生し、御殿や各御門、櫓などが傾くなど、大きな被害を受けた&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite journal|和書|author=西山昭仁 |title=文政京都地震(1830年)における京都盆地での被害要因の検討 -桟瓦葺屋根の普及による被害の拡大- |date=2010-12-24 |publisher=東京大学 |journal=東京大學地震研究所彙報 |volume=85 |number=1 |naid=110007975773 |pages=33-47 |ref=harv}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 文久2年（1862年）：14代将軍[[徳川家茂]]の上洛にそなえ、荒れ果てていた二条城の改修が行われる。二の丸御殿は全面的に修復し、本丸には仮御殿が建てられた。&lt;br /&gt;
* 文久3年（[[1863年]]）3月：家茂は朝廷の要請に応えて上洛をする。&lt;br /&gt;
* [[慶応]]元年（[[1865年]]）：家茂は再度上洛し二条城に入るが、すぐに[[長州征討#第二次|第二次長州征伐]]の指揮を執るため[[大坂城]]へ移る。しかしここで病に倒れ、翌慶応2年（[[1866年]]）夏に死去する。&lt;br /&gt;
* 慶応2年：二条城では幕閣によって次の将軍は[[徳川慶喜|一橋慶喜]]と決定するが、慶喜は就任を拒絶。幕府関係者のみならず朝廷からの度重なる説得の末、ようやく12月に二条城において15代将軍拝命の宣旨を受ける。&lt;br /&gt;
* 慶応3年（[[1867年]]）9月：慶喜が宿所を[[若狭国|若狭]][[小浜藩]]邸から二条城に移す。10月には[[大政奉還]]、将軍職返上、12月には朝廷より[[辞官納地]]命令が二条城に伝達される。この時二条城には[[旗本]]を中心とする徳川氏直属の兵約5000、[[会津藩]]士約3000、[[桑名藩]]士約1500が集結しており、朝廷を操る[[薩摩藩]]の挑発に対し激昂していた。軍事衝突を避けるため、慶喜は二条城からこれらの兵を連れて大坂城へ向かう。二条城は[[若年寄]][[永井尚志]]と[[水戸藩]]士約200名が守備のため残った。しかし命令系統の混乱から別に二条城守備の命を受けた[[新選組]]が到着し、水戸藩士との間で押し問答になる。この件は永井の機転で、新選組が[[伏見奉行]]の守備に回ることで解決した。&lt;br /&gt;
* 慶応4年（[[1868年]]）1月：[[鳥羽・伏見の戦い]]。大坂に召還された尚志に代わり、二条城は水戸藩士・梅沢孫太郎が留守役となっていたが、[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]（[[1月29日]]）に朝廷（新政府）の命を受けた[[議定]]・[[徳川慶勝]]に引き渡され、[[太政官代]]が設置された。閏4月に太政官代は宮中に移転した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 近現代 ===&lt;br /&gt;
[[File:Nijo Castle 6.jpg|thumb|明治の頃の二条城]]&lt;br /&gt;
* [[明治]]3年（[[1870年]]）：[[東京奠都]]後、二条城は[[留守官]]の管轄下に置かれる。&lt;br /&gt;
* 明治4年（[[1871年]]）：二の丸御殿は[[京都府]]庁舎となる。&lt;br /&gt;
* 明治6年（[[1873年]]）：[[陸軍省]]の所管に移された。&lt;br /&gt;
* 明治17年（[[1884年]]）：[[宮内省]]の所管となり「二条離宮」と改称した。&lt;br /&gt;
* 明治18年（[[1885年]]）：京都府の新庁舎が完成し移転した後、二の丸御殿の修理が明治25年（[[1895年]]）まで行われる。&lt;br /&gt;
* 明治26年（[[1893年]]） - 27年（[[1894年]]）：[[京都御苑]]の今出川門脇に位置する旧桂宮邸を本丸へ移築し、本丸御殿とする。&lt;br /&gt;
* [[大正]]4年（[[1915年]]）：[[大正天皇]]即位の儀式である大典の饗宴場として二条城二の丸が使用され、それに伴い南門や二の丸御殿の附属建物が増築される。&lt;br /&gt;
* [[昭和]]14年（[[1939年]]）：宮内省より京都市に下賜。それ以来「元離宮二条城」という名称となる。&lt;br /&gt;
* [[第二次世界大戦]]後、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の意向で二の丸北側にテニスコートが作られたが、昭和40年（[[1965年]]）に庭園に変えられた。&lt;br /&gt;
* [[平成]]18年（[[2006年]]）[[4月6日]]：[[日本100名城]]（53番）に選定された。&lt;br /&gt;
* 平成23年（[[2011年]]）度から、国宝の二の丸御殿など文化財建造物を中心に城全域の修理や整備を行う予定で一口募金を募っている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.city.kyoto.jp/bunshi/nijojo/bokin/info.html 二条城一口城主募金] {{ja icon}}&amp;lt;/ref&amp;gt;が、応募は市の期待を大きく下回っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[東映京都撮影所]]や[[京都映画撮影所]]からは最も近い場所にある城であるが、後述する通り天守が焼失しているなど撮影に使える場所が少ないため、あまり用いられない。時代劇で城のシーンのロケーションとしては、より遠方の[[彦根城]]や[[姫路城]]のほうがより用いられることが多い{{要出典|date=2008年11月}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 縄張 ==&lt;br /&gt;
[[File:Nijo Castle plan.svg|thumb|400px|二条城建物配置図 1.東大手門、2.番所、3唐門、4.二の丸御殿車寄、5. 二の丸御殿遠侍・式台・大広間、6. 二の丸御殿黒書院、7. 二の丸御殿白書院、8.二の丸庭園、9.蓬莱島、10.台所、11.御清所、12.土蔵、13.便所、14.事務所、15.南門、16.桜の園、17.梅林、18.西門、19.本丸御殿、20.本丸櫓門、21.本丸庭園、22.天守台、23.和楽庵、24.香雲亭、25.北大手門、26緑の園、27.展示・収蔵館]]&lt;br /&gt;
=== 立地 ===&lt;br /&gt;
二条城はかつて[[平安京]]の[[大内裏]]であった場所の南東端とその南にあった禁園（天皇の庭園）である「[[神泉苑]]」跡とにまたがる地にある。東西約500メートル、南北約400メートル、ほぼ矩形だが厳密には東側から見て凸型となっている。南北の幅が狭くなっている西側部分が徳川家光の時代に行われた寛永の大改修によって拡張された部分で、家康による創建時は現在の東側半分（二の丸）のみであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家康がこの地を選んだ理由は不明だが、この地が比較的人家がまばらであったこと（それでも数千軒が取り壊された）が考えられる。そのほか、信長の二条新御所と秀吉の妙顕寺城が並ぶ東西のラインと秀吉の聚楽第から真南に延ばしたラインの交差する場所、いわゆる聖なるラインの交わる場所であったことが注目される。特に聚楽第の存在は大きく、共に堀川西域に立ち御所に向けて門を開けている様子は家康が聚楽第を意識していたことを明瞭に示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 縄張 ===&lt;br /&gt;
縄張の形式は本丸の四方を二の丸で取り囲む「輪郭式」に分類されるが、本丸が中央より西寄りに配されている。本丸は約150メートル四方のほぼ正方形であり、本丸と二の丸の間には内堀が二の丸の周りは外堀が造られている。二の丸は本丸の北と南にある仕切門によって東西に分かれている（この西側部分を「西の丸」と呼ぶ資料もある）。家康による創建時は現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される「単郭式」であった。大手門前の広場と堀川通を隔てて堀川が流れているが、総郭とまでは言えないものの堀川が第一防御線として想定されていた可能性はある。実際江戸時代、西堀川通（＝現堀川通）の南北には通行を妨げる「釘抜き」が設けられ大手門前の広場に町民は立ち入ることができなかった。なお家康による第1期二条城の絵図面の類は見つかっておらず、その内部の様子はよくわからない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二条城の敷地は、現在の京都市街にもほぼ受け継がれている平安京の町割りに対して時計回りに約3度の傾きがある。これは、[[宣教師]]によって日本にもたらされた方位[[磁石]]を普請の際に用いたためのとの説があるが&amp;lt;ref&amp;gt;1613年、平戸でサリングが磁北のずれを測定したが、それによれば磁北は真北に対し東に「2度50分」ぶれていた。このぶれは、現在の二条城のぶれとほぼ一致するが、渡辺真経の研究によればこの時期は磁北が急激に東に変化していく時期にあたっており、測定の10年前の二条城創建時の磁北のぶれは東に約1度であったと考えられる。ただし渡辺自身この研究自体まだ確実とは言えないとしている。（渡辺久雄「条里制の研究」を参照）&amp;lt;/ref&amp;gt;、証拠はない&amp;lt;!--証拠があれば明示の上書き換えて下さい--&amp;gt;。もしそうなら、南北が明瞭な当時の京都でなぜわざわざ磁石を使ったのかという疑問が新たに生じる。聚楽第跡周辺の街路が同様に数度の傾きを持つことから、この傾きを作ったのは秀吉で、家康がその傾きを継承した可能性もあるが、これにも確証がない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
将軍滞在の城としては規模も小さく防御能力に問題がありそうだが、家臣の疑問に対し家康は「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る」「万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる」と答えたと伝えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Nijo Castle 3.JPG|thumb|center|500px|江戸時代中期の二条城の縄張り図]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 建造物 ==&lt;br /&gt;
[[File:Taisehokan.jpg|thumb|頓田丹陵筆『大政奉還』（聖徳記念絵画館蔵）（奥の人物は[[徳川慶喜]]、場所は黒書院）]]&lt;br /&gt;
[[File:Ninomaru Palace Nijo Castle plan.svg|thumb|二の丸御殿の図面]]&lt;br /&gt;
[[File:Nijo Castle Ninomaru 01.JPG|thumb|車寄（二の丸御殿の玄関）]]&lt;br /&gt;
[[File:Nijojo-roka-tenjo2.jpg|thumb|二の丸御殿の天井]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
外部との出入り口としての&#039;&#039;&#039;城門&#039;&#039;&#039;は東西南北に1つずつある。ただし、南門は[[1915年]]（大正4年）に大正天皇の大典に備え新たに造られたもので、本来の城門ではない。正門は[[堀川通]]に面した東大手門（櫓門）である。西門（埋門）と前述の南門は外堀を渡る橋がなく使用されていない。北大手門（櫓門）も普段は閉鎖されている。また、この他に城内には5つの城門がある。二の丸を東西に分ける北中仕切門と南中仕切門、二の丸と本丸を結ぶ通路への入り口となる鳴子門と桃山門、その通路から内堀を渡った本丸への入り口となる櫓門である。なお東大手門は現在創建時と同じく櫓門となっているが、後水尾天皇の行幸を仰ぐ際、上から見下ろすのは不敬として一重門に変えられた。行幸後には再び櫓門に戻された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二の丸の中心的建造物である&#039;&#039;&#039;二の丸御殿&#039;&#039;&#039;は、東大手門から入って正面の西方に建つ。御殿は築地塀で囲まれていて、正門である唐門は塀の南側にある。それをくぐると正面に二の丸御殿の玄関にあたる「車寄」（くるまよせ）が見える。二の丸御殿は手前から順に「遠侍」（とおざむらい）、「式台」（しきだい）、「大広間」、「蘇鉄の間」、「黒書院」（くろしょいん）、「白書院」（しろしょいん）と呼ばれる6つの建物が雁行に並び、廊下で接続され一体となっている。大広間の西側、黒書院の南側に[[日本庭園]]がある。遠侍の北側には「台所」と配膳をするための「御清所」と呼ばれる建物がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;本丸御殿&#039;&#039;&#039;は御所の北にあった旧[[桂宮]]邸を[[1893年]]（明治26年）から[[1894年]]（明治27年）にかけて移築したもので、徳川家の二条城とは本来無関係の建物である。過去には春と秋に期間限定で公開されていたが、耐震性の不足が判明したため[[2007年]]（平成19年）春を最後に公開を中止して以降、内部は公開されていない。もともとあった京都御苑内の敷地には、築地塀と表門と勅使門、また庭園や池も現存している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本丸御殿の南には、洋風庭園がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:Nijo Castle 2.jpg|東大手門。奥に二の丸御殿を囲む築地塀が見える。&lt;br /&gt;
ファイル:Nijo Castle 1.jpg|二の丸御殿の「車寄」（右手前）及び「遠侍」&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 天守 ===&lt;br /&gt;
創建時の[[天守]]は、『[[洛中洛外図屏風]]』に城の北西部分（現在の清流園の辺り）に望楼型の5重天守として描かれている。この天守は慶長期に家康によって現在の二ノ丸北西隅に建てられたもので、[[大和郡山城]]天守の移築説がある。記録には小天守や渡廊下の記述があり、天守曲輪を形成していたと考えられる。この天守は3代家光の時に行われた寛永の大改修時に[[淀城]]に再び移築された。移築された淀城天守は図面が残されているので、慶長度天守の復元は可能である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに代わり、新たに造られた本丸の南西隅に、前年に[[一国一城令]]によって廃城とした[[伏見城]]の天守が移築された。この寛永期天守は、取付矢倉が付属する層塔型5重5階の天守であったが、[[1750年]]（寛延3年）に落雷で焼失して以来、再建されなかった。現在は、天守台のみが残る。天皇が昇った唯一の天守である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幕末には天守台に高層の火の見櫓が建てられていたことが、古写真より分かる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:二条城天守跡.jpg|天守台&lt;br /&gt;
ファイル:Nijo Castle 4.jpg|寛永度天守指図&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 移築建造物 ===&lt;br /&gt;
* 江戸時代におよそ4度本丸の建物を[[仙洞御所]]に移築したが、その度に火災に遭っている。&lt;br /&gt;
* [[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]の[[三渓園]]に[[聴秋閣]]（三笠閣）が移築現存し、国の[[重要文化財]]に指定されている。&lt;br /&gt;
* 京都市東山区にある[[豊国神社 (京都市)|豊国神社]]の唐門は、[[崇伝|以心崇伝]]が二条城の唐門を下賜されたものを、明治になって神社を再興する際、[[金地院]]から譲られ移築したもので、国宝に指定されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 庭園 ==&lt;br /&gt;
=== 二の丸庭園 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:NijojoGarden3317.jpg|thumb|二の丸庭園を北西方向より。右側手前が亀島。左が蓬莱島。]]&lt;br /&gt;
別名「八陣の庭」。[[小堀政一|小堀遠州]]の代表作として挙げられることも多い[[安土桃山文化|桃山様式]]の池泉回遊式庭園&amp;lt;ref&amp;gt;中心に池を配し、その周りを歩いて鑑賞する庭園&amp;lt;/ref&amp;gt;である。池には3つの島が浮かぶ。池の中央やや北よりにもっとも大きい蓬莱島があり、その北に亀島、南に鶴島がある。亀島は亀の形に、鶴島は鶴の形に石が組まれている。蓬莱島は亀島と共に見えるアングルからは鶴の形に、鶴島と共に見えるアングルからは亀の形に石が組まれていて、常に鶴亀の一組を表現する趣向となっている。池の北西部には、二段の滝がある。池の南に広がる芝生の部分は、寛永の行幸の際には行幸御殿が建てられていた場所であり、こちら側が庭園の第1正面となる。第2正面は東（大広間）側、第3正面は北（黒書院）側という三正面式の設計である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 本丸庭園 ===&lt;br /&gt;
本丸御殿が移築された後に作庭が始まり、[[1896年]]（明治29年）に完成した洋風庭園。日本庭園と異なり、池や枯山水ではなく、芝生と植樹を中心とした回遊式の庭園である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 清流園 ===&lt;br /&gt;
二の丸の北大手門付近に[[1965年]]（昭和40年）に作られた和洋折衷庭園。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文化財 ==&lt;br /&gt;
=== 世界遺産 ===&lt;br /&gt;
[[古都京都の文化財]]を構成する17の遺産の1つとして、[[世界遺産]]に平成6年（[[1994年]]）12月に登録された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国宝 ===&lt;br /&gt;
* 二の丸御殿 6棟 - [[1952年]]（昭和27年）[[3月29日]]、文化財保護法に基づく[[国宝]]に指定。&lt;br /&gt;
** 遠侍及び車寄&lt;br /&gt;
** 式台&lt;br /&gt;
** 大広間&lt;br /&gt;
** 蘇鉄之間&lt;br /&gt;
** 黒書院（小広間）&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--*** 一の間（障壁画）&lt;br /&gt;
**** 東：帳台構には、小さめの襖が四枚はめられています。その左端には、八重桜が長押の上まで伸びでいます。&lt;br /&gt;
**** 南：一の間と二の間の間には仕切りがなく、ここから二の間へと続いています。&lt;br /&gt;
**** 西：この面では、早春から春の盛りへと季節の移り行く様子が　桜や梅で静かに表現されています。&lt;br /&gt;
**** 北：一の間が一段高くなっているため上段の間とも言われ、この面では床貼があります。松の老木が描かれています。&lt;br /&gt;
*** 二の間（障壁画）&lt;br /&gt;
**** 東：網代垣、八重桜、たんぽぽや菫、紅白の躑躅、緑色の鸚鵡と思われる珍しい鳥やつがいの山鳥が描かれています。&lt;br /&gt;
**** 南：戸襖六面と長押上貼付四面からなっており、一の間の北側の早春と対応して、この面では晩春の季節を描かれています。&lt;br /&gt;
**** 西：一の間の西側の続きが描かれています。南側へ展開する山水図になっています。&lt;br /&gt;
**** 北：二の間は、一の間よりも東方向へ一間分広くなっており、ここの北側壁面には、東側の襖から連続した図様が展開しています。&lt;br /&gt;
*** 三の間（障壁画）&lt;br /&gt;
**** 東：中央の土坡にはかすかに積雪らしきものがみられ、その足元所々には秋の花である竜胆（リンドウ）の花を描いており、冬を迎えるように見えます。&lt;br /&gt;
**** 南：南側襖の松鷺図は、西側の襖からわずかに続く流水が向かって右方に描かれ、左へ展開していくにしたがって、根笹やその間から竜胆の花が見えます。&lt;br /&gt;
**** 西：右方から雪山や、雪化粧をした松や土坡がありますが、季節に問われない松が描かれています。&lt;br /&gt;
**** 北：金雲の中に稲刈りを済ませた田畑が現われ、その上空には一羽の白鷺が飛翔しています。&lt;br /&gt;
*** 四の間（障壁画）&lt;br /&gt;
**** 東：襖絵には菊花の様々な形態とともに竹垣や柴垣、流水等があります。長押上の小壁貼付の扇面散図には計四十六面の扇が散らされています。&lt;br /&gt;
**** 南：襖四面の菊花図では、白菊を主とし、竹垣や画面中央の柴垣となっており、長押上の扇面散図は、左より吹く風になびく薄の上に散らされています。&lt;br /&gt;
**** 西：この壁面は隣接する帳台の間と壁で遮断されるため、長押上の上下とも壁貼付となっています。&lt;br /&gt;
**** 北：画面左方に土坡を背景として大小の垣根と白菊、紅菊の菊花図あり、中央部には流水を大きく描かれています。&lt;br /&gt;
*** 帳台構&lt;br /&gt;
*** 牡丹の間--&amp;gt;&lt;br /&gt;
:* 白書院（御座の間）（附 附属の間、黒書院白書院間渡廊）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 重要文化財 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Nijo Castle Karamon2.JPG|thumb|二の丸御殿唐門]]&lt;br /&gt;
城が宮内省から京都市に移管された後の[[1939年]]（昭和14年）[[10月28日]]に上記二の丸御殿の6棟を含む24棟が国宝保存法に基づく「国宝」（旧国宝）に指定され、[[1944年]]（昭和19年）に本丸御殿4棟が追加指定された。その後、[[1950年]]（昭和25年）の[[文化財保護法]]施行に伴い、旧国宝はすべて[[重要文化財]]として指定されたものとみなされることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;建造物&lt;br /&gt;
* 本丸御殿（旧桂宮邸）&lt;br /&gt;
** 玄関&lt;br /&gt;
** 御書院&lt;br /&gt;
** 御常御殿&lt;br /&gt;
** 台所及び雁之間&lt;br /&gt;
* 二の丸御殿&lt;br /&gt;
** 唐門&lt;br /&gt;
** 築地&lt;br /&gt;
** 台所&lt;br /&gt;
** 御清所（附 廊下）&lt;br /&gt;
* 本丸櫓門（附 袖塀（南方・北方））&lt;br /&gt;
* 東大手門（附 多門塀（外面南方、外面北方、内面南方、内面北方））&lt;br /&gt;
* 北大手門（附 多門塀（外面東方、外面西方、内面東方、内面西方））&lt;br /&gt;
* 西門（附 多門塀）&lt;br /&gt;
* 鳴子門（附 袖塀）&lt;br /&gt;
* 桃山門&lt;br /&gt;
* 北中仕切門&lt;br /&gt;
* 南中仕切門&lt;br /&gt;
* 東南隅櫓（附 多門塀（西方））&lt;br /&gt;
* 西南隅櫓（附 多門塀（北方、東方））&lt;br /&gt;
* 土蔵（米蔵、二の丸御殿北方）&lt;br /&gt;
* 土蔵（北米蔵）&lt;br /&gt;
* 土蔵（南米蔵）&lt;br /&gt;
* 東南隅櫓北方多門塀&amp;lt;ref&amp;gt;「東南隅櫓北方多門塀」は、昭和19年の本丸御殿追加指定時の官報告示（昭和19年9月5日文部省告示第1058号）では、東南隅櫓の「附」とされている。昭和27年の二の丸御殿国宝指定時の官報告示（昭和27年10月16日文化財保護委員会告示第21号、指定は3月29日付）には「東南隅櫓北方多門塀」は見えない（参照：文化財建造物保存技術協会編・刊行『国宝・重要文化財建造物官報告示』、1996）。平成2年版の文化庁編『国宝・重要文化財建造物目録』（第一法規、1990）では「東南隅櫓北方多門塀」は東南隅櫓の「附」とされている。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;絵画&lt;br /&gt;
* 二条城二之丸御殿障壁画 954面（附62面） - [[1982年]]（昭和57年）[[6月5日]]指定。（障壁画の明細は後出）&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;File:Nijo Castle J09 52.jpg|本丸櫓門&lt;br /&gt;
File:East Gate.jpg|東大手門&lt;br /&gt;
File:Nijo Castle 20.JPG|北大手門&lt;br /&gt;
File:Nijo Castle J09 76.jpg|北中仕切門&lt;br /&gt;
File:Nijo Castle 06.jpg|桃山門&lt;br /&gt;
File:Nijo Castle J09 01.jpg|東南隅櫓&lt;br /&gt;
File:Nijo Castle 14.JPG|西南隅櫓&lt;br /&gt;
File:Nijo Castle 13.JPG|土蔵（南米蔵）&lt;br /&gt;
File:Nijo Castle J09 22.jpg|二の丸御殿唐門と築地&lt;br /&gt;
File:Nijo Castle Ninomaru 02.JPG|二の丸御殿大広間&lt;br /&gt;
File:Nijo Castle J09 45.jpg|二の丸御殿大広間（左は蘇鉄の間）&lt;br /&gt;
File:Nijo Castle Ninomaru 03.JPG|二の丸御殿黒書院&lt;br /&gt;
File:Nijo Castle J09 42.jpg|二の丸御殿黒書院（右は大広間）&lt;br /&gt;
File:Nijo Castle J09 49.jpg|二の丸御殿白書院&lt;br /&gt;
File:NijoCastle 3.jpg|本丸御殿御常御殿&lt;br /&gt;
File:Nijo Castle J09 65.jpg|本丸御殿玄関&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
=== 史跡 ===&lt;br /&gt;
二条城の外堀を囲む道路も含めて、二条城全域が[[1939年]]（昭和14年）[[11月30日]]に「旧二条離宮（二条城）」の名で[[史跡]]に指定された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 特別名勝 ===&lt;br /&gt;
* 二条城二之丸庭園：[[1953年]]（昭和28年）[[3月31日]]指定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 二の丸御殿障壁画 ==&lt;br /&gt;
徳川家康が二条城の造営に着手したのは慶長6年（1601年）であるが、現存する二の丸御殿の建物群はその20数年後の寛永期に大改修されたものである。[[後水尾天皇]]の二条城行幸に備えて、寛永元年（1624年）から御殿の大改修が始まり、同3年（1626年）に完成した。二の丸御殿が寛永期に新築に近い改修を受けていることは[[川上貢]]らの調査で判明しており、建物内の障壁画についても寛永期の作であることが[[土居次義]]、[[武田恒夫]]らの研究で明らかになっている。&amp;lt;ref&amp;gt;『週刊朝日百科 日本の国宝 62 二条城』、p.&#039;&#039;&#039;7&#039;&#039;&#039; - 38（筆者は大和智）; 同書p.&#039;&#039;&#039;7&#039;&#039;&#039; - 52（筆者は西和夫）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
御殿の正門である唐門を入ると、正面に遠侍及び車寄があり、以下、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の各建物が南東から北西へ雁行形に配置される。各建物は入側や渡廊下で連結されている。遠侍及び車寄、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が国宝に指定され（遠侍及び車寄は1棟に数える）、これらの建物の各室の床（とこ）、床脇（棚）、帳台構、襖、障子腰、長押上壁などには[[狩野探幽]]ら[[狩野派]]の絵師による障壁画が描かれている。御殿の建物はおおむね寛永期の状態を伝えるが、改変された部分もある。各建物の屋根は現状は瓦葺きであるが、当初は杮葺きであった。貞享3年（1686年）に建物の破損検分を行った際の記録によれば、当時すでに瓦葺きであったので、屋根葺き材の変更時期は1686年をさかのぼることは明らかである。&amp;lt;ref&amp;gt;『週刊朝日百科 日本の国宝 62 二条城』、pp.&#039;&#039;&#039;7&#039;&#039;&#039; - 38 - &#039;&#039;&#039;7&#039;&#039;&#039; - 39（筆者は大和智）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本丸御殿は、明治以降、昭和14年（1939年）に京都市に下賜されるまでの間は京都府庁や二条離宮として使用され、その間に障壁画の破損が進んだ。大広間と黒書院の外面の腰高障子も明治期に新たに入れられたもので、当初は使われていなかったものである。日本の城郭の御殿は明治以降に破却されたものが多いなかで、二条城二の丸御殿は、一部に改変や破損があるとはいえ、オリジナルの建物と障壁画がともに現存するという意味で貴重な存在である（名古屋城本丸御殿では、障壁画は大部分が現存するが、建物は太平洋戦争の空襲で焼失した）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;遠侍&#039;&#039;&#039;は二の丸御殿のうちもっとも手前に位置し、かつ、もっとも大規模な建物である。棟を南北に向けた入母屋造、瓦葺きの建物で（以下に述べる二の丸御殿の諸殿はいずれも入母屋造、瓦葺き）、面積は1,048平方メートル。登城した大名や家臣らの控えの場となった建物である。平面は正方形に近く、間取りは東西・南北とも3列構成で、北東に位置する勅使の間（上段・下段に分かれる）から逆時計回りに、一の間、二の間、三の間、柳の間（四の間とも）、若松の間、帳台の間があり、これらに囲まれた中央部には芙蓉の間と物置がある。物置以外の各室に障壁画があり、いずれも金地濃彩である。勅使の間は上段が21畳、下段が35畳。上段には二間半幅の押板形式の床（とこ）と棚、帳台構を備えるが、付書院はない。このような大規模な御殿の主室に付書院を設けないのは異例である。床に向かって左の入側境（通常、付書院の設けられる位置）には腰高障子を嵌める。画題は上段が楓、下段が檜の大樹を主とした金地濃彩画である。一の間、二の間、三の間の障壁画の画題はいずれも竹虎図で、これらの室には虎の間の別称がある。遠侍（玄関）の障壁画に虎を描くことは名古屋城本丸御殿などにも例があり、来訪者を威嚇する意図があるという。障壁画の筆者については[[狩野山楽]]との伝えもあるが、研究者は[[狩野甚之丞]]の筆と推定している。『二条御城御指図』（[[宮内庁書陵部]]蔵）には遠侍の障壁画の筆者を「真節」としており、これは「真設」（甚之丞の号）を指す&amp;lt;ref&amp;gt;（大森、1974）、pp.283 – 284; （土居、1974）pp.318, 326 - 328&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお、この甚之丞については、名古屋城本丸御殿対面所の障壁画の筆者とされる甚之丞とは別人（または制作時期が大きく異なる）の可能性が指摘されている&amp;lt;ref&amp;gt;『二条城二の丸御殿と名古屋城本丸御殿』、p.115&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;式台&#039;&#039;&#039;は遠侍の西に接して建つ東西棟の建物である。面積は332平方メートル。登城した大名らの取次の場となった建物で、手前に式台の間、その裏手に老中一の間、老中二の間、老中三の間がある。各室の障壁画はいずれも金地濃彩である。式台の間は48畳で、床（とこ）、棚、付書院等の設備はない。式台の間の障壁画は松の巨木を描く。&amp;lt;ref&amp;gt;（大森、1974）pp.285 - 286; （武田、1974）p.346&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;大広間&#039;&#039;&#039;は式台の西に接して建つ南北棟の建物である。面積は784平方メートル。二の丸御殿の諸殿のうちもっとも格式が高く、将軍の表向きの対面に用いられた、公式的・儀礼的空間である。一の間（上段の間）、二の間（下段の間）、三の間、四の間（鑓の間とも）、帳台の間からなる。一の間は48畳で、床（とこ）、棚、帳台構、付書院を備え、天井はもっとも格の高い二重折上格天井とする。障壁画は松の巨木を主題とする。式台と大広間の障壁画の筆者については『二条御城御指図』に狩野采女すなわち[[狩野探幽]]の筆とあり、伝承どおり探幽の作とみなされている。&amp;lt;ref&amp;gt;（大森、1974）pp.286 - 287; 『元離宮二条城』（小学館、1974）図版解説p.450; 狩野博幸「二の丸御殿の障壁画」『週刊朝日百科 日本の国宝 62 二条城』、pp.&#039;&#039;&#039;7&#039;&#039;&#039; - 46 - &#039;&#039;&#039;7&#039;&#039;&#039; - 47&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;蘇鉄の間&#039;&#039;&#039;は式台と黒書院をつなぐ、南北棟の渡廊下状の建物である。明治期に板敷に変更されているが、江戸時代には畳敷の部屋であった。&amp;lt;ref&amp;gt;『週刊朝日百科 日本の国宝 62 二条城』、p.&#039;&#039;&#039;7&#039;&#039;&#039; - 44（大和智）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;黒書院&#039;&#039;&#039;は蘇鉄の間の北西に接して建つ東西棟の建物である。「黒書院」は幕末頃からの呼称で、それ以前は「小書院」と呼ばれていた。面積は569平方メートル。大広間が公式的・儀礼的な表向きの対面の場であったのに対し、黒書院は内向きの対面の場であり、将軍の御座所でもあった。規模は大広間より一回り小さい。一の間（上段の間）、二の間、三の間、四の間、帳台の間からなり、二の間、三の間、四の間は障壁画の画題から、それぞれ桜の間、浜松の間、菊の間ともいう。一の間は24畳半で、床（とこ）、棚、帳台構、付書院を備える。このうち、棚を北面東端から東面北端にかけて矩折り（L字形）に配置するのが特色である。一の間の天井は格天井だが、大広間の一の間のような二重折上とはしていない。障壁画は式台、大広間と同様、松を主題とするが、床貼付絵は松に梅、柴垣、小禽鳥などを配し、松樹には残雪を表すなどして早春の季節感を表す。さらに床脇（棚）の壁貼付の竹図と合わせて松竹梅を表している。黒書院の障壁画の筆者については『二条御城御指図』に[[狩野尚信]]の筆とあり、伝承どおり尚信の作とみなされている。&amp;lt;ref&amp;gt;（大森、1974）pp.289 - 290; （武田、1974）pp.347, 353, 358, 361; 『元離宮二条城』（小学館、1974）図版解説pp.453 - 454&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;白書院&#039;&#039;&#039;は黒書院の北に建つ南北棟の建物で、御殿の建物群のうちもっとも奥に位置する。黒書院とは渡廊下を介して接続する。「白書院」は幕末頃からの呼称で、それ以前は「御座之間」などと呼ばれていた。面積は318平方メートル。大広間や黒書院に比べて規模が小さい、内向きの建物である。将軍の休息所、寝所として使用された。障壁画は他の諸殿が金地濃彩を主としているのと異なり、白書院の障壁画は淡彩が主体となっている。間取りは黒書院と同様、一の間（上段の間）、二の間、三の間、四の間、帳台の間からなるが、規模は黒書院より小さい。一の間は15畳で、床（とこ）、棚、帳台構、付書院を備える。一の間の天井は格天井だが、二重折上としていないのは黒書院一の間の天井と同様である。障壁画は淡彩の山水画で、中国の西湖の情景を表したものである。白書院の障壁画の筆者については『二条御城御指図』に狩野興意（[[狩野興以]]）の筆とあるが、筆者については異説もあり、2012年に[[東京都江戸東京博物館]]で開催された「二条城展」では「[[狩野長信]]または興以筆」とされていた。&amp;lt;ref&amp;gt;（大森、1974）p.291; （土居、1974）pp.332 - 333&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/exhibition/special/2012/07/img/lis.pdf 二条城展（江戸東京博物館）]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;NavFrame&amp;quot; style=&amp;quot;width:100%;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
 &amp;lt;div class=&amp;quot;NavHead&amp;quot; style=&amp;quot;padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;&amp;quot;&amp;gt; 二之丸御殿障壁画の明細&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
 &amp;lt;div class=&amp;quot;NavContent&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:left;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;二条城二之丸御殿障壁画 954面（附62面） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;遠侍障壁画 273面（附8面）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色楓檜桃小禽図 47面 床（とこ）3、違棚壁5、帳台構4、襖4、壁貼付4（うち2面後補）、長押上小壁13、障子腰12（うち6面後補）、上下段境小壁2（勅使之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色花卉図 4面 違棚天袋4（勅使之間）&lt;br /&gt;
** 附 紙本著色草花図 4面 違棚天袋4（勅使之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色竹林群虎図 46面 襖8、壁4、障子腰20（うち10面後補）、長押上小壁14、（一之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色竹林群虎図 26面 襖8、障子腰12、長押上小壁6（二之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色竹林群虎図 30面 襖12、壁貼付2、長押上小壁8、障子腰8（三之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色柳薔薇図 25面 襖8、障子腰10、長押上小壁7（柳之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色若松図 27面 襖8、壁貼付3、長押上小壁10、障子腰6（若松之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色葡萄図 24面 格天井24（若松之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色竹芙蓉黄蜀葵図 20面 襖16、壁4（芙蓉之間）&lt;br /&gt;
* 紙本著色萩図 4面 壁4（帳台之間）&lt;br /&gt;
** 附 紙本著色芦雁図 4面 帳台構4（帳台之間）&lt;br /&gt;
* 板絵著色杉戸絵 20面 芍薬図2、萩兎図2、竹虎図4、羊図4、柳手鞠花図2、手鞠豆鳥四十雀図2、芦雁図2、桜小禽図2&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;式台障壁画 62面（附18面）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色松図 19面 壁5、長押上小壁14（式台之間）&lt;br /&gt;
** 附 紙本著色花鳥図 18面 障子腰18（式台之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色及板絵著色芦雁図 13面 襖2、壁1、障子腰6、杉戸絵4（老中一之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色芦雁図 10面 襖4、壁2、障子腰4（後補）（老中二之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色雪中柳鷺図 10面 襖2、壁4、障子腰4（後補）（老中三之間）&lt;br /&gt;
* 板絵著色杉戸絵 10面 唐獅子図2、枯木山荒図2、松鶴図4、紅葉鹿図2&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;大広間障壁画 191面（附17面）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色松竹錦鶴図 31面 床（とこ）3、違棚壁5、帳台構6、壁2、戸襖6、長押上小壁9（一之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色花卉図 4面 違棚天袋4（一之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色水仙図 6面 付書院障子腰4、付書院脇壁2（一之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色松孔雀図 27面 襖4、壁1、戸襖14、長押上小壁8（二之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色松孔雀図 33面 襖8、壁2、戸襖14（うち1面後補）、長押上小壁9（三之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色松鷹図 46面 襖10、壁3、戸襖18（うち2面後補）、長押上小壁15（四之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色花鳥図 6面 帳台構4、戸襖2（帳台之間）&lt;br /&gt;
** 附 紙本著色竜田風俗図 7面 壁7（帳台之間）&lt;br /&gt;
** 附 紙本著色武蔵野図 10面 長押上小壁10（帳台之間）&lt;br /&gt;
* 板絵著色杉戸絵 38面 柏鳩図6、槇山羊図4、紅葉図2、柳鷺図4、牡丹図2、枇杷栗鼠図2、桜図6、松鷺図2、竹雀図2、芦雁図2、柳蔦白鷺図2、蘇鉄図4&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;黒書院障壁画 198面（附19面）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色松桜柴垣禽鳥図 30面 床（とこ）3、違棚壁12、帳台構5、戸襖2、付書院脇壁2、長押上小壁6（一之間）&lt;br /&gt;
* 紙本墨画淡彩楼閣山水図 14面 違棚壁8、付書院障子腰4、長押上小壁2、（一之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色桜花雉子図 20面 襖4、壁1、戸襖14、長押上小壁1（二之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色楼閣山水図 9面 長押上小壁9（二之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色松図 23面 襖14（うち1面後補）、壁1、戸襖8（三之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色浜松図 10面 長押上小壁10（三之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色菊図 19面 襖10、壁貼付3、戸襖6（四之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色秋草扇面散図 11面 長押上小壁11（四之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色牡丹図 16面 襖12、壁2、戸襖2（牡丹之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色梅図 6面 戸襖6（牡丹之間）&lt;br /&gt;
* 紙本著色梅図 8面 戸襖8（牡丹之間）&lt;br /&gt;
* 紙本金地著色松椿図 4面 帳台構4（帳台之間）&lt;br /&gt;
** 附 紙本著色名所風俗図 13面 壁9、戸襖1、長押上小壁3（帳台之間）&lt;br /&gt;
** 附 紙本著色秋草図 4面 長押上小壁4（帳台之間）&lt;br /&gt;
** 附 紙本著色松柳白鷺図 2面 長押上小壁2（帳台之間）&lt;br /&gt;
* 板絵著色杉戸絵 28面 岩上雉子図2、枯木小禽図2、柴垣朝顔図2、泊舟白鷺図2、花篭図2、百合図2、紅葉図2、若竹図2、柴垣芙蓉図2、柳図2、躑躅小禽図2、透垣柴陽花図2、柳笹図2、蘇鉄図2&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;白書院障壁画 230面&lt;br /&gt;
* 紙本淡彩西湖図 31面 床（とこ）3、違棚壁5、帳台構4、襖4、戸襖2、長押上小壁7、付書院脇壁2、付書院障子腰4（一之間）&lt;br /&gt;
* 紙本著色撫子図 4面 違棚天袋4（一之間）&lt;br /&gt;
* 紙本著色花卉図 53面 格天井53（一之間）&lt;br /&gt;
* 紙本淡彩西湖図 24面 襖8、戸襖8、長押上小壁8（二之間）&lt;br /&gt;
* 紙本淡彩山水人物図 23面 襖6、壁1、戸襖8、長押上小壁8（三之間）&lt;br /&gt;
* 紙本淡彩雪中梅竹柳小禽図 21面 襖2、壁5、戸襖5、長押上小壁9（四之間）&lt;br /&gt;
* 紙本著色秋草図 18面 帳台構貼付4、壁5、戸襖1、長押上小壁8（帳台之間）&lt;br /&gt;
* 板絵著色柴垣芙蓉図・苅田雁図 2面 板壁2（廊下）&lt;br /&gt;
* 板絵著色杉戸絵 54面 桃花鸚哥図2、松椿頬白図2、牡丹図2、枝垂桜図2、芦鷺図2、青楓山雀図2、柳鷺図2、透垣柴陽花図2、枯木鳩図2、芙蓉図2、柳萱草図2、林檎図2、杜若図2、渓流水禽花梨図2、林檎図2、鴨図2、楊梅図2、松樅図2、芦雁図2、紫陽花図2、躑躅笹図2、小手鞠図2、松尾長鳥図2、透垣桜図2、梔子鶺鴒図2、椿図2、芙蓉図2、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出典：昭和57年6月5日文部省告示第98号&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 展示・収蔵館 ==&lt;br /&gt;
[[File:二条城展示収蔵館.JPG|thumb|展示・収蔵館]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;築城400年記念　展示・収蔵館&#039;&#039;&#039;（略称:展示・収蔵館）は二条城の敷地内東方にある施設であり、[[1982年]]に重要文化財に指定された二の丸御殿障壁画の原画を保管している。築城400年を記念して[[2004年]]3月に竣工され、[[2005年]]10月10日に開館した。御殿におけるレイアウトと同様に並べられた障壁画を、ガラス越しに鑑賞できる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.city.kyoto.jp/bunshi/nijojo/tenji/index.html 築城400年記念　展示・収蔵館]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 現地情報 ==&lt;br /&gt;
* 所在地 - [[京都市]][[中京区]]二条通堀川西入二条城町541&lt;br /&gt;
* 交通 - [[京都市営地下鉄]][[京都市営地下鉄東西線|東西線]][[二条城前駅]]からすぐ&lt;br /&gt;
* 入城料金 - 一般600円、中学生・高校生350円、小学生 200円&lt;br /&gt;
** 展示・収蔵館入館料 - 小学生以上100円&lt;br /&gt;
* 開城時間 - 8時45分-16時（閉城17時）&lt;br /&gt;
** 二の丸御殿観覧時間 - 8時45分-16時&lt;br /&gt;
** 展示・収蔵館開館時間 - 9時-16時45分（受付は16時30分まで）&lt;br /&gt;
* 休城日 - 12月26日-1月4日、毎年12月・1月・7月・8月の毎週火曜日（当該日が休日の場合、その翌日を休城日とする）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}{{reflist}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 北島正元『徳川家康』[[中央公論社]]、[[1963年]][[6月]]、162 - 163頁。&lt;br /&gt;
* 『二条城』歴史群像　名城シリーズ （11）、[[1996年]][[5月]]、41頁。&lt;br /&gt;
**『不滅の建築 11 二条城二の丸御殿』、毎日新聞社、1989&lt;br /&gt;
*『週刊朝日百科 日本の国宝 62 二条城』、朝日新聞社、1998&lt;br /&gt;
* 村田治郎、関野克『元離宮二条城』、小学館、1974&lt;br /&gt;
** 大森健二「二条城の建築について」『元離宮二条城』（小学館、1974）&lt;br /&gt;
** 土居次義「障壁画 二ノ丸御殿遠侍・白書院」『元離宮二条城』（小学館、1974）&lt;br /&gt;
** 武田恒夫「障壁画 二ノ丸御殿大広間・式台・黒書院、本丸御殿」『元離宮二条城』（小学館、1974）&lt;br /&gt;
* 『二条城二の丸御殿と名古屋城本丸御殿』、名古屋城特別展開催委員会刊、2012&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[神泉苑]]&lt;br /&gt;
* [[二条城前駅]]&lt;br /&gt;
* [[国宝一覧]]&lt;br /&gt;
* [[日本の城一覧]]&lt;br /&gt;
* [[近畿の史跡一覧]]&lt;br /&gt;
* [[日本100名城]]&lt;br /&gt;
* [[伏見城]]&lt;br /&gt;
* [[多聞山城]]&lt;br /&gt;
* [[三渓園]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Nijō Castle}}&lt;br /&gt;
* [http://www.city.kyoto.jp/bunshi/nijojo/index.html 元離宮二条城] - （京都市文化市民局）&lt;br /&gt;
* [http://maps.google.co.jp/maps?f=q&amp;amp;source=s_q&amp;amp;hl=ja&amp;amp;geocode=&amp;amp;q=%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%9F%8E&amp;amp;aq=&amp;amp;sll=35.728926,139.71038&amp;amp;sspn=0.017384,0.038581&amp;amp;brcurrent=3,0x6001062b6f570db9:0x408c4afef6d460fd,0&amp;amp;ie=UTF8&amp;amp;hq=%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%9F%8E&amp;amp;hnear=%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%9F%8E&amp;amp;ll=35.012575,135.75034&amp;amp;spn=0.001096,0.002411&amp;amp;z=19&amp;amp;layer=c&amp;amp;cbll=35.0125,135.750332&amp;amp;panoid=nrr8Q9M9HHiCnHCYZRopUg&amp;amp;cbp=12,0.72,,0,-7.81 元離宮二条城ストリートビュー]&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--* [http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ 京都大学電子図書館 貴重資料画像]（ {{ja icon}} - 京都大学附属図書館）&lt;br /&gt;
** [http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/kanren/doc/sonjo/shashin035.html 尊攘堂史料『京都維新史跡寫眞帖』より「二條城」] - 堀川の東から東大手門・東南隅櫓を望む古写真（リンク切れ）--&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [http://jyokamachi.jp/index.php 二条城城下町]&lt;br /&gt;
* Wikimapia航空写真&lt;br /&gt;
** [http://wikimapia.org/s/#y=35013909&amp;amp;x=135748304&amp;amp;z=17&amp;amp;l=0&amp;amp;m=s&amp;amp;v=1 二条城]&lt;br /&gt;
*[http://kojodan.jp/castle/13/ 二条城] 攻城団&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{古都京都の文化財}}&lt;br /&gt;
{{日本100名城}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:にしようしよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:将軍足利氏|城にしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:織田信長|城にしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:豊臣秀吉|城にしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:徳川家康|城にしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:徳川氏|城にしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:山城国|城にしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:京都府の城]]&lt;br /&gt;
[[Category:世界遺産 な行]]&lt;br /&gt;
[[Category:特別名勝]]&lt;br /&gt;
[[Category:京都府にある国指定の名勝]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の国宝 (建造物)]]&lt;br /&gt;
[[Category:京都市の重要文化財]]&lt;br /&gt;
[[Category:京都市の建築物]]&lt;br /&gt;
[[Category:幕末]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本庭園]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の西洋式庭園]]&lt;br /&gt;
[[Category:安土桃山時代の建築]]&lt;br /&gt;
[[Category:現存建築のある日本の城跡]]&lt;br /&gt;
[[Category:京都府にある国指定の史跡]]&lt;br /&gt;
[[Category:中京区の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本100名城]]&lt;br /&gt;
[[Category:古都京都の文化財]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.209.104.105</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%85%88%E7%85%A7%E5%AF%BA&amp;diff=8213</id>
		<title>慈照寺</title>
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		<updated>2014-08-25T09:09:18Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.209.104.105: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses|銀閣寺として知られる京都市の寺院|山梨県甲斐市の禅寺|慈照寺 (甲斐市)}}&lt;br /&gt;
{{日本の寺院&lt;br /&gt;
|名称 = 慈照寺&lt;br /&gt;
|画像 =[[ファイル:Ginkakuji Kyoto03-r.jpg|300px]]&lt;br /&gt;
|所在地 = 京都府京都市左京区銀閣寺町2&lt;br /&gt;
|位置 = {{coord|35|1|36.75|N|135|47|53.7|E|region:JP-26_type:landmark|display=inline,title}}&lt;br /&gt;
|山号 = 東山（とうざん）&lt;br /&gt;
|宗派 = [[臨済宗]]相国寺派&lt;br /&gt;
|寺格 = [[相国寺]]境外[[塔頭]]&lt;br /&gt;
|本尊 = [[釈迦如来]]&lt;br /&gt;
|創建年 = [[延徳]]2年（[[1490年]]）&lt;br /&gt;
|開基 = [[足利義政]]、[[夢窓疎石]]（勧請開山）&lt;br /&gt;
|別称 = 銀閣寺&lt;br /&gt;
|文化財 = 観音殿、東求堂（国宝）&amp;lt;br /&amp;gt;絹本著色春屋妙葩像（重要文化財）&amp;lt;br /&amp;gt;庭園（特別名勝、特別史跡）&amp;lt;br /&amp;gt;世界遺産&lt;br /&gt;
|公式HP = http://www.shokoku-ji.jp/g_about.html&lt;br /&gt;
|公式HP名 = 銀閣寺&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;慈照寺&#039;&#039;&#039;（じしょうじ）は、[[京都府]][[京都市]][[左京区]]にある、[[臨済宗]][[相国寺]]派の[[寺院]]。[[相国寺]]の境外（けいがい）[[塔頭]]である。[[室町時代]]後期に栄えた[[東山文化]]を代表する建築と庭園を有する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[室町幕府]]8代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政]]が[[鹿苑寺]]の舎利殿（金閣）を模して造営した楼閣建築である観音殿は&#039;&#039;&#039;銀閣&#039;&#039;&#039;（ぎんかく）、観音殿を含めた寺院全体は&#039;&#039;&#039;銀閣寺&#039;&#039;&#039;（ぎんかくじ）として知られる。「[[古都京都の文化財]]」の一部として[[世界遺産]]に登録されている。銀閣は、金閣、[[西本願寺#国宝の建造物|飛雲閣]]（[[西本願寺]]境内）とあわせて&#039;&#039;&#039;京の三閣&#039;&#039;&#039;と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[山号]]は&#039;&#039;&#039;東山&#039;&#039;&#039;（とうざん）。開基（創立者）は足利義政、開山は[[夢窓疎石]]とされている。夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物（故人）であり、このような例を勧請開山という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
室町幕府8代将軍足利義政は[[文明 (日本)|文明]]5年（[[1473年]]）に子の[[足利義尚]]に将軍職を譲り、 文明14年（[[1482年]]）から[[東山 (京都府)|東山]]の月待山麓に東山山荘（東山殿）の造営を始めた。この地は、[[応仁の乱]]で焼亡した[[浄土寺]]のあったところであり、近代以降も[[左京区]]浄土寺の地名が残っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時は応仁の乱が終了した直後であり、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に[[段銭]]（臨時の税）や[[夫役]]（労役）を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な生活を送っていた。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である文明15年（[[1483年]]）にはここに移り住んでいた。東山殿には[[会所 (中世)|会所]]、[[常御所]]、釣秋亭、竜背橋、泉殿、西指庵、漱せん亭、超然亭などの大規模な建物が建ち、義政の祖父・3代将軍[[足利義満]]が建てた北山殿（後の[[鹿苑寺]]）ほどではないが、ある程度政治的機能ももっていた。ただし、現存する当時の建物は銀閣と東求堂（とうぐどう）のみである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[延徳]]2年（[[1490年]]）2月、同年1月に死去した義政の[[菩提]]を弔うため東山殿を寺に改め、[[相国寺]]の末寺として創始されたのが慈照寺である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]中期の[[天文 (元号)|天文]]19年（[[1550年]]）には12代将軍[[足利義晴]]・[[足利義輝|義輝]]父子により慈照寺の裏山に[[中尾城]]が築かれ（短期間で廃城）&amp;lt;ref&amp;gt;今谷、P154 - P160&amp;lt;/ref&amp;gt;、末期には前[[関白]][[近衛前久]]の別荘にもなったが、これは慈照寺6世の陽山瑞暉が前久の弟だったことによる&amp;lt;ref&amp;gt;（村上、1977）、p.116&amp;lt;/ref&amp;gt;。前久の薨去後の法名は東求院龍山空誉であった。前久の死後は再び相国寺の末寺として再興された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[昭和]]27年（[[1952年]]）[[3月29日]]には庭園が [[特別史跡]]および[[特別名勝]]に指定された。[[平成]]6年（[[1994年]]）[[12月17日]]には「[[古都京都の文化財]]」として [[世界遺産]]に登録されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 観音殿（銀閣） ==&lt;br /&gt;
[[File:Ginkaku-ji after being restored in 2008.jpg|thumb|200px|銀閣（東正面）]]&lt;br /&gt;
[[File:Ginkakuji Kyoto10-r.jpg|thumb|200px|銀閣（北東から）]]&lt;br /&gt;
慈照寺観音殿（以下「銀閣」と表記）の建築形式、間取り等については以下のとおりである。銀閣は木造2階建ての楼閣建築で、慈照寺境内、錦鏡池（きんきょうち）の畔に東面して建つ。[[長享]]3年（[[1489年]]）の上棟である。屋根は宝形造、杮葺きで、屋頂に銅製鳳凰を置く。ただし、古記録や名所図会によれば、18世紀後半頃までは鳳凰ではなく宝珠が置かれていた&amp;lt;ref&amp;gt;（宮上、1992）、p.124&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鹿苑寺舎利殿（金閣）が文字通り金箔を張った建物であるのに対し、銀閣には銀箔は張られておらず、張られていた痕跡もない。上層は当初は内外とも黒漆塗であった&amp;lt;ref&amp;gt;（宮上、1992）、p.124&amp;lt;/ref&amp;gt;。初層の平面規模は東面および西面が8.2メートル、北面が7.0メートル、南面が5.9メートルである（西面の北寄りに勝手口が突出しているため、北面は南面より1メートルほど長くなっている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初層は「心空殿」と称し、住宅風の造りになる。初層東側には落縁が設けられ、軒も二軒（ふたのき）となり、こちら側が正面であることを示している&amp;lt;ref&amp;gt;（宮上、1992）、p.124&amp;lt;/ref&amp;gt;。初層の南半部（正面から見て左側）は、手前を4畳大の吹き放しの広縁とし、その奥を8畳大の仏間とする。仏間は板敷で、天井は吹き寄せ格天井とする。初層の北半部は手前が畳敷の6畳、その奥は3畳大の板敷の小室が南北に並ぶ。このうち北側の室には上層への階段と勝手口、西側の室には押入がある。階段は上層の北側の回縁に通じている。なお、この3畳間2室は部屋としての役割が曖昧であるうえに後世の改造の痕跡があり、当初とは間取りや階段の位置が異なっているとみられる&amp;lt;ref&amp;gt;（宮上、1992）、pp.124 - 125&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初層の外周は、南面と西面は腰壁入りの障子窓とし、北面は東半部が腰壁入りの障子窓、西半部は土壁とする。仏間正面と4畳間正面は腰高障子を入れ、広縁・6畳境は杉戸を用いる。上層は「潮音閣」と称し、初層とは異なって禅宗様の仏堂風に造る。柱間は東西南北とも3間で、内部は仕切りのない1室で[[観音菩薩]]坐像を安置し、四周に縁と高欄をめぐらす。創建当初の上層は内外とも黒漆塗で、軒下には彩色があったことが痕跡から判明している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鹿苑寺金閣の三層が東西南北とも同形式で、柱間も等間隔に割り付けているのに対し、銀閣の上層は東面と西面のみ形式が同一で、南面と北面は異なっている。金閣の三層は4面の中央に戸を設けるが、銀閣の上層は南面と北面のみに桟唐戸を設ける。上層南面は中央間を桟唐戸、両脇間を花頭窓とする。北面は中央間が桟唐戸、両脇間は窓がなく板壁である。東面と西面には出入口はなく、3間とも花頭窓とする。柱間寸法は、東面と西面が3間を等間隔に割り付けるのに対し、南面と北面は戸の立つ中央間を両脇間より広く取る&amp;lt;ref&amp;gt;（宮上、1992）、pp.123 - 124&amp;lt;/ref&amp;gt;。東面と西面は、桁を支える主要柱の外側に張り出しを設けており、そのため、回縁は東側と西側において幅が狭くなっている。前述の花頭窓はこの張り出し部に設けられている。東西の張り出し部は室内では造り付けの腰掛となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二層内部は板敷、格天井の1室で、西寄りに須弥壇を置き、観音菩薩坐像（洞中観音）を東向きに安置する&amp;lt;ref&amp;gt;『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』、pp.54 - 55&amp;lt;/ref&amp;gt;。上層の建築様式は禅宗様を基調とするが、縁の高欄は和様の刎高欄である。初層は東を正面とし、上層の観音菩薩像も東向きに安置されているが、上層では南面と北面のみに戸があり、正面にあたる東面には出入口がない。以上のような上層の状況をみれば、上層は桟唐戸のある南面が正面とみなされ、当初は銀閣の南側に池があり、池を挟んで南側から観音像を拝する形であったと推定されている&amp;lt;ref&amp;gt;（引原、2010）p.363&amp;lt;/ref&amp;gt;。銀閣はこのような変則的な形式をもつことに加え、部材にみる改造の痕跡から、かつて別の場所に建てられていたものが移築改造されたものであるとする説もある&amp;lt;ref&amp;gt;（宮上、1992）、pp.124 - 131&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、平成21年（[[2009年]]）に行われた発掘調査によって、現・銀閣の下で室町時代の整地層と石列が確認され、銀閣は創建時の位置から移動していない可能性があるとの調査結果が公表された&amp;lt;ref&amp;gt;（引原、2010）p.361&amp;lt;/ref&amp;gt;。&amp;lt;ref&amp;gt;本節は脚注で特記した箇所以外、以下の資料による。&lt;br /&gt;
* （宮上、1992）、pp.123 - 131&lt;br /&gt;
* 『週刊朝日百科 日本の国宝68』、pp.7 - 229 - 7 -230&lt;br /&gt;
* 『古寺巡礼 京都 20 金閣寺・銀閣寺』、pp.142 - 144&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
金閣になぞらえて慈照寺観音殿が銀閣と呼ばれるようになったのは[[江戸時代]]以降のことである&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka10.html 銀閣寺（慈照寺）] - 京都市情報館（[[京都市]]公式サイト、2010年11月28日閲覧）&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[万治]]元年（[[1658年]]）に刊行された『洛陽名所集』などの文献に「銀閣寺」の名前が見られる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&amp;amp;C_CODE=099-0055 洛陽名所集]（[[1658年]]） - 国文学研究資料館 ※ 慈照寺についての記述はデータベースの49コマ目に収録されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
金閣と通称される鹿苑寺舎利殿には[[金箔]]が貼り付けられているのに対し、銀閣と通称される慈照寺観音殿には外壁に[[漆|黒漆]]は塗られているが[[銀箔]]は使用されていない。「当初は名前のとおり[[銀箔]]を貼る予定だったが、幕府の財政事情のためにできなかった」という説や、「銀箔を貼る予定であったが、その前に義政が他界してしまった」という説、「外壁の漆が日光の加減で銀色に輝いて見えたから」という説がある。&amp;lt;!--慈照寺の庭園には多くの名石、名木が配され、建材にも贅を尽くしていること、当時の東山文化が[[茶道]]趣味と[[禅宗]]文化を基調にしたものであったことを考えると、当初から銀箔を貼る計画はなかった可能性が高い。（考察が含まれています。）--&amp;gt;また、「当初は銀で覆われていたが、剥がれ落ちてしまった」という説&amp;lt;ref&amp;gt;{{PDFlink|[http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic025/pdf/100-113.pdf われわれはフィジカルな世界をもっともっと知る必要がある]}}（対談） - インターネットエディション No.25（1998年夏号、[[エヌ・ティ・ティ出版|NTT出版]]） ISBN 雑誌01771-07&amp;lt;/ref&amp;gt;もあったが、平成19年[[1月5日]]に行われた科学的調査によって創建当時から銀箔が貼られていなかったことが明らかになっている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is70107a.htm 銀閣寺に銀箔なし 創建時から 科学調査で検出されず] - YOMIURI ONLINE（2007年1月7日付）{{リンク切れ|date=2010年11月}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。ちなみに、義政の妻・[[日野富子]]は資金援助を一切しなかったともいわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
屋根は約30年ごとに葺き替えられている。平成20年（[[2008年]]）2月から平成22年（[[2010年]]）3月まで、杮葺の屋根の葺き替えや柱や壁など傷んだ部材の交換、[[耐震]]補強、2階の潮音閣内部に黒漆を塗るといった、大正初期以来の大規模な修復作業が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
修復に際し、京都府教育委員会は老朽化を防ぐために銀閣の外壁に黒漆を塗り創建当時の姿に戻すことを提案したが、所有者である慈照寺の意向により現在の外観を維持する方針で修理が行われることになった&amp;lt;ref&amp;gt;『枯淡の銀閣維持 老朽化修理方針 創建時の黒漆塗りには戻さず』 京都新聞（2008年6月11日付）&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、工事と同時に調査も実施され、1階の「心空殿」からは創建当時のものとみられる仏像を安置するための「仏間構え」の痕跡や、2階の外壁の軒下部分からは花などの模様をかたどった赤や青に彩色された跡が見つかった。総事業費は約1億4,000万円。修復終了後の平成22年[[4月12日]]、[[住職]]の[[有馬頼底]]らによって[[落慶法要]]が営まれた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:Ginkakuji04.jpg|銀閣雪景&lt;br /&gt;
File:Jishoji kannonden1.jpg|銀閣（東正面の俯瞰）&lt;br /&gt;
File:Jishoji kannonden3.jpg|銀閣（北面）&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東求堂 ==&lt;br /&gt;
[[File:Togu do.jpg|thumb|200px|東求堂]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Ginkakuji Kyoto08-r.jpg|thumb|right|200px|東求堂と庭園]]&lt;br /&gt;
東求堂（とうぐどう）は一重入母屋造、檜皮葺きで、文明18年（[[1486年]]）の建立である。軒は疎垂木、組物は舟肘木を用いる。義政の持仏堂として建立されたものであるが、様式的には住宅建築の要素が強い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平面は正方形で、東西南北の各面とも6.9メートル、三間半四方の規模である（ここで言う「間」は畳の長辺の長さ）。南を正面とし、内部は4室に分かれる。正面側は西（向かって左）を8畳大の仏間、東を縦4畳の室とする。奥側は西が6畳、東が「同仁斎」と呼ばれる4畳半の書斎である。仏間は床を板敷、天井を折上小組格天井とする。他の3室は畳敷で天井は棹縁天井とし、室境はいずれも襖とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
仏間は正面奥に須弥壇を設け、[[阿弥陀如来]]立像を安置&amp;lt;ref&amp;gt;『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』、p.70&amp;lt;/ref&amp;gt;。西側は襖の奥に位牌棚を設け、南寄りに法体の足利義政像を安置する&amp;lt;ref&amp;gt;『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』、p.70&amp;lt;/ref&amp;gt;。仏間の襖は現在は白紙が貼られているが、当初は[[狩野正信]]筆の十僧図があった&amp;lt;ref&amp;gt;（宮上、1992）、p.114&amp;lt;/ref&amp;gt;。東求堂の西側外面、仏間の外にあたる位置では外壁の一部が床の間状に後退し、その部分が縁に面した腰掛になっている。これは昭和39年 - 40年（[[1964年]] - [[1965年]]）の解体修理時に復元したものである。『蔭涼軒日録』に「西向きの床」と記されていたものがこの腰掛にあたる。仏間正面は中央間を桟唐戸両開き、その両脇を連子窓に腰板壁とするが、それ以外の堂の外面は舞良戸か壁とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東北に位置する4畳半（同仁斎）は、北面の左側に半間幅の違棚、その右に一間幅の書院（出文机）を設ける。棚と書院は回縁に張り出す形で設けられ、書院部分の外側は舞良戸、内側は明障子とする。この棚と書院はこの種の座敷飾りとしては現存最古のもので、床の間、違棚、付書院という座敷飾りが定型化する以前の、[[書院造]]の源流といえるものである&amp;lt;ref&amp;gt;『週刊朝日百科 日本の国宝68』、p.&#039;&#039;&#039;7&#039;&#039;&#039; - 232&amp;lt;/ref&amp;gt;。解体修理時に同仁斎の部材から「いろりの間」の墨書が見つかっており、当初は室内に炉が切られ、茶を点てていたとみられる&amp;lt;ref&amp;gt;（宮上、1992）、p.123&amp;lt;/ref&amp;gt;。「東求堂」と「同仁斎」の名は義政の命で[[横川景三]]（おうせんけいさん）&amp;lt;!--「よこかわけいぞう」と誤読されないために読み仮名は必要。--&amp;gt;が撰した候補のなかから義政が選んだもので、「東求堂」は「東方の人、念じて西方に生ずるを求む」（六祖壇経）、「同仁斎」は「聖人は一視して同仁」（[[韓愈]]）を出典とする&amp;lt;ref&amp;gt;（宮上、1992）、p.122&amp;lt;/ref&amp;gt;。現在の東求堂は方丈の東側に建つが、当初はもう少し銀閣寄り、現在「向月台」と呼ぶ砂盛のあるあたりに建っていたと推測されている&amp;lt;ref&amp;gt;『週刊朝日百科 日本の国宝68』、p.7 - 227&amp;lt;/ref&amp;gt;。&amp;lt;ref&amp;gt;本節は脚注で特記した箇所以外、以下の資料による。&lt;br /&gt;
* （宮上、1992）、pp.121 - 123&lt;br /&gt;
* 『週刊朝日百科 日本の国宝68』、pp.7 - 232 - 7 -233&lt;br /&gt;
* 『古寺巡礼 京都 20 金閣寺・銀閣寺』、pp.124 - 127&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
File:Ginkakuji togudo hall.jpg|東求堂（南西から望む、左方に縁に面した「腰掛」が見える）&lt;br /&gt;
File:Ginkakuji Kyoto02-r.jpg|慈照寺境内 左は銀閣、右方は手前から東求堂、方丈、庫裏&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 庭園 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Ginkakuji_Kyoto09-r.jpg|thumb|150px|[[室町時代]]の創建当時の石組み、お茶の井]]&lt;br /&gt;
特別史跡・特別名勝。錦鏡池（きんきょうち）を中心とする池泉回遊式庭園。「苔寺」の通称で知られる[[西芳寺]]庭園（夢窓疎石作庭）を模して造られたとされるが、江戸時代に改修されており、創建当時の面影はかなり失われているといわれる。「銀沙灘」（ぎんしゃだん）、「向月台」と称される2つの砂盛りも、今のような形になったのは江戸時代後期とされている。なお、東方山麓の枯山水庭園は昭和6年（[[1931年]]）に発掘されたもので、室町時代の面影を残すとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 銀閣寺垣 ===&lt;br /&gt;
慈照寺の門から庭園を結ぶ入り口の道の両側の垣根は銀閣寺垣（ぎんかくじがき）と呼ばれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文化財 ==&lt;br /&gt;
=== 国宝 ===&lt;br /&gt;
*慈照寺銀閣 - 解説は既出。&lt;br /&gt;
*慈照寺東求堂（附 棟札） - 解説は既出。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 重要文化財 ===&lt;br /&gt;
*絹本著色春屋妙葩像&lt;br /&gt;
=== 特別史跡・特別名勝 ===&lt;br /&gt;
*慈照寺（銀閣寺）庭園&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 史跡（国指定） ===&lt;br /&gt;
*慈照寺（銀閣寺）旧境内 - 特別史跡・特別名勝の「慈照寺（銀閣寺）庭園」とは別件で史跡に指定されている。指定範囲は「慈照寺（銀閣寺）庭園」より広く、北側の浄土院の境内も指定対象に含まれている。&amp;lt;ref&amp;gt;『図説日本の史跡 6 中世』、同朋舎、1991&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 交通・拝観料 ==&lt;br /&gt;
* 所在地 - 京都市左京区銀閣寺町&lt;br /&gt;
* 交通 - 「銀閣寺前」（[[京都市営バス]][[京都市営バス梅津営業所#32号系統|32]]・[[京都市営バス梅津営業所#急行100号系統|急行100]]系統）下車徒歩6分、「銀閣寺道」（京都市営バス[[京都市営バス西賀茂営業所#5号系統|5]]・[[京都市営バス錦林出張所#17号系統|17]]・[[京都市営バス梅津営業所#32号系統|32]]・[[京都市営バス梅津営業所#急行100号系統|急行100]]・[[京都市営バス錦林出張所#急行102号系統|急行102]]・[[京都市営バス錦林出張所#203号系統|203]]・[[京都市営バス烏丸営業所#204号系統|204]]系統、[[京都バス]][[京都バス高野営業所#大原線|18]]・[[京都バス嵐山営業所#比叡山線（比叡山ドライブバス）|51]]・[[京都バス高野営業所#白川線|55]]系統、[[京阪バス]][[京阪バス山科営業所#京都比叡平線|56・56A]]系統）下車徒歩10分。&lt;br /&gt;
* 拝観料 - 大人・高校生500円、中学・小学生300円。（観音殿内部は拝観できない）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 「銀閣」と「銀閣寺」 ==&lt;br /&gt;
前述の通り、観音殿を「銀閣」と称するほか、寺院全体の通称は「銀閣寺」として知られている。一方、[[入学試験]]で当寺が正答となる問題が出題された際に「銀閣寺」と解答すると、誤答とされた事例があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和52年（[[1977年]]）3月に実施された北海道公立高校入学試験（[[北海道教育委員会]]作成）においては、「銀閣」「慈照寺」は正答とされた（ひらがな表記を含む）が、｢銀閣寺」は誤答だった。この設問についての出題者の見解は、「銀閣は、慈照寺という寺のいくつかの建物の一つで、[[教科書]]でも銀閣寺とは記述されていない。『銀閣』または『銀閣（慈照寺）』と示されている」としている。なお、当寺の近隣には「銀閣寺前」「銀閣寺道」を称する[[鉄道駅|電停]]（当時）や[[バス停留所|バス停]]があるほか、[[修学旅行]]などの[[ガイド]]も銀閣寺と呼称していたことを挙げて「入試問題の落とし穴」とした報道もあった&amp;lt;ref&amp;gt;『足利義政が建てたのは ×銀閣寺 ○銀閣 [[公立学校|公立高]]入試 “落とし穴”もあった』 [[北海道新聞]]（1977年3月6日付、16版 第17面）&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお、平成14年（[[2002年]]）に実施された[[横浜中学校・高等学校|横浜中学校]]の入学試験における選択肢では「慈照寺銀閣」と記述されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ギャラリー ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;Gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:Ginkakuji01.jpg|銀閣寺垣&lt;br /&gt;
File:向月台 or Kogetsudai.JPG|向月台&lt;br /&gt;
File:銀沙灘 or Ginshadan.JPG|銀沙灘&lt;br /&gt;
File:Ginkaku-syuufuku20080324-2.JPG|修復中の銀閣 ([[2008年]][[3月24日]]撮影)&lt;br /&gt;
File:Restoring Jisho-ji roof.JPG|修復中の銀閣の屋根 ([[2008年]][[5月15日]]撮影)&lt;br /&gt;
&amp;lt;/Gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 周囲の名所 ==&lt;br /&gt;
* [[哲学の道]]&lt;br /&gt;
* [[法然院]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[井上靖]]・[[塚本善隆]] 監修、[[竹中郁]]・村上慈海 著『古寺巡礼京都20 金閣寺・銀閣寺』 [[淡交社]] 1977&lt;br /&gt;
* [[竹村俊則]] 著『昭和京都名所図会 洛東下』 [[駸々堂]] 1981&lt;br /&gt;
* 『週刊朝日百科 日本の国宝』68号（慈照寺ほか） [[朝日新聞社]] 1998（解説執筆は伊藤毅）&lt;br /&gt;
* 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』、新潮社、1992&lt;br /&gt;
** 宮上重隆「足利将軍第の建築文化」&lt;br /&gt;
* 『古寺巡礼 京都 20 金閣寺・銀閣寺』、淡交社、1977&lt;br /&gt;
** 村上慈海「金閣寺・銀閣寺の歴史」&lt;br /&gt;
* 引原茂治「国宝慈照寺銀閣発掘調査と予察」『京都府埋蔵文化財論集　第6集　創立三十周年記念誌』、京都府埋蔵文化財調査研究センター、2010（参照：[http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu6/31hikihara.pdf]）&lt;br /&gt;
* 『日本歴史地名大系 京都市の地名』 [[平凡社]]&lt;br /&gt;
* 『角川日本地名大辞典 京都府』 [[角川書店]]&lt;br /&gt;
* 『国史大辞典』 [[吉川弘文館]]&lt;br /&gt;
* [[今谷明]]『戦国三好一族 &amp;lt;small&amp;gt;天下に号令した戦国大名&amp;lt;/small&amp;gt;』[[洋泉社]]、2007年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[古都京都の文化財]]（[[世界遺産]]）&lt;br /&gt;
* [[臨済宗]]・[[臨済宗#相国寺派]]&lt;br /&gt;
** [[相国寺]]&lt;br /&gt;
** [[鹿苑寺]]（金閣寺）&lt;br /&gt;
* [[耕三寺]] - 銀閣を模した「銀龍閣」が建つ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Ginkakuji}}&lt;br /&gt;
* [http://www.shokoku-ji.jp/ 大本山相国寺 公式サイト]&lt;br /&gt;
** [http://www.shokoku-ji.jp/g_about.html 銀閣寺]&lt;br /&gt;
* [http://www.ginkakuji.jp/ 銀閣　慈照寺　研修道場]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{古都京都の文化財}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ししようし}}&lt;br /&gt;
[[Category:臨済宗相国寺派の寺院]]&lt;br /&gt;
[[Category:京都市左京区の寺]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の国宝 (建造物)]]&lt;br /&gt;
[[Category:京都市の重要文化財]]&lt;br /&gt;
[[Category:特別名勝]]&lt;br /&gt;
[[Category:京都府にある国指定の名勝]]&lt;br /&gt;
[[Category:特別史跡]]&lt;br /&gt;
[[Category:京都府にある国指定の史跡]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本庭園]]&lt;br /&gt;
[[Category:室町時代の建築]]&lt;br /&gt;
[[Category:古都京都の文化財]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.209.104.105</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E9%B9%BF%E8%8B%91%E5%AF%BA&amp;diff=11439</id>
		<title>鹿苑寺</title>
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		<updated>2014-08-25T09:02:49Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.209.104.105: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Redirect|金閣寺}}&lt;br /&gt;
{{日本の寺院&lt;br /&gt;
|名称 = 鹿苑寺&lt;br /&gt;
|画像 = [[画像:Kinkaku3402CBcropped.jpg|250px]]&amp;lt;br /&amp;gt;舎利殿（金閣）&lt;br /&gt;
|所在地 = [[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]金閣寺町1&lt;br /&gt;
|位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|2|21.85|N|135|43|45.71|E|region:JP-26_type:landmark|display=inline,title}}&lt;br /&gt;
|山号 = 北山（ほくざん）&lt;br /&gt;
|宗派 = [[臨済宗]][[相国寺]]派&lt;br /&gt;
|寺格 = [[相国寺]]山外[[塔頭]]&lt;br /&gt;
|本尊 = [[観音菩薩]]（方丈本尊）&lt;br /&gt;
|創建年 = [[応永]]4年（[[1397年]]）&lt;br /&gt;
|開山 = [[夢窓疎石]]&lt;br /&gt;
|開基 = [[足利義満]]&lt;br /&gt;
|別称 = 金閣寺&lt;br /&gt;
|札所等 = [[神仏霊場巡拝の道]] 第93番&lt;br /&gt;
|文化財 = 絹本著色足利義満像、大書院障壁画ほか（[[重要文化財]]）&amp;lt;br/&amp;gt;庭園（特別史跡、特別名勝）&amp;lt;br/&amp;gt;[[世界遺産]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
[[画像:Yoshimitsu Ashikaga cropped.jpg|thumb|200px|[[足利義満]]]]&lt;br /&gt;
[[画像:Kinkakuji, 1893.jpg|thumb|200px|焼失以前の金閣（1893年）]]&lt;br /&gt;
[[画像:GoldenPavillion1905.jpg|thumb|200px|焼失以前の金閣（1905年）]]&lt;br /&gt;
[[画像:Burned Kinkaku.jpg|thumb|200px|焼失直後の金閣（1950年7月2日）]]&lt;br /&gt;
[[File:Restoration of Kinjakuji in 1955 (2).JPG|thumb|200px|修繕の様子（1955年秋）]]&lt;br /&gt;
[[画像:KinkakuJiDetail.jpg|thumb|200px|金閣（2005年）三層の桟唐戸、[[火灯窓]]、禅宗様高欄]]&lt;br /&gt;
[[画像:Kinkaku-ji 04.jpg|thumb|200px|屋上の鳳凰像]]&lt;br /&gt;
[[File:Kinkakuji Kyoto, Japan. (10795616574).jpg|thumb|200px|焼失前の金閣（再建後と異なり、二層に連子窓がある）]]&lt;br /&gt;
[[File:Kinkaku-ji 03.jpg|thumb|200px|初層内部（宝冠釈迦如来像と足利義満像がみえる）]]&lt;br /&gt;
[[File:Golden Pavillion 2010 03 29 41.jpg|thumb|200px|金閣（北西から、右手の小建物は「漱清」）]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;鹿苑寺&#039;&#039;&#039;（ろくおんじ）は、[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]にある[[臨済宗]][[相国寺]]派の寺。[[建物]]の内外に[[金箔]]を貼った3層の[[楼閣]]建築である舎利殿は&#039;&#039;&#039;金閣&#039;&#039;&#039;（きんかく）、舎利殿を含めた[[寺院]]全体は&#039;&#039;&#039;金閣寺&#039;&#039;&#039;（きんかくじ）として知られる。相国寺の山外[[塔頭]]寺院である&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.shokoku-ji.jp/k_about.html 金閣寺とは]、臨済宗相国寺派&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寺名は[[開山 (仏教)|開基]]（創設者）である[[室町幕府]]3代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]の法号・鹿苑院殿にちなむ&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.shokoku-ji.jp/h_k.html 金閣寺のあゆみ]、臨済宗相国寺派&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[山号]]は&#039;&#039;&#039;北山&#039;&#039;&#039;（ほくざん）。寺紋は[[桐紋|五七桐]]&amp;lt;ref&amp;gt;千鹿野 茂『日本家紋総鑑』ISBN 4040315006 角川書店、1993年、373頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は[[室町時代]]前期の[[北山文化]]を代表する建築であったが、[[昭和]]25年（[[1950年]]）に[[放火]]により焼失し、昭和30年（[[1955年]]）に再建された。[[平成]]6年（[[1994年]]）に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]（[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]）「[[古都京都の文化財]]」の構成資産に登録されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
この地には、[[鎌倉時代]]の[[元仁]]元年（[[1224年]]）に藤原公経（[[西園寺公経]]）が[[西園寺]]を建立し、併せて山荘（「北山第」）を営んでいた。これらは公経の子孫である[[西園寺家]]が代々所有し、同氏は代々[[朝廷]]と[[鎌倉幕府]]との連絡役である[[関東申次]]を務めていたが、鎌倉幕府滅亡直後に当主の[[西園寺公宗]]が[[後醍醐天皇]]を西園寺に招待して[[暗殺]]しようとする[[謀反]]が発覚したために逮捕・処刑され、西園寺家の膨大な[[所領]]と資産は没収された。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[応永]]4年（[[1397年]]）、室町幕府3代将軍足利義満が[[河内国|河内]]の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は、当時「北山殿」または「北山第」と呼ばれた。邸宅とはいえ、その規模は[[御所]]に匹敵し、政治中枢のすべてが集約された。応永元年（[[1394年]]）に義満は将軍職を子の[[足利義持|義持]]に譲っていたが、実権は手放さず、北山第にあって政務を執っていた。応永15年（[[1408年]]）に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟[[足利義嗣|義嗣]]を追放して自らここに入ったが、翌16年（[[1409年]]）には北山第の一部を破却して[[三条坊門殿|三条坊門第]]に移った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、義満の妻である北山院[[日野康子]]の御所となっていたが、応永26年（[[1419年]]）11月に北山院が死亡すると、舎利殿以外の[[寝殿造|寝殿]]等は解体され、[[南禅寺]]や[[建仁寺]]に寄贈された&amp;lt;ref&amp;gt;[[桜井英治]] 『室町人の精神 日本の歴史12』（[[講談社学術文庫]]）[[2009年]]（原著は[[2001年]] ISBN 406268912X）ISBN 978-4062689120、84-85p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、応永23年（[[1416年]]）1月に義満が相国寺から移築した七重大塔が落雷で焼失すると、義持は七重大塔を相国寺に再建するように命じている&amp;lt;ref&amp;gt;[[細川武稔]]「足利氏の邸宅と菩提寺 -等持寺・相国寺を中心に-」『京都の寺社と室町幕府』（[[吉川弘文館]]）2010年（原論文は『史学雑誌』第107編12号、1998年）ISBN 978-4642028875、29・36p&amp;lt;/ref&amp;gt;。応永27年（[[1420年]]）に北山第は義満の[[遺言]]により[[禅寺]]とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。[[夢窓疎石]]を勧請開山（名目上の[[開山 (仏教)|開山]]）としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[応仁の乱]]では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、[[江戸時代]]に主要な建物が再建され、舎利殿も[[慶安]]2年（[[1649年]]）に大修理された。[[明治維新]]後の[[廃仏毀釈]]により、[[寺社領|寺領]]の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世[[住職]]貫宗承一により[[明治]]27年（[[1894年]]）から庭園及び金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
舎利殿（金閣）は[[古社寺保存法]]に基づき明治30年（[[1897年]]）[[12月28日]]に「特別保護建造物」に指定され、昭和4年（[[1929年]]）[[7月1日]]の[[国宝保存法]][[施行]]に伴い（旧）[[国宝]]に指定された。また、明治37年（[[1904年]]）から明治39年（[[1906年]]）に解体修理が行われた。庭園は[[史蹟名勝天然紀念物保存法]]（[[文化財保護法]]の前身の1つ）により[[大正]]14年（[[1925年]]）10月8日に[[史跡]]・[[名勝]]、文化財保護法により昭和31年（[[1956年]]）7月19日に特別史跡・特別名勝に指定されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和25年（[[1950年]]）[[7月2日]]未明、[[放火]]により国宝の舎利殿（金閣）と安置されていた仏像等を焼失（[[金閣寺放火事件]]）。[[文部省]]文化財保護委員会と京都府教育委員会で協議が行われ、国宝指定の解除と金閣再建の援助が決定された。再建費用として、政府や京都府からの補助金、経済界や全国各地からの寄付金など約3000万円（当時）が集められ&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081123/acd0811231442003-n1.htm 【もう一つの京都】日本国王・義満の威光から昭和の放火まで 鹿苑寺金閣の魅力]{{リンク切れ|date=2010年11月}}、MSN産経ニュース、2008年11月23日&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://mainichi.jp/feature/news/20120706org00m040027000c.html 写真特集:金閣炎上 悲劇乗り越え、世界の「美」に（2010年7月掲載）]、毎日.jp、2012年7月6日&amp;lt;/ref&amp;gt;、昭和27年（[[1952年]]）着工、昭和30年（[[1955年]]）竣工。同年[[10月10日]]に[[落慶|落慶法要]]が営まれ、創建当時の姿に復元された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和61年（[[1986年]]）から翌62年（[[1987年]]）に金閣の「昭和大修復」が行われたほか、[[平成]]9年（[[1997年]]）に夕佳亭の解体修理、平成17年（[[2005年]]）から19年（[[2007年]]）に方丈の解体修理も行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成6年（[[1994年]]）12月、当寺が構成要素のひとつとなった[[世界遺産]]（[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]）「[[古都京都の文化財]]」が登録された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:Kinkakuji 2004-09-21.jpg|鏡湖池と金閣&lt;br /&gt;
画像:Rokuonjikinkaku-winter commons.jpg|雪化粧した金閣&lt;br /&gt;
画像:Kinkakujihonden.jpg|金閣（北東から）&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 舎利殿（金閣） ==&lt;br /&gt;
鹿苑寺舎利殿（以下「金閣」と表記）の建築形式、間取り等については以下のとおりである。なお、昭和25年に焼失する前の金閣（応永5年（[[1398年]]）頃完成）と昭和30年に再建された金閣とでは細部に違いがあり、以下の説明は再建金閣についてのものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
金閣は木造3階建ての楼閣建築で、鹿苑寺境内、鏡湖池（きょうこち）の畔に南面して建つ。屋根は宝形造、杮（こけら）葺きで、屋頂に銅製鳳凰を置く。3階建てであるが、初層と二層の間には屋根の出を作らないため、形式的には「二重三階」となる。初層は金箔を張らず素木仕上げとし、二層と三層の外面（高欄を含む）は全面金箔張りとする。三層は内部も全面金箔張りである（床面を除く）。初層と二層の平面は同形同大で、正面5間、側面4間とする（ここで言う「間」は、長さの単位ではなく、柱間の数を表す）。初層と二層は通し柱を用い、構造的にも一体化している&amp;lt;ref&amp;gt;（宮上、1992）、pp.103&amp;lt;/ref&amp;gt;。三層は一回り小さく、方3間である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初層は「法水院」と称し、正面の一間通りを吹き放しの広縁とし、その奥は正面5間、側面3間の1室とする。正面の5間は等間ではなく、西から2間目（本尊を安置する位置）の柱間が他より広くなっている&amp;lt;ref&amp;gt;（宮上、1992）、p.103&amp;lt;/ref&amp;gt;。この室の正面は5間とも住宅風の蔀戸とし、両側面（東・西面）はそれぞれ前寄り1間を板扉、後寄り2間を土壁とする。背面（北面）は5間とも土壁である。以上の土壁には腰貫を通す。うち、北面の腰貫は建物の外側から見えるが、東・西面の腰貫は室内側にしか現れない&amp;lt;ref&amp;gt;（宮上、1992）、p.106&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初層の西側には、池に張り出して、「漱清」と称する方1間、切妻造、吹き放しの小亭が付属する。初層室内は1室とするが、天井に設けられた仕切りによって、西側の間口3間の部分と東側の間口2間の部分とに、ゆるやかに区切られる&amp;lt;ref&amp;gt;（宮上、1992）、p.103&amp;lt;/ref&amp;gt;。西寄り3間の部分は、奥に須弥壇を設け、壇上中央に宝冠[[釈迦如来]]坐像、向かって左に法体の足利義満坐像を安置する&amp;lt;ref&amp;gt;『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』、p.29&amp;lt;/ref&amp;gt;。床は板敷、天井は鏡天井とする&amp;lt;ref&amp;gt;『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』、p.29&amp;lt;/ref&amp;gt;。二層は「潮音洞」と称し、四周に縁と高欄をめぐらし、外面と高欄を全面金箔張りとする。西側は正面の間口3間、奥行1間分を吹き放しの広縁とし、その奥に位置する方3間を仏間とする。東側は正面2間、側面4間の1室とし、仏間との間は遣戸で仕切られる。仏間正面は中央間が両開き板戸、両脇間は上部を格子窓、下部を腰壁とする。仏間内部は、須弥壇上に[[観音菩薩]]坐像（岩屋観音）を安置し、須弥壇周囲には[[四天王]]像が立つ&amp;lt;ref&amp;gt;『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』、pp.34 - 35&amp;lt;/ref&amp;gt;。壁と床面は黒漆塗とし、天井には飛天像を描く。広縁は床を黒漆塗とし、天井には鳳凰を描く&amp;lt;ref&amp;gt;『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』、pp.20 - 21&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東側の室は、正面側2間と広縁境を舞良戸とする。東室の内部には初層から三層をつなぐ階段があり、上り階段は三層の北側の縁に通じている。二層の東面と西面はすべて板壁とし、北面は西から2間目（須弥壇の背後）を板扉とするほかは板壁とする。三層は「究竟頂」（くっきょうちょう）と称し、方3間の1室で、仏舎利を安置する。初層が蔀戸を用いた寝殿造風、二層が舞良戸、格子窓、長押を用いた和様仏堂風であるのに対し、三層は桟唐戸、花頭窓を用いた禅宗様仏堂風とする。高欄も二層のそれが和様であるのに対し、三層のそれは逆蓮柱を用いた禅宗様である&amp;lt;ref&amp;gt;『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』、p.23&amp;lt;/ref&amp;gt;。三層の柱間装置は東西南北とも同じで、中央間を桟唐戸、両脇間を花頭窓とする。三層は天井や壁を含め内外ともに金箔張りで、縁と内部の床面のみ黒漆塗とする&amp;lt;ref&amp;gt;『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』、pp.30 - 31&amp;lt;/ref&amp;gt;。&amp;lt;ref&amp;gt;本節は脚注で特記した箇所以外、以下の資料による。&lt;br /&gt;
* （宮上、1992）、pp.100 - 103&lt;br /&gt;
* 『古寺巡礼 京都 20 金閣寺・銀閣寺』、pp.124 - 127&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
再建金閣は、[[村田治郎]]らの指導で昭和27年から再建に着手し、昭和30年に落慶したものである。焼失前の金閣は明治37年から39年にかけて解体修理が行われていた。再建金閣は、この解体修理時に作成された図面をもとにして、焼失前の建物の構造・意匠を基本的に踏襲している。ただし、焼損部材の調査を踏まえ、旧状に復す形で一部変更された部分もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もっとも顕著な相違は、焼失前の金閣は三層のみに金箔が残り、二層には全く金箔が残っていなかったが、再建金閣では三層のみならず二層の外面も全面金箔貼りとしている点である&amp;lt;ref&amp;gt;（宮上、1992）、pp.100 - 101&amp;lt;/ref&amp;gt;。これは、次のような根拠に基づくものであった。明治時代の金閣の解体修理の後、再使用されなかった二層の隅木（屋根の四隅に用いられる斜材）の部分が別途保存されており、花入れに加工されて別途保存されていた。昭和25年の金閣炎上後は、この花入れ（旧二層隅木の一部）が唯一の焼け残った部材となり、この部材に金箔が押されていたことから、再建金閣では二層も金箔貼りとすることになった。建築史家の宮上茂隆は、もっとも風雨にさらされやすい部材である隅木のみに金箔が残っているのは不自然であるとし、二層には本来金箔は貼られていなかったとする&amp;lt;ref&amp;gt;（宮上、1992）、p.102&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、焼失前の金閣では二層の東面と西面の中央に連子窓が設けられていたが、再建金閣では二層の東・西面はすべて壁となっている&amp;lt;ref&amp;gt;（宮上、1992）、pp.101 - 102&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義満の孫・8代将軍[[足利義政]]はたびたび鹿苑寺に参詣し、金閣にも上っていることが記録に残されている。『蔭涼軒日録』には、応仁の乱が終わって8年ほど経った[[文明 (日本)|文明]]17年（[[1485年]]）10月15日に義政が参詣した際の、義政と[[亀泉集証]]（『蔭涼軒日録』の筆者）のやりとりが記録されている。金閣は応仁の乱には焼け残ったが、当時の境内はまだ荒れており、庭の楓樹の大半が乱のさなかに伐られ、池の水量も減っていたことが義政と亀泉のやりとりから窺われる。義政の問いに対する亀泉の応答によると、二層に安置されていた観音像は応仁の乱で失われ、新しい像に替わっていた。また、三層には阿弥陀如来と二十五菩薩の像を安置していたが、像本体は失われ、像の背後にあった白雲だけが残っていた&amp;lt;ref&amp;gt;（宮上、1992）p.99&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;（村上、1977）pp.91 - 92&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鹿苑寺金閣は国宝保存法により国宝に指定されていたが、昭和25年7月2日未明、学僧・林承賢（当時21歳）の[[放火]]により炎上（金閣寺放火事件）。国宝金閣（舎利殿）は全焼、国宝足利義満坐像、伝[[運慶]]作の観世音菩薩像、春日仏師作の[[夢窓疎石]]像等10体の木像等も焼失した。林は寺の裏山で[[自殺]]を図ったが一命を取り留めた。彼の母親は事情聴取のために京都に呼ばれ、その帰りに[[保津峡]]で投身自殺した。この事件は[[三島由紀夫]]の小説『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』、[[水上勉]]の小説『[[五番町夕霧楼]]』・『金閣炎上』の題材にもなっている。なお、頂上にあった鳳凰及び「究竟頂」の額は火災以前に取り外されていたため、焼失を免れて現存し、このうち金銅鳳凰は平成11年（[[1999年]]）に京都市指定文化財に指定されている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka09.html 文化史09 金閣寺（鹿苑寺）]、京都市歴史資料館「フィールドミュージアム京都」&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在の金閣は、前述のように明治37年から39年の解体修理の際に作成された旧建物の詳細な図面や写真・古文書・焼損材等の資料を基に、昭和27年3月22日から3年を掛けて復元再建されたもので&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.kyokenro.or.jp/bunkazai/1998/01/post-10.html 北山 鹿苑寺 金閣｜文化財の修理の現場から]、全京都建築労働組合&amp;lt;/ref&amp;gt;、昭和30年10月10日に落慶法要が営まれた。その後、再建から10年あまりで金箔が剥落して下地の[[漆|黒漆]]が見えるようになり、その漆も[[紫外線]]で劣化するようになったため、昭和61年2月から翌62年10月まで1年8ヶ月、総工費約7億4千万円（当時）を投じて「昭和大修復」が行われ、漆の塗り替えや金箔の貼り替え、天井画の復元等の修復工事が行われた。この修復工事に際し、金箔は通常（約0.1[[マイクロメートル|µm]]）の5倍の厚さ（約0.45 - 0.55µm）の「五倍箔」&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.koetsuan.jp/kinkaku/index.html 金閣寺昭和大修復]、浩悦庵&amp;lt;/ref&amp;gt;約20万枚（約20[[キログラム|kg]]）、漆は国産の「[[浄法寺漆]]」約1.5[[トン]]が使用されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最上層の天井板は「楠天井の一枚板」であったと伝えられるが、それは誤りであり、複数の板を用いた鏡天井であった&amp;lt;ref&amp;gt;村田治郎の文章（鹿苑寺編『再建金閣』鹿苑寺、1955年、p.16）、後藤柴三郎（京都府文化財保護課技師：当時）の座談会での証言（村田治郎ほか「金閣の復旧をめぐって」文化財保護委員会監修『日本文化財』No.6、奉仕会出版部、1955年10月、p.32）など&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
室町幕府8代将軍足利義政は、祖父の義満が建てた舎利殿に倣い、造営中の東山山荘に観音殿（近世以降[[慈照寺#銀閣|銀閣]]と通称される）を建てた。銀閣（[[慈照寺]]観音殿）、飛雲閣（[[西本願寺]]）と併せて「&#039;&#039;&#039;京の三閣&#039;&#039;&#039;」と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 境内 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Rokuonji Sekkatei.jpg|thumb|200px|夕佳亭と南天床柱]]&lt;br /&gt;
[[画像:Kinkakuji side pond panorama.jpg|thumb|200px|安民沢と白蛇の塚]]&lt;br /&gt;
[[画像:Kinkaku-ji reflection in pond.jpg|thumb|200px|鏡湖池に映る「逆さ金閣」]]&lt;br /&gt;
; 金閣&lt;br /&gt;
: [[#舎利殿（金閣）|舎利殿（金閣）]]の項を参照。&lt;br /&gt;
; 方丈&lt;br /&gt;
: [[本堂]]に相当。単層[[入母屋造]]で[[瓦葺き|桟瓦葺]]。[[延宝]]6年（[[1678年]]）、[[後水尾天皇]]の寄進により再興された。平成17年（2005年）から解体修理が行われ、平成19年（2007年）に修復工事を終えた。&lt;br /&gt;
; 陸舟（りくしゅう）の松&lt;br /&gt;
: 方丈北側にある足利義満手植えと伝えられる松。京都三松の一つ。&lt;br /&gt;
; 大書院&lt;br /&gt;
: 江戸中期（[[貞享]]年間）の建築。[[伊藤若冲]]の障壁画（襖絵）で知られていたが、保存上の問題から[[承天閣美術館]]に移管され（下記&#039;&#039;&#039;[[#文化財|文化財]]&#039;&#039;&#039;の項を参照）、現在は[[加藤東一]]によって「淡墨桜図」「大杉図」「日輪図」「月輪図」「鵜之図」「臥竜梅図」「千鳥図」「若竹図」等が描かれている。&lt;br /&gt;
; 銀河泉（ぎんがせん）&lt;br /&gt;
: 足利義満がお茶の水に使ったと伝えられる泉。&lt;br /&gt;
; 厳下水（がんかすい）&lt;br /&gt;
: 足利義満が手洗いに用いたと伝えられる泉。&lt;br /&gt;
; 夕佳亭（せっかてい）&lt;br /&gt;
: [[金森宗和]]好みと伝えられる[[茶室]]。[[寄棟造]][[茅葺]]、三畳敷の席に[[台所|勝手]]と[[土間]]からなる主屋に、[[切妻造]]こけら葺で二畳敷の鳳棲楼と呼ばれる上段の間が連なっている。[[明治]]初年に焼失したため、現在の建物は明治7年（[[1874年]]）に再建されたもの。平成9年（1997年）に解体修理を行っている。なお三畳敷の床柱は茶席としては珍しく[[ナンテン|南天]]の木が用いられており、殊によく知られている。&lt;br /&gt;
; 庭園&lt;br /&gt;
: 金閣を水面に映す鏡湖池（きょうこち）を中心とする[[回遊式庭園|池泉回遊式庭園]]で、国の[[史跡#特別史跡|特別史跡]]・[[名勝#特別名勝|特別名勝]]に指定されている。鏡湖池には葦原島、鶴島、亀島などの島々のほか、畠山石、赤松石、細川石などの奇岩名石が数多く配されている。&lt;br /&gt;
; 不動堂&lt;br /&gt;
: [[天正]]年間に[[宇喜多秀家]]が再建したとされ、金閣寺境内に現存する最も古い建物。本尊は[[空海]]（弘法大師）作の伝承を有する[[不動明王|石不動明王]]。&lt;br /&gt;
;天鏡閣&lt;br /&gt;
非現存。『臥雲日件録』&amp;lt;ref&amp;gt;[[臨済宗]][[相国寺]]の[[瑞渓周鳳]]が[[文安]]3年（[[1446年]]）から文明5年（[[1473年]]）まで書いた日記&amp;lt;/ref&amp;gt;に「舎利殿北、有天鏡閣」（舎利殿の北側に天鏡閣がある）と記されており金閣と「複道」で繋がっていた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.kyoto-arc.or.jp/news/houkokusyo/15_kin_honbun.pdf 鹿苑寺庭園　防災防犯施設工事に伴う発掘調査報告書]&amp;lt;/ref&amp;gt;。『教言卿記』には天鏡閣に15間の会所があったと記されている。外観や構造を詳細に記述した文献や絵図は残っておらず、電子調査を行ったが礎石などの遺構は確認できていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文化財 ==&lt;br /&gt;
=== 重要文化財 ===&lt;br /&gt;
* 絹本著色足利義満像（応永十五年六月足利義持賛）・絹本著色足利義満像（義満の和歌三首あり） &lt;br /&gt;
* 絹本著色達磨図 &lt;br /&gt;
* 大書院障壁画（[[伊藤若冲]]筆）宝暦九年の年記がある &lt;br /&gt;
** 紙本墨画葡萄図（葡萄之間）（一之間）15面 &lt;br /&gt;
** 紙本墨画松鶴図（松鶴之間）（二之間）8面 &lt;br /&gt;
** 紙本墨画芭蕉図（芭蕉之間）（三之間）12面 &lt;br /&gt;
** 紙本墨画鶏及秋海棠図（四之間）11面 &lt;br /&gt;
** 紙本墨画竹図（狭屋之間）4面 &lt;br /&gt;
* 木造不動明王立像（不動堂安置）（西園寺護摩堂旧本尊） &lt;br /&gt;
* 子元祖元高峰顕日問答語　 &lt;br /&gt;
* 慈聖院并寿寧院遺誡 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伊藤若冲の障壁画をはじめ、大部分の指定文化財は本山である[[相国寺]]が管理しており、[[承天閣美術館]]で保管されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 特別史跡・特別名勝 ===&lt;br /&gt;
* 鹿苑寺（金閣寺）庭園 - [[史蹟名勝天然紀念物保存法]]（現在の[[文化財保護法]]）により大正14年（1925年）10月8日に史跡・名勝に指定。昭和31年（1956年）7月19日に特別史跡・特別名勝に指定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 焼失した文化財 ===&lt;br /&gt;
*鹿苑寺金閣 - 明治30年（1897年）12月28日、古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定&amp;lt;ref&amp;gt;文化財建造物保存技術協会編・刊行『国宝・重要文化財建造物官報告示』、1996年&amp;lt;/ref&amp;gt;。昭和4年（1929年）7月1日、国宝保存法の施行に伴い国宝（旧国宝）となる。昭和25年（1950年）7月2日焼失&amp;lt;ref&amp;gt;文化財保護法の施行（1950年8月29日）以前に焼失したため、同法に基づく国宝（新国宝）には指定されていない。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*木造足利義満坐像 - 明治34年（[[1901年]]）8月2日、古社寺保存法に基づき国宝（旧国宝）に指定。金閣とともに焼失した&amp;lt;ref&amp;gt;文化庁編『戦災等による焼失文化財（増訂版）美術工芸品編』、[[便利堂]]、1983年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 交通 ==&lt;br /&gt;
* 所在地 : 京都市北区金閣寺町1&lt;br /&gt;
* 交通 : [[京都市営バス]]「金閣寺前」（[[京都市営バス梅津営業所#12号系統|12]]・[[京都市営バス梅津営業所#59号系統|59]]系統）または「金閣寺道」（[[京都市営バス烏丸営業所#急行101号系統|急行101]]・[[京都市営バス錦林出張所#急行102号系統|急行102]]・[[京都市営バス烏丸営業所#204号系統|204]]・[[京都市営バス九条営業所#205号系統|205]]・[[京都市営バス梅津営業所#M1号系統|M1]]系統）[[バス停留所|バス停]]下車。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 井上靖、塚本善隆監修、竹中郁、村上慈海著『古寺巡礼京都20 金閣寺・銀閣寺』、[[淡交社]]、[[1977年]]&lt;br /&gt;
* [[竹村俊則]]『昭和京都名所図会 洛西』、駸々堂、[[1983年]]&lt;br /&gt;
* 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』、新潮社、1992&lt;br /&gt;
**宮上重隆「足利将軍第の建築文化」&lt;br /&gt;
* 『古寺巡礼 京都 20 金閣寺・銀閣寺』、淡交社、1977&lt;br /&gt;
**村上慈海「金閣寺・銀閣寺の歴史」&lt;br /&gt;
*『日本歴史地名大系 京都市の地名』、[[平凡社]]&lt;br /&gt;
*『角川日本地名大辞典 京都府』、[[角川書店]]&lt;br /&gt;
*『国史大辞典』、[[吉川弘文館]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[相国寺]]&lt;br /&gt;
* [[鹿苑院]]&lt;br /&gt;
* [[銀閣寺]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Kinkaku-ji}}&lt;br /&gt;
* [http://www.shokoku-ji.jp 臨済宗相国寺派]&lt;br /&gt;
** [http://www.shokoku-ji.jp/k_about.html 金閣寺とは]（[http://www.shokoku-ji.jp/k_live.html ライブカメラ]）&lt;br /&gt;
* [http://www.archi-channel.com/2009/09/30/%e9%b9%bf%e8%8b%91%e5%af%ba%e9%87%91%e9%96%a3%e3%80%80kinkakurokuon-ji-temple/ 日本建築の美 Aesthetics in Nippon Architecture 鹿苑寺金閣]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{古都京都の文化財}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ろくおんし}}&lt;br /&gt;
[[Category:臨済宗相国寺派の寺院]]&lt;br /&gt;
[[Category:京都市北区の寺]]&lt;br /&gt;
[[Category:世界遺産 ら行]]&lt;br /&gt;
[[Category:京都市の重要文化財]]&lt;br /&gt;
[[Category:特別名勝]]&lt;br /&gt;
[[Category:京都府にある国指定の名勝]]&lt;br /&gt;
[[Category:特別史跡]]&lt;br /&gt;
[[Category:京都府にある国指定の史跡]]&lt;br /&gt;
[[Category:金]]&lt;br /&gt;
[[Category:古都京都の文化財]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本庭園]]&lt;br /&gt;
[[Category:足利義満]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.209.104.105</name></author>
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	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%96%AF%E6%B3%A2%E7%BE%A9%E6%95%8F&amp;diff=162845</id>
		<title>斯波義敏</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%96%AF%E6%B3%A2%E7%BE%A9%E6%95%8F&amp;diff=162845"/>
		<updated>2014-08-24T06:06:58Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.209.104.105: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 斯波義敏&lt;br /&gt;
| 画像 =Yoshitoshi Shiba.jpeg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ = 200px&lt;br /&gt;
| 画像説明 = 斯波義敏像（[[霊泉寺 (越前市)|霊泉寺]]蔵）&lt;br /&gt;
| 時代 = [[室町時代]]中期 - 後期&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[永享]]7年（[[1435年]]）&lt;br /&gt;
| 死没 = [[永正]]5年[[11月16日 (旧暦)|11月16日]]（[[1508年]][[12月8日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 = &lt;br /&gt;
| 別名 = 勘解由小路武衛、源三位入道&amp;lt;ref&amp;gt;『東寺過去帳』「源三位入道武衛義敏」。&amp;lt;/ref&amp;gt;（通称）&lt;br /&gt;
| 諡号 = &lt;br /&gt;
| 戒名 = 即現院殿道海深叟&lt;br /&gt;
| 墓所 = &lt;br /&gt;
| 官位 = [[従五位|従五位下]]、[[従四位|従四位下]]、[[兵衛府|左兵衛佐]]&amp;lt;br/&amp;gt;左兵衛督、[[正四位|正四位下]]、[[従三位]]&lt;br /&gt;
| 幕府 = [[室町幕府]][[越前国|越前]]・[[尾張国|尾張]]・[[遠江国|遠江]][[守護]]&lt;br /&gt;
| 主君 = &lt;br /&gt;
| 氏族 = [[斯波氏|斯波氏（大野家→武衛家）]]&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[斯波持種]]、母：[[女房|家女房]]藤原氏&amp;lt;br/&amp;gt;養父：&#039;&#039;[[斯波義健]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 兄弟 = &#039;&#039;&#039;義敏&#039;&#039;&#039;、[[斯波義孝|義孝]]（実家・大野家を継承）、[[斯波政種|政種]]&lt;br /&gt;
| 妻   = &lt;br /&gt;
| 子   = &#039;&#039;&#039;[[斯波義寛|義寛（義良）]]&#039;&#039;&#039;、娘（[[斯波義孝]]室）、[[斯波寛元|寛元]]、&amp;lt;br /&amp;gt;[[斯波義雄|義雄]]、[[斯波政敏|政敏]]（子に[[奥田秀種]]）&lt;br /&gt;
| 特記事項 =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;斯波 義敏&#039;&#039;&#039;（しば よしとし）は、[[室町時代]]後期の[[武将]]、[[守護大名]]。[[越前国|越前]]・[[尾張国|尾張]]・[[遠江国|遠江]]守護。斯波氏（武衛家）10代当主。父は[[斯波持種]]、義父は[[斯波義健]]。子に[[斯波義寛|義寛]]、[[斯波義孝]]室、[[斯波寛元|寛元]]、[[斯波義雄|義雄]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 重臣との対立 ===&lt;br /&gt;
[[永享]]7年（[[1435年]]）、斯波一門の大野持種の嫡男として誕生する。この頃の武衛家（斯波本家）は当主の早世が相次ぎ、一門の筆頭格であった持種と、家臣の筆頭格であった執事の[[甲斐常治]]（越前・遠江[[守護代]]）が幼君に代わって武衛家家中を指揮していた。しかし一門と家臣をそれぞれ代表する持種と常治は相容れず、家中での主導権を巡って対立する状況にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[享徳]]元年（[[1452年]]）9月、義敏と同年齢であった武衛家当主の義健が18歳の若さで死去。義健には嗣子が無かったため、持種の子である義敏が将軍及び重臣に推されて武衛家当主と越前・尾張・遠江の三ヶ国守護を継承し、従五位下左兵衛佐に任官した&amp;lt;ref&amp;gt;『斯波家譜』。&amp;lt;/ref&amp;gt;。義敏が家督を相続したことにより、持種対常治という一門筆頭と家臣筆頭の対立は、義敏対常治という主従の争いへと形を変えていくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他の原因として義敏は常治と元から折り合いが悪かったといわれ、義敏が常治の弟を登用しようとしたり、主家をないがしろにする傍若無人な常治の排除を企てていたとする個人的な事情から、領国越前の支配権の大半を手中に収めた常治派を排除すべく義敏を頼った越前[[国人]]衆と、彼らと結託して常治から権力を奪い返そうと目論む義敏と常治の権力闘争があったともいわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
常治は[[室町幕府]]8代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政]]や斯波家重臣・[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉敏景]]などの協力を得て越前等の領国経営を押し進め、義政の[[不知行地還付政策]]を支持したため、義敏は幕府に常治の専横を訴えたが、[[長禄]]元年（[[1457年]]）には逆に義敏が甲斐氏をはじめ、[[朝倉氏]]や[[織田氏]]と直接戦闘を交えて敗れ東山東光寺に篭居する羽目となった&amp;lt;ref&amp;gt;（『[[大乗院寺社雑事記]]』『[[経覚私要妙]]』『[[碧山日録]]』『[[在盛卿記]]』）福井県、P597 - P599、松原、P38 - P41、水藤、P5、渡邊、P75 - P77。&amp;lt;/ref&amp;gt;。翌長禄2年（[[1458年]]）2月に義政や[[細川勝元]]が両者の仲裁をはかり、ひとまず和解して義敏は自邸に戻ったが、常治と義敏の対立は収まらず、越前では義敏派の国人[[堀江利真]]と常治派の朝倉敏景（後に義敏より受けた｢敏｣の字を棄てて孝景と改名）らが衝突、7月頃についに[[長禄合戦]]へと発展していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
緒戦は利真率いる義敏派が連戦連勝して戦局を有利に展開したが、幕府が不知行地還付政策で寺社の[[荘園]]直接支配を推進した時に利真が拒絶したため幕府の態度は硬化、朝倉孝景と常治の息子[[甲斐敏光]]らが越前侵入を窺っていた。一方、義政は義敏と常治に[[関東地方|関東]]出陣を命じて越前から遠ざけようとしたが、両者は互いに警戒して動かず越前の戦乱は収まらなかった。だが長禄3年（[[1459年]]）5月、義敏は義政から関東の[[堀越公方]]・[[足利政知]]の救援を命じられて兵を集めたが、その兵をもって甲斐方の[[金ヶ崎城]]や敦賀を攻めて逆に敗れたため、義政の忌避に触れて家督を息子の松王丸（義寛）に譲らされ、[[周防国|周防]]の[[大内教弘]]の元へ追放された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして長禄合戦は同年8月に常治派の勝利となるが、直後に常治が京都で病死、利真も越前に侵攻した孝景に討たれたため、幕府の関東政策によって[[寛正]]2年（[[1461年]]）9月に松王丸が廃され、[[渋川義鏡]]の息子の[[斯波義廉]]が継承することとなった（孝景の工作説は孝景が甲斐敏光と共に遠江と関東に出陣していた為、疑問）&amp;lt;ref&amp;gt;義政は事前に孝景・敏光両者を召してこの措置を伝え、孝景には領地を7箇所も与えて今後の越前守護代に関しても何らかの言い含めがあったとされる。福井県、P599 - P606、松原、P41 - P47、谷口、P42 - P43、水藤、P5 - P6、渡邊、P77 - P80。&amp;lt;/ref&amp;gt;。そのため、義敏は反義廉となって幕府側近などに対し、復帰工作を行うようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 武衛騒動 ===&lt;br /&gt;
義政は側近の[[伊勢貞親]]、[[季瓊真蘂]]らの進言を受け容れ、寛正4年（[[1463年]]）11月、生母[[日野重子]]の逝去に伴い義敏を赦免し（同じく[[畠山義就]]も赦免された）、寛正6年（[[1465年]]）[[12月30日 (旧暦)|12月30日]]に上洛した義敏と対面、[[文正]]元年（[[1466年]]）[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]には義敏に対して斯波家家督を与え、[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]に尾張・遠江・越前3ヶ国の守護に任じた。ところが、家督を奪われることとなった義廉が義父（妻の父）の[[山名宗全]]を頼り、[[一色義直]]、[[土岐成頼]]らも義廉に味方するようになる。さらに、同年に貞親の助言で大内教弘の子・[[大内政弘|政弘]]が赦免されると、これに反対していた細川勝元までもが反貞親として義廉の味方となり、[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]には貞親や真蘂、[[赤松政則]]らが失脚する[[文正の政変]]に発展し、義敏も越前へ下る&amp;lt;ref&amp;gt;[[9月14日 (旧暦)|14日]]に義敏の守護職と家督は剥奪され、再度義廉が任命されている。福井県、P609 - P610、松原、P48 - P49、谷口、P43 - P44、水藤、P6 - P9、渡邊、P81 - P85。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 応仁の乱と朝倉氏との戦い ===&lt;br /&gt;
このような斯波家の内訌に加え、[[足利将軍家]]の継嗣問題や、[[畠山氏]]の家督争いなどが関係して[[応仁の乱]]が起きると、義敏は細川勝元率いる東軍に属して戦い、京都での戦乱を後目に、いち早く越前において西軍の義廉陣営を掃討していくなど相応の戦果を上げた。また将軍義政を擁した東軍に属したということで、[[応仁]]2年（[[1468年]]）7月には義敏・松王丸父子に武衛家家督と三ヶ国守護がそれぞれ返還（西軍内では依然として義廉が武衛家当主及び三ヶ国守護扱い）されるなど、義廉陣営に対して有利な立場に立った。しかし、[[文明 (日本)|文明]]3年（[[1471年]]）に越前国主の餌に釣られて東軍へ寝返った孝景により、越前の実力支配を押し進められる。この時、義敏と孝景は同じ東軍でありながらかつて敵対していたため、義政は義敏に孝景が合戦を起こしても行動しないように命じたので中立化したが、やがて越前の西軍勢力を駆逐した孝景の勢力の前に義敏は苦境に立たされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後は越前統一を目前とした孝景に対抗するため、越前大野の土橋城に籠もるも、文明7年（[[1475年]]）末に孝景の総攻撃を受けたため、城を抜け出ると孝景によって京都に送り帰された。元服して義良（後に義寛）と名を変えた松王丸は越前奪還に出兵したり、越前の回復を求め幕府にたびたび訴訟を起こすが（長享の訴訟・延徳の訴訟）、ついに果たせなかった&amp;lt;ref&amp;gt;福井県、P612 - P630、P637 - P642、松原、P52 - P73、P84 - P91、水藤、P9 - P18、P23 - P29。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 晩年 ===&lt;br /&gt;
帰京後の義敏は文化的活動が主となり、武衛家当主としての実質的な活動は義寛に任せて、前将軍義政の側にあったと思われる。文明13年（[[1481年]]）に斯波氏嫡流の事績及び自分の嫡流相続の経緯をまとめ『[[斯波家譜]]』として残す&amp;lt;ref&amp;gt;『斯波家譜』の奥書では、「高祖父高経の肖像を見た将軍[[足利義尚]]と[[日野富子]]の母子より武衛家の詳しい次第を尋ねられたものの、自身が出陣中のために、その問いに満足に答えられなかった事を無念と思い、これを著した」とある。尚、「現在自分は在陣中であり、伝来の古記録等が手許に無い為、内容に多少の相違もあると思う」との断りも書かれてある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また歴代の武衛家当主達と同じく[[連歌]]などもよく行い、『[[新撰菟玖波集]]』には7首が入選している。文明17年（[[1485年]]）8月に義政に従って出家、入道道海と号し、名実共に義寛に武衛家家督を譲る。永正5年（1508年）に死去。享年74。法名は即現院殿道海深叟。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武衛家の家督自体は、義敏が将軍父子を擁する東軍に属し、西軍の義廉に追討令が下ったこともあって取り戻すことには成功した。しかしこの一連の家督争いの間に、高祖父[[斯波高経|高経]]以来の領国であり斯波氏の本拠地ともいえる越前を家臣に過ぎなかった朝倉氏に奪われるなど、斯波氏はその後衰退してゆくこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 官歴 ==&lt;br /&gt;
※日付は旧暦&lt;br /&gt;
*[[享徳]]元年（[[1452年]]）、家督相続。従五位下左兵衛佐。越前、尾張、遠江守護補任。&lt;br /&gt;
*[[長禄]]3年（[[1459年]]）、三ヶ国守護職罷免。家督剥奪。&lt;br /&gt;
*[[文正]]元年（[[1466年]]）7月、家督再承。&lt;br /&gt;
*文正元年（1466年）8月、三ヶ国守護職再任。&lt;br /&gt;
*文正元年（1466年）9月、三ヶ国守護職罷免。&lt;br /&gt;
*[[応仁]]2年（[[1468年]]）7月、嫡子松王丸（義寛）に三ヶ国守護職補任。&lt;br /&gt;
*文明7年（[[1475年]]）10月、尾張に赴く。&lt;br /&gt;
*文明10年（[[1478年]]）7月24日、従四位下に昇叙。これ以降、左兵衛督に転任か？&lt;br /&gt;
*文明16年（[[1484年]]）8月8日、従三位に昇叙。&lt;br /&gt;
*文明17年（[[1485年]]）8月、出家。入道道海と号す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 偏諱を受けた人物 ==&lt;br /&gt;
*[[斯波政敏|斯波政&#039;&#039;&#039;敏&#039;&#039;&#039;]]（まさとし、息子、[[奥田秀種]]の実父）&lt;br /&gt;
*[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉&#039;&#039;&#039;敏&#039;&#039;&#039;景]]（[[朝倉氏]]第7代当主・英林孝景の初名） - 後に義敏と対立&lt;br /&gt;
*[[織田敏広|織田&#039;&#039;&#039;敏&#039;&#039;&#039;広]]（[[織田氏|岩倉織田氏]]（織田伊勢守家））&lt;br /&gt;
*[[織田敏定|織田&#039;&#039;&#039;敏&#039;&#039;&#039;定]]（[[織田氏|清洲織田氏]]（織田大和守家）） - 子とされる[[織田敏信|敏信]]&amp;lt;ref&amp;gt;織田敏信については、[[織田良信]]と同一人物であり、義敏の子・斯波義良（のちの義寛）の偏諱を受けた良信が義敏の守護復帰後に重ねて偏諱を受けて改名したものとする説もある（横山住雄『織田信長の系譜』より）。&amp;lt;/ref&amp;gt;・[[織田敏宗|敏宗]]・[[織田秀敏|秀敏]]も｢敏｣の字を使用。&lt;br /&gt;
*[[織田敏任|織田&#039;&#039;&#039;敏&#039;&#039;&#039;任]]（としとう、敏定の弟とされる）&lt;br /&gt;
*[[織田敏貞|織田&#039;&#039;&#039;敏&#039;&#039;&#039;貞]]（としさだ、敏定・敏任の叔父（父・[[織田久長|久長]]の弟）とされる）&lt;br /&gt;
*[[織田敏仁|織田&#039;&#039;&#039;敏&#039;&#039;&#039;仁]]（としひと、同上、久長の弟で養子とされる）&lt;br /&gt;
*[[甲斐敏光|甲斐&#039;&#039;&#039;敏&#039;&#039;&#039;光]]（甲斐常治の子） - 後に義敏と対立&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[小川信]]『足利一門守護発展史の研究』[[吉川弘文館]]、1980年。&lt;br /&gt;
* [[今谷明]]・[[藤枝文忠]]編『室町幕府守護職家事典〔下〕』P50 - P51、[[新人物往来社]]、1988年。&lt;br /&gt;
* [[福井県]]『福井県史 通史編2 中世』福井県、1994年。&lt;br /&gt;
* [[松原信之]]『越前　朝倉一族＜新装版＞』新人物往来社、2006年。&lt;br /&gt;
* [[谷口克広]]『尾張・織田一族』新人物往来社、2008年。&lt;br /&gt;
* 『歴史と旅　増刊「守護大名と戦国大名」』[[秋田書店]]、1997年。&lt;br /&gt;
* [[水藤真]]『[[人物叢書]] 朝倉義景』吉川弘文館、1981年。&lt;br /&gt;
* [[渡邊大門]]『戦国誕生 &amp;lt;small&amp;gt;中世日本が終焉するとき&amp;lt;/small&amp;gt;』[[講談社現代新書]]、2011年。&lt;br /&gt;
* 『武衛系図』（「[[続群書類従]]」）。&lt;br /&gt;
* 『[[尊卑分脈]]』。&lt;br /&gt;
* 『[[系図纂要]]』。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[室町時代の人物一覧]]&lt;br /&gt;
*[[武衛騒動]]&lt;br /&gt;
*[[享徳の乱]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{斯波氏歴代当主||第10代|1452年 - 1459年、1466年 - 1485年}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しは よしとし}}&lt;br /&gt;
[[category:斯波氏|よしとし]]&lt;br /&gt;
[[category:守護大名]]&lt;br /&gt;
[[category:室町時代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:尾張国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1435年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1508年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.209.104.105</name></author>
	</entry>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%AE%A1%E9%A0%98&amp;diff=27730</id>
		<title>管領</title>
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		<updated>2014-08-23T11:31:32Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.209.104.105: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;管領&#039;&#039;&#039;（かんれい）とは以下の[[役職]]・地位及びその座にあった者を言う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[室町幕府]]管領のこと。三管領（三管）ともいう。本項で解説する。&lt;br /&gt;
*北畠四管領のこと。伊勢四管領とも。本項で解説する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
関連する職名は以下の通り。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[関東管領]]のこと。[[室町時代]]、鎌倉府にあって[[鎌倉公方]]を補佐した。該当項目を見よ。&lt;br /&gt;
*[[内管領]]のこと。[[鎌倉幕府]]の[[執権]]を世襲した[[北条氏|北条]][[得宗|得宗家]]の御内人の執事職のことをいう。該当項目を見よ。&lt;br /&gt;
*[[蝦夷管領]]のこと。鎌倉時代、[[蝦夷]]を支配した[[安東氏]]の役職。該当項目を見よ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==室町幕府管領職==&lt;br /&gt;
室町幕府における[[征夷大将軍|将軍]]に次ぐ最高の役職。将軍を補佐して幕政を統轄した。[[足利氏]]一門の[[斯波氏]]・[[細川氏]]・[[畠山氏]]&amp;lt;ref&amp;gt;3家とも嫡流と庶流の分流があり、それぞれの嫡流当主が歴代通称とした官途の[[唐名]]を元に斯波[[兵衛府|武衛]]家（代々左兵衛督）、細川[[京職|京兆]]家（代々右京大夫）、畠山[[衛門府|金吾]]家（代々左衛門督）と称した。&amp;lt;/ref&amp;gt;の3家が交代で就任し、「&#039;&#039;&#039;三管領&#039;&#039;&#039;」「&#039;&#039;&#039;三職&#039;&#039;&#039;」と称された。これと[[侍所]]頭人（[[所司]]）に任じられた[[四職]]（[[赤松氏]]・[[一色氏]]・[[京極氏]]・[[山名氏]]）を合わせて「三管四職」と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[鎌倉幕府]]の[[執権]]も管領と呼ばれることがあった。因みに、管領は総管頭領の略である{{要出典|date=2013年8月}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 執事から管領へ ===&lt;br /&gt;
草創期の室町幕府は、[[足利氏]]の譜代家人を中心に主従制という私的な支配関係を束ねた&#039;&#039;&#039;[[執事#室町幕府の執事|執事]]&#039;&#039;&#039;が初代将軍[[足利尊氏]]を補佐する一方で、尊氏の弟[[足利直義]]が訴訟・公権的な支配関係を担当する二元的な体制をとっており、[[高師直]]・[[仁木頼章]]・[[細川清氏]]が相次いで執事に任ぜられた。執事は、尊氏が幕府を開いたため中央政治の要職となったが、もともとは鎌倉幕府の一[[御家人]]だった足利氏の家宰の職であり、[[高氏]]・[[仁木氏]]・細川氏は[[鎌倉時代]]以来の譜代家人であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[荘園公領制]]など従来の制度・秩序の維持や公正を重視する[[足利直義]]と、麾下の武士の権益を擁護・拡大することで執事ひいてはその後ろ盾である将軍権威の編成・強化を図る高師直の対立によって引き起こされた[[観応の擾乱]]を経て、直義派は退潮し、2代将軍[[足利義詮]]の時代には裁判機関である[[引付衆]]の役割を縮小して執事の権限を強化し、一元化された体制の確立を目指した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[正平 (日本)|正平]]15年/[[延文]]5年（[[1360年]]）、執事細川清氏は前執事仁木頼章の弟[[仁木義長]]を勢力争いの末に破ったが、翌年その清氏が[[佐々木道誉]]との確執によって幕府を追われて[[南朝 (日本)|南朝]]に降った。このように執事職をめぐる権力闘争が繰り返され、しばらく将軍親裁となったが、正平17年/[[貞治]]元年（[[1362年]]）にわずか13歳の[[斯波義将]]が執事に任じられ、父の[[斯波高経]]が後見した。当初は高経が就任を求められたが、[[斯波氏]]は足利一門ではあるものの本家からは独立した鎌倉幕府の御家人の家格を誇っていたため、足利家人の職である執事に就くのをよしとせず、再三の要請に仕方なく応じた結果である。執事から管領への転換はこの頃のことと考えられる。管領とは「天下を管領する」というような意味である。ただし、この時の管領は執事の後見に設けられた臨時の地位で、斯波高経が管領、義将が執事と別々に任じられ、制度上では依然として執事が将軍の補佐役であったとする説もある&amp;lt;ref&amp;gt;亀田、P215、P293 - P295&amp;lt;/ref&amp;gt;。実際、[[細川頼之]]の管領就任後も、頼之を「執事」、関東管領（かつての関東執事）の[[上杉憲顕]]を「管領」と称した書状&amp;lt;ref&amp;gt;「応安元年四月十日付春屋妙葩書状」（『南北朝遺文 関東編』3465号）、なお差出人である[[春屋妙葩]]は将軍義満に近く後に初代の[[僧録]]に任ぜられ、相手先の[[二階堂行春]]（駿河入道）は鎌倉府の要職である政所執事を務めるなど鎌倉府の重鎮であり、内容も管領（上杉憲顕）が行うべき施行状発給の業務を中央の執事（細川頼之）が代行した越権に関する釈明である。&amp;lt;/ref&amp;gt;が存在しており、関東における関東執事→関東管領への変更が、幕府中央における執事→管領への変更よりも先であった可能性も存在している&amp;lt;ref&amp;gt;亀田、P296 - P298&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正平21年/貞治5年（[[1366年]]）には斯波高経・義将は佐々木道誉らとの確執で失脚し（[[貞治の変]]）、再び将軍の親裁となった。義詮は親裁権強化のために管領（あるいは執事）を廃止することを意図していたとする見方がある&amp;lt;ref&amp;gt;亀田、P215 - P217、P294&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし翌年、将軍義詮の死の直前、四国平定や細川清氏討伐などで活躍していた細川頼之が呼ばれて管領に就任する。頼之は幼い3代将軍[[足利義満]]を補佐するとともに、幕府体制の安定化に努めた。この時期にかつての二元体制下において足利直義が自派で掌握して執事と対抗関係にあった引付頭人の職権が管領に吸収され、所務遵行命令なども将軍に代わって（義満の成人後はその意向を奉じる形で）発するなど、政務の一切を統括するようになり、引付衆などの業務も政所へ移行するようになった。この流れは通説では管領の権限の強化と捉えられているが、その一方において高師直以来の歴代の執事はかつての二元体制下において足利尊氏が掌握していた軍事と密接に関連する恩賞や寄進に関する補佐（施行状などの奉書の発給）を主としていたが、南朝の軍事的衰退はその機会を減少させて地位の弱体化をもたらすものであった。こうした危機感の中で管領による他の役職の権限の吸収と新たな権限行使が展開されたと言う側面もあった。諸文書における「管領」の呼称が定着するのも細川頼之の時代以降である&amp;lt;ref&amp;gt;亀田、P219 - P222、P408 - P409&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
細川頼之は[[今川貞世|今川了俊]]を[[九州探題]]に任命、九州へ派遣して[[南朝 (日本)|南朝]]方の掃討を進め、吉野の南朝とは講和交渉を行いながらこれが不調に終わると[[楠木正儀]]を味方につけて南朝を攻撃、南朝の抵抗はほぼ途絶えた。また、[[寺社本所領事|応安の半済令]]を出し、内乱の中で行われてきた[[半済]]を所領の折半として恒久化し武士の既得権を認める一方、有力荘園領主（皇室・摂関家・寺社）の一円支配地については除外して保護することで、双方の利害対立に一定の決着を図った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[天授 (日本)|天授]]5年/[[康暦]]元年（[[1379年]]）、頼之は[[康暦の政変]]で失脚し、斯波義将が復帰する。斯波氏と細川氏が管領に就任する時代は約40年続いたが、[[応永]]5年（[[1398年]]）に[[畠山基国]]が管領になって以降は、斯波・細川・畠山の3家（三管領）から交代で任じられることとなる。また、管領は退任後も将軍から重要問題に関する諮問を受けるなど、幕府内において重きをなした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 管領権力の抑制 ===&lt;br /&gt;
4代将軍[[足利義持]]以降、幕府の重要案件決定は三管四職等から選ばれた[[宿老]]会議が将軍の諮問を受けて行ったり、将軍が宿老に直接諮問したりするようになったことで、管領の権力は低下して宿老会議などの幕府評定の主催者としての要素が強まった。また体面に伴う経済的負担もあったことから[[畠山満家]]や[[斯波義淳]]などはたびたび辞意を表明し、将軍に慰留されるなどの事態となった&amp;lt;ref&amp;gt;桜井、P30 - P31、P57 - P58、P114 - P115、P154 - P160、吉田、P206 - P231。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6代将軍[[足利義教]]は[[奉行衆|奉行人]]制度や将軍直属軍である[[奉公衆]]を強化して将軍親裁を推進して管領による所務沙汰からの排除を図る一方、義教が積極的に行った軍事活動に伴って大量に発生する軍勢催促や戦功褒賞に関する命令を将軍の[[御内書]]と並行してその一部を[[管領奉書]]で代用させるようになり、軍事面においては管領の役割が広がりを見せた。これは、管領の権限強化を意図したものではなく、反対に将軍に対する管領への統制を強化しつつその軍事指揮を補佐する役目を担わせることで、将軍主導の政務を確立する意図があったと考えられている&amp;lt;ref&amp;gt;吉田、P270 - P285。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、義教や8代将軍[[足利義政]]は三管領のうちの斯波氏や畠山氏の家督争いに介入し、その後の両家の衰退の遠因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[嘉吉]]元年（[[1441年]]）に義教が[[赤松満祐]]に[[暗殺]]されると、管領[[細川持之]]は直ちに守護を召集して義教の嫡男[[足利義勝|義勝]]を7代将軍に擁立、幼少の義勝に代わり管領主導の政治体制を整えて満祐を討伐（[[嘉吉の乱]]）、翌嘉吉2年（[[1442年]]）に持之が辞任して[[畠山持国]]に交代、嘉吉3年（[[1443年]]）の義勝死後に弟の義政を8代将軍に擁立してからは政治を主導したが、[[細川勝元]]と管領を交代しながら守護家の[[お家騒動]]への介入を行い勝元と権力闘争を繰り広げた。やがて持国も自らお家騒動を引き起こして勝元と[[山名宗全]]の介入を招き、隠居に追い込まれ失脚した&amp;lt;ref&amp;gt;桜井、P172 - P177、P268 - P285、石田、P46 - P75、P78 - P96、P102 - P111。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 形骸化、消滅 ===&lt;br /&gt;
[[享徳]]元年（[[1452年]]）からは持国と交代した勝元が[[寛正]]5年（[[1464年]]）までの12年間管領に在任していたが、その期間に義政は将軍親政を志して側近の[[伊勢貞親]]・[[季瓊真蘂]]を登用、管領を通さず命令を下達、将軍が貞親を通して訴訟受諾及び裁判を行うなど親政を試み、[[不知行地還付政策]]や家督争いへの介入で守護権力を抑制しようとした。だが、これらの政策は守護の反発に遭い、[[文正]]元年（[[1466年]]）に勝元・宗全らが起こした[[文正の政変]]で貞親・真蘂が追放され義政の親政は挫折した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌応仁元年（[[1467年]]）から始まった[[応仁の乱]]では、はじめ管領の[[斯波義廉]]は宗全率いる西軍に属し、将軍義政らは勝元率いる東軍に確保されており、将軍と管領が分裂することとなった。管領ではなかった勝元は管領奉書に代わり自身の発給文書によって軍事指揮を行うようになり、[[応仁]]2年（[[1468年]]）に義廉が罷免され勝元が管領に再任された後もこの方法を用いた。これによって管領が持っていた軍事的権限を失墜させる結果をもたらすと共に後の[[細川政権 (戦国時代)|京兆専制]]の形成に影響した。勝元の死後は[[畠山政長]]と勝元の子[[細川政元|政元]]が持国・勝元の時と同じく交代で管領に在任していたが、政長は従兄の[[畠山義就]]討伐に明け暮れ殆ど京都を留守にしていた状態で、政元も短期間在任と辞職を繰り返して幕政に関わらなかったため管領は形骸化していった&amp;lt;ref&amp;gt;桜井、P289 - P303、石田、P135 - P141、吉田、P320 - P326、P335 - P342。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[応仁の乱]]後は将軍権力及び斯波・畠山両家は衰退し、政元の細川氏が管領職を独占、政元は[[明応]]2年（[[1493年]]）の[[明応の政変]]で将軍を廃立し、専制権力を確立した（京兆専制の成立）。だが、後継者を巡って政元が家臣に[[暗殺]]されると（[[永正の錯乱]]）、細川氏は分裂して長期の抗争を繰り広げ衰退、家臣で実力者の[[三好長慶]]が台頭した。そして[[永禄]]6年（[[1563年]]）の[[細川氏綱]]の死後、自然消滅の形で廃絶したとされている。が、既に[[享禄]]4年（[[1531年]]）の[[細川高国]]の自害をもって廃絶していたとする説もある&amp;lt;ref&amp;gt;通説では高国の後に[[細川晴元|晴元]]・氏綱が管領に就任したとされているが、両名が細川宗家の家督継承者であった事実はあっても、管領職に就任したとするのは後世編纂の『重編応仁記』などの軍記物や系譜類などのみの記載で、同時代の一次史料にはそれを示す記述はない。このため、晴元・氏綱が実際に管領に就任したことを疑問視する説がある。例えば、[[今谷明]]は『新編日本史辞典』（東京創元社、1990年）において作成した「室町幕府諸職表 執事・管領」において、細川晴元・氏綱の管領任命を事実ではないとして歴代管領から外している（西島太郎「中世後期の在地領主研究」（中世後期研究会 編『室町・戦国期研究を読みなおす』（思文閣出版、2007年） ISBN 978-4-7842-1371-9）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし三管領は大名家としては各々残り、[[安土桃山時代]]の当主である[[細川信良|細川昭元]]・[[畠山昭高]]・[[斯波義銀]]は[[織田信長]]の親族と縁組をし信長の義兄弟・準義兄弟となることによって政治的にも重要度を回復した。後に[[豊臣政権]]に移行した後も、高貴な家柄の末裔として厚遇されることとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[江戸時代]]は[[高家 (江戸時代)|高家]]として[[江戸幕府]]に仕える家や、大名家の家老職として地方に下る家など、独自の運命を辿った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 執事・管領の一覧 ==&lt;br /&gt;
=== 執事 ===&lt;br /&gt;
# [[高師直]]（1336年 - 1349年）&lt;br /&gt;
# [[高師世]]（1349年）&lt;br /&gt;
# 高師直（1349年 - 1351年）&lt;br /&gt;
# [[仁木頼章]]（1351年 - 1358年）&lt;br /&gt;
# [[細川清氏]]（1358年 - 1361年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 管領 ===&lt;br /&gt;
# [[斯波義将]]（1362年 - 1366年）&lt;br /&gt;
# [[細川頼之]]（1367年 - 1379年）&lt;br /&gt;
# 斯波義将（1379年 - 1391年）&lt;br /&gt;
# [[細川頼元]]（1391年 - 1393年）&lt;br /&gt;
# 斯波義将（1393年 - 1398年）&lt;br /&gt;
# [[畠山基国]]（1398年 - 1405年）&lt;br /&gt;
# [[斯波義重]]（1405年 - 1409年）&lt;br /&gt;
# 斯波義将（1409年）&lt;br /&gt;
# [[斯波義淳]]（1409年 - 1410年）&lt;br /&gt;
# [[畠山満家]]（1410年 - 1412年）&lt;br /&gt;
# [[細川満元]]（1412年 - 1421年）&lt;br /&gt;
# 畠山満家（1421年 - 1429年）&lt;br /&gt;
# 斯波義淳（1429年 - 1432年）&lt;br /&gt;
# [[細川持之]]（1432年 - 1442年）&lt;br /&gt;
# [[畠山持国]]（1442年 - 1445年）&lt;br /&gt;
# [[細川勝元]]（1445年 - 1449年）&lt;br /&gt;
# 畠山持国（1449年 - 1452年）&lt;br /&gt;
# 細川勝元（1452年 - 1464年）&lt;br /&gt;
# [[畠山政長]]（1464年 - 1467年）&lt;br /&gt;
# [[斯波義廉]]（西幕府）（1467年 - 1468年）&lt;br /&gt;
# 細川勝元（東幕府）（1468年 - 1473年）&lt;br /&gt;
# 畠山政長（東幕府）（1473年）&lt;br /&gt;
# 畠山政長（1477年 - 1486年）&lt;br /&gt;
# [[細川政元]]（1486年）&lt;br /&gt;
# 畠山政長（1486年 - 1487年）&lt;br /&gt;
# 細川政元（1487年）&lt;br /&gt;
# 細川政元（1490年）&lt;br /&gt;
# 細川政元（1494年 - 1507年）&lt;br /&gt;
# [[細川澄之]]（1507年）&lt;br /&gt;
# [[細川澄元]]（1507年 - 1508年）&lt;br /&gt;
# [[細川高国]]（足利義晴方）（1508年 - 1525年）&lt;br /&gt;
# [[細川稙国]]（1525年）&lt;br /&gt;
# [[畠山義堯]]（1526年）&lt;br /&gt;
# [[細川晴元]]（1536年 - 1549年）&lt;br /&gt;
# [[細川氏綱]]（1552年 - 1563年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==北畠四管領==&lt;br /&gt;
伊勢の[[国司]][[大名]][[北畠氏]]の一門かつ重臣の中で特に有力な者を四管領と称した。&lt;br /&gt;
[[太田亮]][[編集|編]]『姓氏家系大辞典 第2巻』（[[角川書店]]、[[1934年]]）に曰く「又、四管領あり。事を掌る。その族を[[坂内氏|坂内]]、[[田丸氏|田丸]]、[[木造氏|木造]]、[[波瀬氏|波瀬]]、[[藤方氏|藤方]]の諸氏となす」とある&amp;lt;ref&amp;gt;太田、P1895。『[[北畠物語]]』、『[[伊勢国司紀略]]』、『[[五鈴遺書]]』、『[[名勝志]]』等も参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
* [[太田亮]]編『姓氏家系大辞典 第2巻』[[角川書店]]、1934年。&lt;br /&gt;
* 国史大辞典編集委員会編『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]] 3 か』P951 - P953、[[吉川弘文館]]、1983年。&lt;br /&gt;
* [[桜井英治]]『室町人の精神 日本の歴史12』[[講談社学術文庫]]、2001年。&lt;br /&gt;
* [[石田晴男]]『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』吉川弘文館、2008年。&lt;br /&gt;
* [[吉田賢司]]『室町幕府軍制の構造と展開』吉川弘文館、2010年。&lt;br /&gt;
* [[亀田俊和]]『室町幕府管領施行システムの研究』[[思文閣出版]]、2013年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[四職]]&lt;br /&gt;
* [[内管領]]&lt;br /&gt;
* [[蝦夷管領]]&lt;br /&gt;
* [[奥州管領]]&lt;br /&gt;
* [[関東管領]]&lt;br /&gt;
* [[房総管領]]&lt;br /&gt;
* [[伊勢四管領]]&lt;br /&gt;
* [[中国管領]]&lt;br /&gt;
* [[四国管領]]&lt;br /&gt;
* [[鎮西管領]]&lt;br /&gt;
* [[近畿管領]]&lt;br /&gt;
* [[西国管領]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{管領}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:かんれい}}&lt;br /&gt;
[[Category:室町幕府の職制]]&lt;br /&gt;
[[Category:管領|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.209.104.105</name></author>
	</entry>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%A6%96&amp;diff=27731</id>
		<title>足利義視</title>
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		<updated>2013-10-25T10:52:37Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.209.104.105: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 足利義視&lt;br /&gt;
| 画像 = Asikaga yoshimi.jpg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ = 250px&lt;br /&gt;
| 画像説明 = 『武家百人一首』より&lt;br /&gt;
| 時代 = [[室町時代]]中期 - 後期&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[永享]]11年[[1月18日 (旧暦)|閏1月18日]]（[[1439年]][[3月3日]]）&lt;br /&gt;
| 死没 = [[延徳]]3年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]（[[1491年]][[2月15日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 = 義躬&amp;lt;ref&amp;gt;読みは同じく｢よしみ｣と思われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[野史]]。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;國史大辞典の引く[[後鑑]]や[[野史]]による。國史大辞典 大正14年2月25日大増訂P46。&amp;lt;/ref&amp;gt;→義尋（法名）→義視（還俗後）→道存（法名）&lt;br /&gt;
| 別名 = 今出川殿（通称）、今出川公方&amp;lt;ref&amp;gt;國史大辞典の引く[[後鑑]]や[[野史]]による。國史大辞典 大正14年2月25日大増訂P46。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 諡号 = 道存&lt;br /&gt;
| 神号 = &lt;br /&gt;
| 戒名 = 大智院久山道存&lt;br /&gt;
| 霊名 = &lt;br /&gt;
| 墓所 = &lt;br /&gt;
| 官位 = [[馬寮|左馬頭]]、[[正二位]]、[[准后|准三宮]]、贈[[従一位]][[太政大臣]]&lt;br /&gt;
| 幕府 = [[室町幕府]]&lt;br /&gt;
| 主君 = &lt;br /&gt;
| 氏族 = [[足利将軍家]]&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[足利義教]]、母：[[女房|家女房]]&amp;lt;br/&amp;gt;養父：&#039;&#039;[[足利義政]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 兄弟 = [[足利義勝|義勝]]、[[足利政知|政知]]、[[足利義政|義政]]、&#039;&#039;&#039;義視&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 妻   = 正室：&#039;&#039;&#039;日野良子&#039;&#039;&#039;（妙音院、[[日野重政]]の娘）&lt;br /&gt;
| 子   = &#039;&#039;&#039;[[足利義稙|義材（義稙）]]&#039;&#039;&#039;、[[義忠|実相院義忠]]、[[足利周嘉|慈照院周嘉]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;系図纂要&amp;quot;&amp;gt;[[系図纂要]]による&amp;lt;/ref&amp;gt;[[水野義純]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;系図纂要&amp;quot; /&amp;gt;、[[足利了玄|照禅院了玄]]&lt;br /&gt;
| 特記事項 = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;足利 義視&#039;&#039;&#039;（あしかが よしみ）は、[[室町時代]]中期から後期にかけての人物・武将。[[室町幕府]]6代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義教]]の子で、異母兄に7代将軍[[足利義勝|義勝]]と8代将軍[[足利義政|義政]]、[[堀越公方]][[足利政知]]（実際では次兄にあたる）がいる。子に10代将軍・[[足利義稙]]（初め義材・義尹）などがいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
はじめ出家して&#039;&#039;&#039;義尋&#039;&#039;&#039;（ぎじん）と名乗り、[[天台宗]][[浄土院 (京都市左京区)|浄土寺]][[門跡]]となった。後に嗣子に恵まれない兄・義政の後継となったが、義政と[[御台所]][[日野富子]]の間に実子・[[足利義尚|義尚]]が生まれると将軍職をめぐって対立、[[応仁の乱]]を引き起した。乱後は[[美濃国|美濃]]に亡命し、甥の義尚と兄の義政の死後、子の義材を10代将軍に擁立して自らは[[大御所]]として後見し幕政を牛耳ったが、兄の死から1年後の1月7日に死去した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 還俗 ===&lt;br /&gt;
永享11年（1439年）1月18日、6代将軍足利義教の10男として生まれる。母は小宰相局と呼ばれる[[女房|家女房]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初め[[正親町三条実雅]]の養子にされ、[[嘉吉]]3年（[[1443年]]）に出家して浄土寺の門跡となったが、[[寛正]]5年（[[1464年]]）[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]に実子がなかった兄・義政に請われて僧侶から[[還俗]]し、翌日の[[11月26日 (旧暦)|26日]]に今出川屋敷に移り住み、[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]に正式に還俗し&#039;&#039;&#039;義視&#039;&#039;&#039;を名乗り、[[従五位|従五位下]][[馬寮|左馬頭]]に叙任された。また義政の御台所・富子の妹良子を正室に迎え、今出川の屋敷に住んだため&#039;&#039;&#039;今出川殿&#039;&#039;&#039;と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌寛正6年（[[1465年]]）[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]に[[従四位|従四位下]]に昇叙、[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]に判始を行い、[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]に元服、5日後の[[11月25日 (旧暦)|25日]]に参議と左近衛中将に補任され順調に義政の後継者として出世していった。同年の[[11月23日 (旧暦)|11月23日]]に義政と富子の間に甥義尚が誕生して立場が微妙になったが、義政が後継者を義視に変更しなかったのは大御所として政治を仕切る狙いと、義尚が成長するまでの中継ぎとして義視に予定していたともいわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[文正]]元年（[[1466年]]）[[9月5日 (旧暦)|9月5日]]には義視謀反の噂が立つが、義視は元[[管領]][[細川勝元]]に無実を訴え、翌[[9月6日 (旧暦)|6日]]に義尚の乳父だった[[伊勢貞親]]が讒訴の罪を問われ、貞親と[[季瓊真蘂]]、[[斯波義敏]]、[[赤松政則]]ら貞親派が失脚する[[文正の政変]]が起こった。計画自体は義視を排除して義尚政権で実権掌握を狙った貞親の勇み足だったが、[[斯波氏]]の前当主で政変直前に義敏に家督を奪われた[[斯波義廉]]が貞親・義敏らへの対抗策として[[山名宗全]]・[[畠山義就]]らと接触、義視も義廉・宗全らと通じていたのではないかとされる。また、政変直前に勝元が義政から義視の後見人に任命され、富子が対抗策として義尚の後見人を宗全に頼み、それぞれの派閥が結成され大乱に及んだとする説は『[[応仁記]]』のでっち上げで、実際に富子は争乱に関係なかったともいわれる&amp;lt;ref&amp;gt;国史大辞典、P177 - P178、桜井、P302 - P303、石田、P115、P179 - P194、安田、P278、P313、渡邊、P72 - P74、P83 - P85。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;義尚誕生の寛正6年11月以前に義廉は廃嫡阻止のため派閥結成に奔走していた動きがあり、宗全・義就と結びつき派閥が結成された時期は同年の9月と推定される。また、宗全・義廉らは義政・貞親に対抗するために義視とも連携したとされ、義視は11月に京都で[[土一揆]]が起こると、義廉の重臣[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]に鎮圧を命じている。石田、P185 - P190。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 応仁の乱、亡命 ===&lt;br /&gt;
[[応仁]]元年（[[1467年]]）、[[足利将軍家]]の家督相続問題と[[畠山氏]]・[[斯波氏]]の[[家督]]相続問題などが関係して応仁の乱が発生する。はじめ義視は勝元が率いる東軍に属し、[[2月24日 (旧暦)|2月24日]]に両軍に和睦を呼びかけたりしたが、5月に義政が失脚していた貞親を[[伊勢国|伊勢]]から京都に呼び戻したため孤立した。それでも6月に西軍追討の総大将に任じられると首実検を行ったり幕府[[奉行衆]]の内通者を成敗したりしたが、[[8月23日 (旧暦)|8月23日]]に西軍の[[大内政弘]]が上洛すると入れ替わるように京都から出奔、西軍の[[一色義直]]の分国の一つである伊勢へ下向、さらに[[北畠教具]]のもとへ下向する。この事情は明らかでないが、幕府内部で[[奉公衆]]が西軍に内通したことに危機感を抱いたための出奔とも、逆に西軍合流を図り伊勢へ下向したともされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌応仁2年（[[1468年]]）[[9月22日 (旧暦)|9月22日]]には義政の説得で伊勢から帰洛するが、義政が閏[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]に貞親を幕府に復帰させたため義政と対立、[[11月13日 (旧暦)|11月13日]]に[[花の御所|室町第]]を脱走して[[比叡山]][[延暦寺]]に出奔、ついで山名宗全の西軍に与した。西軍では擬似幕府（西幕府）が創設されて将軍に据え置かれ、[[文明 (日本)|文明]]元年（[[1469年]]）には四国・九州の諸大名を味方につけようと奔走している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文明5年（[[1473年]]）、宗全と勝元が相次いで死去すると和睦に傾き、文明8年（[[1478年]]）[[9月14日 (旧暦)|9月14日]]に義政が大内政弘に和睦を求める書状を送ると政弘と共に交渉を開始した。[[12月20日 (旧暦)|12月20日]]に義政と和睦、翌文明9年（[[1477年]]）[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]には富子へ政弘を通して和睦の仲介料を支払い、7月に娘を義政の[[猶子]]としたが、義政との溝を埋めることは難しく、[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]に子の義材を伴って[[美濃国|美濃]]の[[土岐成頼]]のもとに亡命した。翌文明10年（[[1478年]]）[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]に成頼と共に正式に義政と和睦したが、美濃に留まり続けた&amp;lt;ref&amp;gt;国史大辞典、P178、桜井、P304 - P308、P315 - P322、石田、P198 - P203、P211、P217 - P224、P238 - P246、P265 - P274、安田、P314 - P315、渡邊、P153 - P161、P168 - P173。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 復権から大御所へ ===&lt;br /&gt;
[[長享]]3年（[[延徳]]元年、[[1489年]]）[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]に9代将軍義尚が[[長享・延徳の乱]]で遠征先の[[近江国|近江]]で死去すると、義視は義材と共に[[4月13日 (旧暦)|4月13日]]に上洛し、娘のいる京都三条の通玄寺に入り、そこで再び出家をして&#039;&#039;&#039;道存&#039;&#039;&#039;（どうぞん）と号した。上洛に先立ち長享元年（[[1487年]]）1月に義材を元服させていたが、義視は義政・富子と和睦を模索し、義材を継嗣の無かった義尚の猶子とするために行ったともされる。8月には富子ほかの推挙により義材は従五位下左馬頭に叙位任官、翌延徳2年（[[1490年]]）1月7日に義政が病死すると、義視は富子と提携して[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]に義材を10代将軍に擁立し、自らは将軍の父として幕政を牛耳ったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし富子と折りが悪く次第に対立、[[4月27日 (旧暦)|4月27日]]に富子が一旦義材に邸宅として与えようとした小川第（義政の別荘）を一転して義材の従兄弟にあたる香厳院清晃（後の[[足利義澄]]）に与えようとしたため、[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]に小川第を破却して敷地を差し押さえた。このため富子は義材の支持には疑問を持ちはじめ、清晃を将軍後継に推していた管領[[細川政元]]（勝元の子）に接近した。義視は政元との対立を不利と判断、義材の[[将軍宣下]]の儀を政元の屋敷で行なうよう変更するといった懐柔策も示している（ただし政元は将軍宣下の翌日に管領職を辞任している）。それでも政元と富子の反発は義材排除の動き（[[明応の政変]]）へとつながることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして状況が不利になってゆく中、[[10月7日 (旧暦)|10月7日]]に妻良子を失い、自身も11月に病に倒れ、翌延徳3年（1491年）1月7日、前年に世を去った兄・義政の[[命日|祥月命日]]に死去した。[[享年]]53。両親を失った義材は孤立し、一方の政元は富子を始め幕府関係者や諸大名と連携を取り、義視の死から2年後の[[明応]]2年（[[1493年]]）、義材の[[河内国|河内]]遠征中に清晃を擁立して義材を廃嫡に追い込んでいった&amp;lt;ref&amp;gt;国史大辞典、P178、石田、P283 - P287、渡邊、P237 - P249。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義視の[[開山堂|御影堂]]は相国寺の大智院（現在は廃絶）に置かれたが、これは[[足利義満]]以後の歴代将軍と同じ待遇である。夭折した兄の7代将軍義勝の御影堂が当初は東山に置かれ、義政の別荘の造営予定地に入ったために没後23年目にしてやっと相国寺内に移されているのとは対照的である。これはとりもなおさず、義視が将軍の後継者であり、かつ当代将軍（義材）の実父・後見として、実際には足利将軍家の[[家督]]を相続することも将軍職に就くこともなかったにもかかわらず、「事実上の将軍家の当主」とみなされその礼遇を受けていたためであることを物語る。&amp;lt;!--また[[等持院]]における歴代将軍の[[法華八講]]にも義視が加えられている（『[[大乗院寺社雑事記]]』延徳3年12月17日条）。ただし、こちらの方は義政と義視の忌日が同じなため、義視の法要を義政の法要とまとめて行うという意図も含まれていたようである&amp;lt;ref&amp;gt;細川武稔「空間から見た室町幕府 -足利氏の邸宅と寺社-」（所収:『史学雑誌』第107編12号（1998年）/改題所収:「足利氏の邸宅と菩提寺 -等持寺・相国寺を中心に-」細川『京都の寺社と室町幕府』（吉川弘文館、2010年） ISBN 978-4-642-02887-5）&amp;lt;/ref&amp;gt;。--&amp;gt;&amp;lt;!-- 投げ込み／推量／記述の自己矛盾 → 混乱を回避 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 官職位階履歴 ==&lt;br /&gt;
※日付＝旧暦&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[寛正]]5年（1464年）12月2日、還俗し&#039;&#039;&#039;義視&#039;&#039;&#039;を名乗る。従五位下に叙し、左馬頭に任官。&lt;br /&gt;
*寛正6年（1465年）1月5日、従四位下に昇叙。左馬頭は元の如し。11月20日、元服し禁色賜る。11月25日、参議に補任し、左近衛中将を兼任。12月17日、[[従三位]]に昇叙し、権大納言に転任。&lt;br /&gt;
*[[文正]]元年（1466年）1月6日、[[従二位]]に昇叙。権大納言は元の如し。&lt;br /&gt;
*文正2年（1467年）1月5日、[[正二位]]に昇叙。権大納言は元の如し。8月23日、伊勢国に出奔。&lt;br /&gt;
*[[応仁]]2年（1468年）12月5日、解官。&lt;br /&gt;
*[[延徳]]元年（1489年）12月27日、出家。&lt;br /&gt;
*延徳2年（1490年）7月5日、[[准后]]宣下。&lt;br /&gt;
*延徳3年（1491年）1月7日、死去。2月24日、贈[[従一位]][[太政大臣]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 偏諱を与えられた人物 ==&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;義視時代&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
*[[一色氏#&amp;lt;宮内一色家&amp;gt;|一色&#039;&#039;&#039;視&#039;&#039;&#039;冬]]（いっしき みふゆ）&lt;br /&gt;
: 『宣秀卿御教書案紙背文書』（[[中御門宣秀]]が、自身が職事として発給に関与した綸旨・口宣案を関連文書とともに書き留めたものだが、筆録したのは父の[[中御門宣胤]]である）に残る文書の中に、長享2年9月18日に伝奏・[[二階堂氏|二階堂政行]]により[[伊予国|伊予]][[国守|守]]に任ぜられた人物として見られる（[http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/suegara/buke_kani.pdf#search=&#039;%E4%B8%80%E8%89%B2%E8%A6%96%E5%86%AC&#039; こちら]を参照）が、義視との関係など詳細については不明である。子の[[一色材延]]（きのぶ）も義視の子で第10代将軍となった[[足利義材]]（義稙）から1字を受けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注・出典 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
== 登場作品 ==&lt;br /&gt;
*『[[花の乱]]』（[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、1994年） 演：[[佐野史郎]]&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 国史大辞典編集委員会編『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]] 1 あ - い』[[吉川弘文館]]、1979年。&lt;br /&gt;
* [[桜井英治]]『日本の歴史12 室町人の精神』[[講談社]]、2001年。 &lt;br /&gt;
* [[石田晴男]]『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』吉川弘文館、2008年。&lt;br /&gt;
* [[安田次郎 (歴史学者)|安田次郎]]『日本の歴史 第7巻 走る悪党、蜂起する土民』[[小学館]]、2008年。&lt;br /&gt;
* [[渡邊大門]]『戦国誕生 &amp;lt;small&amp;gt;中世日本が終焉するとき&amp;lt;/small&amp;gt;』[[講談社現代新書]]、2011年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[室町時代の人物一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:あしかか よしみ}}&lt;br /&gt;
[[Category:将軍足利氏|よしみ]]&lt;br /&gt;
[[Category:室町・安土桃山時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[Category:還俗した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1439年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1491年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.209.104.105</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%BF%9C%E4%BB%81%E8%A8%98&amp;diff=138471</id>
		<title>応仁記</title>
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		<updated>2013-08-04T15:31:09Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.209.104.105: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;応仁記&#039;&#039;&#039;（おうにんき）は、[[室町時代]]の[[歴史書]]である。[[足利将軍家]]や[[畠山氏]]、[[斯波氏]]の家督争いなどから発展した「[[応仁の乱]]」を描いた[[軍記物語]]。全3巻で、各種の諸系統本がある。「[[太平記]]」の影響を受け、漢字カタカナ交じり文。作者未詳。成立年は[[15世紀]]末から[[16世紀]]中ごろと諸説ある&amp;lt;ref&amp;gt;現存する写本の注記に[[大永]]3年（[[1523年]]）の記載があり、成立は大永3年ともされる。石田、P4。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==内容==&lt;br /&gt;
[[室町時代]]の末期の[[応仁]]元年（[[1467年]]）から始まった応仁の乱を、梁の宝誌和尚作と伝えられている『[[野馬台詩]]』末六句に予言された「[[修羅闘諍]]」の世界に当てはめて描いたもので、西軍の大将山名持豊（[[山名宗全]]）が「猿」（申年生まれであるため）、東軍の大将[[細川勝元]]が「犬」（戌年生まれであるため）と「猿犬称英雄」（猿犬、英雄と称す）の句になぞらえることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その上で、乱の原因と洛中の合戦の様子が作者の自らの解釈を交えながら描写される。乱による荒廃した都、その哀惜や悲嘆、乱の原因から戦闘場面に移る克明な描写、最後は「都鄙遠境共ニ修羅道トゾ成ニケル」で終わる。このようなことから、この応仁の乱を熟知し何らかの関与をしていた人物で武家の戦乱の無意味さを嘆いた出家した僧か公家が作者ではないかとも思われる。[[儒教]]的色彩も濃い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、[[文明 (日本)|文明]]9年（[[1477年]]）まで10年余りに続いた乱の全てを記しているわけでなく、勃発から6年後の文明5年（[[1473年]]）の「猿犬」両将の勝元と宗全の死までである（両者の死の前後から細川・山名両氏で和睦交渉が進んでおり、両者の死の翌年には和睦が成立している）。また、『一巻本応仁記』で「創作」された8代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政]]の正室[[日野富子]]が息子の[[足利義尚]]の庇護を宗全に依頼した書状は、富子が乱の元凶であったとする説を現在にまで流布させる要因となった&amp;lt;ref&amp;gt;歴史家の[[家永遵嗣]]は作者を[[細川高国]]周辺の人物ではないかと唱え、当時の政治情勢から富子を乱の元凶とするでっちあげを書いたのではないかと仮定している。また、富子の依頼書状については応仁記に載せられておらず、他の史料にも記録されていない上、宗全は義尚誕生前の[[寛正]]6年（[[1465年]]）に[[斯波義廉]]・[[畠山義就]]など他の諸大名と共に義尚の叔父で将軍候補者の[[足利義視]]と結びついていたため、富子の依頼は応仁記の創作とされている。石田、P2 - P8、P185 - P190。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*[[石田晴男]]『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』[[吉川弘文館]]、2008年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[歴史書一覧]]&lt;br /&gt;
*[[室町時代資料の一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://homepage1.nifty.com/sira/ 芝蘭堂] - 応仁記現代語訳&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:おうにんき}}&lt;br /&gt;
[[Category:軍記物語]]&lt;br /&gt;
[[Category:応仁の乱]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.209.104.105</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%A1%9B%E9%A8%92%E5%8B%95&amp;diff=196287</id>
		<title>武衛騒動</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%A1%9B%E9%A8%92%E5%8B%95&amp;diff=196287"/>
		<updated>2013-08-01T12:45:02Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.209.104.105: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;武衛騒動&#039;&#039;&#039;（ぶえいそうどう）とは、[[寛正]]6年（[[1465年]]）に発生した[[室町幕府]]の内紛のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
将軍家[[家宰]]の[[伊勢貞親]]は8代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政]]の信任を良いことに、[[管領]]家の一つ[[斯波氏]]（武衛家）の[[お家騒動]]に介入し[[斯波義敏]]と[[斯波義廉]]の間をとりなして私腹を肥やし、幕政を混乱に陥れた。将軍家家宰の身分でありながら管領家家督に口をはさむ貞親の横暴に激怒した有力者[[細川勝元]]と[[山名宗全]]は協力して[[文正]]元年（[[1466年]]）に貞親を幕府から追放した（[[文正の政変]]）。背景に、次期将軍を予定されていた[[足利義視]]の排斥問題も絡んでいると伝えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、当時[[関東地方|関東]]で反抗していた[[古河公方]][[足利成氏]]征伐軍の組織の為に家督交代を繰り返したとも推測される。関東における幕府の出先機関の[[堀越公方]][[足利政知]]は直轄軍を持たない為、幕府は斯波軍を関東に派遣しようとしたが、義敏が命令違反をして執事の[[甲斐常治]]と合戦に及んで廃嫡されると（[[長禄合戦]]）、義敏の子[[斯波義寛|松王丸]]を家督とした。しかしその後、政知の執事[[渋川義鏡]]の子義廉が新たに家督になったのは、渋川義鏡が斯波軍を操れる立場にする狙いがあったとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが、義鏡が[[扇谷上杉家]]と対立、失脚すると義廉の家督の意味はなくなり、再び義敏中心の遠征軍を作り出そうとして復権を画策したのが貞親だとされる。一方的に廃嫡された義廉や宗全一派は反撃に打って出て貞親と[[季瓊真蘂]]、義敏や[[赤松政則]]を追放、計画は失敗した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に勝元と宗全が対立し[[応仁の乱]]が勃発すると、義敏父子と政則は将軍義政を戴く東軍に属し、それぞれ武衛家家督・[[赤松氏]]家督及び守護職を奪還し、貞親と真蘂も赦免されて帰京するなど、それぞれ復権した。ただし貞親と真蘂に活躍の場は与えられず、真蘂は[[文明 (日本)|文明]]元年（[[1469年]]）に、貞親は文明5年（[[1473年]]）に世を去る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふえいそうとう}}&lt;br /&gt;
[[category:室町時代の事件]]&lt;br /&gt;
[[category:斯波氏]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.209.104.105</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E4%BF%A1%E5%B6%BA&amp;diff=150704</id>
		<title>小笠原信嶺</title>
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		<updated>2013-07-20T13:23:08Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.209.104.105: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 =小笠原信嶺&lt;br /&gt;
| 時代 =[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]&lt;br /&gt;
| 生誕 =[[天文 (元号)|天文]]16年（[[1547年]]）&lt;br /&gt;
| 死没 =[[慶長]]3年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]（[[1598年]][[3月26日]]）&lt;br /&gt;
| 戒名 =徹抄道也大居士&lt;br /&gt;
| 墓所 =[[埼玉県]][[本庄市]]内の[[開善寺]]&lt;br /&gt;
| 官位 =[[掃部寮|掃部大夫]]&lt;br /&gt;
| 主君 =[[武田信玄]]→[[武田勝頼|勝頼]]→[[織田信長]]→[[徳川家康]]&lt;br /&gt;
| 藩   =[[信濃国]][[松尾城 (信濃国伊那郡)|松尾城]]主→[[武蔵国]][[本庄城 (武蔵国)|本庄城]]主&lt;br /&gt;
| 氏族 =[[小笠原氏]]&lt;br /&gt;
| 父母 =父：[[小笠原信貴]]&lt;br /&gt;
| 妻   =正室：[[武田信廉]]の娘（久旺院尼）&lt;br /&gt;
| 子   =娘（[[小笠原信之]]正室）、娘（[[榊原忠勝]]室）&amp;lt;br /&amp;gt;養子：&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;信之&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;小笠原 信嶺&#039;&#039;&#039;（おがさわら のぶみね）は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。弟に長巨がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]16年（[[1547年]]）、[[伊那郡|伊那]][[小笠原氏]]出身の[[信濃国|信濃]][[松尾城 (信濃国伊那郡)|松尾城]]主・[[小笠原信貴]]の長男として生まれる。父と同様に[[武田信玄]]配下の信濃先方衆として働いた。信玄の死後も引き続き[[武田勝頼]]に仕えて、[[遠江国|遠江]]方面の要衝を守っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし[[天正]]10年（[[1582年]]）、[[織田信長]]による[[甲州征伐]]がはじまると、すぐに信長に降伏して織田軍の道案内役を務めた。同年6月、信長が[[本能寺の変]]で死去したため、[[天正壬午の乱]]では[[徳川家康]]に属し、家康の家臣[[酒井忠次]]の家臣として各地を転戦、松尾城などの知行を安堵されるとともに、天正12年（[[1584年]]）には、元武田家臣の[[下条頼安]]を誘殺するなど支配力の強化にも努めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正18年（[[1590年]]）に家康が関東に入部した際、[[武蔵国|武蔵]][[児玉郡]][[本庄市|本庄]]に1万石を与えられ、[[本庄城 (武蔵国)|本庄城]]主（[[本庄藩]]の藩祖）となる。[[本庄氏]]時代の城を廃し、久城掘り西側に新たに城を築き、[[低地]]である花の木で生活していた住民を[[台地]]へ移住させ、新しい町造りを開始した&amp;lt;!-- 『本庄人物事典』 2003年 --&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌年の天正19年（[[1591年]]）には、夫人の兄である[[甲斐国]][[永岳寺]]の救山宗温禅和尚を迎え、自らが開基となり、畳秀山の[[開善寺]]（小笠原氏の菩提寺と同名の寺）を[[本庄宿]]の中宿（その後の仲町に当たる地域）に建立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[豊臣秀吉]]の朝鮮出兵時には[[九州]]まで出向いている。[[伏見城]]の築城工事の際には人足200人を引率した&amp;lt;!-- 参考・『本庄人物事典』より --&amp;gt;。慶長3年（1598年）2月19日、[[江戸]]で死去。享年52。家督は養嗣子の[[小笠原信之]]（[[三河国|三河]]出身で酒井忠次の3男）が継いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:おかさわら のふみね}}&lt;br /&gt;
[[Category:小笠原氏|のふみね]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国武将]]&lt;br /&gt;
[[Category:1547年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1598年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.209.104.105</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%B8%89%E5%AE%85%E5%BA%B7%E8%B2%9E&amp;diff=191592</id>
		<title>三宅康貞</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%B8%89%E5%AE%85%E5%BA%B7%E8%B2%9E&amp;diff=191592"/>
		<updated>2013-07-20T09:04:59Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.209.104.105: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;三宅 康貞&#039;&#039;&#039;（みやけ やすさだ、[[天文 (元号)|天文]]13年（[[1544年]]） - [[元和 (日本)|元和]]元年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]（[[1615年]][[12月13日]]））は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]、[[大名]]。[[三河国|三河]][[挙母藩]]初代藩主。[[田原藩]]三宅家初代。[[天正]]年間には[[駿河国|駿河]][[深沢城]]主を務めた。[[三宅政貞]]の長男で母は[[鳥居忠吉]]の娘。正室は小笠原佐渡守の娘。子に[[三宅康信|康信]]（長男）、[[三宅康政|康政]]（次男）、娘（[[内藤政長]]正室）。官位はなし。通称は&#039;&#039;&#039;惣右衛門&#039;&#039;&#039;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[永禄]]元年（[[1558年]]）から[[徳川家康]]に仕えた[[譜代]]の家臣で、[[姉川の戦い]]や[[長篠の戦い]]をはじめ、[[武田氏]]攻めには常に参戦して武功を挙げた。[[鳥居元忠]]の甥に当たることから、元忠と行動を共にすることが多かったと言われている。[[天正]]10年（[[1582年]]）の[[天正壬午の乱]]で[[甲斐国|甲斐]]を防衛、天正18年（[[1590年]]）に家康が[[関東]]に移されると、[[武蔵国]]内に5000石を与えられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[慶長]]9年（[[1604年]]）、三河挙母に1万石を与えられ、挙母藩を立藩した。元和元年（1615年）10月23日、72歳で死去し、跡は長男の康信が継いだ。墓所は挙母の霊巌院。後に[[愛知県]][[田原市]]へ改葬された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{挙母藩主|三宅氏|初代|1604年 - 1615年}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:みやけ やすさた}}&lt;br /&gt;
[[Category:三宅氏|やすさた]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国武将|みやけやすさた]]&lt;br /&gt;
[[Category:挙母藩主|三01]]&lt;br /&gt;
[[Category:1544年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1615年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.209.104.105</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%96%AF%E6%B3%A2%E7%BE%A9%E5%BB%89&amp;diff=165019</id>
		<title>斯波義廉</title>
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		<updated>2013-06-30T14:23:37Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.209.104.105: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 斯波義廉&lt;br /&gt;
| 画像 = Shibayoshikado.jpg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ = 200px&lt;br /&gt;
| 画像説明 = 斯波義廉（『[[東山殿猿楽興行図]]』）&lt;br /&gt;
| 時代 = [[室町時代]]中期 - 後期&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[文安]]2年（[[1445年]]）頃&amp;lt;ref&amp;gt;斯波氏家督相続の際に「渋川息十五六」という記事（『[[大乗院寺社雑事記]]』寛正2年9月2日条）があることから、大凡この頃と考えられている。石田、P169。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 死没 = 不詳&lt;br /&gt;
| 戒名 = 源興?（法名）&amp;lt;ref&amp;gt;『[[尊卑分脈]]』より。ただし同書は義廉と義寛（法名は道仙竺渓）を混合している。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 官位 = [[治部省|治部大輔]]、[[兵衛府|左兵衛佐]]&lt;br /&gt;
| 幕府 = [[室町幕府]][[管領]]、[[越前国|越前]]・[[尾張国|尾張]]・[[遠江国|遠江]][[守護]]&lt;br /&gt;
| 氏族 = [[渋川氏]]→[[斯波氏]]&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[渋川義鏡]]、母：[[山名氏]]の娘&lt;br /&gt;
| 兄弟 = &#039;&#039;&#039;義廉&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;[[渋川義堯]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 妻 = 正室：[[山名宗全]]の娘（養女とも）&amp;lt;br /&amp;gt;[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]の娘&lt;br /&gt;
| 子 = [[斯波義俊|義俊]]&lt;br /&gt;
| 特記事項 =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;斯波 義廉&#039;&#039;&#039;（しば よしかど）は、[[室町時代]]中期から後期の[[武将]]、[[守護大名]]。[[室町幕府]][[管領]]、[[越前国|越前]]・[[尾張国|尾張]]・[[遠江国|遠江]]守護。[[斯波氏]]（武衛家）11代当主。[[足利氏]]一門の[[渋川氏]]出身で、三管領筆頭の斯波武衛家を相続した。父は[[渋川義鏡]]、母は[[山名氏]]出身で[[山名宗全]]の伯父に当たる山名摂津守（実名不詳）の娘とされている&amp;lt;ref&amp;gt;石田、P192。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 家督相続 ===&lt;br /&gt;
[[長禄]]3年（[[1459年]]）、斯波氏の先々代当主・[[斯波義敏]]は家臣の[[守護代]][[甲斐常治]]と対立し（[[長禄合戦]]）、8代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政]]の怒りに触れて罷免され、実子松王丸（後の[[斯波義寛]]）が家督を相続する。2年後の[[寛正]]2年（[[1461年]]）[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]に松王丸も廃され、義廉は大まかには斯波氏と同じ足利氏の一門渋川氏の出で、かつ曾祖母が[[斯波義将]]の娘であるという縁から、同年の[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]に義政の特命により斯波氏の[[家督]]を継承することとなる。この時、尾張・越前・遠江の守護にも任命されている&amp;lt;ref&amp;gt;松原、P42 - P43、水藤、P6、谷口、P42 - P43。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この家督相続には幕府の関東政策が絡んでおり、常に軍事力不足だった義政の異母兄の[[堀越公方]][[足利政知]]の要請に義政が応じて、政知の執事である渋川義鏡が斯波氏当主の実父という立場から足利一門最強の斯波軍を動員出来るように工作したとも言われている。義政は最初義敏・常治を関東に派遣させようとしたが、両者が命令に従わず内乱を起こしていたため義敏を罷免、松王丸を当主に置いても長禄3年から翌4年（[[1460年]]）にかけて斯波氏領国の遠江で[[今川範将]]の反乱が勃発、関東情勢に不安が残されていた事情もあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが、寛正2年10月に再び遠江で反乱が起こり、翌寛正3年（[[1462年]]）に幕府の介入で反乱は収まったが、関東で幕府方の[[上杉持朝]]と父が政争を起こし、[[三浦時高]]・[[千葉実胤]]・[[太田資清|太田道真]]ら持朝の重臣が隠居、事態を重く見た義政により父が失脚させられてしまった。更に寛正4年（[[1463年]]）11月、義政生母・[[日野重子]]の死去による大赦で義敏・松王丸父子と[[畠山義就]]が赦免され義廉の立場は悪化した&amp;lt;ref&amp;gt;石田、P144 - P157、P165 - P174、P177 - P178、渡邊、P75 - P81。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 失脚と復権 ===&lt;br /&gt;
義廉の家督相続は上記の関東政策のためであり、義鏡が失脚した以上義廉の必要性はほとんど無くなり、義政は義敏の復帰を考えるようになった。寛正6年（[[1465年]]）に義廉が斯波氏と同族の[[奥州探題]][[大崎教兼]]との取次に失敗したことも影響しており、義敏がかつて大崎教兼と取り次いでいたことと常治が亡くなっていたことを合わせて復帰工作を始めた。しかし、一方的に廃嫡されることを恐れた義廉は義政の妨害に動き出し山名宗全・畠山義就の連携に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義敏は義政の側近の[[政所]]執事[[伊勢貞親]]・[[季瓊真蘂]]の画策で寛正6年[[12月30日 (旧暦)|12月30日]]に京都で義政と対面、翌[[文正]]元年（[[1466年]]）[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]に幕府の裁定で義廉は幕府への出仕を停止させられ、[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]には義敏への3ヶ国の守護返還を命じられた。しかし、この時既に義廉は宗全派と手を組んでおり、義敏の支持者だった元管領[[細川勝元]]ら諸大名も貞親ら側近衆に反感を抱いていたため家督問題は複雑化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義敏は貞親・真蘂・[[赤松政則]]らと共に[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]の[[文正の政変]]で失脚し、[[9月14日 (旧暦)|14日]]に守護職は義廉に戻された。更に宗全・義廉らは勝元派の排除も狙い、[[大和国|大和]]で挙兵した畠山義就を呼び寄せ、[[応仁]]元年（[[1467年]]）[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]に義廉は義就の軍事力を背景に[[畠山政長]]を管領から追い落とし、後任として管領に就任。義父の宗全らは義廉を支持し、義敏は勝元を頼り、斯波氏の争いは[[足利将軍家]]の家督争いや[[畠山氏]]の争いと関係して[[応仁の乱]]の原因の1つにもなる&amp;lt;ref&amp;gt;石田、P182 - P200、水藤、P8 - P9、谷口、P43 - P44、渡邊、P82 - P85、P149 - P150。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 応仁の乱とその後の義廉 ===&lt;br /&gt;
応仁元年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]、京都北部で義就と政長が激突（[[御霊合戦]]）、敗れた政長が姿をくらましたことにより宗全派が実権を握ったが、勝元も巻き返しを図り、5月に義敏を始め勝元派が宗全派の領国を襲撃、両派共に京都に大軍勢を呼び寄せ、[[5月26日 (旧暦)|26日]]に京都市街において[[上京の戦い]]が発生、応仁の乱がはじまる。翌2年（[[1468年]]）に7月には幕府より管領・3ヶ国守護職を剥奪されるが&amp;lt;ref&amp;gt;罷免の理由として、独断で[[古河公方]][[足利成氏]]との和睦を図ったことが挙げられる。関東政策で斯波氏当主に選ばれた以上、応仁2年の時点で西軍優位の状況で成氏と和睦を結び、東軍から義政を奪取して家督保全を引き出すために動いたが、独断で動いたことが義政の不興を買い、罷免に繋がった。管領職は勝元に、3ヶ国守護職は松王丸に与えられた。石田、P200 - P210、P241 - P244。&amp;lt;/ref&amp;gt;、西軍内ではなおもその地位に留まった。義廉は宗全率いる西軍に属して各地に転戦するなど西軍の主力を担ったが、[[文明 (日本)|文明]]3年（[[1471年]]）に有力家臣の1人である[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]が越前に下向した後東軍に属し、文明7年（[[1475年]]）に[[甲斐敏光]]も東軍に帰順して孤立、幕府から追討を受ける。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月、尾張守護代の[[織田敏広]]を頼って尾張に下国し、東軍に与した義敏・義寛父子と[[織田敏定]]らの勢力を一時同国から駆逐する。しかし、義敏・義寛父子の盛り返しにより文明10年（[[1478年]]）に敏広が守護代を更迭され敏定が新たな守護代に任じられると、敏定は幕府から「凶徒退治」を命じられ下国、義廉は敏広と共に幕府から「凶徒」と断じられ、尾張での支持勢力を全て失った。その後の行方は不明となるが、朝倉孝景の息子[[朝倉氏景 (8代当主)|氏景]]の推戴により、息子の義俊が将軍家の連枝にあたる[[鞍谷氏|鞍谷公方]]を継ぐこととなり、名目上の越前の国主とされたので越前に移り住んだという説が有力視されている&amp;lt;ref&amp;gt;石田、P257 - P260、P264、P269 - P270、松原、P44 - P46、水藤、P9 - P18、P23、谷口、P44 - P49、渡邊、P194 - P198、P208 - P214。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==官職および位階等の履歴==&lt;br /&gt;
※ 日付は旧暦&lt;br /&gt;
* [[寛正]]2年（[[1461年]]）[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]、家督を相続し、越前・尾張・遠江の三国守護に就任。[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]、治部大輔に[[任官]]。&lt;br /&gt;
* [[文正]]元年（[[1466年]]）[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]、罷免される。[[9月14日 (旧暦)|9月14日]]、再び家督相続。越前・尾張・遠江の三国守護に復帰。&lt;br /&gt;
* 文正2年（[[1467年]]）[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]、幕府の管領となる。同年改元し、応仁元年5月、左兵衛佐に遷任。&lt;br /&gt;
* [[応仁]]2年（[[1468年]]）[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]、管領更迭、越前・尾張・遠江守護職褫奪。但し西軍内では管領・三州守護に留まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[石田晴男]]『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』[[吉川弘文館]]、2008年。ISBN 978-4-642-06319-7&lt;br /&gt;
* [[松原信之]]『越前朝倉氏の研究』吉川弘文館、2008年。ISBN 978-4-642-02876-9&lt;br /&gt;
* [[水藤真]]『[[人物叢書]] 朝倉義景』吉川弘文館、1981年。&lt;br /&gt;
* [[今谷明]]・[[藤枝文忠]]編『室町幕府守護職家事典〔下〕』P51、[[新人物往来社]]、1988年。&lt;br /&gt;
* [[谷口克広]]『尾張・織田一族』新人物往来社、2008年。&lt;br /&gt;
* [[渡邊大門]]『戦国誕生 &amp;lt;small&amp;gt;中世日本が終焉するとき&amp;lt;/small&amp;gt;』[[講談社現代新書]]、2011年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[室町時代の人物一覧]]&lt;br /&gt;
* [[武衛騒動]]&lt;br /&gt;
* [[京極騒乱]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{斯波氏歴代当主||第11代|1461年 - 1466年}}&lt;br /&gt;
{{管領}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しは よしかと}}&lt;br /&gt;
[[Category:斯波氏|よしかと]]&lt;br /&gt;
[[Category:渋川氏|よしかと]]&lt;br /&gt;
[[Category:管領]]&lt;br /&gt;
[[Category:守護大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:尾張国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:15世紀生]]&lt;br /&gt;
[[Category:15世紀没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.209.104.105</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%B8%8A%E6%9D%89%E9%A1%95%E5%AE%9A&amp;diff=164864</id>
		<title>上杉顕定</title>
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		<updated>2013-06-29T13:28:00Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.209.104.105: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses|山内上杉家当主|扇谷上杉家初代当主|上杉顕定 (扇谷上杉家)}}&lt;br /&gt;
{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 上杉顕定&lt;br /&gt;
| 時代 = [[室町時代]]後期 - [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]前期&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[享徳]]3年（[[1454年]]）&lt;br /&gt;
| 死没 = [[永正]]7年[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]（[[1510年]][[7月25日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 = 龍若、顕定、可諄&lt;br /&gt;
| 別名 = 四郎&lt;br /&gt;
| 諡号 =&lt;br /&gt;
| 戒名 = 海龍寺殿皓峯可諄大居士&lt;br /&gt;
| 墓所 = 管領塚（[[新潟県]][[南魚沼市]]）&lt;br /&gt;
| 官位 = なし&amp;lt;ref&amp;gt;顕定の発給・受給文書や同時代史料において「四郎」「管領」といった語はあっても官途名を用いて顕定を示した例がないという指摘より（木下聡「山内上杉氏における官途と関東管領職の問題」 『日本歴史』第685号、2005年）。 諸系図においても、比較的早い時期に作成されたと考察されている「上杉系図」「上杉系図大概」（片桐昭彦 「山内上杉氏・越後守護上杉氏の系図と系譜」 『中世武家系図の史料論』下巻、高志書院、2007年、 系図も同書収録）には官途は書かれていない。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 幕府 = [[室町幕府]][[関東管領]]、[[上野国|上野]]・[[武蔵国|武蔵]]・[[伊豆国|伊豆]][[守護]]&lt;br /&gt;
| 主君 =&lt;br /&gt;
| 氏族 = [[山内上杉家]]&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[上杉房定]]、養父：&#039;&#039;[[上杉房顕]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 兄弟 = [[上杉定昌|定昌]]、&#039;&#039;&#039;顕定&#039;&#039;&#039;、[[上杉房能|房能]]&lt;br /&gt;
| 妻   = [[正室]]：[[上杉憲実]]の娘{{要出典|date=2008年10月}}&lt;br /&gt;
| 子   = 女子（[[高山重純]][[正室]]）&amp;lt;br /&amp;gt;一説に[[上条定憲]]&amp;lt;ref&amp;gt;森田真一 「上条上杉定憲と享禄・天文の乱」 『新潟史学』第46号、2001年。 （「天文本上杉長尾系図」などの記載による）&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;br /&amp;gt;養子：&#039;&#039;[[上杉顕実|顕実]]&#039;&#039;、&#039;&#039;[[上杉憲房 (戦国時代)|憲房]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 特記事項 =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;上杉 顕定&#039;&#039;&#039;（うえすぎ あきさだ） は、[[室町時代]]後期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]前期の[[武将]]、[[守護大名]]。[[上杉氏#越後守護上杉家|越後上杉家]]の出身で[[山内上杉家]]を継ぎ、関東争乱期の40年以上にわたって[[関東管領]]を務めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 山内上杉家の家督相続 ===&lt;br /&gt;
[[寛正]]7年（[[1466年]]）2月、関東管領・[[上杉房顕]]が[[武蔵国|武蔵]][[五十子陣]]にて陣没したが男子がいなかった。[[家宰]]の[[長尾景信]]は[[長尾景仲]]の遺言であるとして房顕の従兄弟で上杉一族の重鎮である[[越後国|越後]][[守護]]・[[上杉房定]]の子に房顕の跡を継がせようとしたが、房定はこれを拒否した。このため同年10月には[[室町幕府]]8代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義政]]からも改めて房定の子を後継とするよう命じられ、房定の次男である龍若（顕定）が山内上杉家の家督を継いで当主となった（[[岩松家純]]の説得もあったといわれる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 享徳・長享の争乱 ===&lt;br /&gt;
時は[[享徳の乱]]の最中であり、[[古河公方]]・[[足利成氏]]と関東の覇権をかけて[[五十子の戦い]]などで争い、[[文明 (日本)|文明]]3年（[[1471年]]）には[[古河城|古河御所]]を占領してこれに勝利している。しかし文明8年（[[1476年]]）に有力家臣の[[長尾景春]]が古河公方と結んで離反したため苦境に陥り（[[長尾景春の乱]]）、翌文明9年（[[1477年]]）正月には五十子陣からも撤退せざるを得なくなった。この乱の背景には顕定の入嗣前に既に顕在化していた上杉氏体制内部の矛盾、すなわち権力闘争があったとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更にこの乱に乗じて攻め入った成氏軍に[[上野国]]白井付近まで追い詰められた顕定と[[扇谷上杉家]]の[[上杉定正]]は、文明10年（[[1478年]]）正月に幕府と成氏の和睦を取り持つことを条件に古河公方と和睦した。その後、景春の反乱は扇谷上杉家家宰の[[太田道灌]]の活躍によって鎮圧されたが、道灌の活躍を通じて扇谷上杉家が台頭するようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文明14年（[[1482年]]）に顕定の父・房定の仲介で幕府と古河公方の和睦が成立し30年に及んだ享徳の乱は終結したが、顕定は定正と対立し、定正が道灌を[[暗殺]]したのを契機に[[長享]]元年（[[1487年]]）に[[長享の乱]]が起こる。長享2年（[[1488年]]）に両者の抗争は本格化し、「関東三戦」といわれる実蒔原・須賀谷・高見原の合戦で顕定は定正に押されるが、関東管領の山内家とその分家的存在の扇谷家とでは実力が隔絶しており、抗争が長期化するにつれて顕定が次第に有利に立つようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明応]]2年（[[1493年]]）、もとは山内家の領国で[[堀越公方]]に譲られていた[[伊豆国]]へ[[北条早雲|伊勢宗瑞]]が討ち入るという事件が起こった。明応3年（[[1494年]]）に両上杉氏の抗争が再発すると、定正は伊勢宗瑞の軍を[[相模国|相模]]・武蔵へ招き入れたが、荒川を挟んで対陣していたところで定正が急死したため伊勢軍は撤退した。長享の乱初期に扇谷家を支援していた古河公方もこの頃には一転して山内家方となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明応5年（[[1496年]]）には顕定の軍勢は相模国に攻め入り、7月に宗瑞の弟・[[伊勢弥二郎]]の立て籠もる[[小田原城]]を自落させた。この戦いで相模の西郡は「一変」したという。その後、東郡へ軍勢を進め上田氏の実田要害を囲み、更に定正の跡を継いだ[[上杉朝良]]の出陣を受けて河越に軍を進めた。明応6年（[[1497年]]）に顕定は[[川越城|河越城]]に対する前線基地として武蔵上戸（現在の[[河越館]]跡）に陣を置き古河公方・[[足利政氏]]を招いた。政氏は数ヶ月の在陣の後に古河へ帰還するが、上戸陣はその後も7年にわたり山内家の陣所として機能した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[永正]]元年（[[1504年]]）に[[駿河国|駿河]]守護・[[今川氏親]]と伊勢宗瑞の援軍を再びえた上杉朝良と戦うが（[[立河原の戦い]]）、2,000人余りの死者を出して大敗する。しかし実家の越後上杉家の援軍を受けて反撃に及び、翌年には朝良を河越城に攻めて降伏させ、朝良の[[江戸]][[隠居]]を条件に和睦した。長享の乱における事実上の勝利宣言といえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 古河公方との関係と永正の乱 ===&lt;br /&gt;
明応3年（1494年）に古河公方と結びついて以来、顕定は東国における公方－管領体制の再構築を図っていた。特に足利政氏とは、礼的な秩序における待遇の向上を実現させ、更には政氏の弟&amp;lt;ref&amp;gt;政氏の子とする説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;（[[上杉顕実]]）を養子として迎え入れるなどして密接な関係を築いた。顕実はそれより以前に養子となっていた[[上杉憲房 (戦国時代)|憲房]]を差し置き、顕定の正統な家督後継者に据えられたとみられている。後に政氏と子の[[足利高基|高氏]]（後の高基）が不和となると、顕定はこれを憂えて出家し両者の仲介に立った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古河公方の内乱を収めた直後の永正6年（[[1509年]]）7月、顕定は養子の憲房と共に越後に攻め入り[[長尾為景]]（[[上杉謙信]]の父）と[[上杉定実]]を[[越中国]]に追放した。この侵攻は一般的に、永正4年（[[1507年]]）に顕定の弟で越後守護を務めていた[[上杉房能]]が[[守護代]]の為景を主力とした上杉定実軍に追われて[[自刃]]したことへの報復と捉えられている&amp;lt;ref&amp;gt;例えば羽下徳彦「越後における永正～天文の戦乱」（同著『中世日本の政治と史料』 吉川弘文館、1995年、39頁、 初出1961年）には「房能の復讐という直接の意図」とあり、 『増補改訂版 上杉氏年表』（高志書院、2007年）の永正5年条（長谷川伸執筆、20頁）には「顕定は房能の弔い合戦を意図」とある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
片桐昭彦はこれに加えて越後守護上杉家から上杉宗家の地位を奪還する意図があったと推測する&amp;lt;ref&amp;gt;片桐昭彦 「上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出」 『上越市史研究』第10号、2004年。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
また、山田邦明は、顕定が房能方であった色部氏と為景の和睦の道を探っていたり、伊達氏に宛てて「定実に対して一切の余儀（＝遺恨）は無い」と伝えていることから&amp;lt;ref&amp;gt;この定実に対する顕定の認識は羽下徳彦も指摘しているが、永正の変が「上杉氏の内訌ではない」と書くに留める。（「越後における守護領国の形成」 同著『中世日本の政治と史料』 吉川弘文館、1995年 所収、 初出1959年）&amp;lt;/ref&amp;gt;、永正5年の段階において顕定と為景は決定的な対立関係に無かったとして、直接的な契機を山内家の所領である妻有庄へ為景方の信濃衆が攻め入ったことに求める&amp;lt;ref&amp;gt;「永正の乱と妻有」 『十日町市史 通史編1』第5章第1節、1997年、439-441頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ともあれ、房能の仇討ちを大義名分として越後国に攻め入った顕定軍は府内を制圧した。しかし顕定の越後統治は非常に強硬でうまくいかず、[[国人]]の反発を受けた。翌年になって長尾為景らの反攻に遭う。翌永正7年（1510年）6月20日の[[長森原の戦い]]で敵の援軍であった[[高梨政盛]]に敗北し、衆寡敵せずして自刃、[[享年]]57&amp;lt;ref&amp;gt;この戦いで、顕定に従軍していた[[長尾定明]]や[[高山憲重]]らも討たれており、山内上杉家の軍事力は大きく減退した。また、顕定が政盛本人に討たれたという説もあるがそれは創作である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
死後、顕実が関東管領を継いだが、越後から帰還した憲房が顕実と衝突して内乱を起こし、山内家の衰退に繋がった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 管領塚 ==&lt;br /&gt;
[[新潟県]][[南魚沼市]]下原新田の周辺には、かつて長森原の戦いの戦没者を埋葬したとの伝承をもつ塚が点在していたが（下原百塚）、その中でひと際大きな塚は管領塚と呼ばれ顕定の墓と伝えられている。近代に行われた一部の発掘調査では鎧通しが出土しており、更には武具や人骨も出土したという話もある。現在、管領塚は史跡公園として整備されているが元の塚からは移築されたものである。&amp;lt;ref&amp;gt;井上鋭夫 『上杉謙信』 人物往来社、1966年。 『寺浦百塚発掘調査報告書』 新潟県南魚沼郡六日町教育委員会、1974年。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*[[佐藤博信]]『古河公方足利氏の研究』校倉書房、1989年。&lt;br /&gt;
*佐藤博信「都鄙和睦の成立と両上杉氏の抗争」『中世東国足利・北条氏の研究』岩田書院、2006年、初出1988年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[明応の政変]]&lt;br /&gt;
*[[永正の乱]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{山内上杉家歴代当主}}&lt;br /&gt;
{{関東管領|1466年 - 1510年}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:うえすき あきさた}}&lt;br /&gt;
[[Category:越後上杉氏|あきさた]]&lt;br /&gt;
[[Category:山内上杉氏|あきさた]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:1454年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1510年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.209.104.105</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%8C%81%E6%9C%9D&amp;diff=164866</id>
		<title>上杉持朝</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%8C%81%E6%9C%9D&amp;diff=164866"/>
		<updated>2013-06-29T13:23:59Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.209.104.105: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 上杉持朝&lt;br /&gt;
| 画像 = &lt;br /&gt;
| 画像サイズ = &lt;br /&gt;
| 画像説明 = &lt;br /&gt;
| 時代 = [[室町時代]]中期&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[応永]]23年（[[1416年]]）&lt;br /&gt;
| 死没 = [[応仁]]元年[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]（[[1467年]][[10月4日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 = &lt;br /&gt;
| 別名 = 竹寿丸（幼名）&lt;br /&gt;
| 戒名 = 広感院道朝&lt;br /&gt;
| 墓所 = &lt;br /&gt;
| 官位 = [[弾正台|弾正少弼]]、[[修理職|修理大夫]]&lt;br /&gt;
| 幕府 = [[室町幕府]][[相模国|相模]][[守護]]&lt;br /&gt;
| 主君 = &lt;br /&gt;
| 氏族 = [[扇谷上杉家]]&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[上杉氏定]]&lt;br /&gt;
| 兄弟 = [[上杉持定|持定]]、&#039;&#039;&#039;持朝&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 妻   = &lt;br /&gt;
| 子   = [[上杉顕房|顕房]]、[[三浦高救]]、[[上杉定正|定正]]、[[上杉朝昌|朝昌]]&amp;lt;br /&amp;gt;娘（[[上杉憲忠]]室）、娘（[[吉良成高]]室）&lt;br /&gt;
| 特記事項 = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;上杉 持朝&#039;&#039;&#039;（うえすぎ もちとも）は、[[室町時代]]中期の[[武将]]、[[守護大名]]。[[相模国|相模]]守護。[[扇谷上杉家]]当主。[[上杉氏定]]の次男で[[上杉持定|持定]]の弟。子に[[上杉顕房|顕房]]、[[三浦高救]]、[[上杉定正|定正]]、[[上杉朝昌|朝昌]]、娘（[[上杉憲忠]][[正室]]）、娘（[[吉良成高]]正室など）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[上杉禅秀の乱]]において父の氏定が戦死し、跡を継いだ兄の持定もまもなく亡くなったため、従弟で[[上杉氏#千秋上杉家（小山田上杉家）|小山田上杉家]]の[[上杉定頼]]の補佐を受ける形で家督を継承する。史料上の初見は、[[永享]]5年（[[1433年]]）に扇谷上杉家の所領内の[[武蔵国|武蔵]]久良岐郡にあった徳恩寺本地堂の棟札（「藤原朝臣持朝」）であり、当時元服から程ない17歳であった。なお、扇谷上杉家の当主は通字である「定」と[[鎌倉公方]]（当時の公方は[[足利持氏]]）の一字を受けて実名としていたが、既に兄の持定が既にその名乗りを用いていたため、通字である「定」の代わりに祖先である[[上杉朝定 (二橋上杉家)|上杉朝定]]の「朝」を用いて、「持朝」と名乗った&amp;lt;ref&amp;gt;黒田基樹「扇谷上杉氏の政治的位置」（黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第五巻 扇谷上杉氏』（戒光祥出版、2012年）ISBN 978-4-86403-044-1） &amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永享11年（[[1439年]]）の[[永享の乱]]では[[関東管領]][[上杉憲実]]に従って持氏討伐に功績を挙げた。翌永享12年（[[1440年]]）の[[結城合戦]]でも[[室町幕府]]軍の副将を務めて武功を挙げている。結城合戦後憲実は隠退を表明し、後継者に指名された弟の[[上杉清方|清方]]の力量に不安を覚えた幕府は憲実の復帰を説得する一方で、清方の補佐として持朝の協力を期待した。永享の乱後に持朝は修理大夫に任ぜられ（『薩戒記目録』永享11年12月4日条）、続いて結城合戦後、遅くても[[文安]]4年（[[1447年]]）までには相模守護に任ぜられた&amp;lt;ref&amp;gt;木下聡「結城合戦前後の扇谷上杉氏-新出史料の紹介と検討を通じて-」（初出:『千葉史学』55号（2009年）/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第五巻 扇谷上杉氏』（戒光祥出版、2012年）ISBN 978-4-86403-044-1） &amp;lt;/ref&amp;gt;。更に清方が急死して、憲実の子である上杉憲忠が関東管領に就任すると、娘を憲忠に嫁がせたことにより、持朝は実力者として認められることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文安6年（[[1449年]]）、持氏の子の[[足利成氏]]が鎌倉公方に復帰すると、かつて持氏を滅ぼしたことを憚り、嫡男の顕房に家督を譲って出家し、道朝と号した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[享徳]]3年（[[1454年]]）、憲忠が成氏に[[暗殺]]されると（[[享徳の乱]]）、持朝は憲忠の弟[[上杉房顕|房顕]]を新たな関東管領に擁して、自身は裏で実権を牛耳った一方、[[康正]]元年（[[1455年]]）の[[分倍河原の戦い (室町時代)|分倍河原の戦い]]において顕房が成氏軍に討たれ、それ以降は持朝が再び当主として活動している。これにより[[古河公方]]となった成氏と敵対関係となったため、成氏に対抗するために[[長禄]]元年（[[1457年]]）には[[家宰]]の[[太田資清|太田道真]]・[[太田道灌|道灌]]父子に命じて[[川越城|河越城]]・[[江戸城]]、そして[[岩槻城]]の三城を築城させ、自らは河越城を居城とし、武蔵の分国化を進めた（道灌によって築かれたとされていた岩槻城は成氏方の[[成田正等]]の築城説が現在は主流である）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが[[寛正]]元年（[[1462年]]）、今度は[[兵粮料所]]の設置を巡る争いから[[堀越公方]]となっていた[[足利政知]]と敵対関係になるに至ってしまった。このため持朝は政知を支援する8代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政]]からの詰問を受ける。結果、持朝の代わりに責任を負う形で[[大森氏頼]]・[[三浦時高]]・[[千葉実胤]]の3重臣が引退することになり、持朝の勢力は大いに低下した（政知の執事・[[渋川義鏡]]の讒言が原因）。これを機に持朝は成氏と和睦して政知と争おうとしたが、その和議を果たせずして応仁元年（1467年）9月6日、52歳で死去した。法号は広感院道朝。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
跡は顕房の遺児で孫の[[上杉政真|政真]]が継いだが、[[文明 (日本)|文明]]5年（[[1473年]]）、武蔵[[五十子の戦い]]において戦死し、その跡を持朝の3男で顕房の弟の定正が継いだ。また、次男の高救とその嫡男[[三浦義同|義同]]は[[相模三浦氏]]の三浦時高の養子となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
持朝の存在またはその行動が、扇谷上杉家興隆の基礎を築いた一方で、[[関東地方]]を複雑な権力闘争の混乱に陥れた一因とも言えるかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{扇谷上杉家歴代当主||1419年 - 1449年、1455年 - 1467年}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:うえすき もちとも}}&lt;br /&gt;
[[Category:扇谷上杉氏|もちとも]]&lt;br /&gt;
[[Category:守護大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:1416年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1467年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.209.104.105</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E6%B0%8F&amp;diff=68959</id>
		<title>松永氏</title>
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		<updated>2013-06-04T13:19:34Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.209.104.105: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;松永氏&#039;&#039;&#039;（まつながし、まつながうじ）は、[[日本]]の[[氏族]]である。[[大和国|大和]]で[[戦国大名]]として活躍した、[[松永久秀]]の系統が著名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
__TOC__&lt;br /&gt;
&amp;lt;br clear=&amp;quot;both&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 大和松永氏 ==&lt;br /&gt;
{{日本の氏族&lt;br /&gt;
|家名=松永氏&lt;br /&gt;
|家紋=Japanese crest Tuta.svg|thumb|250px|&lt;br /&gt;
|家紋名称=蔦&lt;br /&gt;
|本姓=[[源氏]]、[[藤原氏]]、[[紀氏]]または[[大蔵氏]]？&lt;br /&gt;
|家祖=[[松永久秀]]&lt;br /&gt;
|種別=[[武家]]&lt;br /&gt;
|出身地=&lt;br /&gt;
|根拠地=[[大和国]]&lt;br /&gt;
|人物=[[松永久秀]]&lt;br /&gt;
|支流=&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
=== 発祥 ===&lt;br /&gt;
松永氏は祖先の[[武内宿禰]]から16世の孫[[真済|紀朝臣真済]]が[[若狭国|若狭]][[国司]]となり、同国[[遠敷郡]]松永荘より紀松永と称したことに始まるとされる。これによると[[紀氏]]の流れということになるが、[[戦国大名]]の松永氏は[[藤原氏]]または[[源氏]]を自称している。また、[[大宰府]]の属員・[[大蔵氏]]系[[原田氏]]の末裔と言う説もあって、はっきりしない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 松永久秀の台頭 ===&lt;br /&gt;
{{出典の明記|date=2011年4月}}&lt;br /&gt;
大和松永氏は、[[松永久秀]]を祖とする[[戦国大名]]であるが、久秀は出自が不詳とされていたが、近年の研究においては[[山城国|山城]]の[[石清水八幡宮]]近辺の氏族である可能性が指摘され、そのために同じ山城出身の[[美濃国|美濃]]を乗っ取った[[斎藤道三]]と旧知の間柄にあったという説も存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
久秀は[[細川氏]]に仕えていた[[三好長慶]]の[[右筆]]となり、[[京都奉行]]から[[三好氏]]の[[宰相]]となる。軍事面や築城において活躍し大和に遠征して[[多聞山城]]を築き、永禄3年（[[1560年]]）には陪臣の身でありながら主家同様に[[室町幕府]]の[[相伴衆]]にまで列せられている。弟の[[松永長頼]]も軍人として活躍し[[丹波国|丹波]]を実質的に支配するまでになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌永禄4年（[[1561年]]）には長慶の弟である[[十河一存]]が急死し、永禄6年（[[1563年]]）には長慶の子である[[三好義興]]が死去しており、久秀の毒殺説が存在する。また、永禄7年（[[1564年]]）の長慶の弟・[[安宅冬康]]の死は久秀が長慶に讒言して殺させたものであり、久秀は三好氏の乗っ取りを企んでいたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年、長慶も病死して三好氏が弱体化すると、永禄8年（[[1565年]]）には、13代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義輝]]を殺害する（[[永禄の変]]）。そして[[三好三人衆]]と対立しながらも畿内において台頭するが、永禄11年（[[1568年]]）には義輝の弟である[[足利義昭]]を新将軍として報じた[[尾張国|尾張]]の[[織田信長]]が[[上洛]]すると、久秀は名器・[[九十九髪茄子]]を信長に献上して降伏し、信長の家臣となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は将軍義昭を通じて畿内において影響力を強めるが、元亀年間に信長と義昭は敵対し、義昭は[[浅井長政]]・[[朝倉義景]]や[[石山本願寺]]などの畿内勢力をはじめ[[甲斐国|甲斐]]の[[武田信玄]]など遠方勢力を迎合し[[信長包囲網]]を形成する。久秀は信玄とも外交を通じ信長包囲網に呼応するが&amp;lt;ref&amp;gt;松永氏と甲斐武田氏の関係は元亀4年に松永氏の影響下にあった大和国衆岡氏を通じた外交関係が確認される。&amp;lt;/ref&amp;gt;、元亀4年（[[1573年]]）には信玄の急死により武田氏は[[西上作戦]]から撤兵し、信長は反信長勢力を撃破し、義昭は京から追放され室町幕府は滅亡、久秀は再び信長に服従している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正年間には[[安芸国|安芸]]の[[毛利輝元]]の下へ亡命した義昭が再び反信長勢力を迎合し、天正5年（[[1577年]]）にはこれに応じた[[越後国|越後]]の[[上杉謙信]]の[[能登国|能登]]・[[加賀国|加賀]]侵攻に呼応して、再び信長に対抗し[[信貴山城]]に立て籠もる（[[信貴山城の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、織田軍は[[手取川の戦い]]で謙信に敗北していたものの十分な余力を残していたため、久秀は各個撃破の戦略を採った織田軍にあえなく追い詰められた。久秀は信長がかねてから所望していた[[古天明平蜘蛛]]を抱いて爆死したという。また久秀の[[嫡男]]である[[松永久通]]も自害しており、長頼も永禄8年に反抗勢力に討ち取られていたため、戦国大名としての松永氏は完全に滅亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方で[[出家]]して放浪中であった久秀の子[[松永永種]]は存命しており、永種の子である[[松永貞徳]]は[[俳人]]として名を残したという。なお、[[尾張藩]]に[[松永国華]]という[[儒学者|儒者]]もいたが、この人物も子孫とされている。他にも、久秀の甥で長頼の子・[[内藤如安]]は[[キリシタン]]として名を残したが、[[江戸時代]]に[[禁教令]]に触れて国外追放となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、『[[北肥戦誌]]（九州治乱記）』の記述であるが、[[龍造寺隆信]]に気にいられ[[光照寺]]の住持となった「空圓」という旅僧がおり、自らの氏素性を周囲に明かさないでいたのであるが、天正5年12月に隆信が[[千々石直員]]（子の[[千々石澄員|澄員]]の間違いか？）の城を攻める場に同行した際、龍造寺勢が崩れかかると自ら長刀を掴んで敵勢に討ち入り、「我は松永弾正（久秀）が弟なるぞ。出家とて侮るなかれ」と発して、奮戦し討ち死にしたとある。「空圓」を祖とする[[肥前国|肥前]]・[[肥後国|肥後]]の松永一族には学識者が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 大和松永氏一族 ===&lt;br /&gt;
# [[松永久秀]]【一】&lt;br /&gt;
# [[松永久通]]【二】-久秀の嫡男&lt;br /&gt;
#* [[松永長頼]] -久秀の弟&lt;br /&gt;
#* [[松永貞徳]] -俳人。久秀の孫。&lt;br /&gt;
#* [[松永尺五]] -儒学者。貞徳の子、久秀の曾孫に当たる。&lt;br /&gt;
#* [[水谷御前]] -久秀の娘。大宮景連の妻。&lt;br /&gt;
#* [[壱枚御前]] -久秀の親類。[[北畠政成]]の妻。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 系譜 ===&lt;br /&gt;
家系には異説もあり、代表的な説を記載するにとどめる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{familytree/start}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0| | | | |S  | | |     S=松永氏}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0| | | | | |!| | | | | | }}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0| | | | |HK | | |     HK=久清 }}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0| | | | | |!| | | | | | }}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0| | | | |HM | | |     HM=久松 }}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0| | | | | |!| | | | | | }}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0| | | | |NA | | |     NA=（不詳）}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0| | | | | |)|-|-|-|.| | }}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0| | | | |MHH ||MNY |y|NKSD | MHH= [[松永久秀|久秀]] | MNY= [[松永長頼|長頼]] | NKSD= [[内藤国貞]]娘}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0| |,|-|-|-|(| | | | | |!| | | }}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|MHM | |MNT | | | |NJA || MHM= [[松永久通|久通]] | MNT= [[松永永種|永種]] | NJA= [[内藤如安]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0| | | | | |!| | | | | | }}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0| | | | |NA | | |     NA=[[松永貞徳|貞徳]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0| | | | | |!| | | | | | }}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0| | | | |NA | | |     NA=[[松永尺五|尺五]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree/end}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 駿河松永氏 ==&lt;br /&gt;
;[[豊原氏|豊原朝臣]]族で[[駿河国]]を根拠とした。&lt;br /&gt;
戦国時代には[[今川氏|今川家臣]]として活動した[[松永友貞]]等が出た。同じ駿河国には出自不詳の松永氏も居る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 三河松永氏 ==&lt;br /&gt;
; [[三河国]]を発祥とする氏族で、[[藤原氏]]を祖と称する。&lt;br /&gt;
松永平左衛門が、[[松平清康]]に仕え、息子の松永源蔵も[[徳川家康]]に仕えたが、[[1573年]]の[[三方ヶ原の戦い]]で討死した。その後も[[江戸幕府]]に仕えるが、途中断絶。[[大久保忠次]]の子が養子に入り、また大久保家との影響を強く受けながら江戸時代を過ごし、幕末に至った。&lt;br /&gt;
== 織田松永氏 ==&lt;br /&gt;
[[尾張国]]の[[戦国大名]][[織田氏]]の一族で、[[織田信康]]庶子の[[織田信武 (戦国時代)|織田信武]]が後に[[徳川家康]]に仕え、[[慶長]]3年（[[1598年]]）、家康より松長の名字を与えられ、松長三郎信正を名乗った。&lt;br /&gt;
== 肥松永氏 ==&lt;br /&gt;
; [[空圓]]を祖と称する。学識者多数。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 現代の松永姓の人物 ==&lt;br /&gt;
* [[松永東]]（第45代[[衆議院議長]]）&lt;br /&gt;
* [[松永光]]（[[文部大臣]]、[[通商産業大臣]]、[[大蔵大臣]]）&lt;br /&gt;
* [[松永貞市]]（[[大日本帝国海軍]]軍人）&lt;br /&gt;
* [[松永正敏]]（[[陸軍中将]]軍人、[[男爵]]）&lt;br /&gt;
* [[スパーク・マツナガ]]（[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[政治家]]で、[[下院議員]]、[[上院議員]]）&lt;br /&gt;
* [[松永澄夫]]（[[東京大学]]教授、[[哲学]]研究者）&lt;br /&gt;
* [[松永幸大]]（[[東京理科大学]]理工学部准教授、[[応用生物科学]]研究者）&lt;br /&gt;
* [[松永昇也]]（[[早稲田大学]]高等学院専任教員、[[数学教育]]研究者）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[松永市]]&lt;br /&gt;
* [[東大寺大仏殿の戦い]]&lt;br /&gt;
* [[筒井城の戦い]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:まつなかし}}&lt;br /&gt;
[[Category:戦国大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:松永氏|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の氏族]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.209.104.105</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%88%B8%E7%94%B0%E5%AE%97%E5%85%89&amp;diff=162823</id>
		<title>戸田宗光</title>
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		<updated>2013-05-18T07:44:30Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.209.104.105: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
|氏名=戸田宗光&lt;br /&gt;
|画像=&lt;br /&gt;
|画像サイズ=&lt;br /&gt;
|画像説明=&lt;br /&gt;
|時代=[[室町時代]]中期 - [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]初期&lt;br /&gt;
|生誕=[[永享]]11年（[[1439年]]）?&lt;br /&gt;
|死没=[[永正]]5年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]（[[1508年]][[7月16日]]）&lt;br /&gt;
|改名=宗光→全久&lt;br /&gt;
|別名=弾正左衛門尉（通称）&lt;br /&gt;
|戒名=&lt;br /&gt;
|墓所=[[愛知県]][[豊橋市]][[東郷町]]の[[全久院 (豊橋市)|全久院]]&lt;br /&gt;
|官位=&lt;br /&gt;
|幕府=[[室町幕府]]&lt;br /&gt;
|主君=[[伊勢貞親]]&lt;br /&gt;
|氏族=[[戸田氏]]&lt;br /&gt;
|父母=父：[[戸田実光]]?&lt;br /&gt;
|兄弟=&lt;br /&gt;
|妻=[[松平信光]]の娘&lt;br /&gt;
|子=[[戸田憲光|憲光]]、[[戸田家光|家光]]&lt;br /&gt;
|特記事項=&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;戸田 宗光&#039;&#039;&#039;（とだ むねみつ）は、[[室町時代]]中期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]初期の[[武将]]。入道名は&#039;&#039;&#039;全久&#039;&#039;&#039;（ぜんきゅう）。[[応仁の乱]]では西軍として活動する一方で[[三河国|三河]]・[[尾張国|尾張]]に勢力を拡大、[[戸田氏]]中興の祖とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概略 ==&lt;br /&gt;
[[家系]]は[[源義家|八幡太郎義家]]の子、[[源義隆|義隆]]を祖とする[[森氏]]の支流で、[[森頼定]]の10男・[[戸田信義]]を祖とするという。宗光の父は伝承によると、[[正親町三条家]]からの養子といわれる[[戸田実光]]（通称は三郎&amp;lt;ref&amp;gt;一説に諱は綱光されるが、弾正左衛門尉宗光の次男に家光（田原孫二郎と称す）があり、その子（弟とも）孫七郎の実名を綱光とする文献もある。（出典→『新編藩翰譜・第二巻』（戸田）・人物往来社刊、『豊橋市史・第1巻』）&amp;lt;/ref&amp;gt;）。妻は[[松平信光]]（[[徳川家康]]の祖先）の娘。[[戸田憲光|憲光]]、[[戸田家光|家光]]の父。通称は弾正左衛門尉。資料によっては戸田弾正左衛門、戸田弾正左衛門尉と載せる場合も多い&amp;lt;ref&amp;gt;なお、宗光の曾孫・[[戸田康光|康光]]（田原孫四郎・弾正少弼）は[[大永]]6年6月18日（[[1526年]]7月27日）付け小松原東観音寺（[[愛知県]][[豊橋市]]小松原町）宛ての寄進状に「戸田孫四郎宗光」と署名し、曾祖父の実名を名乗ったとされるため両者は混同されやすい。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[三河国|三河]]の国人で、[[室町幕府]][[政所]][[執事]][[伊勢貞親]]の被官。京都から正親町家の領地であった三河碧海郡上野に移り住み、上野には古城を築城したという。三河[[渥美郡]]田原（[[田原市]]）に[[田原城 (三河国)|田原城]]を、[[朝倉川]]南岸で同じく[[渥美郡]]仁連木（現在の愛知県豊橋市仁連木町）に[[二連木城]]を築城し、両城の初代城主となる。戸田氏中興の祖と称えられ、[[信濃国|信州]][[松本神社]]（[[長野県]][[松本市]]丸の内）の祭神の一柱である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[文安]]年間に代官を務める碧海郡上野（現在の[[愛知県]][[豊田市]]）に上野の古城を築城したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[寛正]]6年（[[1465年]]）5月、浪士丸山中務父子兄弟をはじめ、大庭次郎左衛門が三河[[額田郡]]井口に拠って[[一揆]]を結成（[[額田郡一揆]]）、国内狼藉に及び人心を不安に陥れていた。その影に、松平信光と婿の戸田宗光がいるのではないかと感じた三河[[守護]][[細川成之]]は、これに対する手段を講じた。信光・宗光が室町幕府政所執事伊勢貞親の被官に当たる事から、[[細川氏]]より伊勢貞親に対して信光・宗光の両被官に事態の鎮定を図るよう命ずることを要請したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この依頼を受けた貞親は幕府に届出、8代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政]]の命として信光、宗光の両将に対して狼藉の鎮定が命ぜられる事となった。幕命を受けた信光は深溝で大庭兄弟を討ち、宗光は額田郡大平で丸山父子兄弟らを討ち、首級を[[京都]]に送った。賊軍与党には高力氏らの手勢も加わっており、信光・宗光はこれら一党を平定し、東三河に勢力版図を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後宗光は[[碧海郡]]の代官を務める一方で[[尾張国|尾張]][[知多郡]]河和富貴をも領有。[[文明 (日本)|文明]]7年（[[1475年]]）には三河[[渥美郡]]に入り、同郡大津村の[[大津城 (三河国)|大津城]]に居城を移した。宗光はかねてより[[知多半島]]にも進出していたが、知多郡師先（[[南知多町]]）から同郡[[河和]]にかけての知多半島東海岸に勢力を拡大し、同半島西岸を支配する[[佐治氏]]と対峙した。文明8年（[[1476年]]）、知多郡内における[[羽豆ヶ崎城]]において宗光は佐治氏と互いに陣を置くことになり、世に「羽豆ヶ崎の両陣」といわれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、宗光は本拠である三河において文明年間に次男の家光に碧海郡の上野の古城を譲っている。その後文明11年（[[1479年]]）、宗光は交通の要衝である田原に進出し、同地を治める三河渥美郡分郡守護[[一色義直]]の従兄で守護代の[[一色政照]]を田原大草に隠居させ、その養子分となることで渥美郡支配の正当性を獲得した。文明12年（[[1480年]]）に[[田原城 (三河国)|田原城]]を築城して田原城主となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
知多・渥美の両半島を股にかけ、[[三河湾]]の[[制海権]]をほぼ確立させた宗光は、さらなる版図の拡大を目論み、渥美から北進する政策を採る。[[明応]]2年（[[1493年]]）、手始めに[[渥美郡]]北端の仁連木（愛知県[[豊橋市]]の[[朝倉川]]南岸。朝倉川北岸は[[八名郡]]）に移り、[[二連木城]]（現在、大口公園）を築城し、拠点とする。[[遠江国|遠江]]との国境に近い[[普門寺 (豊橋市)|船形山城]]に対抗する意味合いが含まれているともいう（ただし、船形山城の築城年が断明されておらず、船形山こそ二連木への対抗という見込みも残されている）。田原城は嫡男の憲光に委ねている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて宗光は[[渥美半島]]統一を成したが、宗光が打ち込んだ二連木城という楔によって、東三河は戸田氏と今橋城（後の[[吉田城 (三河国)|吉田城]]）の[[牧野古白]]入道以来の[[牧野氏]]を中心とした新たな戦乱に巻き込まれるが、張本人の宗光が戦乱収束を見ることは無かった。両家の対立が収まるのは義父松平信光の末裔で三河守となった徳川家康の下に三河が統一されてからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永正5年（1508年）6月19日没。晩年は剃髪し全久と号していたため、菩提寺として[[全久院 (豊橋市)|全久院]]（愛知県豊橋市東郷町、東田町字東郷とも呼ぶ）が創建されるとそこに葬られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
子孫は松平氏、[[織田氏]]、[[今川氏]]、松平氏の後身である[[徳川氏]]と従属先を転じ、譜代大名をはじめとし多くの武将・人物を輩出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 武勲戦功 ==&lt;br /&gt;
* 文安年間（1444年 - 1449年）：代官を務める碧海郡上野（現在の愛知県豊田市）に上野の古城を築城するという&lt;br /&gt;
* 寛正6年（[[1465年]]）5月：室町幕府の追討令を受けていた三河処士・丸山一族を同国額田郡大平に討つ。&lt;br /&gt;
* 文明7年（[[1475年]]）：[[渥美郡]]に進出。大津村の[[大津城 (三河国)|大津城]]を居城とする。同年、尾張知多にも進出し、佐治氏と対峙。&lt;br /&gt;
* 文明11年（[[1479年]]）：三河渥美郡田原の[[一色政照]]を隠居に追い込む。&lt;br /&gt;
* 文明12年（[[1480年]]）：[[田原城 (三河国)|田原城]]を築城。&lt;br /&gt;
* 明応2年（[[1493年]]）：[[朝倉川]]南岸の仁連木（現在の愛知県[[豊橋市]]）に進出、[[二連木城]]を築城した。&lt;br /&gt;
* 晩年、渥美半島統一を成し遂げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[豊橋市立東田小学校]] - 「全久院」の[[寺子屋]]をルーツとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:とた むねみつ}}&lt;br /&gt;
[[Category:戦国武将]]&lt;br /&gt;
[[Category:戸田氏|むねみつ]]&lt;br /&gt;
[[Category:三河国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1439年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1508年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.209.104.105</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AF&amp;diff=188951</id>
		<title>ジェレマイア・クラーク</title>
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		<updated>2013-04-14T15:04:44Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.209.104.105: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ウィキポータルリンク|クラシック音楽}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;ジェレマイア・クラーク&#039;&#039;&#039;（ジェレミアとも、Jeremiah Clarke, [[1674年]] - [[1707年]][[12月1日]]）は、[[イギリス]]の[[作曲家]]。鍵盤楽器のために作られた『[[デンマーク王子の行進]]』（イギリス女王[[アン (イギリス女王)|アン]]の夫[[カンバーランド公]][[ジョージ (カンバーランド公)|ジョージ]]のために製作。一般的にはトランペット・ヴォランタリーといわれ、長い間[[ヘンリー・パーセル]]の作だとされてきた）が最も有名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1674年に[[ロンドン]]で生まれたとされている。[[セント・ポール大聖堂]]で[[ジョン・ブロウ]]に師事した後、[[王室礼拝堂]]の[[オルガン]]奏者となる。しかし、身分が上の美しい女性に恋したことから銃で[[自殺]]した。クラークのポストの後任には[[ウィリアム・クロフト]]が就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* {{IMSLP|id=Clarke, Jeremiah}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くらあく しえれまいあ}}&lt;br /&gt;
[[Category:イギリスの作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:バロックの作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:17世紀の音楽家]]&lt;br /&gt;
[[Category:18世紀の音楽家]]&lt;br /&gt;
[[Category:自殺した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1674年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1707年没]]&lt;br /&gt;
{{Classic-stub}}&lt;br /&gt;
{{Music-bio-stub}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.209.104.105</name></author>
	</entry>
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		<title>畠山政国</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%95%A0%E5%B1%B1%E6%94%BF%E5%9B%BD&amp;diff=69093"/>
		<updated>2013-02-11T07:02:53Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.209.104.105: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{otheruses|河内畠山氏尾州家の政国|河内畠山氏総州家の政国|畠山政国 (総州家)|二本松畠山氏の政国|二本松政国}}&lt;br /&gt;
{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 畠山政国&lt;br /&gt;
| 画像 = &lt;br /&gt;
| 画像サイズ = &lt;br /&gt;
| 画像説明 = &lt;br /&gt;
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]&lt;br /&gt;
| 生誕 = 不詳&lt;br /&gt;
| 死没 = [[天文 (元号)|天文]]19年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]（[[1550年]][[9月22日]]）?&lt;br /&gt;
| 改名 = &lt;br /&gt;
| 別名 = 三郎（通称）&lt;br /&gt;
| 諡号 = &lt;br /&gt;
| 神号 = &lt;br /&gt;
| 戒名 = 後昌院花園宗貞&lt;br /&gt;
| 霊名 = &lt;br /&gt;
| 墓所 = &lt;br /&gt;
| 官位 = [[上総国|上総介]]、[[修理職|修理大夫]]、[[播磨国|播磨守]]、[[尾張国|尾張守]]&lt;br /&gt;
| 幕府 = [[室町幕府]][[紀伊国|紀伊]]・[[河内国|河内]]・[[越中国|越中]][[守護]]&lt;br /&gt;
| 主君 = &lt;br /&gt;
| 藩   = &lt;br /&gt;
| 氏族 = [[畠山氏]]（尾州家）&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[畠山尚順]]&lt;br /&gt;
| 兄弟 = [[畠山稙長|稙長]]、[[畠山長経|長経]]、&#039;&#039;&#039;政国&#039;&#039;&#039;、[[畠山晴熙|晴熙]]&lt;br /&gt;
| 妻   = &lt;br /&gt;
| 子   = &#039;&#039;&#039;[[畠山高政|高政]]&#039;&#039;&#039;、[[畠山政尚|政尚]]、[[畠山昭高|昭高]]&lt;br /&gt;
| 特記事項 = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;畠山 政国&#039;&#039;&#039;（はたけやま まさくに）は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[紀伊国|紀伊]]・[[河内国|河内]]・[[越中国|越中]]の[[守護大名]]、[[戦国大名]]。畠山尾州家の出身。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
畠山氏は[[室町幕府]][[管領|三管領]]のひとつであり、政国はその嫡流筋である。しかし、幕政においては祖父[[畠山政長]]が[[細川政元]]に自害に追い込まれてより幕府参画の機会を失った上、嫡流の座をめぐって総州家と尾州家に分裂。尾州家有利といえども分裂状態は政国の代になってもなお解消されず、下剋上さえも起きる戦国時代にあって、守護の実権をめぐって重臣の権力争いに悩まされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文14年（[[1545年]]）に兄の稙長が死去すると重臣の[[遊佐長教]]に当主として擁立されたが、兄が室町幕府の権力者[[細川晴元]]に反乱を起こした[[細川氏綱]]に加担していたため、幕府から当主として認められず代わりに畠山四郎なる人物が擁立された（しかし、家臣の支持を得られずすぐに排除された）。長教ら家臣団は幕府の介入排除のため政国擁立と氏綱援助を継続したが、政国は当主ではなく当主名代と認識されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）に[[江口の戦い]]で長教が[[三好長慶]]と共に晴元派を打ち破り晴元が13代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義輝]]と共に[[畿内]]から逃亡すると、長教と方針を巡り対立して出家、紀伊へ遁世した。引退後は政国の嫡男である高政が当主となっている&amp;lt;ref&amp;gt;弓倉、P238 - P246。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文19年（1550年）に没したといわれているが、天文21年（1552年）の段階で隠居として健在であった記録が存在するため、現在では天文年間末期頃の死没とする見方もある。また、兄弟の晴熙も播磨守を名乗っていたことと、かつて[[畠山弥九郎]]という人物が政国と同一人物扱いされていたため、天文5年（[[1536年]]）から7年（[[1538年]]）までの晴熙の経歴及び天文7年から10年（[[1541年]]）までの弥九郎の経歴と政国の経歴は混同されている&amp;lt;ref&amp;gt;弓倉、P258 - P263、P326 - P328。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[弓倉弘年]]『中世後期畿内近国守護の研究』[[清文堂出版]]、2006年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[畠山氏|河内畠山氏 (尾州家)]]当主|畠山政国|[[畠山稙長]]|[[畠山高政]]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はたけやま まさくに}}&lt;br /&gt;
[[Category:畠山氏|まさくに]]&lt;br /&gt;
[[Category:守護大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:生年不明]]&lt;br /&gt;
[[Category:没年不明]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.209.104.105</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%AD%A3%E7%93%8A%E7%9C%9F%E8%98%82&amp;diff=150450</id>
		<title>季瓊真蘂</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%AD%A3%E7%93%8A%E7%9C%9F%E8%98%82&amp;diff=150450"/>
		<updated>2013-01-23T11:41:06Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.209.104.105: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;季瓊 真蘂&#039;&#039;&#039;（きけい しんずい、[[応永]]8年（[[1401年]]） - [[文明 (日本)|文明]]元年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]（[[1469年]][[9月16日]]））は、[[室町時代]]の[[臨済宗]]の[[僧]]、[[相国寺]][[塔頭]][[鹿苑院]]内の[[蔭涼軒]]主（蔭涼職）。&#039;&#039;&#039;蔭涼軒真蘂&#039;&#039;&#039;とも。[[播磨国|播磨]]の[[赤松氏]]の支族にあたる[[上月氏]]の生まれだが、父母は不明。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雲頂院の[[叔英宗播]]に師事、[[永享]]7年（[[1435年]]）に[[征夷大将軍|将軍]]と鹿苑院主（[[僧録]]）の連絡役である蔭涼軒主となり、将軍に近侍する側近となる。[[嘉吉]]元年（[[1441年]]）に[[赤松満祐]]らが6代将軍[[足利義教]]を[[暗殺]]した[[嘉吉の乱]]では、満祐の居城である播磨坂本城に赴き義教の[[首級]]を受け取っている。直後に引退するが、[[長禄]]2年（[[1458年]]）に8代将軍[[足利義政]]の引き立てで復帰、[[伊勢貞親]]らと共に義政の政治顧問となり、[[京都五山]]の人事権を握り幕政に影響力を持つ&amp;lt;ref&amp;gt;桜井、P290、石田、P49、P140、今泉、P35 - P39。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年、赤松氏遺臣が[[長禄の変]]で功績を挙げると赤松氏復帰を義政に取り立て、[[赤松政則]]を当主として再興させた。[[寛正]]6年（[[1465年]]）に義政夫人の[[日野富子]]に子（[[足利義尚]]）が誕生した後は義政が次期将軍と約束していた弟の[[足利義視]]を排斥しようとして策謀し、[[管領|三管領]]の1つの[[斯波氏]]の家督問題（[[武衛騒動]]）にも介入し（一時的に当事者の1人、[[斯波義寛|松王丸]]を[[稚児]]として預かっていた）、[[文正]]元年（[[1466年]]）に対立する[[細川勝元]]・[[山名宗全]]らによる[[文正の政変]]で貞親・[[斯波義敏]]・赤松政則らと共に失脚した。[[応仁]]元年（[[1467年]]）からの[[応仁の乱]]で[[近江国|近江]]へ逃れ、[[応仁]]2年（[[1468年]]）に義政の命令で京都へ戻ったが、政治に復帰出来ないまま翌文明元年（1469年）に死去。[[享年]]69。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[応仁記]]』などでは否定的評価で書かれている一方、政則の家臣[[浦上則宗]]や[[宗湛]]らと交流があり、失脚前の文正元年2月から閏2月に休暇で彼らと[[侍所]]所司代[[多賀高忠]]を交えて[[有馬温泉]]に滞在したことを書き残した&amp;lt;ref&amp;gt;桜井、P262 - P266、P303、石田、P141 - P144、P190 - P194、今泉、P39 - P40。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、公式日記である『蔭涼軒日録』の一部を執筆。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[桜井英治]]『室町人の精神 日本の歴史12』[[講談社学術文庫]]、2001年。&lt;br /&gt;
* [[石田晴男]]『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』[[吉川弘文館]]、2008年。&lt;br /&gt;
* [[今泉淑夫]]『[[人物叢書]] 亀泉集証』吉川弘文館、2012年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[室町時代の人物一覧]]&lt;br /&gt;
*[[思想家一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:きけいしんすい}}&lt;br /&gt;
[[Category:臨済宗の僧]]&lt;br /&gt;
[[Category:室町・安土桃山時代の僧]]&lt;br /&gt;
[[Category:1401年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1469年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.209.104.105</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%96%87%E6%AD%A3%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89&amp;diff=201230</id>
		<title>文正の政変</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%96%87%E6%AD%A3%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89&amp;diff=201230"/>
		<updated>2012-12-24T05:46:10Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.209.104.105: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;文正の政変&#039;&#039;&#039;（ぶんしょうのせいへん）とは、[[文正]]元年（[[1466年]]）[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]に[[室町幕府]]8代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政]]の側近[[伊勢貞親]]と[[季瓊真蘂]]らが諸大名の反発で追放された事件である。この政変で義政は側近を中心とした政治を行えなくなり、残った諸大名は[[応仁の乱]]を起こしていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経過 ==&lt;br /&gt;
=== 背景 ===&lt;br /&gt;
将軍足利義政は将軍の専制政治を確立しようとして乳父で[[政所]][[執事]]伊勢貞親と[[鹿苑院]][[蔭涼軒]]主季瓊真蘂を登用、諸大名の介入を行った。[[享徳]]3年（[[1454年]]）に[[畠山持国]]の息子[[畠山義就|義就]]と甥の[[畠山政久|政久]]が争い[[細川勝元]]と[[山名宗全]]が政久を支持した時、義政は義就を支持、宗全を隠居させた隙に義就が上洛、翌年の持国死去の家督相続を認め近臣に取り立てた&amp;lt;ref&amp;gt;義就支持の裏には、勝元・宗全への対抗策として[[畠山氏]]の抱きこみを意図したとされる。しかし、このお家騒動で畠山氏は2つに割れて両派への対抗が難しくなった。桜井、P283 - P285、石田、P109 - P111。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、[[不知行地還付政策]]で[[寺社本所領]]の回復及び守護と[[国人]]の繋がりの制限を図る一方、[[関東地方|関東]]で反抗した[[古河公方]][[足利成氏]]討伐のため[[越前国|越前]]・[[尾張国|尾張]]・[[遠江国|遠江]]守護[[斯波義敏]]や[[奥州]]の大名に動員を命じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが、それらは頓挫していった。義就は義政の意向と称して政久追討をしながら[[大和国|大和]]の軍事介入と土地の横領をしたため義政の信頼を失い、宗全が復権した影響もあって[[寛正]]元年（[[1460年]]）に家督を政久の弟[[畠山政長|政長]]に替えられ[[吉野]]に没落、勝元の支持を受けた政長は寛正5年（[[1464年]]）に勝元の後任の[[管領]]に就任した。関東の派遣も義敏と執事の[[甲斐常治]]が越前で[[長禄合戦]]を起こし、義敏が命令に従わず越前の常治派討伐を優先したため、義政は義敏を追放、義敏の息子[[斯波義寛|松王丸]]を当主に交替させたが、斯波軍が関東に出陣しなかったため奥州の諸大名の信用を失い、以後奥州大名は幕府の命令に従わず関東に出陣しなかった&amp;lt;ref&amp;gt;原因として、不知行地還付政策と常治の越前支配によって所領と[[荘園]]代官職を追われた越前国人達と義敏が結託したことが挙げられる。結果、義敏は義政の和睦歓告にも従わず常治派と交戦、家督を追われた。桜井、P296 - P301、川岡、P108 - P109、石田、P147 - P157、P160 - P165。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義政は相次ぐ政策の失敗により方針を転換、派閥の結成を目論んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 守護大名家への介入 ===&lt;br /&gt;
寛正2年（[[1461年]]）、義政は[[斯波氏]]の家督を交替させて松王丸を廃立、遠縁で[[渋川氏]]出身の[[斯波義廉|義廉]]を当主に据えた。この意図は義廉の父[[渋川義鏡]]が幕府によって新たな鎌倉公方として関東に送られた義政の異母兄の[[堀越公方]][[足利政知]]の執事であり、寛正元年の[[駿河国|駿河]]守護[[今川範忠]]の帰国で戦力が減った影響から義鏡を斯波氏当主の父として斯波軍を動員できるようにする狙いがあった。だが、寛正3年（[[1462年]]）に義鏡が関東で幕府方として古河公方と対峙していた[[扇谷上杉家]]と[[相模国|相模]]の権益を巡って対立、失脚したためその意義が薄れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寛正4年（[[1463年]]）、母の[[日野重子]]の死去で大赦を行い、義就と義敏を赦免した。更に寛正6年（[[1465年]]）10月、勝元の要請で[[伊予国|伊予]]の[[河野通春]]討伐に逆らい通春を支援した[[大内政弘]]に討伐命令を下したが、密かに政弘を支援した上&amp;lt;ref&amp;gt;[[大内氏]]は幕府の[[日明貿易]]の船の費用提供と九州国人の税の徴収を担当、在国守護であり幕府の軍事力と財政を支える存在であるため、勝元の要請を受けながら政弘の支援という方法になった。桜井、P301 - P302。&amp;lt;/ref&amp;gt;、政弘の元にいた義敏に貞親と真蘂を通して上洛を命じ、[[12月30日 (旧暦)|12月30日]]に上洛した義敏と対面、翌文正元年（1466年）[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]に家督を義廉から義敏に交替、[[7月30日 (旧暦)|7月30日]]に政弘も赦免した。一連の行動の真意は、幕府に逆らい一旦敵となった3人を赦免することで勝元と宗全の大名連合に対抗、幕府派に取り込む意図があった&amp;lt;ref&amp;gt;川岡、P109 - P110、石田、P169 - P174、P177 - P178。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 反発、合従連衡 ===&lt;br /&gt;
だが、義廉はこの義政の計画に反発、大名家との派閥結成を目論んだ。義廉は関東の堀越公方補強のために斯波氏当主に置かれたが、上記の通り実父義鏡が失脚したことと、義政から斯波氏の同族である[[奥州探題]][[大崎教兼]]との取次を命じられたが成功しなかったため、義政はかつて大崎教兼と取り次いでいた義敏の復帰を考え赦免した。危機感を抱いた義廉は義敏復帰と自分の廃立を阻止するため、諸大名の結びつきに奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寛正6年[[9月21日 (旧暦)|9月21日]]、義政は[[春日大社]]の社参で大和に下向したが、義廉も家臣の[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]と共に同行した。この時に大和の[[国人]]で義就を支援していた[[越智家栄]]が義政と対面、同年8月に挙兵した義就に朝倉孝景が太刀を送り、翌年の5月に義就派の大和国人[[古市胤栄]]が義廉の被官となっているため、赦免されたものの逼塞していた義就を取り込み、春日社参の裏で越智家栄・古市胤栄と繋がりを持ったと推定されている。8月に伊予に渡海した大内政弘が幕府に逆らったことも、政弘の義理の祖父に当たる山名宗全が連携、越智家栄の仲介で義就と繋がったと見られ、文正元年8月に宗全の娘と義廉が婚約、山名派の結成が進められた&amp;lt;ref&amp;gt;石田、P184 - P189。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 政変 ===&lt;br /&gt;
斯波氏当主の交替に反発した宗全は[[一色義直]]や[[土岐成頼]]と共に義廉を支持したが、[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]、義政は斯波氏当主となった義敏に越前・尾張・遠江3ヶ国の守護職を与え、義敏・松王丸父子は出仕した。ところが[[9月5日 (旧暦)|9月5日]]夜に義政の弟[[足利義視|義視]]が細川勝元邸に入り、伊勢貞親が義政に讒言して自分を殺害しようとしていると勝元に訴えた。翌6日に勝元は出仕、義政に申し開きをして貞親と季瓊真蘂、義敏と[[赤松政則]]は京都から逃げた。義敏は家督問題で貞親・真蘂と繋がり、政則は真蘂と同族であり、[[赤松氏]]再興に真蘂が関わっていたからとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 政変以後 ===&lt;br /&gt;
側近を失った義政は独自の政治を行えなくなり、諸大名中心の政治へと移行していく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政変後の[[9月14日 (旧暦)|9月14日]]、斯波氏の家督は義廉に戻された一方、義敏が3ヶ国守護に任命された8月25日に義就が吉野で挙兵、政長の領国[[河内国|河内]]を攻めた。幕府は義就征討のため出陣を決めたが、義就は宗全と義廉支援の下12月に上洛、翌[[応仁]]元年（[[1467年]]）[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]に畠山氏当主と認められ、[[1月8日 (旧暦)|8日]]に政長が管領を罷免され義廉が管領に就任、[[1月18日 (旧暦)|18日]]に[[上御霊神社]]で義就と政長が激突（[[御霊合戦]]）、敗れた政長は勝元の屋敷に匿われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政変の意義は、義政・貞親らの関東政策で家督交替の危機を感じた義廉が義政の政策で赦免されていた義就を取り込み、宗全とも組んで派閥を形成して貞親・真蘂・義敏を追放したことにあるが、宗全らは勝元が管領に在任していた時期に家督交替が行われていたことから勝元の関与も疑い対立、派閥形成の一因となった&amp;lt;ref&amp;gt;勝元の在任期は享徳元年（[[1452年]]）から寛正5年の12年間で、寛正5年から応仁元年の3年間は勝元と関わりが深い政長が管領になっていた。しかも、政長は義廉に代わって大崎氏と交渉をしていて、勝元の依頼で河野通春討伐の命令書を出していることから、義廉は自分の管領就任以外に家督交替を阻止出来ないと思い、宗全も義廉と姻戚関係を結んでいる関係で義廉を支援することになった。桜井、P303 - P305、川岡、P110 - P111、石田、P191 - P203。&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方の勝元も政長の罷免で危機感を抱き、報復のため諸大名を上洛させ、応仁の乱に繋がった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、乱の原因に義政の正室[[日野富子]]が息子の[[足利義尚]]を義政の養子となった義視に対抗させるため、宗全を後見人に頼んで義視の後見人勝元と衝突したという説が一般的だが、義尚の誕生以前に宗全ら山名派が形成されたため、異説もある&amp;lt;ref&amp;gt;義尚の誕生は寛正6年[[11月23日 (旧暦)|11月23日]]で、それ以前から山名派の形成は進んでいた。また、寛正6年11月に朝倉孝景が義視から京都の[[土一揆]]鎮圧の命令を受けていたため、義視と宗全は最初から連携していたのではないかとされ、目的は義政と貞親への対抗とされる。石田、P188 - P190。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[桜井英治]]『日本の歴史12 室町人の精神』[[講談社]]、2001年。&lt;br /&gt;
* [[川岡勉]]『室町幕府と守護権力』[[吉川弘文館]]、2002年。 &lt;br /&gt;
* [[石田晴男]]『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』吉川弘文館、2008年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[武衛騒動]]&lt;br /&gt;
* [[文正記]]&lt;br /&gt;
* [[日本史の出来事一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふんしようのせいへん}}&lt;br /&gt;
[[Category:室町時代の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:応仁の乱]]&lt;br /&gt;
[[Category:1466年]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.209.104.105</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E9%95%B7%E7%A6%84%E5%90%88%E6%88%A6&amp;diff=212634</id>
		<title>長禄合戦</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E9%95%B7%E7%A6%84%E5%90%88%E6%88%A6&amp;diff=212634"/>
		<updated>2012-12-16T13:42:45Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.209.104.105: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Battlebox&lt;br /&gt;
| battle_name=長禄合戦&lt;br /&gt;
|colour_scheme=background:#ffff99; color:#2222cc&lt;br /&gt;
| conflict=&lt;br /&gt;
| date=[[長禄]]2年（[[1458年]]）[[7月 (旧暦)|7月]] - 長禄3年（[[1459年]]）[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]&lt;br /&gt;
| place=[[越前国]]（現在の[[福井県]]）&lt;br /&gt;
| result=甲斐常治軍の勝利&lt;br /&gt;
| combatant1=甲斐常治軍&lt;br /&gt;
| combatant2=斯波義敏軍&lt;br /&gt;
| commander1=[[甲斐常治]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[甲斐敏光]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]&lt;br /&gt;
| commander2=[[斯波義敏]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[堀江利真]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[朝倉将景]]&lt;br /&gt;
| strength1=不明&lt;br /&gt;
| strength2=不明&lt;br /&gt;
| casualties1=不明&lt;br /&gt;
| casualties2=不明&lt;br /&gt;
|}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;長禄合戦&#039;&#039;&#039;（ちょうろくかっせん）とは、[[長禄]]2年（[[1458年]]）7月頃から長禄3年（[[1459年]]）[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]までの間、[[越前国|越前]]を舞台として勃発した越前[[守護]][[斯波義敏]]と越前[[守護代]][[甲斐常治]]の間に勃発した合戦群の総称。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 発端 ==&lt;br /&gt;
[[甲斐氏]]は代々[[斯波氏]]の執事と越前・[[遠江国|遠江]]の守護代を受け継いだが、同時に[[足利将軍家]]の直臣扱いも受けていた。甲斐常治は[[斯波義淳]]の頃から斯波氏に仕えていたが、義淳が死んで後を継いだ異母弟の[[斯波義郷]]が事故死、幼い息子の[[斯波義健]]が後を継いだため、斯波氏庶流の大野斯波氏の[[斯波持種]]と共に後見人として政務を補佐した。しかし、持種はかつて父の[[斯波満種]]が守護だった[[加賀国|加賀]]の奪回を図り常治と対立、常治の方も[[検断沙汰|検断]]、[[刈田狼藉]]、[[使節遵行]]、[[守護請]]など守護権を活用して[[寺社本所領]]と[[荘園]]の支配権を拡大したり配下を荘園代官に任命したりして勢力を伸ばしたため、持種と常治の関係は険悪になり、[[享徳]]元年（[[1452年]]）に義健が子の無いまま亡くなり持種の息子義敏が本家の当主となると、義敏も常治と対立していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、[[室町幕府]]8代将軍[[足利義政]]は将軍専制を目論み、[[不知行地還付政策]]で寺社本所領の回復と守護と[[国人]]の繋がりの制限を図ったり、[[関東]]の[[古河公方]][[足利成氏]]征伐のため[[堀越公方]][[足利政知]]を派遣、続いて斯波軍の関東出兵を計画していた。常治は将軍家と繋がっていたため、不知行地還付政策を支持していたが、この政策と常治によって所領と代官職を追われた越前国人は義敏と結びつき、義敏も常治の専横に反発していたため、[[康正]]2年（[[1456年]]）に幕府に常治を訴えたが、幕府は支持者の常治を敗訴にする訳にいかなかったため、義敏を敗訴とした。憤慨した義敏は長禄元年（[[1457年]]）に東山東光寺に出奔、義敏と常治の[[被官]]が騒乱を起こし、義敏の被官が幕府と甲斐氏の兵に討たれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長禄2年（1458年）2月に義政の仲介で和睦、常治側が義敏の被官に所領を返還することになったが、越前では返還は進まなかった。同年6月に義敏と常治に関東出兵の命令が下されたが、両者は互いを警戒して動かなかった。しかし、6月末に常治が病気に倒れたのをきっかけとして、7月頃に義敏は[[堀江利真]]を越前に派遣、合戦を引き起こした&amp;lt;ref&amp;gt;福井県、P459 - P464、P474 - P477、P597 - P600、松原、P38 - P41、石田、P98 - P102、P147 - P151。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦闘の経過 ==&lt;br /&gt;
堀江利真は[[敦賀市|敦賀]]を攻めて越前国内の甲斐派を追い出し、越前北部を制圧するなど、緒戦は守護側の勝利となった。これに対し義政は[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]までに義敏と常治に関東に出陣するよう命令、合わせて常治の守護代職を保障したため、義政は義敏への譲歩を止めて常治支持を表明、[[11月4日 (旧暦)|11月4日]]に常治の息子[[甲斐敏光|敏光]]と[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]が[[近江国|近江]]に陣取り、義敏も近江に留まった。12月に義敏と常治は兵糧調達が出来ないことを幕府に伝え、動かなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌長禄3年（1459年）2月、幕府は両者の調停を図ったが、守護側が反対して失敗、敏光・孝景らが越前に入国して中央に打ち入り、義政も義敏を無視して改めて常治を越前守護代に任命、越前国人と[[若狭国|若狭]]・[[能登国|能登]]・近江守護らに常治側の救援を命じ、守護代側に肩入れするようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦況不利になった状況の中、義敏は関東出兵の幕府命令を無視して、[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]に常治側の[[金ヶ崎城]]を攻めて逆に敗れたことから、義政の怒りを買って[[周防国|周防]]の[[大内教弘]]の元へ落ちた。[[5月25日 (旧暦)|25日]]に[[越中国|越中]]・能登・[[加賀国|加賀]]の軍勢が越前に乱入、敏光らも[[府中]]を押さえ、義敏方は越前から撤退していった。次の斯波氏当主は義敏の息子[[斯波義寛|松王丸]]が継承した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堀江利真は[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]に[[坂井郡]]に陣取り抵抗を続けたが、[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]、[[足羽郡]]和田荘の決戦で戦死、朝倉孝景の活躍により守護代側の勝利となる&amp;lt;ref&amp;gt;福井県、P600 - P604、松原、P41 - P46、石田、P151 - P157。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後 ==&lt;br /&gt;
朝倉孝景は父の[[朝倉家景]]の死で祖父[[朝倉教景|教景]]の補佐の下家督を譲り受けたが、当初は基盤は決して盤石ではなかった。孝景が越前[[朝倉氏]]における一門宗家の立場にあったものの、朝倉一族の中に従わぬ者がいたためである。しかし、この合戦において反孝景派である叔父の[[朝倉将景]]、朝倉景契、朝倉（阿波賀）良景などを討ち果たし、常治が合戦終了直後に亡くなったため、孝景は越前での地位を高めることとなり、長禄合戦が朝倉氏台頭のきっかけとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
対して、甲斐氏は常治の死後、守護代職は敏光の子・[[甲斐信久|千喜久丸]]に継承された（敏光が出陣中の為）が、後に敏光に与えられたかと思うと千喜久丸に改められる等、徐々に筆頭家老の地位を後退させていく。そして、関東遠征に失敗した幕府は以後も斯波氏に干渉するようになっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*[[福井県]]『福井県史 通史編2 中世』福井県、1994年。&lt;br /&gt;
*[[松原信之]]『越前 朝倉一族＜新装版＞』[[新人物往来社]]、2006年。&lt;br /&gt;
*[[石田晴男]]『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』[[吉川弘文館]]、2008年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[朝倉氏]]&lt;br /&gt;
*[[斯波氏]]&lt;br /&gt;
*[[甲斐氏]]&lt;br /&gt;
*[[享徳の乱]]&lt;br /&gt;
*[[武衛騒動]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ちようろくかつせん}}&lt;br /&gt;
[[category:室町時代の戦い]]&lt;br /&gt;
[[Category:福井県の歴史]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.209.104.105</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%A5%9E%E4%BF%9D%E9%95%B7%E8%AA%A0&amp;diff=63674</id>
		<title>神保長誠</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%A5%9E%E4%BF%9D%E9%95%B7%E8%AA%A0&amp;diff=63674"/>
		<updated>2012-11-29T14:42:03Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.209.104.105: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;神保 長誠&#039;&#039;&#039;（じんぼう ながのぶ、生年不詳 - [[文亀]]元年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]（[[1501年]][[12月28日]]））は、[[室町時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[越中国|越中]][[放生津城]]を拠点とする[[射水郡|射水]]・[[婦負郡]][[守護代]]及び[[紀伊国|紀伊]]分郡守護代であり、[[畠山政長]]（畠山尾州家）の家臣である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父については、[[畠山持国]]の後継者を巡って息子の[[畠山義就]]を推す[[遊佐国助]]達と争い没落した持国の甥の[[畠山政久|畠山弥三郎]]派の[[神保国宗]]であると推測されるが定かではない。通称は越前守、宗右衛門尉、孫三郎。子に[[神保慶宗|慶宗]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
放生津城が陥落し国宗が消息不明となった後、[[長禄]]3年（[[1459年]]）に弥三郎派が復権に成功するが、その時には長誠が[[神保氏]]の惣領として歴史の表舞台に登場することは確かである。弥三郎が亡くなり弟の[[畠山政長]]が擁立されると、長誠は[[遊佐長直]]と共に腹心として仕えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[応仁]]元年（[[1467年]]）、政長が[[山名宗全]]・[[斯波義廉]]の後ろ盾を得て復権した義就との政争に敗れると、長誠は政長に[[上御霊神社]]での挙兵を薦め、これにより[[応仁の乱]]が勃発した。長誠は[[細川勝元]]の側近[[安富元綱]]と昵懇であった為細川軍の支援を期待したが、勝元は動かず政長軍は敗れてしまった（[[御霊合戦]]）。しかしその後長誠は各地で奮戦し、[[上杉定正]]にその武勇を激賞されるなど、目覚しい活躍ぶりを見せた。その後越中へ戻り、[[倉垣荘]]など[[寺社本所領]]を押領して勢力の拡大に努めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明応]]2年（[[1493年]]）に、[[細川政元]]などが[[足利義澄]]を擁立して10代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義稙|足利義材]]を廃立して政長を自害させた[[明応の政変]]が起こった。長誠は中風を煩って越中に帰国中だったため難を免れたが、部下の越中衆の多くが[[河内国|河内]][[正覚寺]]での戦いで政長と共に殉じた。神保・椎名両氏など越中勢力は共に打撃を受けたが、長誠は越中をよくまとめている。義材が京都の幽閉先である[[上原元秀]]の屋敷を脱して長誠を頼ると、これを迎えて放生津の正光寺を将軍御所として改装して[[越中公方]]と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長誠は細川政元派の[[畠山義豊|畠山基家]]軍の越中侵攻をたびたび撃退して軍事力を誇示する一方、被官鞍河兵庫助に数千貫の料足を持たせて京に送り、義材の将軍復帰工作に尽力するなど、和戦双方の手で義材の上洛を支援した。その結果、義材は政元側との和睦交渉が進展したという認識を持ちはじめ、明応8年（[[1499年]]）に義尹（義材より改名）は越前へ移った。しかし政元に義尹との和睦意識はなく、義尹は軍事行動で上洛を図るが失敗し、[[周防国|周防]]の[[大内義興]]を頼った。この時長誠は息子の慶宗率いる越中勢を派兵し、周防まで同行させている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文亀元年（1501年）に病没。肖像が[[富山市]]富崎の[[本覚寺 (富山市)|本覚寺]]に残されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[神保氏]]&lt;br /&gt;
* [[畠山氏]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しんほうなかのふ}}&lt;br /&gt;
[[category:戦国武将]]&lt;br /&gt;
[[Category:神保氏|なかのふ]]&lt;br /&gt;
[[Category:越中国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:守護代]]&lt;br /&gt;
[[Category:生年不明]]&lt;br /&gt;
[[Category:1501年没]]&lt;/div&gt;</summary>
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