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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<title>西竹一</title>
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		<updated>2014-03-09T15:05:20Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;121.93.61.12: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 軍人&lt;br /&gt;
| 氏名       = 西 竹一&lt;br /&gt;
| 各国語表記 = Takeichi Nishi&lt;br /&gt;
| 生年月日   = {{生年月日と年齢|1902|7|12|死去}}&lt;br /&gt;
| 没年月日   = {{死亡年月日と没年齢|1902|7|12|1945|3|22}}&lt;br /&gt;
| 画像       = Takeichi Nishi.jpg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ = 250px&lt;br /&gt;
| 画像説明   = 西と愛馬ウラヌス&lt;br /&gt;
| 渾名       = [[男爵|バロン]]西&lt;br /&gt;
| 生誕地     = {{JPN}} [[東京府]][[東京市]][[麻布区]]麻布笄町&lt;br /&gt;
| 死没地     = {{JPN}} [[東京都]][[小笠原支庁]][[硫黄島 (東京都)|硫黄島村]]&lt;br /&gt;
| 所属組織   = {{IJARMY}}&lt;br /&gt;
| 軍歴       = [[1924年]] - [[1945年]]&lt;br /&gt;
| 最終階級   = [[大佐|陸軍大佐]]&lt;br /&gt;
| 除名後     =&lt;br /&gt;
| 墓所       = [[靖国神社]] &lt;br /&gt;
| 署名       = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{MedalTableTop}}&lt;br /&gt;
{{MedalCountry | {{JPN}} }}&lt;br /&gt;
{{MedalSport | 男子 馬術競技}}&lt;br /&gt;
{{MedalCompetition|[[オリンピック馬術競技|オリンピック]]}}&lt;br /&gt;
{{MedalGold  | [[ロサンゼルスオリンピック (1932年)|1932 ロサンゼルス]] | [[障害飛越競技|障害飛越]] 個人}}&lt;br /&gt;
{{MedalBottom}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;西 竹一&#039;&#039;&#039;（にし たけいち、[[1902年]][[7月12日]] - [[1945年]][[3月22日]]）は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]、[[華族]]（[[男爵]]）。最終[[軍隊における階級呼称一覧|階級]]は[[大佐|陸軍大佐]]。愛称・通称は&#039;&#039;&#039;バロン西&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;バロン・ニシ&#039;&#039;&#039;、Baron Nishi）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ロサンゼルスオリンピック (1932年)|1932年 ロサンゼルスオリンピック]][[オリンピック馬術競技|馬術]][[障害飛越競技]]の[[金メダリスト]]。帝国陸軍の[[騎兵]][[将校]]として騎兵畑を歩んでいたが、のちには[[兵科#戦車兵|戦車兵]]に転科し[[戦車第26連隊]]の[[連隊長]]として[[第二次世界大戦]]に従軍、[[硫黄島の戦い]]で[[戦死]]した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
男爵・[[西徳二郎]]の三男として[[東京市]][[麻布区]][[笄町|麻布笄町]]（現在の[[港区 (東京都)|港区]][[麻布|西麻布]]）にて生まれた（本妻・後妻の間に生まれた長男・次男は幼少時に死去）。母は正妻ではなく、生後すぐに家を出された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父・徳二郎は[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]や[[枢密顧問官]]などを歴任し、駐清[[公使]]時代には[[義和団の乱]]処理に当たった人物であった。また、義和団の乱の処理の際、[[西太后]]から信頼を厚くされ[[中国茶]]の専売権を与えられ巨万の富を手にしたといわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1912年]]（[[明治]]45年）には徳二郎が死去し、同年3月30日、その跡を継ぎ当主として男爵となる&amp;lt;ref&amp;gt;『官報』第8632号、明治45年4月1日。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[後見人]]は西伊佐次。妻となる武子の祖父は[[川村純義]][[海軍大将]]、父は[[伯爵]]・[[川村鉄太郎]]であり、武子の長姉・艶子は[[阪本さん之助|阪本釤之助]]の子で第二次大戦中の駐[[スイス]][[公使館|公使]]時に終戦工作に奔走する[[阪本瑞男]]に嫁いだ。子に長男の泰徳に、長女と次女の三子。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 幼少時 ===&lt;br /&gt;
[[学習院幼稚園]]を経て、[[学習院初等科]]時代は近隣の[[千代田区立番町小学校|番町小]]の生徒と[[喧嘩]]を繰り返す暴れん坊であった。[[1915年]]（大正4年）&amp;lt;!-- 13歳入学なら1915年にあたる --&amp;gt;4月、[[外交官]]であった父の遺志を継ぎ[[府立一中]]（現・[[東京都立日比谷高等学校|日比谷高校]]）に入学、同期には[[小林秀雄 (批評家) |小林秀雄]]、[[迫水久常]]らがいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 陸軍へ ===&lt;br /&gt;
[[File:Imperial Baron Nishi.jpg|thumb|200px|right|西とウラヌスによる「車越え」]]&lt;br /&gt;
その後、府立一中在籍から[[1917年]]（大正6年）&amp;lt;!--3年の地方幼年課程ゆえ1917年にした--&amp;gt;9月、[[広島陸軍地方幼年学校]]に入校&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;[[乃木希典]][[陸軍大将]]が学習院[[院長]]のとき、華族の斜陽化を憂えて華族の子供は軍人を目指すように言ったことに影響されたという説がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1920年]]（大正9年）には[[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校本科]]に進む。[[同期]]に[[名古屋陸軍幼年学校]][[首席]]・[[辻政信]]、中幼予科首席・[[甲谷悦雄]]。[[1921年]]（大正10年）4月、陸士陸幼の制度改編で中幼本科を半年で修了すると、新設の[[陸軍士官学校予科]]へ第36期で入校。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西は華族として[[乗馬]]を嗜んでおり、自身もそれを好んでいたことから[[兵科]]は帝国陸軍の花形である&#039;&#039;&#039;騎兵&#039;&#039;&#039;を選んだ。陸士予科では隊附生徒（[[士官候補生]]）として[[世田谷]][[騎兵連隊|騎兵第1連隊]]に配属（卒業成績：19番中13番）。[[1924年]]（大正13年）7月、[[陸軍士官学校_(日本)|陸軍士官学校]]（本科）を第36期生として卒業、[[見習士官]]として原隊の騎兵第1連隊附となり同年10月には[[少尉|陸軍騎兵少尉]]に任官。[[1927年]]（昭和2年）9月に[[陸軍騎兵学校]]（乙種学生）を卒業し同年10月には[[中尉|陸軍騎兵中尉]]に昇進。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ウラヌスとの出会いと金メダル ===&lt;br /&gt;
[[File:Baron Nishi at LA.jpg|thumb|left|200px|ロサンゼルスオリンピックにて競技中の西とウラヌス]]&lt;br /&gt;
[[1930年]]（昭和5年）3月、軍務として欧米出張中の西は[[イタリア]]にてのちの愛馬&#039;&#039;&#039;[[ウラヌス (競技馬)|ウラヌス]]&#039;&#039;&#039;（ウラヌス号）に出会う。ウラヌスは軍から予算が下りず、当時の価格で2,000[[日本円|円]]とかなりの高額ながら自費購入であった&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;世界大会での使用に耐え得る一流の馬術競技馬は、少なくとも現代においては億円単位の高い価値を持つ存在である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。西はウラヌスと共に[[ヨーロッパ]]各地の馬術大会に参加し、数々の好成績を残す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに[[1932年]]（昭和7年）の[[習志野]][[騎兵連隊|騎兵第16連隊]]附陸軍騎兵中尉時代、[[教育総監#騎兵監部|騎兵監]]などを歴任した[[大島又彦]][[中将|陸軍中将]]を団長に、[[城戸俊三]][[少佐|陸軍騎兵少佐]]ら帝国陸軍の出場選手一同と参加したロサンゼルスオリンピックでは、西はウラヌスを駆って馬術大障害飛越競技にて優勝、金メダリストとなる。この当時の記録映像は[[横浜市|横浜]]・[[根岸森林公園]]内の[[馬の博物館]]で公開されている。なお、これは[[2013年]]（平成25年）現在においても[[日本]]がオリンピック馬術競技で[[メダル]]を獲得した唯一の記録である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[File:Imperial Japanese Army officer Baron Nishi.jpg|thumb|200px|1936年、ベルリンに赴く陸軍騎兵大尉時代の西と見送りの妻子]]&lt;br /&gt;
最後の障害でウラヌス自身が自ら後足を横に捻ってクリアしたこともあり、インタビューでは「We won.」（「我々（自分とウラヌス）は勝った」）と応じている。この活躍とその出自や性格から、西は&#039;&#039;&#039;バロン西&#039;&#039;&#039;（[[:en:Baron|Baron]]=男爵）と呼ばれ欧米、とりわけ上流階級の名士が集まる[[社交界]]で、また当時[[人種差別]]感情が元でアメリカで排斥されていた在米日本人・[[日系人]]の人気を集め、のちに[[ロサンゼルス|ロサンゼルス市]]の名誉市民にもなっている。なお現地で行われた金メダル受賞パーティーには[[ダグラス・フェアバンクス]]も参加するほどの盛大なものであったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[File:Ascot nishi.jpg|thumb|right|200px|西とアスコット]]&lt;br /&gt;
翌[[1933年]]（昭和8年）8月には[[大尉|陸軍騎兵大尉]]に昇進、陸軍騎兵学校の教官となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西は[[1936年]]（昭和11年）の[[ベルリンオリンピック]]にも参加しているが、ウラヌスと臨んだ障害飛越競技では競技中落馬し[[棄権]]している。オリンピック数ヵ月後の同年11月には[[日独防共協定]]が締結されていることから、この意外な落馬には主催国[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]の選手に金メダルを譲るために西が計った便宜ではなかったかという憶測が当時から流れていた。同大会では[[帝室御賞典]]などに優勝した元[[競走馬]]の[[アスコツト|アスコット]]と共に[[総合馬術]]競技にも出場し、12位となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戦車兵に ===&lt;br /&gt;
このオリンピックののち、西は騎兵第1連隊の[[中隊長]]として本業の軍務に戻る。[[1939年]]（昭和14年）3月には陸軍騎兵少佐に昇進し、[[軍馬]]の育成などを担当する[[陸軍省]][[軍馬補充部]]の[[十勝]]支部員となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1930年代]]当時、時代の流れとして世界の[[陸軍]]においては騎兵部隊が削減され、代わって[[自動車化歩兵]]部隊や近代的な戦車兵・戦車部隊が新設されていた時代であり、同時期の帝国陸軍においても乗馬中隊と[[装甲車]]中隊とを組み合わせ、その[[機動]]力により[[斥候|戦闘斥候]]を行う[[偵察]]部隊である[[捜索連隊|捜索隊（師団捜索隊）]]が新たに[[編成]]され、また従来の騎兵連隊も一部の連隊を残し、多くは同じく機動偵察部隊である[[捜索連隊]]や[[戦車連隊]]に改編されていた。その為、[[太平洋戦争]]（[[大東亜戦争]]）中の[[1942年]]（昭和17年）11月、西は[[第26師団 (日本軍)|第26師団]]捜索隊長、更に[[1943年]]（昭和18年）7月には[[第1師団 (日本軍)|第1師団]]捜索隊長を歴任している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[File:Ha-Go Guam-captured.jpg|thumb|right|200px|戦車第26連隊所属の[[九五式軽戦車]]。硫黄島の戦いでアメリカ軍に[[鹵獲]]されたもので、砲塔側面に部隊マーク「丸に縦矢印」が見える]]&lt;br /&gt;
1943年8月、西は[[中佐|陸軍中佐]]に昇進、また戦車兵として[[1944年]]（昭和19年）3月には&#039;&#039;&#039;戦車第26連隊&#039;&#039;&#039;（[[軍隊符号]]:&#039;&#039;&#039;26TK&#039;&#039;&#039;、部隊マーク&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;帝国陸軍の機甲部隊や飛行部隊（[[陸軍飛行戦隊#部隊マーク]]）では、部隊マークを考案し所属兵器に描く文化があり、一例として[[占守島の戦い]]で活躍した[[戦車第11連隊|11TK]]の（士魂の）「[[士]]」の文字、フィリピン防衛戦における[[戦車第9連隊|9TK]]の「[[菊水]]」の紋、[[飛行第11戦隊|11FR]]や[[飛行第50戦隊|50FR]]の「[[稲妻]]・電光」の図案、[[飛行第64戦隊|64FR]]の「斜め矢印」の図案などが存在する。&amp;lt;/ref&amp;gt;：「&#039;&#039;&#039;丸に[[矢印|縦矢印]]&#039;&#039;&#039;）」の連隊長を拝命、[[満州]]北部（北満）防衛の任に就いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 硫黄島へ ===&lt;br /&gt;
戦車第26連隊は当初は[[サイパンの戦い]]に参戦する予定であったが、現地守備隊が早々と[[玉砕]]したため、1944年6月20日に[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]への[[動員]]が下令。26TKは満州から日本経由で硫黄島へ向かうが、その行路（[[父島]]沖）において[[アメリカ海軍]][[ガトー級潜水艦]]「[[コビア (潜水艦)|コビア]]」の[[雷撃]]を受け、28両の[[戦車]]ともども輸送船「[[日秀丸]]」は沈没（連隊内の戦死者は2名のみ）。8月、戦車補充のため一旦東京に戻り、[[東京川崎財閥]]の御曹司で親友であった川崎大次郎&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;のち[[第百生命]]会長。&amp;lt;/ref&amp;gt;の車を借用して駆け回っていた&amp;lt;ref&amp;gt;川崎大次郎篇『[[私の履歴書]]』 &amp;lt;/ref&amp;gt;。その折、[[馬事公苑]]で余生を過していたウラヌスに会いに行き、ウラヌスは西の足音を聞いて狂喜して、馬が最大の愛情を示す態度である、首を摺り寄せ、愛咬をしてきたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[映画]]『[[硫黄島からの手紙]]』では、同じ騎兵出身の[[栗林忠道]][[中将|陸軍中将]]（[[陸軍大将]]。小笠原方面陸海軍最高指揮官たる[[小笠原兵団]]長）と意気投合したことになっているが、実際には確執もあったという（ただし劇中においても、確執をほのめかすシーンが存在する）。貴重な水で戦車を洗っていたことを栗林が咎め、厳罰を要求したが西がこれを撥ね付けたためという。ただそれは生い立ちの違いからくる諍いであり、両人とも硫黄島将兵の人気は高かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戦死 ===&lt;br /&gt;
[[File:Type-97-Shinhoto-ChiHa-Aberdeen.0003dtwq.jpg|thumb|left|200px|戦車第26連隊所属の[[九七式中戦車#九七式中戦車 新砲塔チハ|九七式中戦車（新砲塔チハ車）]]。硫黄島の戦いでアメリカ軍に鹵獲されたもので、現在は[[アメリカ陸軍兵器博物館]]が所蔵]]&lt;br /&gt;
1945年、硫黄島守備隊として小笠原兵団（栗林は小笠原兵団長兼[[第109師団 (日本軍)|第109師団]]長）直轄の戦車第26連隊の指揮をとることとなった。硫黄島においても愛用の[[鞭]]を手に[[エルメス]]製の[[ブーツ#乗馬ブーツ|乗馬長靴]]&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;帝国陸軍において将校[[准士官]]の軍装品は自身の嗜好で調達する私物であり、高級将校や西のような上流階級出身者は特に高級なテーラー・メイド品を使用していた（[[軍服 (大日本帝国陸軍)]]）。&amp;lt;/ref&amp;gt;で歩き回っていたという。丸万集落付近にて展開していた連隊[[司令部|本部]]は戦端が開かれる前に東地区に移動、地形状の関係から装備の九七式中戦車（新砲塔チハ車）及び九五式軽戦車の一部車両の[[砲塔]]を取り外したり、車体をダグインさせ[[擬装]]、[[トーチカ]]や[[砲台]]代わりに使用するなどし、[[アメリカ海兵隊]]の[[M4中戦車]]と撃滅戦を展開した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、この硫黄島での戦闘で西は戦場に遺棄された[[アメリカ軍]]の[[兵器]]を積極的に[[鹵獲]]し、整備・修理した後それらを使用して勇戦したと伝えられている。戦闘末期の撤退戦の中でもはぐれた兵士を洞窟内に入れることを拒絶する他指揮官が多かった中、西は「一緒に戦おう」と受け入れたという逸話も残っている&amp;lt;ref&amp;gt;[[梯久美子]]『[[文藝春秋 (雑誌) |文藝春秋]]』2007年2月号&amp;lt;/ref&amp;gt;。また上記の『硫黄島からの手紙』でも描かれた、負傷したアメリカ兵を尋問ののち乏しい医薬品でできるだけの手当てをしたというエピソードも証言として[[大野芳]]などの著作でも触れられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月17日に音信を絶ち、3月21日払暁、兵団司令部への移動のため敵中突破中に掃射を受けその場で戦死したか、もしくはその後に銀明水及び双子岩付近にて[[副官]]と共に[[自殺|拳銃自決]]したとも、あるいは3月22日、[[火炎放射器]]で片目をやられながらも、数人の部下らと共に最期の[[突撃]]を行い戦死したともいう{{要出典|date=2013年5月}}。また他の説に、硫黄島戦末期に[[日本軍]]に鹵獲され使用されたM4中戦車の話がある。接近してくる戦車に挨拶した米海兵隊員がいきなり銃撃を受けたり、戦場で合流した戦車から至近距離で砲撃を受け戦車が複数台撃破されたりした。のちにこのM4中戦車は撃破され、中から日本兵の死体が発見されたが、その中の1人が西ではないかとも言われている{{要出典|date=2013年5月}}。しかし、西の最期の詳細は不明である。満{{没年齢|1902|7|12|1945|3|22}}。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最期と同様に、死亡場所についても複数の説があるが東海岸には西大佐戦死の碑がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
死後、[[大佐|陸軍大佐]]に[[特進]]。墓所は[[青山霊園]]。当主の死により長男の[[西泰徳]]（現・硫黄島協会副会長）が男爵を襲爵し、[[昭和時代|昭和]]生まれで唯一の授爵者となった。西の後を追うかの如く、戦死の一週間後の3月末、[[陸軍獣医学校]]に居たウラヌスも死亡している。西が死ぬまで離さなかったウラヌスの鬣（たてがみ）が、[[1990年]]（平成2年）にアメリカにおいて発見され、現在では軍馬鎮魂碑のある[[北海道]][[中川郡 (十勝国)|中川郡]][[本別町]]の歴史民俗資料館に収められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 投降勧告について ====&lt;br /&gt;
硫黄島の戦いで西の率いた戦車第26連隊は玉砕することとなったが、攻撃したアメリカ軍は「馬術のバロン西、出てきなさい。世界は君を失うにはあまりにも惜しい」と連日呼びかけたが、西は黙ってこれに応じなかったというエピソードが、26連隊に合流していた[[海軍乙航空隊#南方諸島海軍航空隊|南方諸島海軍航空隊]]附将校の証言として伝えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これについては、アメリカ軍が硫黄島守備隊に西が参加していると云う事実を事前に知り得る事はありえないという見方から、後世の創作であるという意見もあるが、西の旧知の映画人でアメリカ軍の情報将校として[[グアム島|グアム]]の第315爆撃航空団に赴任していた[[サイ・バートレット]]陸軍大佐([[:en:Sy Bartlett]])&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;西のロス五輪時の大会付き人。当時米国では反日感情が強くバートレットも日本人に付くのを嫌がっていたが、西の人柄に互いに打ち解け、のち西が俳優らとのパーティーに連れて行った際に映画人を紹介した。&amp;lt;/ref&amp;gt;がアメリカ軍制圧後の硫黄島に降り立った際に拡声器を用いて西に投降を呼びかけたという証言もある。もっともバートレットが硫黄島に来た頃には西は既に戦死しており、バートレットの呼びかけが実話であったとしても、旧友の呼びかけが本人の耳に届くことはなかった。バートレットは[[1965年]]（昭和40年）に西の未亡人を東京に訪ね、[[靖国神社]]において慰霊祭を挙行している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物像 ==&lt;br /&gt;
[[File:Nishi Takeichi.jpg|right|frame|200px|ベルリンオリンピック当時のドイツにて、[[ヒトラー・ユーゲント]]の団員と交換した帽子をかぶる西]]&lt;br /&gt;
性格は至って鷹揚・天真爛漫サッパリし、明るかったと生前に交流のあった人々は証言している。当時からスマートな美男子として有名であり、身長も当時の日本人としては高身長である175cm、軍人ながら髪は[[七三分け|七三]]に分け他の青年将校と同じく[[軍服 (大日本帝国陸軍)|軍服]]は[[軍服 (大日本帝国陸軍)#青年将校文化（大11制・昭5制）|昭和の青年将校文化]]の影響を受けた派手なものを着用していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
趣味は乗馬のみならず[[射撃]]や[[カメラ]]、[[オートバイ|バイク]]（[[ハーレーダビッドソン]]）、[[自動車]]（[[クライスラー]]の高級輸入車）、特に[[オープンカー]]を愛し、[[ロサンゼルス]]滞在中はゴールドの[[パッカード]][[コンバーチブル]]を現地調達して乗り回していたという。当時のアメリカの[[映画俳優|映画スター]]、[[ダグラス・フェアバンクス]]と[[メアリー・ピックフォード]]夫妻との交友も話題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の土着的風習が理解できず、良くも悪くも男爵家育ちの自然児であり、人々の心の機微に対する老獪な人生経験を積んでいないからと、大野芳はその著書で触れている。生前、「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」とも語っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 西竹一を扱った作品 ==&lt;br /&gt;
; 参考・関連書籍&lt;br /&gt;
* 『[[硫黄島に死す]]』 [[城山三郎]]&lt;br /&gt;
* 『オリンポスの使徒 「バロン西伝説はなぜ生れたか」』 [[大野芳]]、[[文藝春秋]]、1984年&lt;br /&gt;
* 「硫黄島　栗林中将　衝撃の最期」 [[梯久美子]]、文藝春秋2007年2月号&lt;br /&gt;
* 『硫黄島とバロン西』 [[太平洋戦争研究会]]&lt;br /&gt;
* 『激闘戦車戦』 光人社、1999年&lt;br /&gt;
[[映画]]&lt;br /&gt;
* 『[[硫黄島からの手紙]]』 - [[クリント・イーストウッド]]監督による「硫黄島プロジェクト」二部作映画の第2弾。[[渡辺謙]]演じる[[栗林忠道]]中将を中心に、日本軍側から硫黄島の戦いを描く。西役は[[伊原剛志]]&lt;br /&gt;
[[漫画]]&lt;br /&gt;
* 『風と踊れ！ -時代を疾走ぬけた男 バロン西-』原作・[[二橋進吾]]、作画・[[樹崎聖]] - [[週刊少年ジャンプ]]掲載の読み切り、1994年&lt;br /&gt;
* 『[[空手バカ一代]]』原作・[[梶原一騎]]、作画・[[つのだじろう]] - 主人公[[大山倍達]]のアメリカ修行時代に、硫黄島でアメリカ兵が西の投降を呼びかけるエピソードが登場する。&lt;br /&gt;
[[テレビ]]&lt;br /&gt;
* [[栄光の旗]]（TBS）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
=== 注釈 ===&lt;br /&gt;
{{reflist|group=&amp;quot;注釈&amp;quot;}}&lt;br /&gt;
=== 出典 ===&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[日本の夏季オリンピック金メダル]]&lt;br /&gt;
* [[河石達吾]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.joc.or.jp/olympic/memorial/20051020.html JOC - オリンピック・メモリアルグッズ - 1932年ロサンゼルス大会、馬術競技で初の金メダルを獲得した西竹一中尉とウラヌス]&lt;br /&gt;
* {{PDFlink|[http://www.aafla.org/SportsLibrary/JOH/JOHv11n2/johv11n2o.pdf Baron Nishi: 1932 Olympic Gold Medalist for Japan]|251&amp;amp;nbsp;KB}}, Amateur Athletic Foundation of Los Angeles&lt;br /&gt;
* [http://www.databaseolympics.com/players/playerpage.htm?ilkid=NISHITAK01 Takeichi Nishi stats at DatabaseOlympics]&lt;br /&gt;
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