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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-08-06T01:06:27Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%9A%87%E7%94%AB%E5%B5%A9&amp;diff=84385</id>
		<title>皇甫嵩</title>
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		<updated>2013-12-13T14:26:02Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;121.87.64.252: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;皇甫 嵩&#039;&#039;&#039;（こうほ すう、? - [[195年]]）は、[[中国]][[後漢]]末期の武将。[[字]]は&#039;&#039;&#039;義真&#039;&#039;&#039;。[[涼州]][[安定郡]]朝那県（[[寧夏回族自治区]][[彭陽県]]）の出身。曾祖父は皇甫棱。祖父は皇甫旗。父は皇甫節。子は皇甫堅・皇甫寿（もしくは堅寿）。曾孫は[[皇甫謐]]。伯父は皇甫規。甥は[[皇甫リ|皇甫酈]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
伯父は、異民族征伐で張奐や段熲と共に功名を挙げた武将である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
若い頃から文武に優れており、詩書を好み弓馬術の習得に励んだ。[[孝廉]]へ挙げられ、郎中に任命される事となったが、父の死去により辞退した。再び[[茂才]]に挙げられ、[[陳蕃]]・[[竇武]]に招かれるも出仕しなかった。後に[[霊帝 (漢)|霊帝]]から公車により招聘されると、遂に出仕を決意し、議郎・[[北地郡|北地]][[太守]]を歴任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[184年]]、[[張角]]を中心に[[黄巾の乱]]が勃発すると、対策を協議する朝廷において、皇甫嵩は[[党錮の禁]]解禁と霊帝の私財（銭穀・軍馬）放出を具申した。皇甫嵩は左[[中郎将]]に任命され、右中郎将の[[朱儁]]と共に精兵4万を率いて、穎川方面の黄巾討伐に向かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
潁川黄巾軍の[[波才]]との戦いでは、当初朱儁が担当したが官軍は劣勢となり、勢いを増した波才に皇甫嵩の籠る長社を包囲された。皇甫嵩は[[田単]]の故事に倣って一計を案じ、火攻めで波才軍を混乱させ、都から援軍に赴いた[[曹操]]や朱儁と共に、波才を大破した。皇甫嵩はこの功績で都郷侯に封じられ、以後も朱儁と共に[[汝南]]郡・陳郡（[[淮陽]]）・東郡の各地を転戦し、勝利を挙げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東郡黄巾軍の卜己を倉亭で破り、卜己を生け捕って7千の首級を挙げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[冀州]]方面の張角率いる黄巾本隊の討伐は、[[盧植]]と[[董卓]]が担当していたが、彼等が戦果を挙げることができなかったため、皇甫嵩に討伐の命が下った。広宗で張角の弟[[張梁]]を討つとともに、病死していた張角の棺を壊して首を[[洛陽]]へ送った。さらに曲陽では張角の弟[[張宝]]を討ち、10数万を斬り[[京観]]を築いた。黄巾軍討伐成功の功により、左[[車騎将軍]]に任命され、槐里侯に封じられた。また、八千戸の食邑を与えられ、冀州[[牧]]となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
冀州においては戦乱に苦しむ民の負担を軽減し、また部下に対しても恩寵を施し、汚職をした官吏すら許したため信望を集めた。その頃、[[信都県 (冀州市)|信都]]の閻忠は皇甫嵩に「世は乱れており、自身の名声と行ないが自身に災いを招くことは明白だ。それを避けるため独立し、軍兵を動かし天下を一つにまとめ、民心に従い漢王朝に代わり帝位に就くべきだ」と、[[韓信]]の故事を引いて説得した。しかし皇甫嵩が拒絶したため、閻忠は逃亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[185年]]、[[辺章]]・[[韓遂]]が涼州で反乱を起こすと、朝廷の命令で[[長安]]に駐屯し、董卓と共にその討伐に当たった。このとき、[[十常侍]]の[[趙忠]]の法令違反を上奏し、また[[張譲]]からの賄賂要求を拒否していたこともあったため、十常侍に讒言され、左車騎将軍と食邑6千戸を取り上げられた。都郷侯に戻されたが、なお2千戸を領した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
涼州の反乱は新たに[[張温 (後漢)|張温]]が討伐に当たっていたが、成果を挙げることは出来なかった。[[188年]]、賊の王国が陳倉を攻撃した際、皇甫嵩は[[左将軍]]に任命され再び討伐に当たった。このとき董卓を指揮下においた。軍中では董卓の提案する策をいずれも退け、その正反対の策を用い勝利を収めた。しかしこのことから、董卓に憎まれることになった。同年中、二度にわたって朝廷から董卓に対し、[[并州]]牧に任命するため軍権を皇甫嵩に渡して帰還するよう指示が届いたが、董卓は拒否した。また、皇甫嵩は朝廷に事の次第を上書したため、董卓とのいがみ合いは決定的となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に董卓は中央で実権を握ると、[[190年]]に長安から皇甫嵩を召還して、城門校尉に任命すると称し殺害しようとした。皇甫嵩は部下の反対を押し切り帰朝したが、やはり逮捕投獄された。危うく死刑になりかけたが、董卓と親しかった子の堅寿が急遽洛陽に駆けつけ、董卓に必死の嘆願をしたため赦免され、議郎・[[御史中丞]]に任じられた。&lt;br /&gt;
後、長安に移った董卓が[[太師]]となり壇上へ赴く際、御史中丞以下の官吏を平伏させたが、皇甫嵩だけが頭を下げなかったので、董卓から「義真、まだかな」と問われた。皇甫嵩は「これは失礼した。」と謝罪をし、以前のいがみ合いについても尋ねられたため、自分に将来を見る目がなかったからだと陳謝した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[王允]]・[[呂布]]による董卓殺害後は再び栄進し、[[征西将軍]]・車騎将軍・[[太尉]]にまで昇りつめた。日食により辞任し、[[光禄大夫]]・[[太常]]となった。[[李カク (後漢)|李傕]]達が乱を起した頃に病を患い、195年に没した。[[驃騎将軍]]の印綬が贈られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==評論==&lt;br /&gt;
[[華キン|華歆]]は、彼が「数々の戦功を挙げながらいずれも同僚の手柄とし、自らの戦功を論じることがなかったため、恨みや禍とは無縁であった」と称賛している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[范曄]]は、彼を称賛しつつも「大業を棄て小義にこだわったことで、智者の笑うところとなった」と評している。これは、閻忠の献策を用いず、詔に従わない董卓を罰することもせず、また反董卓連合軍に呼応し董卓を挟撃することもしなかったこと、を指しているのだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[朱儁]]&lt;br /&gt;
*[[盧植]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考資料==&lt;br /&gt;
*[[:zh:s:後漢書/卷71|後漢書/卷71（ウィキソース中国語版）]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:こうほ すう}}&lt;br /&gt;
[[Category:漢代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:195年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>121.87.64.252</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%94%B0%E7%96%87&amp;diff=133364</id>
		<title>田疇</title>
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		<updated>2013-12-13T13:26:49Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;121.87.64.252: ﾘﾝｸ修正など&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;田 疇&#039;&#039;&#039;（でん ちゅう、[[169年]] - [[214年]]）は、[[中国]][[後漢]]末期の人。[[字]]は&#039;&#039;&#039;子泰&#039;&#039;&#039;、あるいは&#039;&#039;&#039;子春&#039;&#039;&#039;&amp;lt;ref&amp;gt;『[[後漢書]]』巻73「劉虞伝」の[[李賢 (唐)|章懐太子]]注には「『魏志』曰、疇字子春」とある。また[[陶淵明]]「擬古九首」其二の「聞有田子泰、節義為士雄」を「田子春」に作るテキストもある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[幽州]][[右北平郡]]無終県（[[天津市]][[薊県]]）の出身。従子は[[田続]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
22歳の時（[[190年]]）、[[劉虞]]から招聘を受け、気に入られて従事に任命された。また、そのまま劉虞の命令を受けて、[[献帝]]への忠節を誓う使者に任じられ[[長安]]に赴き、任務を全うした。その際、義人であるとして献帝の勅命で[[騎都尉]]に任じられるが、天下騒乱の折りで天子も落ち着いていない情勢時に、自分だけ出世など出来ないとして固辞している。幽州に帰着すると、劉虞が[[公孫サン|公孫瓚]]によって殺されてしまっていた。田疇は劉虞の墓に赴き哭したが、その行為が公孫瓚の怒りを買い、捕らえられて殺されそうになった。しかし毅然とした態度で反論したため、殺されずに済んだ。その後、取り成しを経て釈放され郷里に戻り平民となって、一族郎党を引き連れて徐無山に登って隠棲した。そこで暮らす内に彼の人徳を慕って多くの人が集まり、家々が数千軒に膨れ上がったという。そこで田疇はリーダーに推されたため、法を整備し教育に力を入れた。いつの間にか田疇の集落は、[[烏桓]]・[[鮮卑]]が使節を派遣して誼を通じようとする程の規模となっていた。その噂を聞きつけた[[袁紹]]と子の[[袁尚]]が、何度も招聘して自陣営に田疇を引き込もうとしたが、彼はそれらを全て固辞した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[207年]]、[[曹操]]の烏桓討伐の折、招聘を受けるとすぐさま曹操の宿営地に赴いた。到着すると、すぐに[[司空]]戸曹の属官に任命された。しかし曹操自身が彼と会見してみると、非常に立派な人物であると分かったため「彼はわしの下役人にして良い男ではない」として属官の件を撤回し、[[茂才]]に推挙した。その後、役職に就かないまま烏桓討伐に随行し、道案内役（田疇の故郷と烏桓の領地が境を接していたため、その辺りの地理に明るかった）を買って出て討伐の成功に大きく貢献した。その勲功によって亭侯の位を授けられるが、初志に反するとして、侯位を固辞した。所轄の役人が、田疇の固辞する態度が頑なで道に外れているとして、免職とし刑罰を加えるよう曹操に進言したが、曹操は問題にしなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、家族を引き連れて[[鄴]]に移り住んだ。しばらくして、かつて自分を招聘してくれた袁尚の首が鄴に届いたが、彼は禁令を犯して袁尚の遺骸を引き取り哭して弔った。その行為は本来死刑に値したが、曹操は彼の礼節心を嘉して、またもや問題にしなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、[[荊州]]討伐から帰還した曹操は、田疇の先の功績が卓越していたのを思い出し、彼に爵位を与えなかったことを後悔した。そこで田疇の友人であった[[夏侯惇]]に、自分（曹操）の名前は出さないように内示して、それとなく田疇を説得し爵位の件を受諾させるよう依頼した。内示を受けた夏侯惇は早速田疇宅に赴いて宿泊し、その帰り際に「田君よ、曹操様のご厚意を全く無視するわけにはまいりませんぞ」と彼を諭した。しかし田疇は涙を流し「何ということをおっしゃいますか。私は本来世間から逃げ隠れした人間。今の立場でいられるのは僥倖に過ぎません。徐無山の集落を売って爵位に替えるような真似は出来ません。私を本来理解してくださっている筈の将軍ですら、そのようなことを申されますか。この首を掻き切って命を捧げたいと存じます」と言って固辞した。夏侯惇がそれらをありのままに報告すると、曹操もついに田疇へ侯位を授けるのを諦め、議郎に任命することにした。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
46歳で亡くなった。子供も早くに亡くなっていたという。[[魏 (三国)|魏]]帝国が成立すると、[[曹丕]]（文帝）の勅命によって田続が家を継いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 陳寿の賛 ==&lt;br /&gt;
「田疇の節義　＝中略＝　は、世俗を矯正するに充分である」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[裴松之]]は田疇伝への注の中で、田疇が袁尚を哭して弔った行為について、田疇が烏桓討伐を手助けした結果、袁尚が捕まり殺されてしまったので「彼の哭した行為は偽善的である」と、批判している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:90%;&amp;quot;&amp;gt;[[正史]][[三国志]]2　田疇伝　[[陳寿]]著・[[裴松之]]注　[[井波律子]]・[[今鷹真]]訳　[[ちくま学芸文庫]]1993年　ISBN4-480-08042-2 &amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物|てん ちゆう]]&lt;br /&gt;
[[Category:天津出身の人物|てん ちゆう]]&lt;br /&gt;
[[Category:169年生|てん ちゆう]]&lt;br /&gt;
[[Category:214年没|てん ちゆう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>121.87.64.252</name></author>
	</entry>
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		<title>張任</title>
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		<updated>2013-12-13T12:53:21Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;121.87.64.252: 黄皓‎の編集から58.190.85.28と同一IPです。&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{三国志の人物&lt;br /&gt;
|名前       = 張任&lt;br /&gt;
|画像       = &lt;br /&gt;
|サイズ     = &lt;br /&gt;
|説明       = &lt;br /&gt;
|王朝       = [[後漢]]&lt;br /&gt;
|称号・役職 = &lt;br /&gt;
|出生       = 生年不詳&lt;br /&gt;
|出身地     = [[益州]]蜀郡&lt;br /&gt;
|死去       = [[建安 (漢)|建安]]18年（[[213年]]）&lt;br /&gt;
|死没地     = &lt;br /&gt;
|ピン音     =&lt;br /&gt;
|字         = 奉宗&lt;br /&gt;
|諡号       = &lt;br /&gt;
|廟号       = &lt;br /&gt;
|別名       = &lt;br /&gt;
|主君       = [[劉璋]]&lt;br /&gt;
|特記事項   = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;張 任&#039;&#039;&#039;（ちょう じん、? - [[213年]]）は、[[中国]][[後漢]]末期の武将。字は奉宗。[[益州]]蜀郡の人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[劉璋]]配下。元々は貧しい家の出だったが、文武に優れた能力を発揮して州の従事となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時、隣の[[荊州]]を支配していた[[劉備]]が益州に攻め込んで来ると、[[冷苞]]や[[トウ賢|鄧賢]]たちと共に劉備軍を迎え撃ったが、[[綿陽市|涪]]城で打ち破られたため[[広漢市|雒（らく）城]]に退去した。雒城で[[劉循]]と共に篭城したが、金雁橋に出撃した際に再び劉備軍に敗れ、捕虜となってしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
劉備は彼の忠勇を高く評価し、何度も臣従を勧めた。しかし張任は「老臣は決して二君に仕えるつもりはない」と言い、決して降ろうとしなかった。そのため最期には首を刎ねられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
劉備は敵ながら最後まで勇敢に戦い、忠義を曲げなかった張任に感服し、遺体を金雁橋の傍に埋葬した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在、「張任墓」が[[四川省]][[広漢市]]北外郷に現存する。県級文物保護単位。しかし、1964年の発掘調査では[[元康 (晋)|元康]]6年の年号が書かれた磚が出土しており、[[晋 (王朝)|晋]]代の別人の墓である可能性がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 演義での張任 ==&lt;br /&gt;
小説『[[三国志演義]]』における張任は、[[三国志 (歴史書)|正史]]における忠義を評価されてか、劉璋陣営では非常に華々しい活躍をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
劉備の入蜀の際、同僚たちと共に劉備の危険性を説き入蜀に反対するが、劉璋には聞き入れられていない。後に劉備軍の[[ホウ統|龐統]]が、宴会の席で劉璋を殺害しようと[[魏延]]に剣舞を舞わせた際、陰謀を察知し劉璋を守るため、魏延と共に舞うなど[[鴻門の会]]宛らの立ち回りを見せている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、劉備が益州征服の野心を露にしたときは、雒城に立て籠もって劉備軍を防ぎ、これを大いに苦しめている。その際、落鳳坡（現在の[[四川省]]徳陽市）で白馬（[[的盧]]であるとは、『演義』では明言されていない）に乗った龐統を射殺するなどの活躍をする。しかし後に、援軍として来た[[諸葛亮]]の計略により金雁橋に出撃させられた時、敗北し囚われの身になってしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後は正史と同じく、劉備に降伏を勧められるがそれを拒否する。劉備は張任を殺害するのを躊躇うが、最期は諸葛亮の進言を受け処刑している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』蜀書2先主伝&lt;br /&gt;
*『[[三国志演義|三国演義]]』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ちよう しん}}&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:213年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>121.87.64.252</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E9%BB%84%E7%9A%93&amp;diff=68312</id>
		<title>黄皓</title>
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		<updated>2013-12-13T12:44:09Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;121.87.64.252: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{三国志の人物&lt;br /&gt;
|名前       = 黄皓&lt;br /&gt;
|画像       = &lt;br /&gt;
|サイズ     = &lt;br /&gt;
|説明       = &lt;br /&gt;
|王朝       = [[蜀漢]]&lt;br /&gt;
|称号・役職 = [[中常侍]]&lt;br /&gt;
|出生       = [[215年]]以前&lt;br /&gt;
|出身地     = &lt;br /&gt;
|死去       = [[264年]]以降&lt;br /&gt;
|死没地     = &lt;br /&gt;
|ピン音     =&lt;br /&gt;
|字         = &lt;br /&gt;
|諡号       = &lt;br /&gt;
|廟号       = &lt;br /&gt;
|別名       = &lt;br /&gt;
|主君       = [[劉禅]]&lt;br /&gt;
|特記事項   = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;黄 皓&#039;&#039;&#039;（こう こう、[[215年]]以前~[[264年]]以降）は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[宦官]]。[[蜀漢]]に仕えた。卑しい身分から出世して、皇帝[[劉禅]]の寵愛を受けて権力を掌握し、政治を壟断して蜀漢の滅亡を招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==経歴==&lt;br /&gt;
[[諸葛亮]]の死後、劉禅に寵愛され引き立てられた。監視役の[[董允]]の存命中は黄門丞という低い役職のままであったが、[[陳祗]]が董允の死後に後任となるや、結託して政務を預かるようになり、黄門令に昇進した。陳祗の死後は一気に[[中常侍]]・奉車都尉へ昇格し、国の実権を握るようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[景耀]]5年（[[262年]]）、[[姜維]]を追放して代わりに[[閻宇]]を立てようと画策した。この画策は黄皓の独断ではなく、[[諸葛瞻]]・[[董厥]]も同調している。姜維は黄皓の専横を憎み、処刑するよう劉禅に請願したが聞き入れられなかったため、以降[[成都]]に帰還出来なくなった。なお、黄皓は『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』の著者である[[陳寿]]が蜀漢に仕えていた際、彼を憎んで免職にしている。また、甘陵王の[[劉永 (蜀漢)|劉永]]は黄皓を憎んでいたため、この事で黄皓から讒訴され、十余年に亘って朝廷への謁見が許されなかった。更に[[羅憲]]も黄皓に阿らなかったため、中央から巴東[[太守]]に左遷されている。諸葛瞻・董厥・[[樊建]]は当時の政務を担っていたが、互いに庇い合うばかりで黄皓の専横を止める事ができず、政治の乱れを矯正できなかった（ただ、樊建は黄皓と親しくする事がなかった）。一方で[[郤正]]は、宮廷内の官職に就いてからというもの、彼と屋敷を並べて働く事30年にも亘った（このことから、遅くとも[[233年]]の時点で彼が仕官して暫く時間が経過している事が分かる）が、気に入られも憎まれもしなかったため、官位も600石（地方の[[太守]]が2000石）を超える事がなく、讒言による被害も免れている。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また同時期に、蜀での使者の任務を終えて帰った[[呉 (三国)|呉]]の[[薛珝]]は、[[孫休]]に蜀の政治を問われた際、黄皓の名前を挙げてはいないが、「主は暗愚で過ちに気付かず、臣下は我が身が可愛くて、一向罪を被らない様に努め、朝政でも正言を聞く事が出来無い」と言っている。呉の[[張悌]]は宦官が蜀の朝政を恣にしているため、国家の正式な政令が権威を持っていないと断じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌年、[[魏 (三国)|魏]]が攻撃準備をしていると姜維から援軍要請があったが、黄皓はこれを握り潰した。そのため、蜀は迎撃体制が整わぬまま魏の攻撃を迎える事になった。[[綿竹]]で魏軍と戦った[[諸葛尚]]は、魏に敗れた際「早く黄皓を斬らなかったがためにこんな事になってしまった。生きていて何になろう」と言って突撃し、戦死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
蜀滅亡後、魏の[[鄧艾]]は成都に入ると黄皓の邪悪・陰険さを聞き知り、逮捕・幽閉して殺害しようとした。しかし黄皓は、鄧艾の側近に手厚く賄賂を贈ったため死を免れた。&lt;br /&gt;
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==三国志演義での扱い==&lt;br /&gt;
小説『[[三国志演義]]』では史実よりかなり早く、諸葛亮の存命中から権力を握った佞臣として登場する。魏から賄賂を貰って姜維を[[北伐]]の前線から呼び戻すなど、私腹を肥やす悪辣な人物として描かれる。蜀漢滅亡の直前には、劉禅に巫女の神託による政治を勧めて軍の派遣を阻んだり、江油城の落城を隠蔽したりと、滅亡を招いた最大の元凶にされている。成都を攻略した鄧艾から処刑されそうになるが、その部下に賄賂を渡して一時死を免れる。しかし最後は、[[司馬昭]]に五体を斬り刻まれ処刑される事になっている。&lt;br /&gt;
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{{DEFAULTSORT:こう こう}}&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:中国の宦官]]&lt;br /&gt;
[[Category:蜀漢の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
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