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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-10-29T02:03:19Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<title>近衛熙子</title>
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		<updated>2014-05-22T09:28:18Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;121.200.189.39: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{記事名の制約|title=近衛熈子}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;近衛 熙子&#039;&#039;&#039;（このえ ひろこ、[[寛文]]6年[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]（[[1666年]][[4月30日]]）&amp;lt;ref&amp;gt;『幕府祚胤伝』の記述（享年80）では[[寛文]]2年（[[1662年]]）生まれになるが、ここでは母親・常子内親王の日記『無上法院殿御日記』に記された生年月日で記述している。&amp;lt;/ref&amp;gt; - [[寛保]]元年[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]（[[1741年]][[4月13日]]））は、[[江戸幕府]]6代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家宣]]の正室。父は[[近衛基熙]]、母は[[後水尾天皇]]の娘・（品宮）[[常子内親王]]&amp;lt;ref&amp;gt;生母は[[家女房]]の西洞院氏とする説もあるが『無上法院殿御日記』において品宮本人が寛文六年三月廿六日四時分に熙子を出産したと記録している&amp;lt;/ref&amp;gt;。夫の死後[[落飾]]して&#039;&#039;&#039;天英院&#039;&#039;&#039;（てんえいいん）と名乗る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[延宝]]元年（[[1679年]]）、徳川綱豊（後の家宣）に嫁ぐ。父・基熙にとってこの結婚は「先祖の御遺戒である武家との結婚の禁忌に背く」と日記（[[基熙公記]]）に記しているように不本意なものであり、「飢餓に及んだとしても」承諾できないとしていた。結婚前に[[水戸徳川家|水戸家]]の[[徳川光圀]]の養子[[徳川綱條|綱條]]との縁談があったが、基熙はこれを断っている。ただし、基熙の伯母[[近衛尋子|泰姫]]は光圀に嫁いでおり、実際に先祖の遺誡があったかどうかは不明である&amp;lt;ref&amp;gt;[[山本博文]]『徳川将軍家の結婚』ISBN 4166604805、72-77p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし幕府からの正式な要請は断ることが出来ず、「無念々々」としながらも縁談を承諾した。このため結婚前に、熙子は[[近衛家]]の[[門葉]]である権[[中納言]][[平松時量]]の養女となって嫁した。この養女縁組は幕府側から見ると、幕府を侮辱する行為以外の何物でもなかったために、近衛親子と時量以外には秘密であった。このため、熙子の扱いは[[近衛家]]の娘のままであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
綱豊との仲は良好だったらしく、2人の子供（長女・[[豊姫 (徳川家宣長女)|豊姫]]、長男・[[夢月院]]）を儲けたが、いずれも夭折する。そのことで彼女は嘆き悲しみ、そのためかいずれの子供も[[徳川氏|徳川家]]とは別に[[日蓮正宗]][[常泉寺]]にて[[戒名]]を授かる。30年後に夫・綱豊は6代将軍に就任、熙子は[[御台所]]として[[江戸城]][[大奥]]に入った。これにより、当時朝廷において閑職にあった父・基熙は将軍の岳父となり、[[1709年]]（宝永6年）には[[江戸時代]]最初の[[太政大臣]]に就任するなど権勢を振るった。このため、[[霊元天皇|霊元法皇]]は基熙を呪詛する願文を[[上御霊神社]]に納め、皇室の影響力を高めるために皇女[[吉子内親王|八十宮吉子内親王]]を家継の[[御台所]]にしようと奔走するようになる&amp;lt;ref name=&amp;quot;yamamotohirofumi&amp;quot;&amp;gt;山本博文『徳川将軍家の結婚』、80p-85&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大奥に入ると夫婦生活は甲府時代とは一変し、憂鬱な生活を送ったといわれている。お喜世の方（のちの[[月光院]]）が[[側室]]に迎えられたことによって、さらに疎遠になった。[[正徳 (日本)|正徳]]2年（[[1712年]]）に夫・家宣は病により没し、熙子も落飾して[[院号]]を天英院と号する。お喜世の方が産んだ[[徳川家継|家継]]が[[将軍宣下]]を受けたのに伴って[[従一位]]を賜り、一位様と呼ばれた。[[月光院]]とは不仲であったといわれ、[[御年寄]]にして月光院の腹心であった[[絵島]]が大奥の門限に遅れた[[江島生島事件]]では、[[老中]]や譜代門閥層と結託して、月光院と[[側用人]]・[[間部詮房]]と[[新井白石]]らの権威失墜を謀ったという説がある。しかしその後は仲も良好になったらしく、家継が病気で危篤状態になり、嘆き悲しんでいた月光院を励ましたと言われている。家継への八十宮降嫁にあたっては、月光院とともに主導的な役割を果たしている&amp;lt;ref name=&amp;quot;yamamotohirofumi&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家継の早世後、紀州藩主の[[徳川吉宗]]を8代将軍に迎えるのに尽力したと言われ、また吉宗に正室が不在だったこともあり、将軍家女性の筆頭としてその後も大奥に権勢を振るい、幕府における発言力も絶大であったといわれる。[[日蓮正宗]][[総本山]][[大石寺]]の[[山門]]（[[三門]]）を寄進した。また、[[浄土宗]]明顕山[[祐天寺]]に[[鐘楼]]を寄進した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[寛保]]元年（[[1741年]]）、76歳で没した。戒名は天英院殿従一位光誉和貞崇仁尊儀。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 容姿と遺品 ==&lt;br /&gt;
熙子は夫と同じく[[増上寺]]に葬られ、戦後墓地が売却されたことにより、その墓は[[1959年]]（昭和34年）4月に発掘調査された。墓の上には石製八角塔が建てられていた。ちなみにそれまで将軍正室の墓の形式はバラバラで、天英院の葬儀以後に正室の墓所の形式が定まったと考えられている。歯が1本も発見されなかったことと、顎の骨の形状から、晩年すべて歯は抜け落ちていて、髪の毛は残存していたが、生前は総白髪になっていたものと推察される。遺体以外の遺品の残存状況は良くなかったが、注目されるのは[[香木]]で作った小さな[[十一面観音]]像があったことである。この像の裏には「奉刻 辛卯 男子 祈祷 梅窓院住 唯然」と彫られていた&amp;lt;ref&amp;gt;『[[増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体]]』 ISBN 4130660519&amp;lt;/ref&amp;gt;。四肢骨から推定した身長は143.2センチメートル、[[ABO式血液型|血液型]]はB型であった。このほか、[[大石寺]]の五重塔脇に熙子の五輪塔が建てられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 8代将軍の指名 ==&lt;br /&gt;
8代将軍に[[徳川吉宗]]を指名したのは天英院だとする説がある。理由として、家宣と吉宗の考え方が一番近かったからだと言われている。天英院は当時の[[江戸城]]内の最高権力者であったが、彼女が吉宗を指名したことに幕閣や[[譜代大名|譜代]]門閥は驚嘆した。大奥の女性が将軍を指名したことはそれまで例がなく、また女性が政治に口出しをすることすら考えられなかったからである。そのため、最初は誰しも難色を示したが、天英院は[[御台所]]としての立場を最大限に生かし、「これは先代将軍家宣公の御本心なのです」と次期将軍に吉宗を強く希望したとされる&amp;lt;ref&amp;gt;[[日本放送協会|NHK]]『[[その時歴史が動いた]]』[[2006年]]放送。「徳川実記」有徳院殿御実記付録巻二。&amp;lt;/ref&amp;gt;。これにより、幕府は将軍不在という異例の危機を逃れることが出来たとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対して、吉宗を推薦したのはライバルの月光院であり、熙子は[[尾張徳川家|尾張家]]の[[徳川継友]]や家宣の実弟・[[松平清武]]を次期将軍として推していたとする説がある&amp;lt;ref&amp;gt;[[卜部典子]]『人物事典 江戸城大奥の女たち』 ISBN 4-404-01577-1&amp;lt;/ref&amp;gt;。ちなみに、[[尾張徳川家|尾張家]]と[[近衛家]]はこの当時縁戚関係を結びつつあった&amp;lt;ref&amp;gt;継友と婚約していたのは。熙子の弟・[[近衛家熙]]の娘安己君である。&amp;lt;/ref&amp;gt;ことは留意される。吉宗時代に入ると、天英院煕子と月光院は仲がよく、むしろ吉宗を推したのは大奥全体であり、尾張の継友を推したのは幕閣であったとも言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[西園寺寧子]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{徳川将軍家御台所}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:このえ ひろこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:近衛家|ひろこ]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸幕府将軍の御台所]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の大名の正室]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の公家]]&lt;br /&gt;
[[Category:1666年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1741年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>121.200.189.39</name></author>
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