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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<title>壇ノ浦の戦い</title>
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		<updated>2014-08-01T10:13:26Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;119.230.76.40: /* 壇ノ浦の戦いを扱った作品 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Battlebox|&lt;br /&gt;
battle_name= 壇ノ浦の戦い&lt;br /&gt;
|campaign= 治承・寿永の乱&lt;br /&gt;
|image= [[ファイル:AntokuTennou Engi.7&amp;amp;8 Dannoura Kassen.jpg|300px]]&lt;br /&gt;
|caption= 『安徳天皇縁起絵図』[[赤間神宮]]所蔵&lt;br /&gt;
|conflict= [[治承・寿永の乱]]&lt;br /&gt;
|date= 元暦2年/寿永4年（[[1185年]]）3月24日&lt;br /&gt;
|place= [[長門国]] 赤間関壇ノ浦 （現[[下関市]]）&lt;br /&gt;
|result= 源氏軍の勝利、平家滅亡&lt;br /&gt;
|combatant1= [[ファイル:Sasa_Rindo.svg|20px]][[源氏]]&lt;br /&gt;
|combatant2= [[ファイル:Ageha-cho.svg|20px]][[平氏]]&lt;br /&gt;
|commander1= [[ファイル:Sasa_Rindo.svg|20px]][[源範頼]]（陸）&amp;lt;br/&amp;gt;[[ファイル:Sasa_Rindo.svg|20px]][[源義経]]（海）&lt;br /&gt;
|commander2= [[ファイル:Ageha-cho.svg|20px]][[平宗盛]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[ファイル:Ageha-cho.svg|20px]][[平知盛]]&lt;br /&gt;
|strength1= 船数：830艘 （3000艘とも言われている）&lt;br /&gt;
|strength2= 船数：500艘 （1000艘とも言われている）&lt;br /&gt;
|casualties1= 不明&lt;br /&gt;
|casualties2= 壊滅&lt;br /&gt;
|}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;壇ノ浦の戦い&#039;&#039;&#039;（だんのうらのたたかい）は、[[平安時代]]の末期の[[元暦]]2年/[[寿永]]4年[[3月24日 (旧暦)|3月24日]]（[[1185年]][[4月25日]]）に[[長門国]]赤間関[[壇ノ浦]]（現在の[[山口県]][[下関市]]）で行われた戦闘。栄華を誇った[[伊勢平氏|平家]]が滅亡に至った[[治承・寿永の乱]]の最後の戦いである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 背景 ==&lt;br /&gt;
[[寿永]]2年（[[1183年]]）7月、[[源義仲]]に攻められた平氏は[[安徳天皇]]と[[三種の神器]]を奉じて[[京都|都]]を落ちるが、その後の鎌倉政権の[[源頼朝]]と義仲との対立に乗じて[[摂津国]][[福原京|福原]]まで復帰した。しかし、寿永3年/[[治承]]8年（[[1184年]]）2月の[[一ノ谷の戦い]]で大敗を喫して、海に逃れ[[讃岐国]][[屋島]]と[[長門国]][[彦島]]（[[山口県]][[下関市]]）に拠点を置いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鎌倉政権は頼朝の弟[[源範頼|範頼]]に3万騎を率いさせて[[山陽道]]を進軍して[[九州]]に渡り[[平氏]]軍の背後を遮断する作戦を実行する。だが、範頼軍は兵糧の不足と優勢な[[水軍]]を有する平氏軍の抵抗によって進軍が進まなくなった。この状況を見た[[源義経|義経]]は[[後白河天皇|後白河法皇]]に平氏追討を願い許可を得ると都の公家達の反対を押し切って屋島へ出撃した&amp;lt;ref&amp;gt;従来はこの出陣は『吾妻鏡』元暦2年（1185年）4月21日条、5月5日条の記載に基づき頼朝の命令によって行なわれたとみなされていた。しかし下記のことからこれに疑義を示す見解が強まっている。『吾妻鏡』元暦2年正月6日条には、範頼に宛てた同日付の頼朝書状が記載されている。その内容は性急な攻撃を控え、天皇・神器の安全な確保を最優先にするよう念を押したものだった。一方、義経が出陣したのは頼朝書状が作成された4日後であり（『吉記』『百錬抄』正月10日条）、屋島攻撃による早期決着も頼朝書状に記された長期戦構想と明らかに矛盾する。吉田経房が「郎従（土肥実平・梶原景時）が追討に向かっても成果が挙がらず、範頼を投入しても情勢が変わっていない」と追討の長期化に懸念を抱き「義経を派遣して雌雄を決するべきだ」と主張していることから考えると、屋島攻撃は義経の「自専」であり、平氏の反撃を恐れた院周辺が後押しした可能性が高い。『平家物語』でも義経は自らを「一院の御使」と名乗り、伊勢義盛も「院宣をうけ給はって」と述べている。これらのことから、頼朝の命令で義経が出陣したとするのは、平氏滅亡後に生み出された虚構であるとする見解もある（宮田敬三「元暦西海合戦試論-「範頼苦戦と義経出陣」論の再検討-」『立命館文学』554、1998年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[元暦]]2年/[[寿永]]4年 （[[1185年]]）2月、義経は奇襲によって屋島を攻略（[[屋島の戦い]]）。平氏総大将の[[平宗盛]]は安徳天皇を奉じて海上へ逃れて[[志度合戦|志度]]に立て籠もったが、そこも義経軍に追われ、瀬戸内海を転々としたのち彦島に拠った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、範頼軍は兵糧と兵船の調達に成功して九州に渡り、同地の平氏方を[[葦屋浦の戦い]]で破り、平氏軍の背後の遮断に成功。平氏軍は彦島に孤立してしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 合戦の経過 ==&lt;br /&gt;
[[鎌倉幕府]]編纂の歴史書である『[[吾妻鏡]]』には壇ノ浦の戦いについては元暦二年三月二十四日の条で「長門国赤間関壇ノ浦の海上で三町を隔て船を向かわせて源平が相戦う。平家は五百艘を三手に分け[[山鹿秀遠]]および松浦党らを将軍となして源氏に戦いを挑んだ。午の刻に及んで平氏は敗北に傾き終わった。」とのみ簡潔に書かれており、合戦の具体的な経過は分からない。そのため信憑性には難があるものの『[[平家物語]]』『[[源平盛衰記]]』などの[[軍記物語]]を基に巷間で信じられている合戦の経過を述べることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、以下の経過は[[大正時代]]に[[黒板勝美]][[東京大学|東京帝国大学]]教授が提唱して以来、広く信じられている[[#潮流説|潮流説]]に基づいている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 開戦 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:壇ノ浦の戦い.png|thumb|360px|壇ノ浦の戦い戦況推移図[[media:壇ノ浦の戦い.png|拡大]]]]&lt;br /&gt;
彦島の平氏水軍を撃滅すべく、義経は[[摂津国]]の[[渡辺水軍]]、[[伊予国]]の[[河野水軍]]、[[紀伊国]]の[[熊野水軍]]などを味方につけて840艘（『吾妻鏡』）の水軍を編成する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『平家物語』によれば、合戦前の軍議で軍監の[[梶原景時]]は合戦の先陣になることを望むが、義経は自らが先陣に立つとはねつけた。景時は「大将が先陣なぞ聞いた事がない。将の器ではない」と義経を愚弄して斬りあい寸前の対立となり、これが後の景時の頼朝への讒言となり、義経の没落につながるとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平氏軍は500艘（『吾妻鏡』）で、[[松浦党]]100余艘、山鹿秀遠300余艘、平氏一門100余艘（『平家物語』）の編成であった。宗盛の弟の[[平知盛|知盛]]が大将として指揮を取ることになった。『平家物語』によれば知盛は通常は安徳天皇や平氏本営が置かれる大型の唐船に兵を潜ませて鎌倉方の兵船を引き寄せたところを包囲する作戦を立てていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月24日、攻め寄せる義経軍水軍に対して、知盛率いる平氏軍が彦島を出撃して、午の刻（12時ごろ）（『[[玉葉]]』による、『吾妻鏡』では午前）に[[関門海峡]]壇ノ浦で両軍は衝突して合戦が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
範頼軍は3万余騎（『源平盛衰記』）をもって陸地に布陣して平氏の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。『平家物語』によれば[[和田義盛]]は馬に乗り渚から沖に向けて遠矢を二町三町も射かけたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 平氏優勢 ===&lt;br /&gt;
関門海峡は潮の流れの変化が激しく、水軍の運用に長けた平氏軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗ってさんざんに矢を射かけて、[[海戦]]に慣れない坂東武者の義経軍を押した。義経軍は[[満珠島・干珠島]]のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平氏軍は義経を討ち取ろうと攻めかかる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで不利を悟った義経が敵船の水手・梶取（漕ぎ手）を射るよう命じ、この時代の海戦では非戦闘員の水手・梶取を射ることは戦の作法に反する行為だったが、義経はあえてその掟破りを行って戦況が変化したとする話がドラマや小説等によく見られる。しかし『平家物語』では義経が水手・梶取を射るよう命じる場面はなく、もはや大勢が決した「先帝身投」の段階で源氏の兵が平氏の船に乗り移り、水手や船頭を射殺し、斬り殺したと描かれている&amp;lt;ref&amp;gt;上杉和彦『日本の戦争史 6 源平の争乱』P224参照。なお[[安田元久]]は、「このとき義経は、当時としては破天荒の戦術をとった。すなわち彼は部下に命じて、敵の戦闘員には目もくれず、兵船をあやつる水手・梶取のみを目標に矢を射かけさせたのである」（『日本の武将7　源義経』人物往来社、1966年）という独自の見解を示している。根拠が不明であり仮説・推測の域を出ていないが、非戦闘員を射殺する義経の卑怯な戦法という解釈はここから生まれたと思われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また『平家物語』では[[田口成良|阿波重能]]の水軍300艘が寝返って平氏軍の唐船の計略を義経に告げ、知盛の作戦は失敗し平氏の敗北は決定的になったとする。『吾妻鏡』によれば、阿波重能は合戦後の捕虜に含まれており、実情は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 源氏の反攻と平氏滅亡 ===&lt;br /&gt;
やがて、潮の流れが変わって反転すると、義経軍はこれに乗じて平氏軍を押しまくる。平氏軍は壊滅状態になり、勝敗は決した。敗北を悟った平氏一門は次々と海上へ身を投じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『平家物語』には平氏一門の最後の様子が描かれている。知盛は[[平徳子|建礼門院]]や[[平時子|二位尼]]らの乗る女船に乗り移ると「見苦しいものを取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」と笑った。これを聞いた二位尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、[[天叢雲剣|宝剣]]を腰にさし、[[八尺瓊勾玉|神璽]]を抱えた。安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位尼は「[[極楽|弥陀の浄土]]へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じた。『吾妻鏡』によると二位尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとある。続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武将たちも覚悟を定め、[[平教盛|教盛]]は入水、[[平経盛|経盛]]は一旦陸地に上がって出家してから還り海に没した。[[平資盛|資盛]]、[[平有盛|有盛]]、[[平行盛|行盛]]も入水している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平家の総帥宗盛も嫡男の[[平清宗|清宗]]と入水するが、命を惜しんで浮かび上がり水練が達者なために泳ぎ回っていたところを義経軍に捕らえられてしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
剛の者である[[平教経|教経]]は、鬼神の如く戦い坂東武者を討ち取りまくるが、知盛が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えた。教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまった。義経の「八艘飛び」である。義経を取り逃がした教経に大力で知られる[[安芸真光|安芸太郎]]が討ち取って手柄にしようと同じく大力の者二人と組みかかった。教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んだ。『平家物語』に描かれた平氏随一の猛将として知られ屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで義経を苦しめた教経の最後だが、『吾妻鏡』によれば教経はこれ以前の一ノ谷の戦いで討ち死にしているという記述がある。しかし、『[[醍醐雑事記]]』には壇ノ浦で没した人物の一人として教経の名が挙げられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
知盛は「見るべき程の事は見つ」とつぶやくと、鎧二領を着て[[乳兄弟]]の[[平家長]]と共に入水した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
申の刻（16時ごろ）（『玉葉』による。『吾妻鏡』では午の刻（12時ごろ））平氏一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは源氏の勝利に終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、この戦いで平氏一門は政治勢力としては滅亡したが、一般的なイメージとは異なり一門そのものは断絶することなくその後も続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Gallery&lt;br /&gt;
|ファイル:Dannoura.JPG|壇ノ浦|ファイル:Dan-no-ura kosen-jo.JPG|壇ノ浦古戦場址の碑（[[みもすそ川公園]]）|ファイル:Kanmon-day.jpg|[[火の山公園]]から見た関門海峡|ファイル:Mural painting of a Battle of Dan-no-ura.JPG|義経の八艘飛びを描いた壁画（[[和布刈公園]]）|ファイル:Heikenoippaimizu.JPG|下関市前田町の「平家の一杯水」&amp;lt;ref&amp;gt;壇ノ浦の戦いで深傷を負った平家の武将が水溜まりを見つけ、飲んでみると真水だった。もう一口飲もうとしたら塩水になっていたという伝説が残る。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:The ghost of Taira Tomomori.jpg|thumb|300px|壇ノ浦で沈んだ平氏の亡霊を描いた、[[歌川国芳]]による[[浮世絵]]。左には亡霊にまとわりつかれている[[ヘイケガニ]]が、右には[[薙刀]]を持った[[平知盛]]が描かれている。]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
入水した建礼門院は助け上げられ、内侍所（[[八咫鏡]]）と神璽（[[八尺瓊勾玉]]）は回収されたが、二位尼とともに入水した安徳天皇は崩御し、宝剣（[[天叢雲剣]]）も海に没した（別説あり）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安徳天皇の異母弟の[[守貞親王]]（安徳天皇の皇太子に擬されていた）は救出された。平氏一門のうち宗盛、清宗、それに平家と行動をともにしていた[[平時忠]]（二位尼の弟）、[[平時実]]、[[平信基]]、[[藤原尹明]]といった廷臣、[[能円]]、[[全真]]、[[良弘]]、[[忠快]]、[[行命]]といった僧侶、[[平盛国]]、[[平盛澄]]、[[源季貞]]らの武将、[[大納言典侍]]、[[帥典侍]]、[[治部卿局]]、[[按察使局伊勢|按察使局]]らの女房が捕虜となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経は建礼門院と守貞親王それに捕虜を連れて京へ戻り、範頼は九州に残って戦後の仕置きを行うことになった。義経は[[京都|京]]に凱旋し、後白河法皇はこれを賞して義経とその配下の[[御家人]]たちを任官させた。これを知った頼朝は激怒して、任官した者たちの東国への帰還を禁じる。さらに、九州に残っていた梶原景時から頼朝へ、平氏追討の戦いの最中の義経の驕慢と専横を訴える書状が届き、義経が平時忠の娘を娶ったことも知らされ、頼朝を怒らせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元暦2年（1185年）5月、命令に反して義経は宗盛・清宗父子を護送する名目で[[鎌倉]]へ向かうが、腰越で止められてしまう。宗盛父子のみが鎌倉へ送られ頼朝と対面する。義経は[[腰越状]]を書いて頼朝へ許しを乞うが、同年6月に宗盛父子とともに京へ追い返されてしまう&amp;lt;ref&amp;gt;『吾妻鏡』によると義経は腰越から鎌倉に入れて萌えないとされている。一方延慶本『平家物語』では義経は一旦鎌倉蔵に入り頼朝と対面するが、鎌倉のはずれに止め置かれた後義経は都に戻ったとある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。宗盛・清宗父子は京への帰還途上の[[近江国]]で斬首された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、義経と頼朝との対立が強まり、同年10月に後白河法皇に奏上して頼朝追討の[[宣旨]]を出させて挙兵するが失敗。逆に追討の宣旨を出されて没落して[[奥州藤原氏]]の元へ逃れるが、[[文治]]5年（[[1189年]]）閏4月に[[平泉町|平泉]]で殺された（[[奥州合戦]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
合戦後ほどなく建礼門院は[[出家]]し大原に隠棲した。守貞親王はすでに[[皇位継承|皇位への道]]は断たれており、後に出家している。平時忠は[[能登国]]へ[[流罪]]となり、当地で死去した（時忠の子[[平時実|時実]]は後に赦免されて帰京している）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この戦いにより、平氏（[[伊勢平氏]]の[[平清盛]]一族）は25年にわたる[[平氏政権]]の幕を閉じた。勝利を収めた[[清和源氏]]の頭領・源頼朝は、鎌倉に[[鎌倉幕府|幕府]]を開き[[武家政権]]を確立させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 両軍の構成 ==&lt;br /&gt;
* [[源家]]側&lt;br /&gt;
** 総大将：陸:源範頼、海:源義経&lt;br /&gt;
** 船数：800艘（[[吾妻鏡]]説）・3000艘（[[平家物語]]説）&lt;br /&gt;
** 参加武将：[[梶原景時]]、[[湛増|熊野別当湛増]]、[[河野通信]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[平家]]側&lt;br /&gt;
** 総大将：平宗盛&lt;br /&gt;
** 船数：500艘（吾妻鏡説）・1000艘（平家物語説）&lt;br /&gt;
** 参加武将：[[平知盛]]・[[平経盛]]・[[平教盛]]・[[平教経]]・[[平資盛]]・[[平有盛]]・[[平行盛]]・[[平時忠]]・[[平清宗]]・[[藤原景清]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 潮流説 ==&lt;br /&gt;
関門海峡の潮の流れの変化が壇ノ浦の戦いの勝敗を決したと信じられている。しかし、潮流に関しては、合戦について簡潔にしか記していない『吾妻鏡』にはもちろん触れられていない。軍記物語の『平家物語』では「門司関、壇ノ浦はたぎり落ちる汐なれば、平家の船は汐に逢って出て来たる。源氏の船は汐に向かって押され」と記されており、平氏が追い潮、源氏が向かい潮で戦ったことは述べられているが、潮流が反転して戦況を転換させたとまでの筋立てにはなっていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在知られる合戦への潮流の影響は[[大正]]3年（1914年）に[[黒板勝美]][[東京大学|東京帝国大学]]教授が著書『義経伝』で提唱した説である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
合戦が行われた時間については『吾妻鏡』は午の刻（12時ごろ）に終わったと記しており、一方、[[関白]][[九条兼実]]の日記である『[[玉葉]]』には午の刻（12時ごろ）に始まり、申の刻（16時ごろ）に終わったと記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
黒板勝美は[[水路部 (日本海軍)|海軍水路部]]の元暦2年3月24日（[[ユリウス暦]]で5月2日）の関門海峡の潮流の調査を元に、午前8時30分に西への潮流が東へ反転して、午前11時頃に8ノットに達し、午後3時頃に潮流は再び西へ反転することを明らかにし、合戦が行われた時間帯は『玉葉』の午の刻（12時ごろ）から申の刻（16時ごろ）が正しく合戦は午後に行われたとして、潮流が東向きだった時間帯は平氏が優勢で、反転して西向きになって形勢が逆転して源氏が優勢になったとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
黒板勝美の説は壇ノ浦の戦いについて初めて科学的な検証を行ったものであり、最も権威のあるものとして定説化して広く信じられるようになった。小説、観光パンフレット類やテレビドラマはもちろん、源平合戦を扱った歴史関係書籍でもこの黒板説を元に壇ノ浦の戦いが記述されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この黒板説については、近年になって反論が出され、海事史の[[金指正三]]博士は潮流のコンピュータ解析を行い、合戦の行われた日は小潮流の時期で、8ノットという早い潮流は無く、また大正時代に潮流を調査した場所は最も狭い[[早鞆瀬戸]]であり（ここで千艘以上の兵船で戦うことは不可能）、広い[[満珠島・干珠島]]辺りの海域では潮流は1ノット以下であり合戦に影響を与えるものではないとした&amp;lt;ref&amp;gt;実証　壇の浦の合戦「NHK歴史への招待 6巻 義経騎馬軍団 壇ノ浦合戦」（日本放送出版協会）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[海上保安庁]]の潮流の調査に基づいても、合戦の行われた早鞆瀬戸より東側の海域では1ノット以下という結果が出ている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
船舶史の[[石井謙治]]は同じ潮流に乗っている船の[[相対速度]]は変わらないので、潮流は合戦には影響しないと述べている&amp;lt;ref&amp;gt;石井謙治『和船 II』（[[法政大学出版局]]、1995年） ISBN 4-588-20762-8　V 海と船のこぼれ話　2 壇の浦合戦と潮流　p233~p237&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[飯島幸人]][[東京商船大学]]名誉教授も船同士の相対運動に潮流は関係ないとして潮流説に否定的な見解を述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そもそも、鎌倉幕府による記録である『吾妻鏡』の記述を否定すべきではなく、『吾妻鏡』のとおり、合戦は午前に行われ午の刻（12時ごろ）に終わったとする説も根強い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 天叢雲剣水没説 ==&lt;br /&gt;
『[[吾妻鏡]]』の壇ノ浦の戦いの元暦二年三月二十四日の条で「二位尼は宝剣を持って、按察の局は先帝（安徳天皇）を抱き奉って、共に海底に没する。」とあり、[[平家物語]]にも同様の記述がある。また戦いの後の元暦二年四月十一日の条に戦いでの平氏方の戦死者、捕虜の報告に続いて「内侍所（[[八咫鏡]]）と神璽（[[八尺瓊勾玉]]）は御座すが。宝剣（[[天叢雲剣]]）は紛失。愚虜をもってして捜し奉る。」と記されており、一般的には三種の神器のうち天叢雲剣は壇ノ浦の戦いで一度失われていると考えられている。[[小説]]や[[テレビドラマ]]などでもこのように描かれており、[[2005年]][[大河ドラマ]]『[[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]]』の第35回「決戦・壇ノ浦」では[[松坂慶子]]扮する時子（二位尼）が安徳天皇と天叢雲剣を抱いて海に没して、剣が海底に失われる描写がされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もっともこの時失われた天叢雲剣は、宮中の儀式に使われる模造品（形代）であり、本物は[[熱田神宮]]に保管されており失われていないという説もある。[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[1991年]]の[[年末時代劇スペシャル]]の『[[源義経 (1991年のテレビドラマ)|源義経]]』においては、この説が採用されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 近年の研究 ==&lt;br /&gt;
菱沼一憲（[[国立歴史民俗博物館]]科研協力員）は著書『源義経の合戦と戦略 &amp;lt;small&amp;gt;その伝説と実像&amp;lt;/small&amp;gt;』（角川選書、2005年）で、この合戦について以下の説を述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文治元年（1185年）2月、屋島の戦いに勝利した義経は、1箇月かけて軍備を整えつつ[[河野通信]]や[[船所正利]]など水軍勢力を味方に引き入れ、瀬戸内海の制海権を握っていった。一方、[[平家]]の残る拠点は彦島のみであり、兵糧・兵器の補充もままならない状況であった。また、[[豊後]]へ渡った[[源範頼]]軍によって九州への退路も塞がれていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正午頃、戦いが始まった。両軍とも、できるだけ潮流に左右されずに操船できる時間帯を選んだのであろう。平家方は序盤は[[鎌倉]]方が静まり返るほど矢を射かけて互角以上に戦っていたが、射尽すと逆に水上からは義経軍に、陸上からは範頼軍に射かけられるままとなり、防御装備の貧弱な水手・梶取たちから犠牲となっていった。この結果、平家方の船は身動きが取れなくなり、平家方不利と見た諸将は鎌倉方に雪崩を打って寝返った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
敗戦を覚悟した平家一門は次々と海へ身を投げていった。これは、範頼軍の九州制圧、義経軍の四国制圧、鎌倉方による瀬戸内海制海権の奪取という包囲・孤立化の完成に伴う必然的結末であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 森本 繁『源平 海の合戦 &amp;lt;small&amp;gt;史実と伝承を紀行する&amp;lt;/small&amp;gt;』（[[新人物往来社]]、2005年） ISBN 4-404-03233-1&lt;br /&gt;
* 菱沼一憲『源義経の合戦と戦略 &amp;lt;small&amp;gt;その伝説と実像&amp;lt;/small&amp;gt;』（角川選書、2005年） ISBN 4-04-703374-X&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Battle of Dan-no-ura}}&lt;br /&gt;
* [[日本史の出来事一覧]]&lt;br /&gt;
* [[日本の合戦一覧]]&lt;br /&gt;
* [[平氏政権]]&lt;br /&gt;
* [[赤間神宮]]&lt;br /&gt;
* [[平家の落人]]&lt;br /&gt;
* [[全国平家会]]&lt;br /&gt;
* [[壇ノ浦夜合戦記]]&lt;br /&gt;
* [[ヘイケガニ]]&lt;br /&gt;
*[[大歳神社 (下関市)]]&lt;br /&gt;
*[[耳なし芳一]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 壇ノ浦の戦いを扱った作品 ==&lt;br /&gt;
;歌謡曲&lt;br /&gt;
* 壇の浦決戦 （[[三波春夫]]）&lt;br /&gt;
;漫画&lt;br /&gt;
* [[火の鳥 (漫画)|火の鳥 乱世編]]（[[手塚治虫]]）&lt;br /&gt;
;ビデオゲーム&lt;br /&gt;
* [[源平討魔伝]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たんのうらのたたかい}}&lt;br /&gt;
[[Category:治承・寿永の乱の戦闘]]&lt;br /&gt;
[[Category:北九州市の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:下関市の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:海戦]]&lt;br /&gt;
[[Category:水軍]]&lt;br /&gt;
[[Category:チョークポイント|+]]&lt;br /&gt;
[[Category:1185年]]&lt;/div&gt;</summary>
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