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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-08-29T21:39:26Z</updated>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE&amp;diff=55772</id>
		<title>阿南惟幾</title>
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		<updated>2014-08-24T03:35:54Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;118.83.32.180: 娘の名前を記入&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 軍人&lt;br /&gt;
| 氏名       = 阿南 惟幾&lt;br /&gt;
| 各国語表記 = &lt;br /&gt;
| 生年月日   = {{生年月日と年齢|1887|2|21|no}}&lt;br /&gt;
| 没年月日   = {{死亡年月日と没年齢|1887|2|21|1945|8|15}}&lt;br /&gt;
| 画像       = Korechika Anami.jpg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ = &lt;br /&gt;
| 画像説明   = 阿南惟幾&lt;br /&gt;
| 渾名       = &lt;br /&gt;
| 生誕地     = {{JPN}} [[東京市]] [[牛込]][[箪笥町]]&lt;br /&gt;
| 死没地     = {{JPN}} [[東京都]]&lt;br /&gt;
| 所属組織   = {{IJARMY}}&lt;br /&gt;
| 軍歴       = 1905 - 1945&lt;br /&gt;
| 最終階級   = [[陸軍大将]]&lt;br /&gt;
| 除隊後     = &lt;br /&gt;
| 墓所       = &lt;br /&gt;
| 署名       = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;阿南 惟幾&#039;&#039;&#039;（あなみ これちか、[[明治]]20年（[[1887年]]）[[2月21日]] - [[昭和]]20年（[[1945年]]）[[8月15日]]）は、[[大日本帝国|日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]。[[陸軍大将]][[正三位]][[勲一等]][[功三級]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1945年4月に[[鈴木貫太郎内閣]]の[[陸軍大臣]]に就任した。[[太平洋戦争]]末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府において戦争継続を主張したが、聖断による[[ポツダム宣言]]受諾が決定され、8月15日に自殺した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[大分県]][[竹田市]][[玉来]]出身であった父の阿南尚は[[内務省 (日本)|内務]][[官吏]]として転勤を繰り返したため、幼少時は[[東京]]、大分の竹田、[[徳島]]などを転々としながら育った。本籍は竹田市に置かれている。早くから陸軍[[将校]]を志望していたが、[[徳島県立城南高等学校|徳島中学校]]2年生の時に、当時[[第11師団 (日本軍)|第11師団]]長であった[[乃木希典]][[中将|陸軍中将]]の助言もあって[[陸軍幼年学校]]を受験して合格した。阿南は乃木を終生の模範として仰いでいる。幼年学校を経て、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]（18期）、[[陸軍大学校]]（30期）を卒業。陸大の入学試験には3度失敗しており、卒業の席次も60人中18番と目立つものではなかった。1929年（昭和4年）8月1日から1933年（昭和8年）8月1日までは[[侍従武官]]を務めており、当時の[[侍従長]]は[[鈴木貫太郎]]であった。阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念を抱き、その鈴木への気持ちは終生変わるところがなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
侍従武官を辞した後は[[近衛歩兵第2連隊]]長を経て[[東京陸軍幼年学校]]長となった。1936年（昭和11年）2月26日に[[二・二六事件]]が発生し、鈴木侍従長も襲撃され重傷を負った。阿南は、幼年学校生徒への訓話で「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず[[軍服]]を脱ぎ、しかる後に行え」と叛乱将校を厳しく批判し、軍人は政治にかかわるべきでないと説いている。陸軍内の派閥に属しておらず政治的に無色であったことが評価され、8月に新設された[[陸軍省]][[陸軍省#兵務局|兵務局]]長に就任し、さらに翌1937年（昭和12年）には[[陸軍省#人事局|陸軍省人事局]]長に任ぜられた。人望や職務への精勤ぶりへの評価が徐々に高まり、「同期に阿南あり」と言われるようになった。1939年（昭和14年）10月から1941年（昭和16年）4月には[[陸軍次官]]を務めた。この間には[[日独伊三国同盟]]に反対していた[[米内内閣]]に対して陸軍が反発し、[[畑俊六]]陸軍大臣を辞職させ[[陸軍三長官]]が後任を推薦しないことで米内内閣を倒閣する事件が起きている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 終戦時の陸軍大臣 ===&lt;br /&gt;
[[Image:AnamiKorechika.jpg|thumb|侍従武官時代の阿南[[大佐|陸軍歩兵大佐]]。[[銀色]]の[[飾緒#大日本帝国陸海軍|侍従武官飾緒]]を佩用している。]]&lt;br /&gt;
[[太平洋戦争]]（[[大東亜戦争]]）の敗戦が自明なものとなっていた1945年4月、[[枢密院 (日本)|枢密院議長]]の[[鈴木貫太郎]]に[[大命降下]]し、阿南は鈴木内閣の陸相に就任した。これについては[[小磯内閣]]の最末期、[[本土決戦]]へ向けた[[第1総軍 (日本軍)|第1総軍]]新設に際して、[[陸軍三長官|三長官会議]]が[[小磯國昭]]首相に無断で[[杉山元]]陸相をその総司令官として閣外に転出させ、阿南を後任陸相とすることを決定したことに対し、[[予備役]]陸軍大将の小磯首相が現役復帰による陸相兼摂を要求して容れられず、内閣総辞職となった経緯がある。鈴木内閣では、和平派の鈴木と、本土決戦を標榜する陸軍を代表する阿南は、閣議や戦争指導会議において対立することが多かったが、陸軍の倒閣運動を押さえ込むことで鈴木を支えてもいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
終戦について激しい議論が展開された閣議の合間、阿南は閣僚の一人であり同じ陸軍出身で同期の[[安井藤治]]国務相に「自分はどんなことがあっても鈴木総理と最後まで事を共にするよ。どう考えても国を救うのはこの鈴木内閣だと思う」と語っている。また終戦への基本方針が天皇の第一回目の聖断によって決まった8月9日の御前会議終了後に、鈴木首相に「総理、この決定でよいのですか、約束が違うではないですか」と激しく詰め寄る[[吉積正雄]]陸軍軍務局長に、「吉積、もうよい」と言って何度もたしなめている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
阿南は[[梅津美治郎]][[参謀総長]]とともに戦争の継続と[[本土決戦]]を強硬に主張したが、昭和天皇の[[聖断]]によって最後には陸相として[[玉音放送|終戦の詔書]]に同意した。終戦の詔書の作成においては陸軍の立場から「戦局日ニ非ニシテ」を「戦局必スシモ好転セス」とするなどの字句修正を求めた。終戦の詔勅に署名したのち阿南は鈴木首相のもとを訪れ「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍を代表して強硬な意見ばかりを言い、本来お助けしなければいけない総理に対してご迷惑をおかけしてしまいました。ここに謹んでお詫びを申し上げます。自分の真意は皇室と国体のためを思ってのことで他意はありませんでしたことをご理解ください」と述べた。鈴木は「それは最初からわかっていました。私は貴方の真摯な意見に深く感謝しております。しかし阿南さん、陛下と日本の国体は安泰であり、私は日本の未来を悲観はしておりません」と答え、阿南は「私もそう思います。日本はかならず復興するでしょう」といい、愛煙家の鈴木に、南方の第一線から届いたという珍しい葉巻を手渡してその場を去った。鈴木は「阿南君は別れを告げに来たんだね」とつぶやいている。また阿南は、最も強硬に和平論を唱えて阿南と最も激しく対立した[[東郷茂徳]]外相に対しても、「色々と御世話になりました」と礼を述べて去っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍務局幕僚を中心とする強硬派は、11日頃から和平派閣僚を逮捕、近衛師団を用いて宮城を占拠するクーデター計画をねっていた。これに賛同を求められた阿南は、梅津の賛同を条件としたが、14日朝に梅津から反対の意を伝えられた。14日正午過ぎに首相官邸閣議室において義弟の[[竹下正彦]]中佐らから陸相辞任による内閣総辞職、さらに再度クーデター計画「兵力使用第二案」への同意を求められたが、阿南はこれを退けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月14日午後には、陸軍省の[[道場]]で[[剣道]][[範士]][[斎村五郎]]と面会し、短時間剣道の稽古をしている&amp;lt;ref&amp;gt;早瀬利之『気の剣　剣聖十段斎村五郎』355頁、スキージャーナル&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[8月15日]]未明、[[ポツダム宣言]]の最終的な受諾返電の直前に陸相官邸で[[切腹|切腹（自刃）]]した。[[介錯]]を拒み早朝に絶命している。「阿南陸相は、5時半、自刃、7時10分、絶命」との記録もある&amp;lt;ref&amp;gt;別宮暖朗著終戦クーデーター近衛師団長殺害事件の謎 P.235&amp;lt;/ref&amp;gt;。遺書には、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」と記されていた。[[辞世]]の句は、「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」とあり、これは[[1938年]]（昭和13年）の[[第109師団 (日本軍)|第109師団]]長への転出にあたり、昭和天皇と2人きりで会食した際に、その感激を詠ったものである。阿南は昭和天皇からは「あなん」と呼ばれていた。阿南の葬儀に[[昭和天皇]]は勅使を派遣していない&amp;lt;ref&amp;gt;別宮暖朗著終戦クーデーター近衛師団長殺害事件の謎 P.238&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
阿南の同意を得ぬまま8月14日深夜に始まった[[宮城事件]]は、15日のうちに失敗に終わった。阿南は8月14日の三長官会議で既に罷免が決まっておりクーデターを積極的に支援することができなかったとの意見もある&amp;lt;ref&amp;gt;別宮暖朗著終戦クーデーター近衛師団長殺害事件の謎 PP.231-232&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
阿南が自刃したと聞いた[[東郷茂徳]]外相は、「そうか、腹を切ったか。阿南というのは本当にいい男だったな」と涙ながら語り、鈴木貫太郎は「真に国を思ふ誠忠の人でした」と評した。阿南と閣議において対立した[[米内光政]]海相も「我々は立派な男を失ってしまった」と語った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の[[内閣]]制度発足後、現職閣僚が[[自殺]]したのはこれが初めてであった。その後も2007年に[[第1次安倍内閣|安倍内閣]]にて[[松岡利勝]][[農林水産大臣|農水大臣]]（当時）が自殺するまで、62年間も現職閣僚の自殺はなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家族 ==&lt;br /&gt;
長男（早世）、次男・惟晟（[[少尉|陸軍少尉]]、[[1943年]]（昭和18年）[[戦死]]）、三男・惟敬（元[[防衛大学校]][[教授]]）、四男・[[阿南惟正|惟正]]（元[[新日本製鐵]]副社長、[[靖国神社]][[氏子]]総代）、五男・[[野間惟道|惟道]]（野間家へ養子、元[[講談社]]社長）、六男・[[阿南惟茂|惟茂]]（元駐[[中華人民共和国|中国]][[大使]]）。 娘・聡子は[[大國昌彦]]元[[王子製紙]]社長の妻。[[竹下平作]]陸軍中将の二女であった夫人の綾子は戦後に[[出家]]し[[長野県]]で夫を含む戦没者の菩提を弔う余生を送った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 終戦時の阿南の立場をめぐる議論==&lt;br /&gt;
戦時最後の陸相を務めた阿南の真意をめぐって諸説あり意見が分かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時[[書記官長]]であった[[迫水久常]]は、終戦を望む天皇の真意を汲み、暗黙裏に鈴木貫太郎首相と協力して終戦計画を遂行したと述べている。この説では、降伏に反発する軍の暴発を阻止するため、自身は強硬な言動をとって継戦派を装っていたとする。そうした阿南の表裏は、鈴木が一番よく承知していたと迫水は推測している。阿南が当初から降伏を認めていれば、強硬派に辞職を強要され、[[軍部大臣現役武官制]]により新任の大臣を出さないことで鈴木内閣の総辞職が必至で、この時点での降伏は実現しなかったとみられる。また阿南が本心から継戦派であったなら、自ら辞職して鈴木内閣を葬ることは簡単であったはずである。これは[[腹芸]]説と呼ばれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一つの説は、閣議における発言そのままに継続、本土決戦を望んでいたとする考えである。「ポツダム宣言反対のための自刃」と評価される根拠となっている（そもそも[[日本本土空襲|日本本土への空襲攻撃]]の激化、[[日本への原子爆弾投下|原子爆弾投下]]、[[ソ連対日参戦|ソ連軍参戦]]という逼迫した状況の中で陸相が腹芸を打って陸軍幹部を煙に巻いているような余裕などあるはずがない、との分析）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、[[憲兵 (日本軍)|憲兵隊本部]]に国民総綱紀粛正のスローガンを掲げさせておきながら、その憲兵がスパイ工作によって摘発してきた和平派の急先鋒の[[吉田茂]]の釈放に尽力している。一方で、臨終の際&#039;&#039;&#039;「米内&#039;&#039;&#039;（終戦を支持していた[[米内光政]][[海軍大臣]]のこと）&#039;&#039;&#039;を斬れ。」&#039;&#039;&#039;と口走っていることなどから実際は最後まで継戦派であったのではないかと（クーデター計画（宮城事件）の真の首謀者だったのではないかという説さえ一部にある）その真意とするところをめぐり議論がある。しかし米内への最後の発言については、自決直前の阿南は今生の別れにとかなり酒を飲んで気持ちが酩酊しており、単に阿南の米内への個人的感情によるものだったとする説が有力である。米内と同じく和平派だった鈴木や東郷に対しては、阿南は前述のように自決前に礼儀正しく和やかな別れを告げに訪れている。平生から阿南は米内の人柄を好まなかったようである。ただこれは阿南の側からの一方的なもので、阿南の自決直後、米内は誰よりも早く阿南の弔問に訪れている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
阿南の部下であり、その自刃にも立ち会った[[井田正孝]][[中佐|陸軍中佐]]によれば、阿南が求めていたのはただ[[国体]]護持のみであり、その目的のためあらゆる可能性を残しておくべく、抗戦派・終戦派の何れにも解釈できる態度を取っていた、との見解を示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
* 明治33年（[[1900年]]）9月 - [[広島陸軍地方幼年学校]]卒業。&lt;br /&gt;
* 明治38年（[[1905年]]）11月 - 陸軍士官学校卒業（18期）。&lt;br /&gt;
* 明治39年（[[1906年]]）6月 - [[少尉|陸軍歩兵少尉]]に任官。[[歩兵第1連隊]]附。&lt;br /&gt;
* 明治41年（[[1908年]]）12月 - [[中尉|陸軍歩兵中尉]]に昇進。&lt;br /&gt;
* 明治43年（[[1910年]]）11月 - 陸軍中央幼年学校生徒監。&lt;br /&gt;
* [[大正]]5年（[[1916年]]）11月 - [[大尉|陸軍歩兵大尉]]に昇進。&lt;br /&gt;
* 大正7年（[[1918年]]）11月 - 陸軍大学校卒業（30期）。&lt;br /&gt;
* 大正8年（[[1919年]]）&lt;br /&gt;
** 4月 - [[参謀本部 (日本)|参謀本部]]附勤務。&lt;br /&gt;
** 12月 - 参謀本部員。&lt;br /&gt;
* 大正11年（[[1922年]]）2月 - [[少佐|陸軍歩兵少佐]]に昇進。&lt;br /&gt;
* 大正12年（[[1923年]]）8月 - [[サガレン州派遣軍]][[参謀]]。&lt;br /&gt;
* 大正14年（[[1925年]]）8月 - [[中佐|陸軍歩兵中佐]]に昇進。&lt;br /&gt;
* 大正15年（[[1926年]]）4月 - [[軍令部]]参謀。&lt;br /&gt;
* 昭和2年（[[1927年]]）&lt;br /&gt;
** 8月 - [[フランス]]出張。&lt;br /&gt;
** 12月 - [[歩兵第45連隊]]附。&lt;br /&gt;
* 昭和3年（[[1928年]]）8月10日 - 留守歩兵第45連隊長。&lt;br /&gt;
* 昭和4年（[[1929年]]）8月1日 - [[侍従武官]]。&lt;br /&gt;
* 昭和5年（[[1930年]]）8月1日 - 陸軍歩兵大佐に昇進。&lt;br /&gt;
* 昭和8年（[[1933年]]）8月1日 - [[近衛歩兵第2連隊]]長。&lt;br /&gt;
* 昭和9年（[[1934年]]）8月1日 - 東京陸軍幼年学校長。&lt;br /&gt;
* 昭和10年（[[1935年]]）3月15日 - [[少将|陸軍少将]]に昇進。&lt;br /&gt;
* 昭和11年（[[1936年]]）8月1日 - 陸軍省[[陸軍省#兵務局|兵務局]]長。&lt;br /&gt;
* 昭和12年（[[1937年]]）3月1日 - 陸軍省人事局長。&lt;br /&gt;
* 昭和13年（[[1938年]]）&lt;br /&gt;
** 3月1日 - 陸軍中将に昇進。&lt;br /&gt;
** 11月9日 - 第109師団長。&lt;br /&gt;
* 昭和14年（[[1939年]]）&lt;br /&gt;
** 9月12日 - 参謀本部附。&lt;br /&gt;
** 10月14日 - 陸軍[[次官]]。&lt;br /&gt;
* 昭和16年（[[1941年]]）4月10日 - [[第11軍 (日本軍)|第11軍]][[司令官]]。&lt;br /&gt;
* 昭和17年（[[1942年]]）7月1日 - [[第2方面軍 (日本軍)|第2方面軍]]司令官。&lt;br /&gt;
* 昭和18年（[[1943年]]）5月1日 - 陸軍大将に昇進。&lt;br /&gt;
* 昭和19年（[[1944年]]）12月26日 - [[陸軍航空総監部|航空総監]]兼[[軍事参議院|軍事参議官]]。&lt;br /&gt;
* 昭和20年（[[1945年]]）4月7日 - 陸軍大臣（～8月14日）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 栄典 ==&lt;br /&gt;
* [[ファイル:JPN Kyokujitsu-sho 1Class BAR.svg|40px]]  [[勲一等旭日大綬章]] ：[[1940年]]（昭和15年）[[4月29日]]&lt;br /&gt;
* 勲一位[[柱国章]] ：[[1941年]]（昭和16年）[[12月9日]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2960982/4 『官報』1941年12月15日 敍任及辭令] &amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 建国神廟創建記念章 ：同上&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 阿南を演じた俳優 ==&lt;br /&gt;
* [[三船敏郎]]「[[日本のいちばん長い日]]」（1967年 [[東宝]]）&lt;br /&gt;
* [[小林桂樹]]「[[歴史の涙]]」（1980年 [[TBSテレビ|TBS]]）&lt;br /&gt;
* [[二谷英明]]「[[一死、大罪を謝す]]」（1981年 [[フジテレビジョン|CX]]）&lt;br /&gt;
* [[近藤宏]]「[[大日本帝国 (映画)|大日本帝国]]」（1982年 [[東映]]）&lt;br /&gt;
* [[相馬剛三]]「[[山河燃ゆ]]」（1984年 [[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]）&lt;br /&gt;
* [[芦田伸介]]「[[そして戦争が終った]]」（1985年　TBS終戦40年記念ドラマ）&lt;br /&gt;
* [[高橋幸治]]「[[広島原爆をテーマとした作品#TVドラマ|ヒロシマ 原爆投下までの4か月]]」（[[1996年]]　NHK総合）&lt;br /&gt;
* [[浜田晃]]「[[聖断 (テレビドラマ)|聖断]]」（2005年 [[テレビ東京]]）&lt;br /&gt;
* [[六平直政]]「[[太陽 (映画)|太陽]]」（2005年 [[ロシア]]）&lt;br /&gt;
* [[柴俊夫]]「[[日輪の遺産#映画|日輪の遺産]]」（2011年 [[角川映画]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[角田房子]] 『一死、大罪を謝す―陸軍大臣阿南惟幾』新潮社  ISBN 4101308012&lt;br /&gt;
** 同名書　(ISBN 4103258039) の文庫化&lt;br /&gt;
* 沖修二 『阿南惟幾伝』 ISBN 406207477X&lt;br /&gt;
** 1970年　講談社刊同名書の再刊&lt;br /&gt;
* 甲斐克彦 『武人（もののふ）の大義―最後の陸軍大臣 阿南惟幾の自決』 ISBN 4769808615&lt;br /&gt;
* [[阿部牧郎]] 『大義に死す―最後の武士・阿南惟幾』 ISBN 4396632401&lt;br /&gt;
* [[半藤一利]] 『「昭和」を振り回した6人の男たち』 ISBN 4094057617&lt;br /&gt;
** 『「昭和」を振り回した男たち』(ISBN 449206088X) の改題文庫化&lt;br /&gt;
* [[半藤一利]]） 『決定版 [[日本のいちばん長い日]]―運命の八月十五日』文春文庫，2006 ISBN 4041350018（旧版は[[大宅壮一]]編　「日本のいちばん長い日」）&lt;br /&gt;
** 半藤一利「聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎」PHP文庫，2006　初版は文藝春秋、1985&lt;br /&gt;
* 林三郎　「終戦ごろの阿南さん」『世界』1951年8月号&lt;br /&gt;
* [[下村海南]]　『終戦秘史』[[講談社学術文庫]]，1985&lt;br /&gt;
* 軍事史学会編　『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』（下）錦正社，1998&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[阿南氏]]&lt;br /&gt;
* [[広瀬神社 (竹田市)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog151.html 人物探訪：阿南惟幾～軍を失うも国を失わず]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{start box}}&lt;br /&gt;
{{s-off}}&lt;br /&gt;
  {{Succession box&lt;br /&gt;
    | title  = {{flagicon|JPN}} [[陸軍大臣]]&lt;br /&gt;
    | years  = 第33代：1945&lt;br /&gt;
    | before = [[杉山元]]&lt;br /&gt;
    | after  = [[東久邇宮稔彦王]]&lt;br /&gt;
  }}&lt;br /&gt;
{{end box}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{陸軍大臣}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:あなみ これちか}}&lt;br /&gt;
[[Category:大日本帝国陸軍将官]]&lt;br /&gt;
[[Category:太平洋戦争の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:大分県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:勲一等旭日大綬章受章者]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の閣僚経験者]]&lt;br /&gt;
[[Category:自殺した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:阿南氏|これちか]]&lt;br /&gt;
[[Category:1887年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1945年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>118.83.32.180</name></author>
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