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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-10-28T18:34:42Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E8%98%87%E6%88%91%E6%B0%8F&amp;diff=65463</id>
		<title>蘇我氏</title>
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		<updated>2014-07-20T03:57:28Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;114.154.177.158: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{日本の氏族 (古代氏族)&lt;br /&gt;
|氏名 = 蘇我氏&lt;br /&gt;
|画像 = &lt;br /&gt;
|氏姓 = 蘇我[[臣]]&lt;br /&gt;
|始祖 = &lt;br /&gt;
|出自 = &lt;br /&gt;
|氏祖 = [[武内宿禰]]&amp;lt;br/&amp;gt;（[[孝元天皇]]の後裔）&lt;br /&gt;
|種別 = [[皇別]]&lt;br /&gt;
|本貫 = [[大和国]]高市郡蘇我邑&lt;br /&gt;
|人物 = [[蘇我稲目]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[蘇我馬子]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[蘇我蝦夷]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[蘇我入鹿]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[蘇我赤兄]]&lt;br /&gt;
|後裔 = [[石川氏|石川朝臣]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;蘇我氏&#039;&#039;&#039;（そがうじ/し）は、「蘇我」を[[氏]]とする[[氏族]]。[[カバネ|姓]]は[[臣]]（おみ）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[古墳時代]]から[[飛鳥時代]]（[[6世紀]] - [[7世紀]]前半）に勢力を持ち、代々[[大臣 (古代日本)|大臣]]（おおおみ）を出していた有力[[豪族]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 「蘇我」の表記 ==&lt;br /&gt;
[[Image:Soga faminy tree.svg|thumb|right|337px|蘇我氏略系図 [[media:Soga faminy tree.svg|SVGで表示（対応ブラウザのみ）]]]]&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;蘇我&#039;&#039;&#039; - 『[[日本書紀]]』&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;宗我&#039;&#039;&#039; - 『[[先代旧事本紀]]』天孫本紀、『[[上宮聖徳法王帝説]]』、『[[日本三代実録]]』&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;巷奇&#039;&#039;&#039; - 『元興寺縁起帳』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出自 ==&lt;br /&gt;
『古事記』や『日本書紀』では、[[神功皇后]]の三韓征伐などで活躍した[[武内宿禰]]を祖としている。具体的な活動が記述されるのは[[6世紀]]中頃の[[蘇我稲目]]からで、それ以前に関しては以下の諸説がありよく分かっていない。&lt;br /&gt;
* 河内&amp;lt;!-- 令制国の河内国を指しているのではありません。河内国へリンクしないようにお願いします --&amp;gt;の石川 (現在の[[大阪府]]の[[石川 (大阪府)|石川]]流域、詳細に[[南河内郡]][[河南町]]一須賀あたりと特定される説もある)の土着豪族という説&lt;br /&gt;
* 葛城県蘇我里（現在の[[奈良県]][[橿原市]]曽我町あたり）の土着豪族という説&lt;br /&gt;
『[[新撰姓氏録]]』では蘇我氏を皇別（歴代天皇から分かれた氏族）に分類している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
渡来系の氏族と深い関係にあったと見られ、王権の職業奴属民としての役割を担っていた渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。また、[[仏教]]が[[日本の仏教#飛鳥時代（伝来）|伝来]]した際にそれをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされる。これは、[[朝廷]]の祭祀を任されていた[[連]]姓の[[物部氏]]、[[中臣氏]]を牽制する為の目的も有ったと推察される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6世紀後半には今の[[奈良県]][[高市郡]]近辺を勢力下においていたと思われている。蘇我氏が政治の実権を掌握した時代以後、[[飛鳥|その地域]]に集中的に天皇の宮がおかれるようになったことからもうかがわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 全盛期 ===&lt;br /&gt;
稲目の代になると、過去に大臣を出していた[[葛城氏]]や[[平群氏]]は既に[[宗家|本宗家]]の滅亡により勢いをなくしており、蘇我氏は[[連|大連]]の[[大伴氏]]と[[物部氏]]にならぶ三大勢力の一角となり、やがて[[大伴金村]]が失脚&amp;lt;!-- (蘇我氏の概略を説明する上で金村の館の位置は必要ですか?) し[[摂津国]]の住吉 (現在の[[大阪市]][[住吉区]][[帝塚山]]) の館に隠棲--&amp;gt;すると、[[大連 (古代日本)|大連]]の[[物部氏|物部]]（[[物部尾輿|尾輿]]）と大臣の蘇我（稲目）の二大勢力となる。また、過去の[[葛城氏]]や後の[[藤原氏]]同様、娘[[蘇我堅塩媛]]、小姉君を[[欽明天皇]]に嫁がせることにより天皇家の外戚となっていく（馬子の本居（ウブスナ）が葛城県だったことから、稲目の妻は[[葛城氏]]の出で、その血統に連なることにより、天皇へ妃を輩出出来る一族に連なったとする説もある）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
稲目は[[欽明天皇]]とほぼ同時期に没し、二大勢力の構図は次代の&#039;&#039;&#039;[[蘇我馬子]]&#039;&#039;&#039;まで引き継がれるが、[[用明天皇]][[崩御]]後に後継者をめぐる争いがあった。蘇我氏は、小姉君の子ながらも[[物部氏]]に擁立されていた[[穴穂部皇子]]を暗殺し、戦いで[[物部守屋]]を&amp;lt;!--  (同じく守屋の館の位置は必要ですか?) [[河内国]]の渋川郡（現在の[[大阪府]][[東大阪市]]衣摺）の館に --&amp;gt;討ち滅ぼすと、その後は蘇我氏以外からは大連に任じられる者も出ず、政権は蘇我氏の一極体制となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここから[[崇峻天皇]]の暗殺や、[[推古天皇]]への[[葛城]]県の割譲の要求、&#039;&#039;&#039;[[蘇我蝦夷|蝦夷]]&#039;&#039;&#039;による天皇をないがしろにするふるまい、&#039;&#039;&#039;[[蘇我入鹿]]&#039;&#039;&#039;による[[上宮王家]]（[[山背大兄王]]）の討滅、[[境部摩理勢]]の失脚などの専横ぶりが伝えられており、蘇我氏三代にわたって権力を欲しいがままにしたとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし馬子の死後に、蘇我氏に対する皇族や諸豪族の反感が高まって蘇我氏の政治基盤が動揺し、それを克服しようとして入鹿による強権政治に繋がった、という見方も少なからずある。これは『日本書紀』等による蘇我氏に否定的な記述に対する反論である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 大化の改新から壬申の乱まで ===&lt;br /&gt;
蘇我氏は、[[645年]]の[[天智天皇|中大兄皇子]]、[[藤原鎌足|中臣鎌足]]らのクーデター（[[乙巳の変]]）によって、入鹿が暗殺されるとともに蝦夷が自殺するとその勢力は大幅に低下するが、あくまでも蝦夷を嫡流とする蘇我氏宗本家の滅亡だけにとどまる。クーデターには、傍流とされた[[蘇我倉麻呂]]（蝦夷の弟）の子である[[蘇我倉山田石川麻呂]]も、中大兄皇子の協力者として関わっていた。石川麻呂はこの後[[右大臣]]に任じられ、娘の[[遠智娘]]と[[姪娘]]を中大兄皇子の后にしている。石川麻呂自身は[[649年]]に[[冤罪]]で自害し、讒言した弟の[[蘇我日向]]も[[大宰府]]に左遷させられた（口封じとの説もある）。しかし、他の弟である[[蘇我赤兄]]と[[蘇我連子]]は、[[天智天皇]]の時代に[[大臣]]（赤兄は[[左大臣]]、連子ははっきりは分からないが[[右大臣]]と推定されている）に任じられており、蘇我氏は一定の地位を保持している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
連子は天智天皇の正式な即位を見ないまま死去し、赤兄ともう一人の弟である[[蘇我果安]]は[[壬申の乱]]で[[弘文天皇|大友皇子]]側について敗れ、それぞれ[[流罪]]・[[自害]]となった。その甥で連子の子である[[蘇我安麻呂]]は、[[天武天皇]]の信任が厚かったために蘇我氏の後を継ぎ、&#039;&#039;&#039;石川[[朝臣]]&#039;&#039;&#039;の姓氏を賜った。このように[[乙巳の変]]後も、倉麻呂の息子達がなお政治の中心的立場にとどまり、相次ぐ政争で衰退しながらもしばらくは連子の系統が続いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 蘇我系石川朝臣 ===&lt;br /&gt;
蘇我系石川氏は、[[飛鳥時代]]末期から[[奈良時代]]に、その血を引いた天皇（[[持統天皇]]と[[元明天皇]]）を輩出した（それぞれ石川麻呂の娘、[[遠智娘]]と[[姪娘]]が母）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら、蘇我赤兄の外孫である[[山辺皇女]]が、持統天皇に排除された夫の[[大津皇子]]に殉死したり、また[[文武天皇]]の妻の[[石川刀子娘]]が、天皇崩御後に某男との関係を持った事からその身分を剥奪され、子の[[広成皇子]]・[[広世皇子]]も連座して皇族の身分を剥奪される事件なども起こしている。刀子娘の事件は、異母兄弟の首皇子の競争相手を排除しようとしての[[藤原不比等]]・[[県犬養三千代|橘三千代]]夫婦の陰謀とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また[[万葉集]]によれば、同じ赤兄の外孫である[[穂積親王|穂積皇子]]も[[但馬皇女]]との密通が露見して左遷された。穂積皇子は、幸いにも持統天皇[[崩御]]後に[[太政大臣|知太政官事]]に出世したが、若くして亡くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
不比等の正妻は、安麻呂の娘の[[蘇我娼子]]（[[藤原武智麻呂]]・[[藤原房前]]・[[藤原宇合]]の母）である。その故を以て、その弟の[[石川石足]]と子の[[石川年足]]は、当時[[嫡流]]とされた武智麻呂を祖とする[[藤原南家]]と結びつくようになる。年足は、武智麻呂次男の[[藤原仲麻呂]]が設立した[[紫微中台]]の大弼としてその補佐に当たり、中流貴族としてなんとかその命脈を保った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 衰退 ===&lt;br /&gt;
しかし、その藤原南家が[[藤原仲麻呂の乱]]で衰退してしまうと、石川氏も[[平安京]]遷都後亡くなった[[正四位|正四位上]]・[[参議]]、[[石川真守]]（年足の孫、馬子の7代孫）を最後に[[公卿]]は出なくなり、歴史から姿を消した。蘇我氏の血統は、[[藤原不比等]]に嫁いで[[藤原武智麻呂|武智麻呂]]、[[藤原房前|房前]]、[[藤原宇合|宇合]]の三男を儲けた[[蘇我娼子]]を通して現代にも伝わっている。なお他に蘇我氏の血を残したのは、蘇我稲目の娘である[[蘇我堅塩媛]]のみである。その系統は蘇我堅塩媛 ― [[桜井皇子]] ― [[吉備姫王]] ― [[皇極天皇]] ― [[天智天皇]] ― （以後歴代天皇）となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 蘇我氏渡来人説 ==&lt;br /&gt;
[[門脇禎二]]が[[1971年]]に提唱した&amp;lt;ref&amp;gt;門脇禎二「蘇我氏の出自について」（「日本のなかの朝鮮文化」12号、[[1971年]]）、『「大化改新」史論』（[[思文閣出版]]、[[1991年]]）など。&amp;lt;/ref&amp;gt;が、現在は否定されている。門脇が提唱したのは[[応神天皇]]の代に渡来した、[[百済]]の高官、[[木満致]]（もくまち）と[[蘇我満智]]（まち）が同一人物とする説で、[[鈴木靖民]]や[[山尾幸久]]らの支持&amp;lt;ref&amp;gt;鈴木靖民「木満致と蘇我氏」（「日本のなかの朝鮮文化」51号、[[1981年]]）、山尾幸久『日本国家の形成』（[[岩波新書]]、[[1977年]]）など。&amp;lt;/ref&amp;gt;を得た一方、[[加藤謙吉]]や[[坂本義種]]らが批判&amp;lt;ref&amp;gt;加藤謙吉『蘇我氏と大和王権』（[[吉川弘文館]]、[[1983年]]）、坂本義種「木満致と木（刕）満致と蘇我満智」（「韓」116号、[[1989年]]）など。&amp;lt;/ref&amp;gt;したように、史料上の問題点が多い。根拠が不十分であり、現在では支持する研究者はいない&amp;lt;ref&amp;gt;水谷千秋「蘇我氏-中央における熾烈な権力争いに挑み続けた一族」（「[[歴史読本]]」[[2011年]]8月号）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
問題点は整理すると以下の通りであり、[[木満致]]と蘇我満智を同一人物であると実証することは不可能である&amp;lt;ref&amp;gt;水谷p.p.68-74,p.p.90-93、遠山p.p.5-11。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
#「[[木満致]]」の名が見える『[[日本書紀]]』の応神天皇25年（西暦[[294年]]、史料解釈上は[[414年]]）と「木刕満致」の名が見える『[[三国史記]]』百済本紀の[[蓋鹵王]]21年（西暦[[475年]]）とでは時代が異なる&lt;br /&gt;
#百済の名門氏族である木満致が、自らの姓を捨て蘇我氏を名乗ったことの不自然さ&lt;br /&gt;
#渡来系豪族が自らの出自を改変するのは8世紀以降であること&lt;br /&gt;
#木刕満致が「南行」したとの『三国史記』の記述がそのまま倭国へ渡来したことを意味しないこと&lt;br /&gt;
#百済の名門氏族出身でありながら、孫の名前が高句麗を意味する高麗であること&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
満智の子は韓子（からこ）で、その子（稲目の父にあたる）は高麗（こま）という異国風の名前であることも渡来人説を生み出す要因となっているが、[[水谷千秋]]は「蘇我氏渡来人説」が広く受け入れられた背景を蘇我氏を逆賊とする史観と適合していたからではないかと述べている&amp;lt;ref&amp;gt;水谷p.75。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、韓子は『[[日本書紀]]』[[継体天皇]]24年秋9月の条の注に「大日本人娶蕃女所生為韓子也」（大日本人、蕃女（となりのくにのめ）を娶りて生めるを韓子とす）&amp;lt;ref&amp;gt;吉備那多利・斯布利の通称名を説明したもの。&amp;lt;/ref&amp;gt;とされているように、外国人との混血児の通称であり、実在の人物名としては考えがたいとする&amp;lt;ref&amp;gt;遠山p.7。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系図 ==&lt;br /&gt;
 　 [[孝元天皇]]&lt;br /&gt;
 　　　┃&lt;br /&gt;
 　[[彦太忍信命]]&lt;br /&gt;
 　　　┃&lt;br /&gt;
 [[屋主忍男武雄心命]]&lt;br /&gt;
 　　　┃&lt;br /&gt;
 　 [[武内宿禰]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　　 [[武内宿禰]]&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　 [[蘇我石川宿禰]]&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　　　 [[蘇我満智|満智]]&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　　　 [[蘇我韓子|韓子]]&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　　　 [[蘇我高麗|馬背]]&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　　　 [[蘇我稲目|稲目]]&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　┏━━━╋━━━━━━┓&lt;br /&gt;
 　　　[[欽明天皇]]┳[[蘇我堅塩媛|堅塩媛]]　 [[蘇我馬子|馬子]]　　　 [[境部摩理勢]]&lt;br /&gt;
 　　┏━━━━┫　　　　　┣━━━┓&lt;br /&gt;
 [[推古天皇]]　 [[用明天皇]]　　　[[蘇我蝦夷|蝦夷]]　 [[蘇我倉麻呂|倉麻呂]]（雄当）&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　　　　┃　　　┣━━━━━━┳━━┳━━┳━━┓&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　　　 [[蘇我入鹿|入鹿]]　[[蘇我倉山田石川麻呂|倉山田石川麻呂]]　[[蘇我赤兄|赤兄]]　[[蘇我連子|連子]]　[[蘇我日向|日向]]　[[蘇我果安|果安]]&lt;br /&gt;
  　　　　　　　　　　　　　　　　 ┃　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　　 [[天智天皇]]┳[[姪娘]]　　　　　　　 [[蘇我安麻呂|安麻呂]]&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　　　　　　 ┃　　　　　　　　　　 ┃&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　　　　　 [[元明天皇]]　　　　　　　[[石川石足]]&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 [[石川年足|年足]]&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 [[石川名足|名足]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 近年の研究 ==&lt;br /&gt;
[[2005年]][[11月13日]] - [[奈良文化財研究所]]は甘樫丘東麓遺跡で蘇我入鹿邸「谷の宮門」跡とみられる遺構を発掘したと発表された。『[[日本書紀]]』の記述の裏付けが期待されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[宗我坐宗我都比古神社]]&lt;br /&gt;
* [[入鹿神社]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;references-small&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;references/&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[水谷千秋]]『謎の豪族　蘇我氏』　[[2006年]]、[[文春新書]]。 ISBN 4166604953&lt;br /&gt;
* [[遠山美都男]]『蘇我氏四代』　[[2006年]]、ミネルヴァ日本評伝選。 ISBN 4623045609&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01225.htm 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観　蘇我氏／石川氏]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:飛鳥時代|そかのうし]]&lt;br /&gt;
[[Category:近畿地方の歴史|そかのうし]]&lt;br /&gt;
[[Category:蘇我氏|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の氏族|そかのうし]]&lt;br /&gt;
[[Category:氏|そか]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>114.154.177.158</name></author>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%B5%A4%E8%BB%8D&amp;diff=172667</id>
		<title>日本赤軍</title>
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		<updated>2014-07-15T07:26:13Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;114.154.177.158: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{混同|連合赤軍}}&lt;br /&gt;
{{Infobox 組織&lt;br /&gt;
| 名称 =日本赤軍&lt;br /&gt;
| 画像 = &lt;br /&gt;
| 画像サイズ = &lt;br /&gt;
| 画像説明 = &lt;br /&gt;
| 略称 = &lt;br /&gt;
| 設立 = [[1971年]]2月&lt;br /&gt;
| 廃止 = [[2001年]]4月&lt;br /&gt;
| 種類 = 共産主義武装組織&lt;br /&gt;
| 地位 = [[新左翼]]、[[国際根拠地論]]&lt;br /&gt;
| 目的 = [[国際根拠地論|世界革命の実現]]&lt;br /&gt;
| 本部 = {{PAL}}、[[ベカー高原]]&lt;br /&gt;
| 位置 = &lt;br /&gt;
| 貢献 = なし&lt;br /&gt;
| メンバー = [[重信房子]]&amp;lt;/br&amp;gt;[[奥平剛士]]&amp;lt;/br&amp;gt;[[丸岡修]]など&lt;br /&gt;
| 言語 = [[日本語]]&lt;br /&gt;
| リーダー = 重信房子（最高指導者）&lt;br /&gt;
| 人物 = &lt;br /&gt;
| 機関 = &lt;br /&gt;
| 設立者 = 重信房子、奥平剛士&lt;br /&gt;
| 関連組織 = [[パレスチナ解放人民戦線]]&amp;lt;/br&amp;gt;[[ドイツ赤軍]]&amp;lt;/br&amp;gt;[[共産主義者同盟赤軍派]]&lt;br /&gt;
| スタッフ = &lt;br /&gt;
| ボランティア = &lt;br /&gt;
| 予算 = &lt;br /&gt;
| ウェブサイト = [http://www.jimmin.com/jra.htm 人民新聞 - 日本赤軍]&lt;br /&gt;
| 補足 = {{JPN}}の組織だがパレスチナに拠点を置く。2001年の解散の後、後継組織として[[ムーブメント連帯]]が設立された。&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;日本赤軍&#039;&#039;&#039;（にほんせきぐん）は、[[中東]]など[[海外]]に拠点を置いて活動を行っていた[[日本の新左翼]]系団体。[[1971年]]に[[共産主義者同盟赤軍派]]の[[重信房子]]らが結成し、[[1970年代]]から[[1980年代]]にかけて多数の無差別テロ事件（[[日本赤軍事件]]）を起こした。[[2001年]]に解散。[[アメリカ合衆国国務省]]の国際テロリズム対策室は日本赤軍を「国際[[テロ]]組織」と認定していたが、解散したために認定を解除した。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
=== 結成 ===&lt;br /&gt;
[[冷戦]]時代の[[1971年]][[2月26日]]に、[[共産主義者同盟赤軍派]]の「[[国際根拠地論]]」に基づき、「海外にも運動拠点と同盟軍を持つ必要がある」と判断し、赤軍派の[[重信房子]]や元「京都パルチザン」の[[奥平剛士]]らが[[パレスチナ]]へ赴き、同地で創設した。創設当初は「アラブ赤軍」、「赤軍派アラブ委員会」、「革命赤軍」等と称したが、[[1974年]]以降、「日本赤軍」を正式名称とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テロ事件 ===&lt;br /&gt;
{{日本の新左翼}}&lt;br /&gt;
{{main|日本赤軍事件}}&lt;br /&gt;
日本赤軍は当初は[[レバノン]]の[[ベカー高原]]を主な根拠地に活動し、[[1970年代]]から[[1980年代]]にかけて[[パレスチナ解放人民戦線]]（PFLP）など[[パレスチナ]]の[[極左]][[過激派]]と連携し、主に日本の[[フラッグキャリア]]である[[日本航空]]機を対象とした国内外における一連の[[ハイジャック]]、反イスラエル闘争としての[[空港]]襲撃に伴う一般人を対象にした乱射事件、[[大使館]]などの[[在外公館|外国公館]]への武装攻撃、[[身代金]]や同志奪還を目的としたハイジャックなどの事件を繰り返した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1972年]][[5月30日]]に[[イスラエル]]の[[ベン・グリオン国際空港]]で起こした「[[テルアビブ空港乱射事件]]」では、搭乗客や駐機中の旅客機を対象にした無差別乱射を行い、一般市民を中心に100人以上の死傷者を出した。この事件はPFLPの要請によって行われたものである。この自称「リッダ闘争」により、反イスラエル感情が強い[[アラブ諸国]]で日本赤軍は英雄視され、過激派が日本赤軍の自爆テロを模倣するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;立花隆『イラク戦争・日本の運命・小泉の運命』講談社、2004&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;フランソワ＝ベルナール・ユイグ『テロリズムの歴史』創元社、2013&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 末期 ===&lt;br /&gt;
その後も1980年代中盤にかけて、いくつかの武装[[ゲリラ]]活動を[[アジア]]諸国や[[ヨーロッパ]]諸国を舞台に引き起こした他、「[[三井物産マニラ支店長誘拐事件]]」などにおいて他の武装組織への協力を行ったが、欧米各国・イスラエル・[[日本]]などの対テロ対策や資金規正の厳重化、[[アラブ諸国]]政府からの支援減少などにより、活動は先細りとなっていった。さらに[[ソ連崩壊|ソビエト連邦が崩壊]]により[[冷戦]]が終結した[[1990年代]]には、新規の支持者や支援の獲得が更に困難となり、またイスラエルや[[西側諸国]]と対立していた政府や各国の[[反政府]]組織からの資金協力や活動提携がほぼ完全に途絶えたこともあり、1990年代に入ると「日本赤軍」としての活動はほとんど行えない状況となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 壊滅 ===&lt;br /&gt;
さらに1980年代後半から1990年代後半にかけて、[[逃亡]]を続けていた[[丸岡修]]や[[和光晴生]]等の中心メンバーが相次いで[[逮捕]]され、組織は完全に壊滅状態に追い込まれた。&lt;br /&gt;
*[[1987年]]11月：[[東京都]]内で潜伏していた[[丸岡修]]が逮捕された。&lt;br /&gt;
*[[1995年]]3月：[[ルーマニア]]に潜伏中の[[浴田由紀子]]が発見され、[[国外退去]]処分となり逮捕された。 [[日系ペルー人]]を装いペルーの偽造旅券を所持していた。&lt;br /&gt;
*[[1996年]]6月：ペルーに潜伏中の吉村和江が発見され、国外退去処分となり逮捕された。&lt;br /&gt;
*[[1996年]]9月：[[ネパール]]に潜伏中の[[城崎勉]]が発見され拘束された。&lt;br /&gt;
*[[1997年]]2月：レバノンに潜伏中の[[和光晴生]]、[[足立正生]]、山本万里子、[[戸平和夫]]、[[岡本公三]]が発見され拘束された。戸平が所持していたのは[[北朝鮮による日本人拉致問題|北朝鮮]]と[[よど号グループ]]によって[[拉致]]されたとされる石岡亨名義の[[偽造旅券]]であった。岡本を除く4人は日本へと送還された。&lt;br /&gt;
*[[1997年]]11月：[[ボリビア]]に潜伏中の[[西川純]]が発見され逮捕された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その上に[[2000年]]11月には、「最高指導者」の重信房子も潜伏していた[[大阪府]][[高槻市]]で[[旅券法]]違反容疑で[[大阪府警]][[警備部]][[公安課|公安第三課]]によって逮捕された。その際に、押収された資料により[[1991年]]から日本での[[武力革命]]を目的とした「人民革命党」及びその公然活動部門を担当する覆面組織「希望の[[21世紀]]」を設立していたこと、またそれを足がかりとして[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]（旧[[日本社会党]]）との連携を計画していたことが判明したと新聞等で報じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「希望の[[21世紀]]」は同事件に関連し[[警視庁]]と大阪府警の[[家宅捜索]]を受けたが、日本赤軍との関係を否定している。社会民主党区議自宅なども「希望の21世紀」の関連先として同時に捜索を受けたが、社会民主党は「何も知らなかったが事実関係を調査する」として関係があったことを否定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 解散 ===&lt;br /&gt;
上記のように、1980年代後半以降の主要メンバー逮捕、既存「シンパ」の多くの高齢化、新規の支持者や資金調達などの獲得困難などにより、1990年代後半に事実上の自然解散状態となった。これを受けて[[2001年]]4月に重信房子は獄中から「日本赤軍としての解散宣言」を行ない、正式に解散した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後継組織として[[ムーブメント連帯]]が設立され、現在も設立当時からの支持者などを中心に全国に少数の「シンパ」がいるとみられているが、その多くは上記のように[[高齢化]]が進み、さらにこれを受け継ぐ支持者も少ないために年々その数は減少している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2005年]]1月、元メンバーの山本万里子は[[東京都]][[板橋区]]内の[[スーパーマーケット]]でさきいか二袋（一二〇〇円分）を盗んだ所を[[警備員]]に見つかり取り押さえられ、警視庁[[高島平警察署|高島平署]]に[[窃盗罪|窃盗]]容疑で逮捕された&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite news |title=窃盗:元赤軍メンバーを容疑で逮捕－－執行猶予中 |newspaper=毎日新聞 |location=東京 |pages=10 |date=2005-01-26 }}(夕刊)&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 解散後 ==&lt;br /&gt;
重信房子は[[産経新聞]]の[[インタビュー]]で「世界を変えるといい気になっていた。多くの人に迷惑をかけていることに気づいていなかった。大義のためなら何をしても良いという感覚に陥っていた」と[[自己批判]]した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ハーグ事件]]等に関与し[[1979年]]に日本赤軍を脱退した和光晴生は「この件(元メンバーの山本万里子がさきいかを万引きして逮捕されたニュース)は日本赤軍の実態・実状を示したものであり、かつてヨーロッパで商社員誘拐未遂だとか、大使館占拠や[[飛行機]]乗っ取り等を実行してきた組織には、反社会的・反人民的性格があった」と批判した&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|url=http://kiyoumohannich.web.fc2.com/wakou/wakou268.html |publisher=東アジア反日武装戦線に関する よもやま情報のホームページ|title=支援連ニュースNo.268「和光裁判は一審結審です」|author=和光晴生|authorlink=和光晴生 |accessdate=2012-02-23 }}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主なメンバー ==&lt;br /&gt;
:{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+ 日本赤軍の主なメンバー&lt;br /&gt;
! rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;width: 6em;&amp;quot; | 氏名 !! rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 立場 !! rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 参加 !! rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; |出身 !! colspan=&amp;quot;6&amp;quot; | 主な[[日本赤軍事件]]!! rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; |判決とその後 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
![[テルアビブ空港乱射事件|テ&amp;lt;br&amp;gt;ル&amp;lt;br&amp;gt;ア&amp;lt;br&amp;gt;ビ&amp;lt;br&amp;gt;ブ&amp;lt;br&amp;gt;空&amp;lt;br&amp;gt;港&amp;lt;br&amp;gt;乱&amp;lt;br&amp;gt;射&amp;lt;br&amp;gt;事&amp;lt;br&amp;gt;件]]||[[ドバイ日航機ハイジャック事件|ド&amp;lt;br&amp;gt;バ&amp;lt;br&amp;gt;イ&amp;lt;br&amp;gt;日&amp;lt;br&amp;gt;航&amp;lt;br&amp;gt;機&amp;lt;br&amp;gt;ハ&amp;lt;br&amp;gt;イ&amp;lt;br&amp;gt;ジ&amp;lt;br&amp;gt;ャ&amp;lt;br&amp;gt;ッ&amp;lt;br&amp;gt;ク&amp;lt;br&amp;gt;事&amp;lt;br&amp;gt;件]]||[[ハーグ事件|ハ&amp;lt;br&amp;gt;｜&amp;lt;br&amp;gt;グ&amp;lt;br&amp;gt;事&amp;lt;br&amp;gt;件]]||[[クアラルンプール事件|ク&amp;lt;br&amp;gt;ア&amp;lt;br&amp;gt;ラ&amp;lt;br&amp;gt;ル&amp;lt;br&amp;gt;ン&amp;lt;br&amp;gt;プ&amp;lt;br&amp;gt;｜&amp;lt;br&amp;gt;ル&amp;lt;br&amp;gt;事&amp;lt;br&amp;gt;件]]||[[ダッカ日航機ハイジャック事件|ダ&amp;lt;br&amp;gt;ッ&amp;lt;br&amp;gt;カ&amp;lt;br&amp;gt;日&amp;lt;br&amp;gt;航&amp;lt;br&amp;gt;機&amp;lt;br&amp;gt;ハ&amp;lt;br&amp;gt;イ&amp;lt;br&amp;gt;ジ&amp;lt;br&amp;gt;ャ&amp;lt;br&amp;gt;ッ&amp;lt;br&amp;gt;ク&amp;lt;br&amp;gt;事&amp;lt;br&amp;gt;件]]||[[ジャカルタ事件|ジ&amp;lt;br&amp;gt;ャ&amp;lt;br&amp;gt;カ&amp;lt;br&amp;gt;ル&amp;lt;br&amp;gt;タ&amp;lt;br&amp;gt;事&amp;lt;br&amp;gt;件]] &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[重信房子]]||最高幹部&amp;lt;br /&amp;gt;政治委員||1971年||[[共産主義者同盟赤軍派|赤軍派]]|| || ||○|| || || ||[[懲役]]20年（服役中）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[奥平剛士]]||最高幹部&amp;lt;br /&amp;gt;軍事委員||1971年||京都[[パルチザン]]||○|| || || || || ||[[テルアビブ]]で死亡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[丸岡修]]||軍事委員|| ||[[全国浪人共闘会議|浪共闘]]及び[[ベ平連]] || ||○|| || ||○|| ||[[無期懲役]]（死亡）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[和光晴生]]||軍事委員||1973年||[[若松プロダクション]]スタッフ|| || ||○||○|| || ||無期懲役（服役中）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[奥平純三]]||軍事委員||1974年||京都パルチザン|| || ||○||○|| || ||[[海外|国外]]逃亡（[[国際手配]]）中&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[安田安之]]|| ||1971年||京都パルチザン||○|| || || || || ||テルアビブで死亡 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[岡本公三]]|| ||1971年?|| ||○|| || || || || ||国外逃亡（国際手配）中&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[西川純 (日本赤軍)|西川純]]||軍事委員||1973年|||| || ||○|| ||○|| ||無期懲役（服役中）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[日高敏彦]]||軍事委員||1971年|| || || || ||○|| || ||[[ヨルダン]]で[[逮捕]]後、自殺&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[坂東國男]]|| ||1975年||[[連合赤軍]]|| || || || ||○|| ||国外逃亡（国際手配）中&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[佐々木規夫]]|| ||1975年 ||[[東アジア反日武装戦線]]|| || || || ||○|| ||国外逃亡（国際手配）中&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[大道寺あや子]]|| ||1977年||[[東アジア反日武装戦線]]|| || || || || || ||国外逃亡（国際手配）中&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[泉水博]]|| ||1977年||[[統一獄中者組合]]|| || || || || || ||無期懲役（服役中）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[仁平映]]|| ||1977年||[[統一獄中者組合]]|| || || || || || ||国外逃亡（国際手配）中&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[城崎勉]]|| ||1977年||[[共産主義者同盟赤軍派|赤軍派]]|| || || || || ||○||[[アメリカ合衆国]]で懲役30年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[松田久]]|| || ||[[共産主義者同盟赤軍派|赤軍派]]|| || || || || || ||国外逃亡（国際手配）中&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[山田修 (日本赤軍)|山田修]]|| ||1971年|| || || || || || || ||1972年、訓練中に死亡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[檜森孝雄]]||国内で丸岡らの[[オルグ]]などの[[後方支援]]活動 ||1971年|| || || || || || || ||2002年、焼身自殺&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[足立正生]]||政治委員||1974年||[[映画監督]]([[若松プロダクション]]所属) || || || || || || ||懲役2年・[[執行猶予]]4年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[戸平和夫]]||軍事委員|| ||[[共産主義者同盟赤軍派|赤軍派]]|| || || || || || ||懲役2年6ヶ月（2003年5月満期出所）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[山田義昭]]||軍事委員||1973年|| || || || || || || ||1986年2月[[自首|出頭]]、懲役1年4ヶ月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[山本万里子]]||欧州工作員（連絡役）|| ||日系百貨店パリ支店勤務 || || || || || || ||懲役2年6ヶ月・執行猶予5年、2005年に[[窃盗罪|窃盗]]で逮捕（[[板橋区]]の[[スーパーマーケット|スーパー]]で裂きイカ2点を万引き）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[吉村和江]]||政治委員|| || || || || ||○|| ||||懲役2年6ヶ月・執行猶予4年, 被拘禁者奪取罪, 国際指名手配にてペルーで逮捕、送還&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[菊村憂]]|| || || || || || || || || ||正式なメンバーかどうかは不明。1988年、アメリカ合衆国で[[爆発物]]所持で逮捕、19年服役。2007年、日本に[[強制送還]]後、[[文書偽造罪|偽造有印公文書行使]]容疑で逮捕。懲役2年・執行猶予4年&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本赤軍が登場する作品 ==&lt;br /&gt;
*『幽閉者　テロリスト』&lt;br /&gt;
*『カルロス』 - 2011年　フランスのテレビ映画&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[共産主義者同盟赤軍派]] - [[よど号グループ]] - [[連合赤軍]] - [[ムーブメント連帯]]&lt;br /&gt;
* [[ドイツ赤軍]] - [[赤い旅団]] - [[パレスチナ]] - [[パレスチナ解放人民戦線]]（PFLP）- [[カルロス (テロリスト)|カルロス]]&lt;br /&gt;
* [[人民新聞]]&lt;br /&gt;
* [[若松プロダクション]] - [[佐々木守]] - [[松田政男]]&lt;br /&gt;
* [[ベトナムに平和を!市民連合]] - [[高橋武智]] &lt;br /&gt;
* [[救援連絡センター]] - [[統一獄中者組合]] - [[東アジア反日武装戦線]]&lt;br /&gt;
* [[公安警察]] - [[警察庁警備局国際テロリズム対策課]]&lt;br /&gt;
* [[公安調査庁]]&lt;br /&gt;
* [[内閣安全保障室]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連書籍 ==&lt;br /&gt;
* [[足立正生]]『塀の中の千夜一夜　アラブ獄中記』愛育社、2005年9月、ISBN 4750002321&lt;br /&gt;
* 石井一『ダッカハイジャック事件　日本赤軍との闘い』[[講談社]]、1978年5月、[http://webcatplus-equal.nii.ac.jp/libportal/DocDetail?txt_docid=NCID%3ABA79996686]&lt;br /&gt;
* [[河出書房新社]]（編）『赤軍 1969→2001　総特集』河出書房新社、2001年1月、ISBN 4309976018&lt;br /&gt;
* 今野正義『槐夢　「赤軍」誕生から終焉までの軌跡　ドキュメント』碧天舎、2004年1月、ISBN 4883464571&lt;br /&gt;
* [[塩見孝也]]『赤軍派始末記　元議長が語る40年』[[彩流社]]、2003年3月、ISBN 4882027984&lt;br /&gt;
* 世界革命戦線情報センター、査証編集委員会（共編）『隊伍を整えよ 日本赤軍宣言』  	 査証出版、1975年&lt;br /&gt;
* 高木規矩郎『日本赤軍を追え　「ドキュメント」中東記者15年の取材ノート』現代評論社、1986年2月、[http://webcatplus-equal.nii.ac.jp/libportal/DocDetail?txt_docid=NCID%3ABN04423748]&lt;br /&gt;
* 日本赤軍（編著）『日本赤軍20年の軌跡』[[話の特集]]、1993年5月、ISBN 4826401302&lt;br /&gt;
* [[松下竜一]]『怒りていう、逃亡には非ず　日本赤軍コマンド[[泉水博]]の流転』河出書房新社、1993年12月、ISBN 4309008739、河出文庫: 1996年2月、ISBN 4309404723、松下竜一その仕事刊行委員会版: 河出書房新社、2000年9月、ISBN 4309620736&lt;br /&gt;
* 和光晴生「赤い春―私はパレスチナ・コマンドだった」集英社インターナショナル 2007年10月 ISBN 4797671688&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.jimmin.com/jra.htm 人民新聞 - 日本赤軍]&lt;br /&gt;
* [http://www.geocities.co.jp/setfreemarian/JRAHistry.html 日本赤軍の歩み - 闘いの路線的なとらえ返しとして 重信房子 2004年12月1日]&lt;br /&gt;
* [http://www.police.pref.fukuoka.jp/kitakyusyu/tobata-ps/jyoho/nihonsekigun.html 福岡県警察　国際手配中の日本赤軍]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{冷戦}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:にほんせきくん}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本赤軍|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:現存しないテロリスト認定された組織]]&lt;br /&gt;
[[Category:共産主義者]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本における反ユダヤ主義]]&lt;br /&gt;
[[Category:パレスチナ問題]]&lt;br /&gt;
[[Category:在外日本人の運動]]&lt;br /&gt;
[[Category:現存しない日本の在外組織]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>114.154.177.158</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%83%A2%E3%83%B3&amp;diff=18416</id>
		<title>ソロモン</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%83%A2%E3%83%B3&amp;diff=18416"/>
		<updated>2014-07-13T03:23:05Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;114.154.177.158: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses|[[古代イスラエル]]の国王|その他|ソロモン (曖昧さ回避)}}&lt;br /&gt;
{{出典の明記|date=2008年9月}}&lt;br /&gt;
{{基礎情報 君主&lt;br /&gt;
| 人名       = ソロモン&lt;br /&gt;
| 各国語表記 = Solomon({{lang|he|שְׁלֹמֹה}})&lt;br /&gt;
| 君主号     = イスラエル王&lt;br /&gt;
| 画像       = Saabaghiberti.jpg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ = 200px&lt;br /&gt;
| 画像説明   = [[シバの女王]]と会談するソロモン（サン・ジョヴァンニ洗礼堂,[[フィレンツェ]]）&lt;br /&gt;
| 在位       = [[紀元前971年]] - [[紀元前931年]]&lt;br /&gt;
| 戴冠日     = &lt;br /&gt;
| 別号       = &lt;br /&gt;
| 全名       = &lt;br /&gt;
| 出生日     = [[紀元前1011年]]&lt;br /&gt;
| 生地       = [[イェルサレム]]&lt;br /&gt;
| 死亡日     = [[紀元前931年]]&lt;br /&gt;
| 没地       = イェルサレム&lt;br /&gt;
| 埋葬日     = 　&lt;br /&gt;
| 埋葬地     = &lt;br /&gt;
| 継承者     = &lt;br /&gt;
| 継承形式   = &lt;br /&gt;
| 配偶者1   = &lt;br /&gt;
| 子女       = &lt;br /&gt;
| 王家       = &lt;br /&gt;
| 王朝       = &lt;br /&gt;
| 王室歌     = &lt;br /&gt;
| 父親       = [[ダヴィデ]]&lt;br /&gt;
| 母親       = [[バト・シェバ]] &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;ソロモン&#039;&#039;&#039;（{{lang-he|שלמה}} Šəlōmōh Shlomo, [[ギリシア語]]: Σολομών, [[ラテン語]]: Salomon, [[アラビア語]]： سليمان Sulaymān, [[トルコ語]]: Suleyman, [[紀元前1011年]]頃 - [[紀元前931年]]頃）は、[[旧約聖書]]の『[[列王記]]』に登場する[[古代イスラエル]]（[[イスラエル王国]]）の第3代の王（在位[[紀元前971年]] - [[紀元前931年]]頃）。父は[[ダビデ]]。母は[[バト・シェバ]]。[[古代エジプト|エジプト]]に臣下の礼をとり、[[ファラオ]]の娘を[[降嫁]]されることで安全保障を確立し、古代イスラエルの最盛期を築いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==生涯==&lt;br /&gt;
{{See also|イスラエル王国#ソロモン王の時代}}&lt;br /&gt;
[[ファイル:084.The Judgment of Solomon.jpg|200px|right|thumb|知者ソロモンの裁き（[[ギュスターヴ・ドレ]]）]]&lt;br /&gt;
イスラエルの王[[ダビデ]]は家臣ウリヤの妻[[バト・シェバ]]と不義の関係を結び、夫ウリヤを死に追いやった。この2人の最初の子が[[神の怒り]]に触れて死んだ後、2人目の子として生まれたのがソロモンであり、彼は父の死後、兄の{{仮リンク|アドニヤ|en|Adonijah}}など他の王位継承を狙う者たちを打倒して王となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ソロモンは[[古代エジプト|エジプト]]の[[ファラオ]]&amp;lt;ref&amp;gt;{{仮リンク|シアメン|en|Siamun}}であるという説が有力であるが確定していない。資料はカルナック神殿の碑文である。&amp;lt;/ref&amp;gt;の娘をめとり、[[ギブオン]]で盛大なささげものをした。そこで神がソロモンの夢枕に立ち、「何でも願うものを与えよう」というと、ソロモンは知恵を求めた。神はこれを喜び、多くのものを与えることを約束した。ここからソロモンは知恵者のシンボルとなり、ソロモンが子供のことで争う2人の女の一件で賢明な判断を示した逸話は広く世界に伝わり、後に江戸時代の[[大岡忠相#大岡政談|大岡裁き]]の話にも取り込まれた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://pub.ne.jp/lost_arrow/?entry_id=340349 大岡裁判の大本に聖書あり] お江戸今昔堂&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このことから、長きにわたって[[ユダヤ教]]の伝承ではソロモンは[[知恵文学]]の著者とされていたが、歴史的な裏付は無く、考古学的には疑問視する意見も少なくない。また、一説には神から知恵（指輪）を授かった、もしくはユダヤ教の秘儀カバラが記された『[[天使ラジエルの書|ラジエルの書]]』を託されたとも言われ、多くの天使や悪魔を使役したとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ソロモンは外国との交易を広げて国の経済を発展させ、統治システムとしての官僚制度を確立して国内制度の整備を行った。また、外国との貿易のための隊商路を整備のため要塞化された補給基地を建て、大規模な土木工事をもって国内各地の都市も強化している。さらに軍事面ならびに外交面では、近隣王国と[[条約]]を交わし、政略結婚&amp;lt;ref&amp;gt;エジプト第21王朝の後ろから2番目のファラオであった{{仮リンク|シアメン|en|Siamun}}の娘と結婚（フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅰ 古代ー中世  原書房 2004年 26ページ）&amp;lt;/ref&amp;gt;を重ねて自国を強国に育てあげた。[[イスラエル王国]]の領土は[[ユーフラテス川]]からガザにまでおよび、誰もが安心して暮らすことができた&amp;lt;ref name=shimazaki44&amp;gt;島崎（2010）pp.44-45&amp;lt;/ref&amp;gt;。ソロモンは初めて[[エルサレム神殿]]を築いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ソロモンの知恵の深さと浩瀚な知識は周辺諸国にも知られ、親交を求めて来朝する王や使者が絶えなかったという。なかでも最も親交の深かったのは、[[ツロ]]の王ヒラムであった。こうしたなかに[[エチオピア]]の女王もおり、ソロモンの英知を試すため、わざわざみずからやってきたという。『ユダヤ古代誌』には、エチオピアの女王のことばとして、以下のことばを掲載している&amp;lt;ref name=shimazaki44/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;background: white; border: 1px solid black; padding: 1em;margin: 0 3em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
わたしは、ヘブル人の民は幸福だと思います。あなたの僕や友人方も同様です。毎日あなたに拝謁し、あなたの知恵に絶えず耳を傾けることができます。&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ソロモンの長い統治は経済的繁栄と国際的名声をもたらしたが、彼の野心的な事業は重税と賦役を民衆に課した。またソロモンが自分の出身部族である[[ユダ族]]を優遇した&amp;lt;ref&amp;gt;税金や雑役の免除などに対して他の部族では不満が強まった&amp;lt;/ref&amp;gt;ことも当時の部族長を中心とする寡頭政治の限界を暴き出し、君主政治支持者と部族分離主義者との対立を拡大させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晩年、民衆への負担が激増していく中で享楽に耽ったため財政が悪化。さらにユダヤ教以外の信仰を黙認したことは、[[ユダヤ教]]徒と他の宗教信者との宗教的対立を誘発した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ソロモンの死後、息子の[[レハブアム]]が継いだが、非妥協的であったため、[[紀元前922年]]に[[ヤロブアム1世|ヤロブアム]]を擁した[[イスラエルの失われた10支族|10支族]]によってイスラエルは南北に分裂、対立していくことになる。皮肉にもソロモンの政策は王国に内在していた矛盾を増幅させ、それがソロモンの死とともに一気に噴出して、国家分裂を誘発してしまったのである。レハブアムは、[[ユダ王国]]の初代の王として、残されたユダ族、[[ベニヤミン族]]、[[レビ|レビ族]]を統治することとなった。ユダ王国は南に、イスラエル王国は北に生まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== キリスト教徒・イスラム教徒からみたソロモン ==&lt;br /&gt;
=== エチオピア正教におけるソロモン ===&lt;br /&gt;
[[エチオピア正教]]では、エチオピアの女王[[シバの女王]]もソロモンの知恵と王都[[エルサレム]]の繁栄を見て驚いたと伝えている。[[エチオピア帝国]]が13世紀に編纂した歴史書によれば、ソロモンとシバの女王の息子（[[メネリク1世]]）がエチオピアを建国したとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ユスティニアヌス帝のことば ===&lt;br /&gt;
[[537年]]12月、[[東ローマ帝国]]の皇帝[[ユスティニアヌス1世]]は苦難の末に改修した[[コンスタンティノープル]]の[[アヤソフィア|聖ソフィア教会]]の竣工式において、[[祭壇]]に立って手をさしのべ、「我にかかる事業をなさせ給う神に栄光あれ。ソロモンよ、我は汝に勝てり」と叫んだといわれる&amp;lt;ref&amp;gt;島崎（2010）pp.126-127&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 諸教父の評価 ===&lt;br /&gt;
こうして聖書に描かれるソロモンは、死後、救われたのだろうか。カトリックや正教など多くのキリスト教会は、特定の人について確実に地獄に墜ちた、と断言することは決してない。しかし、このように放縦な生活をおくり、為政者としての姿勢も信仰もそぞろだったソロモンについて、手厳しい評価をする教父は多く、カトリック教会の[[浦川和三郎]]司教は、「聖書は、ソロモンの堕落を述べて、その痛悔を語っていません。彼が、はたして父ダヴィドのように改心して神さまのおん赦しをいただいたか、随分疑わしいものだ、という人が多い」としている&amp;lt;ref&amp;gt;浦川和三郎『旧約のはなし』第27課、天主堂、1927年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イスラム社会におけるソロモン王 ===&lt;br /&gt;
ソロモンは[[イスラム教]]においても[[預言者]]の一人とされ、現代でも[[アラビア語]]ではスライマーン（سليمان Sulaymān）と呼ばれ、また、現代[[ペルシア語]]ではソレイマーン （Soleymān）、[[トルコ語]]でもスレイマン（Süleyman）とされ、ごく一般的な男子の名として普通に用いられる。[[ムスリム]]にあっては、預言者スライマーンは、知恵に満ちていたと同時に、[[アラブ]]の[[民間伝承]]である[[精霊]]（[[ジン_(アラブ)|ジン]]）を自由自在に操ったとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ソロモン伝承と偽ソロモン文書 ==&lt;br /&gt;
[[旧約聖書]]には書かれていないが、第三代[[イスラエル王国|イスラエル王]]であった[[ソロモン]]がその英知をもって[[悪霊]]を支配していたという話は[[ヘレニズム]]期のユダヤ人の間に流布していた&amp;lt;ref&amp;gt;ソロモンが悪霊の軍団を遣わした、悪霊の手を借りて[[エルサレム]]を建設した、などといったソロモンと悪霊に関する話が、さまざまな古代の[[グノーシス文書]]や[[偽典]]に散見される {{Harv|南條|2010|p=59|Ref=none}}。1世紀から3世紀に成立したと言われる[[ギリシア語]]の旧約偽典『{{仮リンク|ソロモンの聖約|en|Testament of Solomon}}』（『ソロモンの遺訓』とも）には、[[エルサレム神殿]]を建設していた頃のソロモンが、大天使[[ミカエル]]より悪霊を支配する指輪（[[ソロモンの指輪]]）を授かり、悪霊たちを神殿建設に駆り出したことが記されている。同書にも[[ベルゼブル]]、[[アスモデウス]]などさまざまな悪霊が登場し、36名の悪霊とその撃退法を列挙した箇所もある {{Harv|南條|2010|p=60, pp. 190-217|Ref=none}}。&amp;lt;/ref&amp;gt;。このような偉大な知恵者とされたソロモンにまつわる伝説から、その後千年に亘って、ソロモンに由来すると偽った文献群（[[ノーマン・コーン]]は偽ソロモン文書 pseudo-Solomonic books と呼んだ&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|Cohn|1993|p=104|Ref=none}}&amp;lt;/ref&amp;gt;）が[[ヘブライ語]]や[[ギリシア語]]、[[アラビア語]]で書かれることになったが、[[中世盛期]]以降、魔術師が悪霊を呼び出す術（[[降霊術|ニグロマンシー]]）について記した、それまでとは趣を異にする偽ソロモン文書がヨーロッパで流布するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|コーン|山本|1983|p=224|Ref=none}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
* [[島崎晋]]『名言でたどる世界の歴史』[[PHP研究所|PHPエディター・グループ]]、2010年6月。ISBN 978-4-569-77939-3  &lt;br /&gt;
* {{Cite book |和書 |author=[[ノーマン・コーン]] |others=山本通訳 |year=1983 |title=魔女狩りの社会史 |publisher=[[岩波書店]]}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book |和書 |author=[[南條竹則]] |year=2010 |title=悪魔学入門 |publisher=[[講談社]] |isbn=978-4-06-216126-8}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book |author=Norman Cohn |year=1993 |origyear=1973 |title=Europe&#039;s Inner Demons |edition=Rev. |location=Chicago |publisher=The University of Chicago Press |isbn=0-226-11307-8}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{commonscat|Solomon}}&lt;br /&gt;
* [[古代イスラエル]]&lt;br /&gt;
* [[ソロモンの知恵]]&lt;br /&gt;
* [[イスラエル王国]]&lt;br /&gt;
* [[ソロモンの大いなる鍵]]&lt;br /&gt;
* [[ソロモンの指輪]]&lt;br /&gt;
* [[ソロモン72柱]]&lt;br /&gt;
* [[メネリク1世]] - [[エチオピア]]初代王。エチオピア帝国が編纂した歴史書に従えば、ソロモンとシバの女王の息子で、紀元前10世紀頃のエチオピアを統治した。&lt;br /&gt;
* [[ソロモン諸島]] - [[ガダルカナル島]]で[[砂金]]を発見した[[スペイン人]][[探検家]]の[[アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラ]]が、これをソロモン王の財宝だと考え名付けた。&lt;br /&gt;
* [[シバの女王]]&lt;br /&gt;
* [[ソロモンの鍵]] - [[1986年]]に[[テクモ]]株式会社から[[アーケードゲーム]]・[[ファミリーコンピュータ]]向け[[ゲーム]]として開発・販売された[[アクションパズル]]ゲーム、あるいはその関連作品。&lt;br /&gt;
* [[ソロモン (ガンダムシリーズ)]] - [[アニメ]]『[[ガンダムシリーズ一覧|ガンダムシリーズ]]』シリーズに登場する[[宇宙要塞]]の名前。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;center&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;table border=1 cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;3&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr style=&amp;quot;background-color:#CCCCCC&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;th colspan=&amp;quot;3&amp;quot;&amp;gt;[[古代イスラエル|古代イスラエル王国]]&amp;lt;/th&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td width = 30% align = center rowspan=2&amp;gt;&lt;br /&gt;
先代&amp;lt;br&amp;gt;[[ダビデ]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;td width = 40%  align = center rowspan=2&amp;gt;&lt;br /&gt;
古代イスラエル国王&amp;lt;br&amp;gt;[[紀元前1035年]]頃 - [[紀元前925年]]頃&lt;br /&gt;
&amp;lt;td width = 30% align = center&amp;gt;&lt;br /&gt;
次代　[[イスラエル王国]]&amp;lt;BR&amp;gt;[[ヤロブアム1世]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;次代　[[ユダ王国]]&amp;lt;BR&amp;gt;[[レハブアム]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/table&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/center&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{古代イスラエル・ユダの王}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Judaism-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:そろもん}}&lt;br /&gt;
[[Category:古代イスラエル・ユダの君主]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- [[Category:紀元前11世紀生]] --&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[Category:紀元前920年代没]]&lt;br /&gt;
[[Category:列王記]]&lt;br /&gt;
[[Category:ソロモン|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>114.154.177.158</name></author>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95&amp;diff=163604</id>
		<title>エーリヒ・ルーデンドルフ</title>
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		<updated>2014-03-19T17:15:00Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;114.154.177.158: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox 軍人&lt;br /&gt;
|name=エーリヒ・ルーデンドルフ&lt;br /&gt;
|lived=1865年4月9日 - 1937年12月20日&lt;br /&gt;
|placeofbirth=ポーゼン州（現[[ポーランド]]）&lt;br /&gt;
|placeofdeath=[[トゥッツィング]]&lt;br /&gt;
|image=[[画像:Erich Ludendorff.jpg|200px]]&lt;br /&gt;
|allegiance=[[ドイツ帝国]]陸軍&lt;br /&gt;
|serviceyears=1883 - 1918&lt;br /&gt;
|battles=[[第一次世界大戦]]&lt;br /&gt;
|awards=[[プール・ル・メリット勲章|プール・ル・メリット勲章戦功章]]&amp;lt;br&amp;gt;[[大鉄十字章]]&amp;lt;br&amp;gt;[[国葬]]&lt;br /&gt;
|laterwork=国会議員&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;エーリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルーデンドルフ&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff&#039;&#039;&#039;, [[1865年]][[4月9日]] - [[1937年]][[12月20日]]）は、[[ドイツ]]の[[軍人]]、[[政治家]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[第一次世界大戦]]初期の[[タンネンベルクの戦い (1914年)|タンネンベルクの戦い]]において第8軍司令官[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]を補佐してドイツ軍を勝利に導いた。大戦中期から後期には参謀本部総長となったヒンデンブルクの下で参謀本部次長を務め、「ルーデンドルフ独裁」とも呼ばれる巨大な実権を握った。最終階級は[[歩兵]][[大将]]。戦後は[[アドルフ・ヒトラー]]と結び、[[ミュンヘン一揆]]を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[総力戦 (ルーデンドルフ)|総力戦]]』の著者としても知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 生まれ ===&lt;br /&gt;
ルーデンドルフは[[プロイセン王国]]が1793年から1919年まで統治した[[ポーゼン]]州のシュヴェルゼンツ近くのクレシェフニア村([[:en:Kruszewnia|Kruszewnia]])に地主アウグスト・ヴィルヘルム・ルーデンドルフ(August Wilhelm Ludendorff)とその妻クラーラ(Klara)(旧姓フォン・テンペルホーフ(von Tempelhoff))夫妻の息子として生まれた。現在この地はポーランド領である。ルーデンドルフ家は[[ポンメルン]]の商人の一族であり、[[ユンカー]]ではなかったが、[[ブルジョワ]]だった。母親のフォン・テンペルホーフ家は有名なユンカー一家の出身であった。母の家系は[[テンプル騎士団]]以来のプロイセン軍人家系である&amp;lt;ref name=&amp;quot;ゲルリッツ(1998)284&amp;quot;&amp;gt;[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.284]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 一次大戦前の軍歴 ===&lt;br /&gt;
1877年に[[プーレン (ドイツ)|プレーン]]([[:de:Plön|de]])の士官学校(Kadettenkorps)に入学し、ついで1879年7月より[[ベルリン]]・[[グロース・リヒターフェルデ]]([[:de:Groß-Lichterfelde|de]])の[[プロイセン高級士官学校]]([[:de:Preußische Hauptkadettenanstalt|de]]) に入学した&amp;lt;ref name=&amp;quot; Machine&amp;quot;&amp;gt;[http://home.comcast.net/~jcviser/aok/ludendorff.htm The Prussian Machine  -  Generals]&amp;lt;/ref&amp;gt;。1882年まで在学した&amp;lt;ref name=&amp;quot;LeMO&amp;quot;&amp;gt;[http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/LudendorffErich/index.html LeMO]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;Tannenberg&amp;quot;&amp;gt;[http://www.tannenberg1914.de/4_feldh/lud3_wdg.htm Die Schlacht bei Tannenberg 1914]&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1882年]]4月より[[ヴェーゼル]]([[:de:Wesel|de]])の第57歩兵連隊の少尉に任官した&amp;lt;ref name=&amp;quot;Tannenberg&amp;quot;/&amp;gt;。1887年から1890年にかけて[[ヴィルヘルムスハーフェン]]で海軍の陸上部隊と共に任務にあたっていた。1890年7月に中尉に昇進&amp;lt;ref name=&amp;quot; Machine&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;Bund&amp;quot;&amp;gt;[http://www.ludendorff.info/Wichtigste/erich_ludendorff.htm Bund für Gotterkenntnis (Ludendorff) e.V.]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1890年10月から[[プロイセン戦争大学校|プロイセン戦争大学(陸軍大学)]]([[:de:Preußische Kriegsakademie|de]])に入学した。卒業後の1893年6月からバーデン近衛擲弾兵連隊「フリードリヒ・ヴィルヘルム3世」に勤務した&amp;lt;ref name=&amp;quot; Machine&amp;quot;/&amp;gt;。1894年4月に[[プロイセン参謀本部|参謀本部]]に配属される&amp;lt;ref name=&amp;quot; Machine&amp;quot;/&amp;gt;。1895年3月に大尉に昇進するととも[[マグデブルク]]の第4軍団に参謀として配属された&amp;lt;ref name=&amp;quot; Machine&amp;quot;/&amp;gt;。1898年4月に[[トルン]]の第61(第8[[ポンメルン]])歩兵連隊「フォン・デア・マールヴィッツ」の中隊長、1900年7月には[[グローガウ]]の第7歩兵連隊の参謀、1902年7月にポーゼンの第5軍団の参謀に転属する。1902年7月に少佐昇進。1904年4月にベルリンの参謀本部の第2部（戦時中に作戦部(Militärische Plannungsabteilung)となると定められていた部署）の部長に就任した。1906年10月には戦争大学で教鞭をとった&amp;lt;ref name=&amp;quot; Machine&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1908年4月に中佐に昇進するとともに参謀本部の第2部の部長に復帰した。同年、工場所有者の娘マルガレーテ・シュミット(Margarete Schmidt)と結婚した&amp;lt;ref name=&amp;quot;LeMO&amp;quot;/&amp;gt;。1911年に第1部部長が「軍人より外交官にふさわしい」と評された[[ゲオルク・フォン・ヴァルテンゼー]][[中将]]になったのを機にルーデンドルフの影響力が拡大し始めた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ゲルリッツ(1998)225&amp;quot;&amp;gt;[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.225]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。彼は一貫して「真の形態での戦争」を主張した。平和とは二つの戦争に挟まれた休戦期間に過ぎず、全ての手段は戦争指導に従属させるべしと主張していた。これは戦争は政治の手段とした[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ]]の考えに完全に反駁するものであった。ルーデンドルフによれば政治の方が戦争指導の手段であった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.225-226]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。そのためルーデンドルフは職業軍人でありながら「全ドイツ協会」という政治団体を使って積極的に政治の世界に参加した。[[帝国議会 (ドイツ帝国)|帝国議会議員]]の取り込みを図り、巨額な軍拡を認めさせ、1912年には二個軍団の増設と野砲の増強、陸軍11万7000人の増員、航空機の拡張などを実現した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.227-228]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし当時のドイツ帝国の財政は[[建艦競争]]や社会保障費のために極度に逼迫しており、また陸相[[ヨシアス・フォン・ヘーリンゲン]]([[:de:Josias von Heeringen|de]])大将も急速な軍拡によって将校団の教育や構成に弊害が生じ、将校団が「民主化」する事を恐れていた。そのためやがてルーデンドルフの行動は「出過ぎ」と看做されるようになり、1913年1月に[[デュッセルドルフ]]の第39ニーダーライン歩兵連隊の連隊長へ左遷された&amp;lt;ref name=&amp;quot; Machine&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ゲルリッツ(1998)228&amp;quot;&amp;gt;[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.228]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1914年4月に少将に昇進するとともに5月から[[シュトラスブルク]]の第85歩兵旅団の旅団長に就任した&amp;lt;ref name=&amp;quot; Machine&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第一次世界大戦 ===&lt;br /&gt;
==== リェージュ要塞攻略 ====&lt;br /&gt;
[[第一次世界大戦]]が開戦した直後の1914年8月2日に[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]のドイツ第2軍で司令官[[カール・フォン・ビューロウ]]上級大将の下で第二補給部長となった。第14歩兵師団に連絡将校として同行していた時に同師団の師団長が戦死したのを受けて代わって師団の指揮を執り、難攻不落と言われた[[リェージュ要塞]]([[:fr:Position fortifiée de Liège|fr]])を攻略した。ルーデンドルフは参謀本部第2部長時代からこの要塞をめぐって激しい争いになる事を予測してその奇襲を研究していたのだった&amp;lt;ref name=&amp;quot; Machine&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ゲルリッツ(1998)242&amp;quot;&amp;gt;[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.242]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。リェージュ要塞の陥落によってドイツ軍はベルギー国内に続々となだれ込むことが可能となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ゲルリッツ(1998)242&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ルーデンドルフは、[[ドイツ皇帝|カイザー]]・[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]や参謀総長の「小モルトケ」こと[[ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ]]から高く評価された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== タンネンベルクの戦い ====&lt;br /&gt;
[[東部戦線 (第一次世界大戦)|東部戦線]]で[[マクシミリアン・フォン・プリトヴィッツ・ウント・ガフロン]][[上級大将]]([[:de:Maximilian von Prittwitz und Gaffron|de]])率いるドイツ第8軍が敗れたのを機にプリトヴィッツは更迭され、東部戦線はルーデンドルフ少将に任せることが決定した。しかしルーデンドルフは勤続年数から軍司令官就任資格がなく、参謀長にしか任命できなかった。そのため第8軍司令官には退役していた[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]][[大将]]が就任した。ルーデンドルフはその補佐役の参謀長に就任した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ゲルリッツ(1998)253&amp;quot;&amp;gt;[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.253]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ベネット(1970)20&amp;quot;&amp;gt;[[#ベネット(1970)|ベネット(1970)、p.20]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この二人は第一次世界大戦を通じてコンビを組み続けることになるが、二人の関係では常にルーデンドルフが頭脳であり、ヒンデンブルクはお飾りの存在であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ベネット(1970)24&amp;quot;&amp;gt;[[#ベネット(1970)|ベネット(1970)、p.24]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:Hindenburg-ludendorff.jpg|250px|left|thumb|第8軍参謀長ルーデンドルフ（右）と軍議をする第8軍司令官ヒンデンブルクを描いた絵（フーゴー・フォーゲル画・1928年）]]&lt;br /&gt;
ヒンデンブルクとともに8月23日夜に[[マリエンブルク]]の第8軍司令部に着任した。先任の第8軍作戦参謀[[マックス・ホフマン]]中佐とともにドイツ第8軍の反撃作戦を指揮した。損害や補給不足の影響でロシア第1軍がしばらく動かない事を電信の傍受で掴んでいたドイツ第8軍は、大部隊と見せかけた第1騎兵師団だけをロシア第1軍の正面に残し、また[[タンネンベルク]]付近で第20軍団をロシア第2軍に当たらせている間に他の各[[軍団]]・[[師団]]をロシア第2軍の左翼と右翼に移動させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月26日からこれらの軍団や師団がロシア第2軍に攻撃を開始した。[[ヘルマン・フォン・フランソワ]]大将([[:de:Hermann von François|de]])率いる第1軍団は左翼から、[[アウグスト・フォン・マッケンゼン]]大将率いる第17軍団は右翼からロシア第2軍の背後に回り込み、8月29日早朝には同軍を包囲する事に成功した。ロシア第2軍20万人のうちロシアへ帰国する事が出来たのはわずか1万7000人だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;学研上27&amp;quot;&amp;gt;[[#学研上|『図説 第一次世界大戦 &amp;lt;上&amp;gt;』、p.27]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西部戦線から引き抜かれた2個軍団が新たに第8軍に加えられ、9月5日からロシア第1軍への攻撃を開始した。4個軍団でロシア第1軍に正面から攻撃をかけるとともに第1軍団と第17軍団にロシア第1軍左翼に当たる湖沼地帯を突破させ、その背後に回り込ませようとした。ロシア第1軍司令官[[パーヴェル・レンネンカンプ]]は第2軍の二の舞になる事を恐れて2個師団を後衛として擁護させながら、[[東プロイセン]]から撤退した。ロシア軍の退却は9月10日から14日に及んだが、その間にもドイツ軍は砲撃を加え、ロシア第1軍は死傷者と捕虜で14万5000人の兵を失った&amp;lt;ref name=&amp;quot;ベネット(1970)30&amp;quot;&amp;gt;[[#ベネット(1970)|ベネット(1970)、p.30]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;学研上27&amp;quot;/&amp;gt;。こうして東プロイセンを巡ってドイツ帝国とロシア帝国で争われた「[[タンネンベルクの戦い (1914年)|タンネンベルクの戦い]]」はドイツ軍の大勝利に終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 東部方面軍参謀長 ====&lt;br /&gt;
[[File:Bundesarchiv Bild 183-2005-0828-525, Erich Ludendorff.jpg|200px|right|thumb|1915年のルーデンドルフ]]&lt;br /&gt;
オーストリア軍支援の[[ガリチア]]方面出兵のためにドイツ第8軍は急遽第9軍を編成し、東部戦線のドイツ軍は第8軍と第9軍の2軍となり、その両軍の上に東部[[方面軍]]が置かれ、ヒンデンブルクが東部方面軍司令官、ルーデンドルフが東部方面軍参謀長にそれぞれ就任した。実権は引き続きルーデンドルフが握った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1914年9月28日に第9軍と第8軍の一部はオーストリア軍支援のために[[ポーランド]]南部で攻勢に出て、[[ワルシャワ]]占領を目指し、10月6日には[[ヴィスワ川|ヴァイクセル川]]に到着した。しかし[[ヴィスワ川の戦い|ヴァイクセル川の戦い]]([[:de:Schlacht an der Weichsel (1914)|de]])でロシア軍の頑強な抵抗にあい、突破できなかった。ドイツ軍は10月17日に退却し、オーストリア軍も[[カルパティア山脈]]まで押し戻された。ロシア軍は[[シレジア|シュレージエン]]や[[ハンガリー]]をうかがうまでに勢力を回復した&amp;lt;ref name=&amp;quot;学研上81&amp;quot;&amp;gt;[[#学研上|『図説 第一次世界大戦 &amp;lt;上&amp;gt;』、p.81]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ベネット(1970)45&amp;quot;&amp;gt;[[#ベネット(1970)|ベネット(1970)、p.45]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月3日の作戦会議で東部方面軍は作戦を立て直した。ロシア軍に気づかれぬように鉄道で第9軍をすばやく移動させ、11月11日に[[ロッヅ]]を強襲したのであった。[[ロッヅの戦い]]([[:de:Schlacht um Łódź|de]])の末に12月6日にドイツ第9軍がロッヅを占領した。これによりロシア軍のシュレージエン侵入の野望は潰えた&amp;lt;ref name=&amp;quot;学研上81&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ベネット(1970)47&amp;quot;&amp;gt;[[#ベネット(1970)|ベネット(1970)、p.47]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1915年1月にヴィルヘルム2世の決裁で新たに4個軍団を得た東部方面軍は第10軍を創設した。オーストリア軍からの要請を受け、東プロイセンとカルパティアからロシア軍の突出部を攻撃する計画が実行された。東プロイセン・[[マズリア湖の戦い]]([[:de:Winterschlacht in Masuren|de]])でロシア軍に勝利をおさめたが、ロシア軍は新手の第12軍を投入し、また[[カルパティアの戦い]]([[:de:Schlacht in den Karpaten|de]])のオーストリア軍の敗北でドイツの情勢はむしろ悪化した&amp;lt;ref name=&amp;quot;学研上91&amp;quot;&amp;gt;[[#学研上|『図説 第一次世界大戦 &amp;lt;上&amp;gt;』、p.91]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東部方面軍に業を煮やした[[エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン]]参謀総長は新設の第11軍とともに東部戦線を訪れ、直接指揮を執った。第11軍の司令官には[[アウグスト・フォン・マッケンゼン]]が任じられ、5月2日に第11軍は[[ゴルリッツの戦い]]([[:de:Schlacht von Gorlice-Tarnów|de]])で攻撃を仕掛け、勝利を収めた。これを機にロシア軍は押し込められた。8月には[[ワルシャワ]]が陥落。ロシア軍は[[大退却]]([[:ru:Великое отступление 1915 года|ru]])を行い、1915年秋には東部戦線はひとまず安定した&amp;lt;ref name=&amp;quot;学研上93&amp;quot;&amp;gt;[[#学研上|『図説 第一次世界大戦 &amp;lt;上&amp;gt;』、p.93]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ファルケンハインはこの成功を盾に東部方面軍に対して態度を強め、東部方面軍の師団を別の戦線へ移動させるようになった。これに対してヒンデンブルクは1915年10月6日に「夏の作戦だけではロシア軍の攻撃力は完全に破られてはいない」としてこれ以上東部方面軍から師団を送ることを拒絶した。しかしヴィルヘルム2世の決裁でファルケンハインの命令通り、師団を送るよう命じられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ベネット(1970)64&amp;quot;&amp;gt;[[#ベネット(1970)|ベネット(1970)、p.64]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ファルケンハインは1915年夏の勝利でロシアは当分立ち直れないと踏んでいたが、その見通しは甘かった。ロシア軍は迅速に再編成を済ませ、フランス軍の要請を受けて1916年3月19日に[[ナーロチ湖の戦い]]([[:de:Schlacht am Naratsch-See|de]])で攻勢に出た。東部方面軍は何とかこれを撃退したが、6月4日にはロシア軍はオーストリア軍に対して[[ブルシーロフ攻勢]]をかけて勝利を収めた。ロシア軍は7月にドイツ東部方面軍に対する攻勢にでたが、ドイツ東部方面軍はこれを食い止め、戦線を保った。ロシア軍は10月まで攻勢を続けたが、すでに不意打ちの効果は失われていた。ロシア軍はこの一連の攻勢で100万の兵を失った&amp;lt;ref name=&amp;quot;学研下53&amp;quot;&amp;gt;[[#学研下|『図説 第一次世界大戦 &amp;lt;下&amp;gt;』、p.53]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロシアで厭戦気分が高まり、1917年2月には[[ロシア革命]]が発生し、ロシア帝政が崩壊した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 参謀本部次長 ====&lt;br /&gt;
[[File:Hindenburg, Kaiser, Ludendorff HD-SN-99-02150.JPG|thumb|250px|1917年、参謀本部総長ヒンデンブルク（左）、皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]（中央）、参謀本部次長ルーデンドルフ（右）]]&lt;br /&gt;
[[File:Bundesarchiv Bild 183-1992-0707-500, Erich Ludendorff.jpg|thumb|250px|1918年のルーデンドルフ]]&lt;br /&gt;
[[File:Ludendorf Hindenburg.jpg|thumb|250px|1918年5月、スパの大本営。ヒンデンブルク（左）とルーデンドルフ（右）]]&lt;br /&gt;
ファルケンハインが発動した西部戦線の[[ヴェルダンの戦い]]は思わしくなく、また彼が東部から兵力を引き抜いた後に東部戦線でロシア軍の攻勢があったことで彼の面目は潰れた。[[1916年]]8月にファルケンハインは更迭されることとなった。ヒンデンブルクが後任の参謀総長(Chef des Generalstaffs des Feldheeres)に任じられた。ルーデンドルフは参謀次長に任じられたが、この際に彼はこの役職の名称を「第一兵站総監」（Erster Oberquartiermeister）に改めたいと願い出て許可された&amp;lt;ref name=&amp;quot;ゲルリッツ(1998)276&amp;quot;&amp;gt;[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.276]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この人事はモルトケの推挙によるものだったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;渡部(2009)232&amp;quot;&amp;gt;[[#渡部(2009)|渡部(2009)、p.232]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。これまで同様にヒンデンブルクはお飾りでルーデンドルフが実質的に役割を果たした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ルーデンドルフはただちに各軍集団、軍、師団の司令部において司令官よりもベルリン参謀本部の指揮下にある野戦参謀本部が指揮をとるように改め、自分の指揮権限を拡大した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ゲルリッツ(1998)288&amp;quot;&amp;gt;[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.288]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。これ以降のドイツの戦争は実質的にルーデンドルフによって指導されるようになった。またヴィルヘルム2世と宰相[[テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク]]がそろって国家指導の才能に乏しく、国の政治指導部が「真空状態」になっていたこともあり、彼は政治にも干渉して「ルーデンドルフ独裁」と呼ばれる時代を築くこととなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;学研下144&amp;quot;&amp;gt;[[#学研下|『図説 第一次世界大戦 &amp;lt;下&amp;gt;』、p.144]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;渡部(2009)233&amp;quot;&amp;gt;[[#渡部(2009)|渡部(2009)、p.233]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
情報部を独立部署として発足させ、また外務省の参謀本部の出先機関を外務部とし、同部の下に宣伝を目的とする写真・映像課を設置させた。この課の下に映画会社[[ウーファ]]が設立された&amp;lt;ref name=&amp;quot;ゲルリッツ(1998)284&amp;quot;&amp;gt;[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.284]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また鉄道部の[[ヴィルヘルム・グレーナー]]に軍需生産の中枢として「戦争局」を設置させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ゲルリッツ(1998)286&amp;quot;&amp;gt;[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.286]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ますます重要な存在と化し始めていた航空隊を陸海軍に次ぐ「第三の軍」と認め、これを参謀本部の直接指揮下に置いた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ゲルリッツ(1998)286&amp;quot;&amp;gt;[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.286]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参謀本部は軍事はもちろん、新聞や映画や絵画などの統制、宣伝、外交政策、軍需生産などあらゆる分野に手を伸ばすようになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ゲルリッツ(1998)289&amp;quot;&amp;gt;[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.289]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ドイツが戦争に勝つためには国内のあらゆる分野を全て統制下において、その戦争潜在能力を最大限に引き出して活用する総力戦しか道はなかった。ヒンデンブルクとルーデンドルフの承認によってグレーナーが総力戦体制を「ヒンデンブルク綱領」としてまとめた。あらゆる消費財と食料の徹底的統制を命じ、また最後まで残されていた予備労働力である女性の動員を命じた。しかし総力戦体制は急速に社会の均一化をもたらし、「戦時社会主義」ともいうべき社会状況を発生させた。前線でも数百万人の動員、塹壕戦といった特殊な環境の中で兵士と将校の平等化が起こっていた。後の「[[ドイツ革命]]」への下地は着実に築かれていった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ゲルリッツ(1998)292&amp;quot;&amp;gt;[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.292]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宰相ホルヴェークは[[無制限潜水艦作戦]]に反対し、ルーデンドルフと対立を深めた。ルーデンドルフは1917年7月に彼を失脚させた。後任に元宰相[[ベルンハルト・フォン・ビューロー]]侯爵か元海軍大臣[[アルフレート・フォン・ティルピッツ]]提督を考えたが、この二人はかつてヴィルヘルム2世が解任した人物であったからヴィルヘルム2世から反対があり、結局先日陸軍最高司令部に来てルーデンドルフらの覚えが良かった戦時食糧管理庁次官[[ゲオルク・ミヒャエリス]]が就任することとなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ゲルリッツ(1998)295&amp;quot;&amp;gt;[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.295]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;モムゼン(2001)21&amp;quot;&amp;gt;[[#モムゼン(2001)|モムゼン(2001)、p.21]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ミヒャエリスはルーデンドルフの忠実な代弁者として行動したが、1917年夏の最初の水兵の反乱、軍需工場のストライキなどにうまく対応できずに早々に辞職し、結局[[ゲオルク・フォン・ヘルトリング]]伯爵が宰相となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ゲルリッツ(1998)300&amp;quot;&amp;gt;[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.300]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬(1997)|成瀬・山田・木村(1997)、p.104-105]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方戦争指導ではこれまでの東部戦線大攻勢論を撤回して西部戦線の立て直しに力を入れた。連合軍の攻勢に先んじて戦線を後退させ、強固な塹壕陣地帯「[[ジークフリート線 (第一次世界大戦)|ジークフリート線]]([[:de:Siegfriedstellung]])」（連合国は「ヒンデンブルク線」と呼んだ）を構築して防御を固めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1917年4月にイギリス軍は[[アラス会戦]]([[:de:Schlacht von Arras (1917)|de]])で攻勢を強め、5月から6月の[[メッシーネの戦い]]([[:de:Schlacht von Messines|de]])でドイツ軍の突出部を攻略。さらに7月末から11月にかけて[[パッシェンデールの戦い]]、11月から12月にかけて戦車軍団を動員した[[カンブレーの戦い]]([[:de:Schlacht von Cambrai|de]])で攻勢をかけたが、ドイツ軍は頑強に抵抗してイギリス軍の侵攻を防いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方フランス軍は1917年4月に[[エーヌ会戦]]([[:de:Schlacht an der Aisne (1917)|de]])で攻勢をかけたが、ドイツ軍が勝利した。フランスで厭戦気分が高まり、4月29日に68個師団で反乱が勃発した。首相[[ジョルジュ・クレマンソー]]が何とか抑え込み、ドイツとの戦争を継続した&amp;lt;ref name=&amp;quot;学研下59&amp;quot;&amp;gt;[[#学研下|『図説 第一次世界大戦 &amp;lt;下&amp;gt;』、p.59]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
海戦ではイギリスに対する[[海上封鎖]]を徹底化するために1917年2月に[[無制限潜水艦作戦]]を決定した。これは1917年4月の[[アメリカ合衆国]]の参戦を招いた。しかし当時のアメリカには本格的な陸軍はなく、軍の組織から開始する状況だったのでアメリカの実際的な参戦は1年先だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;学研下58&amp;quot;&amp;gt;[[#学研下|『図説 第一次世界大戦 &amp;lt;下&amp;gt;』、p.58]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、[[ロシア革命]]により帝政が崩壊したロシアに対しては和平交渉を行った。ロシア臨時政府首相[[アレクサンドル・ケレンスキー]]は連合国の求めに応じてドイツとの戦争を続行したが、ケレンスキー政府は1917年10月の[[ボルシェヴィキ]]によるロシア革命により崩壊した。[[ウラジーミル・レーニン]]のボルシェヴィキ政府が立ち上げられた。ドイツはレーニン政府に[[ウクライナ]]や[[バルト三国]]の分離独立を求めた。レーニンは初め拒絶したが、ロシアの軍事力は革命の混乱で崩壊状態であり、1918年2月にドイツ軍がロシア軍へ攻撃を開始したことで要求を飲むしかなくなった。1918年3月3日に[[ブレスト・リトフスク条約]]が締結され、ドイツはロシアを下した。3月5日にはロシアの後援を失った[[ルーマニア]]も降伏。東部戦線は終結した&amp;lt;ref name=&amp;quot;学研下58&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロシア脱落を受けてドイツ軍はアメリカが本格参戦してくる前に西部戦線に最後の攻勢をかけることにした。ドイツ軍は1918年3月から7月にかけて東部の兵力をすべて西側に回して最後の大攻勢「[[1918年春季攻勢|カイザーシュラハト]]（皇帝の戦い）」([[:de:Deutsche Frühjahrsoffensive 1918|de]])作戦を行った。しかしドイツ軍の奮闘もむなしく、戦局を好転させることはできなかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;学研下39&amp;quot;&amp;gt;[[#学研下|『図説 第一次世界大戦 &amp;lt;下&amp;gt;』、p.39]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに[[1918年]]8月8日に[[アミアンの戦い]]([[:de:Schlacht bei Amiens (1918)|de]])でドイツ陸軍が決定的な敗北を喫した。ルーデンドルフはこの日を「ドイツ陸軍暗黒の日」と称した&amp;lt;ref name=&amp;quot;学研下40&amp;quot;&amp;gt;[[#学研下|『図説 第一次世界大戦 &amp;lt;下&amp;gt;』、p.40]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)39&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.39]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 大戦末期 ====&lt;br /&gt;
戦況を絶望視したルーデンドルフは、ヒンデンブルクとともに1918年9月28日に政府に対して一刻も早く[[ウッドロウ・ウィルソン]]米大統領の提唱する「[[十四か条の平和原則]]」を受け入れて休戦協定を結ばなければならない、そのためにも政府を改革して議会主義に基づく政府を作らねばならないとする通牒を送った&amp;lt;ref name=&amp;quot;成瀬(1997)109&amp;quot;&amp;gt;[[#成瀬(1997)|成瀬・山田・木村(1997)、p.109]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アイク(1983)57&amp;quot;&amp;gt;[[#アイク(1983)|アイク(1983)、p.57]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;林(1990)5&amp;quot;&amp;gt;[[#林(1968)|林(1968)、p.5]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ルーデンドルフは公然たる敗戦を回避するとともに敗戦責任を文官政府に押し付けたがっていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;モムゼン(2001)27&amp;quot;&amp;gt;[[#モムゼン(2001)|モムゼン(2001)、p.27]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
議会主義に反対していた宰相[[ゲオルク・フォン・ヘルトリング]]を辞職させ、代わりの宰相に自由主義者と言われていた[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン大公マクシミリアン]]を任じ、彼にアメリカとの交渉を行わせた。この時ルーデンドルフは一時的に休戦して[[ライン川]]まで撤退した後、東ヨーロッパから搾取を行って再度戦争を再開し、1919年春にはもっと有利な条件で改めて休戦を結ぶという根拠の乏しい青写真を描いていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;モムゼン(2001)27&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10月8日から27日にかけてマクシミリアンはウィルソンと休戦交渉に向けた電報のやり取りをしていたが、アメリカの要求は次第に厳しくなっていった&amp;lt;ref name=&amp;quot;加瀬(1976)14&amp;quot;&amp;gt;[[#加瀬(1976)|加瀬(1976)、p.14]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。10月24日のウィルソン大統領の第3回返信はドイツ軍の完全撤兵と交戦能力の徹底的剥奪を求めており、休戦後に戦争再開というルーデンドルフの妄想を打ち砕くものだった&amp;lt;ref name=&amp;quot;加瀬(1976)14&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;モムゼン(2001)29&amp;quot;&amp;gt;[[#モムゼン(2001)|モムゼン(2001)、p.29]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。これを受けてルーデンドルフは徹底抗戦を主張して休戦反対派に転じた&amp;lt;ref name=&amp;quot;加瀬(1976)14&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;モムゼン(2001)29&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宰相マクシミリアンは辞職をちらつかせながら皇帝ヴィルヘルム2世にルーデンドルフ解任を求め、10月26日ついにルーデンドルフは参謀本部次長を辞することとなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)41&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.41]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;林(1968)6&amp;quot;&amp;gt;[[#林(1968)|林(1968)、p.6]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。なおヒンデンブルクは留任した。ルーデンドルフはこれに不満があったらしく、ヒンデンブルクと別れる時に「貴方も辞職されるべきだった」と述べた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ベネット(1970)158&amp;quot;&amp;gt;[[#ベネット(1970)|ベネット(1970)、p.158]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌10月27日、ルーデンドルフは[[スウェーデン]]に亡命した&amp;lt;ref name=&amp;quot;加瀬(1976)15&amp;quot;&amp;gt;[[#加瀬(1976)|加瀬(1976)、p.15]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。スウェーデンで『戦争回顧録』(Kriegserinnerungen)を著した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== カップ一揆 ===&lt;br /&gt;
1919年2月にドイツ・[[バイエルン州]]のミュンヘンへ帰国し、帰国後は専ら反[[ヴァイマル共和政]]の政治活動に専念するようになり、右翼・保守の人望を得た。1920年早々に[[ドイツ義勇軍|義勇軍]]に担がれて[[ベルリン]]へ移り、1920年3月の[[カップ一揆]]に参加した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ(2002)307&amp;quot;&amp;gt;[[#ヴィストリヒ(2002)|ヴィストリヒ(2002)、p.307]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;加瀬(1976)93&amp;quot;&amp;gt;[[#加瀬(1976)|加瀬(1976)、p.93]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。一揆勢の[[エアハルト海兵旅団]]は[[ドイツ社会民主党]](SPD)政権を追ってベルリンを占拠する事に成功した。ルーデンドルフが首相になるところ、彼は逡巡したため、結局[[ヴォルフガング・カップ]]が首相に就任した&amp;lt;ref name=&amp;quot;加瀬(1976)96&amp;quot;&amp;gt;[[#加瀬(1976)|加瀬(1976)、p.96]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし結局ドイツ社民党の指導するゼネストによってカップ一揆は失敗に終わる&amp;lt;ref name=&amp;quot;加瀬(1976)97&amp;quot;&amp;gt;[[#加瀬(1976)|加瀬(1976)、p.97]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方バイエルン・ミュンヘンではカップ一揆に触発された[[グスタフ・フォン・カール]]が[[ハインリヒ・ホフマン (写真家)|ハインリヒ・ホフマン]]社民党政権を打倒し、右翼政権を樹立することに成功していた。そのためルーデンドルフやエアハルト海兵旅団の隊員の多くは一揆失敗後にミュンヘンに逃げ込んだ&amp;lt;ref&amp;gt;[[#加瀬(1976)|加瀬(1976)、p.96-97]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。以降彼らはミュンヘンの右翼政党[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)と急速に接近する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ミュンヘン一揆 ===&lt;br /&gt;
[[File:Bundesarchiv Bild 183-R41120, Erich Ludendorff, Gustav v. Kahr.jpg|thumb|250px|1921年、ルーデンドルフ(中央)と[[グスタフ・フォン・カール]](左)]]&lt;br /&gt;
[[File:Bundesarchiv Bild 102-00344A, München, nach Hitler-Ludendorff Prozess retouched.jpg|thumb|250px|1924年4月1日、ミュンヘン一揆裁判の判決の日。ルーデンドルフ(中央)と[[ヒトラー]](ルーデンドルフの右)。]]&lt;br /&gt;
1923年9月2日にナチ党党首[[アドルフ・ヒトラー]]は[[突撃隊]]や[[オーバーラント団]]（[[:de:Freikorps Oberland|Freikorps Oberland]]）などを結集させて右翼軍事組織連合「[[ドイツ闘争連盟]]（[[:en:Kampfbund|Kampfbund]]）」を結成させた。実質的な指揮権はヒトラーが掌握したが、ルーデンドルフが同団体の名誉総裁に就任している&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)98&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.98]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;桧山(1976)65&amp;quot;&amp;gt;[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.65]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1923年11月、ヒトラーは闘争連盟を指揮して[[バイエルン州]]総督[[グスタフ・フォン・カール]]、バイエルン駐在の第7師団司令官[[オットー・フォン・ロッソウ]]少将、州警察長官の[[ハンス・フォン・ザイサー]]（[[:de:Hans von Seißer|Hans von Seißer]]）大佐の三名に「ベルリン進軍」を迫るため、[[ミュンヘン一揆]]を起こす事を企図した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一揆当日の1923年11月8日、ヒトラーがカールが演説中の「[[ビュルガーブロイケラー]]」を占拠したと聞いたルーデンドルフはここに駆け付けた。ヒトラーの一揆協力要請にカール、ロッソウ、ザイサーらは渋っていたが、ルーデンドルフの説得を受けるとまず軍人のロッソウ少将が協力を申し出た。ついで警察のザイサー大佐もこれに従った。文官のカールだけはその後もしばらく渋っていたが、結局最後はカールも協力することを表明した&amp;lt;ref name=&amp;quot;フェスト(1975)上238&amp;quot;&amp;gt;[[#フェスト(1975)上|フェスト(1975)、上巻p.238]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしヒトラーが後をルーデンドルフに任せてビュルガーブロイケラーを一時離れた際、ルーデンドルフは、ロッソウ少将の言葉を信じて彼に外へ出る許可を与えた。ついでカール総督とザイサー大佐にも外へ出る許可を与えた。ヒトラーが戻るとカールやロッソウたちがいないのにヒトラーはびっくりして解放したルーデンドルフを非難したが、ルーデンドルフは元伍長を冷ややかな目で見ると「ドイツ軍将校は誓いを破らない」と言い返したという。しかしこの後、ロッソウ少将は一揆の鎮圧命令を発している&amp;lt;ref&amp;gt;[[#トーランド(1979)上|トーランド(1979)、上巻p.183-187]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。これを聞いたルーデンドルフは「私はドイツ軍将校の誓いを二度と信用できない」と述べて意気消沈してしまったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;トーランド(1979)上188&amp;quot;&amp;gt;[[#トーランド(1979)上|トーランド(1979)、上巻p.188]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月9日朝、ルーデンドルフはヒトラーとともにナチ党員を率いてミュンヘン市中心部へ向けて行進を開始した。ヒトラーを中心にして左にルーデンドルフ、右に[[マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー＝リヒター]]が先頭に並び、三人は腕を組んだ。ヒトラーもルーデンドルフ自身も一次大戦の英雄であるルーデンドルフに発砲はしまいという過信があった。しかしバイエルン警官隊は彼らに向けて発砲した。ナチ党員たちの一団は総崩れになり、撤退した。ルーデンドルフは逃げることなく、警官たちの方へ歩み、そのまま逮捕されている&amp;lt;ref name=&amp;quot;トーランド(1979)上194&amp;quot;&amp;gt;[[#トーランド(1979)上|トーランド(1979)、上巻p.194]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;フェスト(1975)上244&amp;quot;&amp;gt;[[#フェスト(1975)上|フェスト(1975)、上巻p.244]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1924年2月26日、逃亡先で逮捕されたヒトラーとともに裁判にかけられた。裁判中、その雄弁で法廷を圧倒したヒトラーに比べ、ルーデンドルフは脇役になってしまった。ヒトラーが一揆の責任を一身に引き受けたのに対して、ルーデンドルフはひたすら責任を回避する弁に終始したためだった。しかしルーデンドルフの尊大な態度と威厳は凄まじく、しばしば判事や検事を怒鳴りつけ、裁判長はこれにぶるぶると震えていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;トーランド(1979)上214&amp;quot;&amp;gt;[[#トーランド(1979)上|トーランド(1979)、上巻p.214]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月1日に判決が下った。ヒトラーは5年の禁固刑、ルーデンドルフは無罪であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)110&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.110]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;フェスト(1975)上249&amp;quot;&amp;gt;[[#フェスト(1975)上|フェスト(1975)、上巻p.249]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 政治活動 ===&lt;br /&gt;
[[File:Bundesarchiv Bild 102-00108A, Heinrich von Preußen und Erich Ludendorff.jpg|thumb|250px|1926年、ルーデンドルフと[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の弟[[ハインリヒ・フォン・プロイセン (1862-1929)|ハインリヒ]]。]]&lt;br /&gt;
この後、ルーデンドルフ将軍は北部ドイツの[[プロテスタント]]右翼政党[[ドイツ民族自由党]]に賓客として招かれ、その旗印に担がれた。ドイツ民族自由党とナチ党残党勢力が合同して「[[国家社会主義自由運動]]」が創設されるとその最高機関である全国執行部の三名の構成員の一人となった。他の二人はドイツ民族自由党党首[[アルブレヒト・フォン・グラーフェ]]と[[グレゴール・シュトラッサー]]である&amp;lt;ref name=&amp;quot;モムゼン(2001)291&amp;quot;&amp;gt;[[#モムゼン(2001)|モムゼン(2001)、p.291]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;桧山(1976)86&amp;quot;&amp;gt;[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.86]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。シュトラッサーはヒトラーの代理として入っていた。ヒトラーが代理に指名していた[[アルフレート・ローゼンベルク]]がルーデンドルフに嫌われていたのでシュトラッサーになったという経緯があった&amp;lt;ref name=&amp;quot;桧山(1976)86&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また[[エルンスト・レーム]]は突撃隊の偽装組織「[[フロントバン]]」を創設したが、この組織はルーデンドルフ、ヒトラー、グラーフェの三人に忠誠を誓っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国家社会主義自由運動は[[1924年5月ドイツ国会選挙|1924年5月の国会選挙]]で32議席を獲得し、ルーデンドルフ将軍は国会議員となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)112&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.112]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1924年12月20日にヒトラーがランツベルク刑務所から出獄した。ヒトラーはナチ党禁止命令を解除してもらう必要からカトリックの[[ハインリヒ・ヘルト]]バイエルン州首相の機嫌を損ねまいと反カトリック的なルーデンドルフ将軍とドイツ民族自由党との連立を解消した。ルーデンドルフとドイツ民族自由党は1925年2月12日に国家社会主義自由運動から離脱した&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)121&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.121]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降はドイツ民族自由党の指導に当たるとともに「フロントバン」の中のルーデンドルフ派を「[[タンネンベルク団]]」([[:de:Tannenbergbund]])として組織し、その指導に当たった&amp;lt;ref name=&amp;quot;桧山(1976)103&amp;quot;&amp;gt;[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.103]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この「タンネンベルク団」でルーデンドルフは彼の二番目の妻である女医マチルデ・フォン・ケムニッツ博士の影響を受けて、[[ユダヤ人]]と[[カトリック教会|カトリック]]と[[フリーメーソン]]の三重の「世界支配の陰謀」を批判する[[陰謀論]]的な言論活動を行うようになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)122&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.122]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1925年ドイツ大統領選挙]]の第一次選挙で大統領候補として出馬したが惨敗した。この惨敗でルーデンドルフは事実上政治生命を断たれた&amp;lt;ref name=&amp;quot;桧山(1976)103&amp;quot;/&amp;gt;。ドイツ民族自由党やタンネンベルク団のメンバーもほとんどがルーデンドルフを見限ってナチ党へ移ってしまった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.103-104]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヒトラーとルーデンドルフの関係は悪化の一図をたどり、ヒトラーは1927年に[[レーゲンスブルク]]の集会で「ルーデンドルフこそがフリーメーソンである」と言明した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ(2002)308&amp;quot;&amp;gt;[[#ヴィストリヒ(2002)|ヴィストリヒ(2002)、p.308]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 晩年 ===&lt;br /&gt;
1935年には「[[総力戦 (ルーデンドルフ)|総力戦]]」を著した。この著作でルーデンドルフは戦争と政治の関係が変化した結果として政治そのものが変化したとして、総力政治の概念を導入して総力戦の必然性を論じた。この著作の刊行後にその理念の一部は[[第二次エチオピア戦争]]や[[スペイン内戦]]で現実のものとなったが、ヒトラーは[[第二次世界大戦]]の開戦においてこの理論を排除している。つまり軍人が国家を指導するのではなく、政治家ヒトラーによって軍人を統制することが徹底されていた。日本では[[永田鉄山]]や[[石原莞爾]]がルーデンドルフを深く研究するなど、ドイツに留学・駐在を経験した武官を中心に、昭和期の日本陸軍の思考に大きな影響を与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヒンデンブルクがヒトラーを首相に任命した時には「&#039;&#039;&#039;あなたは偉大な祖国を最悪な扇動者に渡してしまった。この男は我がドイツに不幸な災いをもたらすだろう&#039;&#039;&#039;」と激しく糾弾する手紙を送っている。また陸軍総司令官[[ヴェルナー・フォン・フリッチュ]]に対しては「&#039;&#039;&#039;ヒトラーには誠意というものが全くない。いまに奴は君のことも裏切るだろう。&#039;&#039;&#039;」と述べたことがあった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ゲルリッツ(1998)458&amp;quot;&amp;gt;[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.458]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ヒンデンブルクの死後には[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク|ブロンベルク]]、フリッチュ、[[ルートヴィヒ・ベック|ベック]]ら軍部がしきりにルーデンドルフを担ごうとしていたが、この頃ルーデンドルフはドイツにキリスト教に代わる新しい敬神思想を作りだすことに熱中しており、ほとんど取り合わなかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ゲルリッツ(1998)433&amp;quot;&amp;gt;[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.433]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1935年]]に軍部からの求めに応じたヒトラーがルーデンドルフに対して70歳記念に[[元帥 (ドイツ)|元帥]]に列すると申し出たが、ルーデンドルフは「&#039;&#039;&#039;一兵卒の男に元帥に任命される謂われはない&#039;&#039;&#039;」と激怒して拒絶している&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.433-434]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし1937年12月20日にルーデンドルフが[[トゥッツィング]]([[:de:Tutzing|Tutzing]])で没した際には、ナチ党政権は彼を「偉大な愛国者」として[[国葬]]に付した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ(2002)308&amp;quot;/&amp;gt;。国葬にはヒトラーも出席している&amp;lt;ref name=&amp;quot;ゲルリッツ(1998)458&amp;quot;/&amp;gt;。また古代[[スカンジナビア半島]]の異教の神々を信仰の対象としてルーデンドルフが創設した宗教「ドイツ信徒の家」（Deutsche Gotteserkenntnis）はナチ党政権によって公認されている&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ(2002)309&amp;quot;&amp;gt;[[#ヴィストリヒ(2002)|ヴィストリヒ(2002)、p.309]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== キャリア&amp;lt;ref name=&amp;quot; Machine&amp;quot;/&amp;gt; ==&lt;br /&gt;
=== 軍階級 ===&lt;br /&gt;
*1882年4月15日、[[少尉]]（Leutnant）&lt;br /&gt;
*1890年7月1日、[[中尉]]（Oberleutnant）&lt;br /&gt;
*1895年3月、[[大尉]]（Hauptmann）&lt;br /&gt;
*1902年7月1日、[[少佐]]（Major）&lt;br /&gt;
*1908年4月1日、[[中佐]]（Oberstleutnant）&lt;br /&gt;
*1913年、[[大佐]]（Oberst）&lt;br /&gt;
*1914年4月22日、[[少将]]（Generalmajor）&lt;br /&gt;
*1914年11月27日、[[中将]]（Generalleutnant）&lt;br /&gt;
*1916年8月29日、[[大将|歩兵大将]]（General der Infanterie）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 受章 ===&lt;br /&gt;
*[[プール・ル・メリット勲章]]（1914年8月8日）&lt;br /&gt;
*[[大鉄十字章]]（1918年3月24日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 研究書 ==&lt;br /&gt;
*[[ジョン・ウィーラー・ベネット]]著、木原健男訳『ヒンデンブルクからヒトラーへ』東邦出版社、1971年&lt;br /&gt;
:ルーデンドルフの第一次世界大戦における活動について詳説している。&lt;br /&gt;
*E・M・アール編著、山田積昭訳『新戦略の創始者(下)』原書房、1979年&lt;br /&gt;
:第13章では総力戦理論の提唱者としてルーデンドルフを取り上げている。&lt;br /&gt;
*前原透監修、片岡徹也編集『戦略思想家事典』芙蓉書房出版、2003年&lt;br /&gt;
:ルーデンドルフの項目ではその経歴と著作の中で展開されている総力戦の理論について概観している。&lt;br /&gt;
*清水多吉・石津朋之編『クラウゼヴィッツと「戦争論」』彩流社、2008年。&lt;br /&gt;
:ルーデンドルフの戦略論についての言及を含む最新研究。軍事史研究家の小堤盾がゼークト、ルーデンドルフ、ベックの軍事戦略思想について詳しく言及している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=[[エーリッヒ・アイク]]([[:de:Erich Eyck|de]])|translator=[[救仁郷繁]]|year=1983|title=ワイマル共和国史 I 1917-1922|publisher=[[ぺりかん社]]|isbn=978-4831503299|ref=アイク(1983)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=[[阿部良男]]著|year=2001|title=ヒトラー全記録 &amp;lt;small&amp;gt;20645日の軌跡&amp;lt;/small&amp;gt;|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760120581|ref=阿部(2001)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=[[ロベルト・S・ヴィストリヒ]]([[:en:Robert S. Wistrich|en]])|translator=[[滝川義人]]|year=2002|title=ナチス時代 ドイツ人名事典|publisher=[[東洋書林]]|isbn=978-4887215733|ref=ヴィストリヒ(2002)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|year=1990|author=[[J.M. ウィンター]]|translator=[[小林章夫]]|others=[[猪口邦子]]監修|title=第1次世界大戦(上) 政治家と将軍の戦争|series=20世紀の歴史13巻|publisher=平凡社|isbn=978-4582495133|ref=ウィンター(1990)上}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|year=1990|author=J.M. ウィンター|translator=小林章夫|others=猪口邦子監修|title=第1次世界大戦(下) 兵士と市民の戦争|series=20世紀の歴史14巻|publisher=平凡社|isbn=978-4582495140|ref=ウィンター(1990)下}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|year=1976|author=[[加瀬俊一 (1925年入省)|加瀬俊一]]|title=ワイマールの落日―ヒトラーが登場するまで1918-1934 |publisher=文藝春秋|asin=B000J9FA1G|ref=加瀬(1976)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=[[ヴァルター・ゲルリッツ]]|translator=[[守屋純]]|year=1998|title=ドイツ参謀本部興亡史|publisher=[[学研]]|isbn=978-4054009813|ref=ゲルリッツ(1998)}}&lt;br /&gt;
**{{Cite book|和書|author=ヴァルター・ゲルリッツ|translator=守屋純|year=2000|title=ドイツ参謀本部興亡史 上（上記の文庫版）|publisher=[[学研M文庫]]|isbn=978-4059010173|ref=ゲルリッツ(2000)上}}&lt;br /&gt;
**{{Cite book|和書|author=ヴァルター・ゲルリッツ|translator=守屋純|year=2000|title=ドイツ参謀本部興亡史 下（上記の文庫版）|publisher=[[学研M文庫]]|isbn=978-4059010180|ref=ゲルリッツ(2000)下}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=[[ジョン・トーランド]]|translator=[[永井淳]]|year=1979|title=アドルフ・ヒトラー 上|publisher=[[集英社]]|ref=トーランド(1979)上}}&lt;br /&gt;
**{{Cite book|和書|author=ジョン・トーランド|translator=永井淳|year=1990|title=アドルフ・ヒトラー 1（上記の文庫版）|publisher=[[集英社文庫]]|isbn=978-4087601800|ref=トーランド(1990)1}}&lt;br /&gt;
**{{Cite book|和書|author=ジョン・トーランド|translator=永井淳|year=1990|title=アドルフ・ヒトラー 2（上記の文庫版）|publisher=集英社文庫|isbn=978-4087601817|ref=トーランド(1990)2}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=[[成瀬治]]、[[山田欣吾]]、[[木村靖二]]|year=1997|title=ドイツ史3 1890年-現在|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634461406|ref=成瀬(1997)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=[[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]]|year=1968|title=ワイマル共和国 ：ヒトラーを出現させたもの|publisher=[[中公新書]]|isbn=978-4121000279|ref=林(1968)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=[[桧山良昭]]|year=1976|title=ナチス突撃隊|publisher=[[白金書房]]|asin=B000J9F2ZA|ref=桧山(1976)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=[[ヨアヒム・フェスト]]|translator=[[赤羽竜夫]]|year=1975|title=ヒトラー〈上〉|publisher=[[河出書房新社]]|asin=B000J9D51I|ref=フェスト(1975)上}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=ジョン・ウィーラー=ベネット|translator=[[木原健男]]|year=1970|title=ヒンデンブルクからヒトラーへ ：ナチス第三帝国への道|publisher=[[東邦出版]]|asin=B000J9FIVS|ref=ベネット(1970)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=[[ジェフリー・プリダム]]([[:en:Geoffrey Pridham|en]])|translator=[[垂水節子]]・[[豊永泰子]]|year=1975|title=ヒトラー・権力への道：ナチズムとバイエルン1923-1933年|publisher=[[時事通信社]]|asin=B000J9FNO0|ref=プリダム(1975)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=[[ハンス・モムゼン]]([[:de:Hans Mommsen|de]])|translator=[[関口宏道]]|year=2001|title=ヴァイマール共和国史―民主主義の崩壊とナチスの台頭|publisher=[[水声社]]|isbn=978-4891764494|ref=モムゼン(2001)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=[[渡部昇一]]|year=2009|title=ドイツ参謀本部 その栄光と終焉|publisher=[[祥伝社新書]]|isbn=978-4396111687|ref=渡部(2009)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|year=2008|title=戦略・戦術・兵器詳解　図説 第一次世界大戦 &amp;lt;上&amp;gt;|series=[[歴史群像]]シリーズ|publisher=[[学研]]|isbn=978-4056050233|ref=学研上}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|year=2008|title=戦略・戦術・兵器詳解　図説 第一次世界大戦 &amp;lt;下&amp;gt;|series=歴史群像シリーズ|publisher=学研|isbn=978-4056050516|ref=学研下}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|author=Ronald Pawly|year=2003|title=Elite 97：The Kaiser&#039;s Warlords|publisher=Osprey Publishing|isbn=978-1841765587|language=[[英語]]|ref=Pawly}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|2}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連事項 ==&lt;br /&gt;
* [[国家総力戦]]&lt;br /&gt;
* [[ルーデンドルフ橋]]（レマーゲン鉄橋）&lt;br /&gt;
* [[国家社会主義ドイツ労働者党]]&lt;br /&gt;
* [[ミュンヘン一揆]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.firstworldwar.com/bio/ludendorff.htm エーリヒ・ルーデンドルフ] Firstworldwar.com Who&#039;s Who&lt;br /&gt;
*[http://www.theatlantic.com/issues/17jun/mencken.htm  Ludendorff by H. L. Mencken] published in the June 1917 edition of the &#039;&#039;Atlantic Monthly&#039;&#039;&lt;br /&gt;
*[http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/FWWludendorff.htm エーリヒ・ルーデンドルフ伝記] Spartacus Educational&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Normdaten|PND=118574841|LCCN=n/79/026972|VIAF=17344617}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:るてんとるふ えりひ}}&lt;br /&gt;
[[Category:1865年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1937年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ帝国の軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:プロイセンの軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの軍事学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヴァイマル共和国の政治家]]&lt;br /&gt;
[[Category:プール・ル・メリット勲章戦功章受章者]]&lt;br /&gt;
[[Category:大鉄十字章受章者]]&lt;br /&gt;
[[Category:陰謀論者]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツにおける反ユダヤ主義]]&lt;br /&gt;
[[Category:ユダヤ人の陰謀論]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの亡命者]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>114.154.177.158</name></author>
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		<title>フョードル・ダン</title>
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		<updated>2014-03-13T21:13:56Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;114.154.177.158: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:Fedor Dan.jpg|250px|thumb|軍医として勤務時のダン]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;フョードル・イリイチ・ダン&#039;&#039;&#039;（{{lang-ru|&#039;&#039;&#039;Фёдор Ильич Дан&#039;&#039;&#039;}}、ラテン文字転写の例：{{lang|ru-Lat|&#039;&#039;&#039;Fëdor Iľič Dan&#039;&#039;&#039;}}、[[1871年]][[10月19日]] - [[1947年]]（[[:en:Fedor_Dan|英語版]]では[[1949年]]）[[1月22日]]　[[ニューヨーク]]）は、[[ロシア]]の医師、労働運動家、[[政治家]]。[[メンシェヴィキ]]の有力者の一人。同じくメンシェヴィキの指導者だった[[ユーリー・マルトフ]]の妹リディアが妻であることから、彼の義弟に当たる。元の姓は&#039;&#039;グルヴィッチ&#039;&#039;（&#039;&#039;Gurvič&#039;&#039;）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1871年]][[ロシア帝国]]の首都[[サンクトペテルブルク]]で薬局を営む[[ユダヤ人]]の家庭に生まれる。ユリエフ大学[[医学部]]を卒業し、医師になって病院に勤務するが、[[マルクス主義]]の洗礼を受け、労働者階級解放闘争同盟という[[労働組合]]に参加した。[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]とマルトフが逮捕された後、同盟の指導に当たり、ペテルブルクで[[ストライキ]]を指揮する。しかし、ダンも[[1896年]]に逮捕され、1年半投獄された後に、オリョール県に2年流刑となる。1901年ロシアを出国し、[[ベルリン]]、[[チューリヒ]]などで活動する。帰国後、[[ロシア社会民主労働党]]に入党。[[1902年]]逮捕され東[[シベリア]]に流刑となるが、脱走し、[[ジュネーヴ]]に逃れる。ジュネーブでメンシェヴィキに所属し、[[1903年]]第2回党大会に出席するためにロンドンに赴く。また、党機関紙「[[イスクラ]]」の編集部に入り、同時に雑誌「ソツィアル・デモクラート（[[社会民主主義]]者）」の編集部長にもなった。ダンは、レーニンの少数の革命家が革命を主導するというボリシェヴィキの概念を嫌い、より広範な国民大衆の結集を目指すマルトフと提携したメンシェヴィキの指導者の一人となる。1905年恩赦によって帰国する。第一国会（[[ドゥーマ]]）及び第二国会で当選し、社会民主労働党議員団を指揮する。[[1908年]][[ピョートル・ストルイピン]]の弾圧に会い、[[スイス]]に亡命し、新聞・雑誌の編集を続けた。1913年恩赦で帰国し、第四国会に当選し、メンシェヴィキ国会議員団長となり、マルトフと協力する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1914年]]サンクトペテルブルクにいたダンは、[[第一次世界大戦]]勃発直後、再び当局によって逮捕され、東シベリアのエニセイ県ミヌシンクスへ追放される。流刑地で同じくメンシェヴィキの[[イラクリー・ツェレテリ]]らと交友を持つ。[[1915年]][[軍医]]として召集され、[[イルクーツク]]などで勤務する。二月革命が勃発すると、[[ペトログラード]]に帰還。メンシェヴィキの内部では、ツェレテリや[[ニコライ・チヘイゼ]]（[[ニコライ・チヘイーゼ|チヘイーゼ]]）とともに「祖国防衛派」に所属し、[[臨時政府]]との連立や戦争継続に賛成する立場を取った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1917年]]ペトログラード[[ソビエト]]執行委員、同副議長。10月の第二回ソビエト大会議長に選出されたが、レーニンの目論む武装蜂起に反対する。憲法制定議会議員となったが、同会議を暴力で解散したボリシェヴィキとソビエト政権を非難した。以後、ダンは、ボリシェヴィズムを[[ナロードニキ]]と結びつくものとして、政治的自由の弾圧に対し批判を続けた。[[1919年]][[赤軍]]に召集され、ウラル地方で軍の保健衛生局に勤務する。[[1921年]]ペトログラードで労働運動に関与した理由で逮捕され、[[1922年]]に国外追放となる。以後在外メンシェヴィキの代表部であるロシア社会民主労働党在外代表団に所属し、[[1923年]]4月にマルトフが死去した後は、指導者となる。ダンはソビエト政権を非難しつつ、ソ連の体制民主化に関して希望的観測を持ち続けた。[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の獲得に伴い、[[1933年]][[ドイツ]]から[[フランス]]・[[パリ]]に移る。1940年ドイツ軍によりパリが陥落したため、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に亡命し、[[ニューヨーク]]で活動を継続する。[[1941年]][[独ソ戦]]が開始されると、ダンはソ連を支持した。このことは、社会民主労働党在外団に亀裂を生じせしめ、ソ連の民主化を可能と見るダンたちと、在外団の大部分を占める反対派に別れ、[[1943年]]に在外団は分裂した。ソ連の民主化を可能とするダンの立場は晩年になっても変わらず、晩年の著書『ボリシェヴィズムの起源』でもこの立場を主張し不評を買った。1947年（1949年？）ニューヨークで死去。75歳。リディア夫人は、ダンの死後も精力的に活動し、ダンが残した資料をアメリカの研究に役立てた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たん ふよとる}}&lt;br /&gt;
[[Category:メンシェヴィキの人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:サンクトペテルブルク出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1871年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1947年没]]&lt;/div&gt;</summary>
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