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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%B5%85%E4%BA%95%E9%95%B7%E6%94%BF&amp;diff=16140</id>
		<title>浅井長政</title>
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		<updated>2014-08-23T12:05:56Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;113.151.35.125: /* テレビドラマ */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 浅井長政&lt;br /&gt;
| 画像 =Azai Nagamasa3.jpg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ =250px&lt;br /&gt;
| 画像説明 = &lt;br /&gt;
| 時代 =[[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]]&lt;br /&gt;
| 生誕 =[[天文 (元号)|天文]]14年（[[1545年]]）&lt;br /&gt;
| 死没 =[[天正]]元年[[9月1日 (旧暦)|9月1日]]（[[1573年]][[9月26日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 =猿夜叉丸（幼名）、賢政、長政&lt;br /&gt;
| 別名 =新九郎、[[備前国|備前守]]（[[仮名 (通称)|通称]]）&lt;br /&gt;
| 戒名 =養源院天英宗清&lt;br /&gt;
| 墓所 =[[滋賀県]][[長浜市]][[徳勝寺]]&lt;br /&gt;
| 官位 =贈[[従二位]][[中納言]]&lt;br /&gt;
| 主君 =[[六角義賢]]&lt;br /&gt;
| 氏族 =[[浅井氏|近江浅井氏]]（自称[[藤原氏]]）&lt;br /&gt;
| 父母 =父：[[浅井久政]]、母：[[小野殿]]&lt;br /&gt;
| 兄弟 =&#039;&#039;&#039;長政&#039;&#039;&#039;、[[浅井政元|政元]]、[[浅井政之|政之]]、[[岡崎安休]]、&amp;lt;br&amp;gt;[[大文字屋新十郎|浅井治政]]、[[昌安見久尼|阿久姫]]、[[大弐局]]、&amp;lt;br&amp;gt;[[京極マリア]]&lt;br /&gt;
| 妻   =正室：&#039;&#039;&#039;[[平井定武]]の娘&#039;&#039;&#039;、&amp;lt;br/&amp;gt;継室：&#039;&#039;&#039;[[お市の方]]&#039;&#039;&#039;&amp;lt;br/&amp;gt;側室：八重の方&lt;br /&gt;
| 子   =[[浅井万福丸|万福丸]]&amp;lt;ref&amp;gt;正室のお市との間の子とされるが、平井定武の娘が生母ともいわれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[浅井万寿丸|万寿丸]]、[[浅井長明|長明]]、[[浅井政治|政治]]、[[淀殿|茶々]]&amp;lt;ref&amp;gt;『浅井氏家譜大成』を根拠として、一説に娘の茶々は正室のお市が嫁ぐ前に生まれたともいわれ、長政の実子ではないという説がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[常高院|初]]、[[崇源院|督]]、[[浅井くす|くす]]、[[刑部卿局]]&amp;lt;br/&amp;gt;養子：&#039;&#039;[[浅井井頼|井頼]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 特記事項 =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;浅井 長政&#039;&#039;&#039;（あざい&amp;lt;ref&amp;gt;[[名字]]および所領地名の「浅井」の読みは、以前は「あさい」が一般的であったが、現在は「あ&#039;&#039;&#039;ざ&#039;&#039;&#039;い」が正しいとされている。ただ、最新の研究では、やはり「あさい」が正しいという学説もある（[[宮島敬一]]著『浅井氏三代』参照）&amp;lt;/ref&amp;gt; ながまさ、[[旧字体]]表記：淺井 長政）は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[近江国|北近江]]の[[戦国大名]]。浅井家の3代目にして最後の当主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[浅井氏]]を北近江の戦国大名として成長させ、妻の兄・[[織田信長]]と[[同盟]]を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて[[自害]]。浅井氏は滅亡した。[[官位]]は贈[[従二位]][[中納言]]（[[徳川家光]]の外祖父にあたるため、死後の[[寛永]]9年（[[1632年]]）9月15日に贈られた）。&amp;lt;ref&amp;gt;村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜」『駒沢史学』80号。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 家督相続 ===&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]14年（[[1545年]]）に[[浅井久政]]の嫡男として、[[六角氏]]の居城・南近江の[[観音寺城]]下（現在の[[滋賀県]][[近江八幡市]][[安土町地域自治区|安土町]]）で生まれる。幼名は&#039;&#039;&#039;猿夜叉丸&#039;&#039;&#039;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
下克上によって、直接の主筋で北近江の守護であった京極氏を追い落とした浅井氏も、当時南近江の守護であった六角氏との合戦に敗れ、初代当主である[[浅井亮政]]（長政の祖父）の代に手に入れた領地も失い、六角氏に臣従していた。そのため長政自身も、生母・小野殿と共に人質になっていたとされる。久政は六角氏との外交に力をいれ、かろうじて北近江を維持していた。家臣の中には久政の弱腰な政策に反発する者も多く、また先代に活躍した武将も世代交代という名目で低い扱いを受けていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
15歳で長政が[[元服]]した際、六角氏は浅井と臣従関係にあることをはっきりさせるため、長政に六角氏当主である[[六角義賢]]の[[諱#偏諱授与の風習|一字をとって]]「&#039;&#039;&#039;賢政&#039;&#039;&#039;」と名乗らせる。また、六角氏の家臣である[[平井定武]]の娘との婚姻も強いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このような状況に不満を持つ家臣達は知勇に優れた長政に期待を寄せ、久政を[[竹生島]]に追放して隠居を強要した。長政は家督を強奪に近い形で相続したのであった。長政は六角氏から離反する意思を明確にするため「賢政」の名と平井定武の娘を六角氏に返上し、名を&#039;&#039;&#039;新九郎&#039;&#039;&#039;に戻した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 浅井家の成長と六角家の衰退 ===&lt;br /&gt;
[[File:Azai Nagamasa.JPG|thumb|200px|愛知県春日井市の浅井氏宅跡にある浅井長政像。側室八重が生んだ子の七郎とその子孫がこの地に住んだという。]]&lt;br /&gt;
[[永禄]]3年（[[1560年]]）8月中旬、長政（新九郎）は15歳の若さで軍を率い、六角軍を相手に[[野良田の戦い]]で見事な戦い振りを披露した。これによって重臣の[[赤尾清綱]]・[[海北綱親]]・[[遠藤直経]]らを心酔させたと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
野良田の戦いの勝因は、短期間で寄せ集めの軍備しかできなかった六角氏と異なり、久政が隠居した頃から合戦の準備を始めていたためと思われる。また[[朝倉氏]]に援軍を求めた様子もないことから、朝倉親交派である久政や家臣達ではなく、長政自身が戦の主導権を取っていたという見方もできる。合戦後は、朝倉氏との関わりを少なくした独立政治を展開している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年の10月、父の久政が重臣らによって隠居させられ、家督を継いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄6年（[[1563年]]）、六角氏の筆頭家臣であった[[後藤賢豊]]が暗殺された。世にいう[[観音寺騒動]]である。この騒動で六角を離れ浅井に仕官した者も多く、六角氏の改革失敗が決定的になった。同年、長政の美濃遠征中にその留守を狙い六角氏が軍を動かしたため、長政は軍を反転させて六角軍を撃破した。[[殿 (軍事用語)|殿]]（しんがり）を守らせた[[赤尾清綱]]は、わずか500の兵で見事な働きを見せた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この2つの出来事で浅井氏は領地を拡大したが、その後は六角氏との停戦協議により膠着状態が続く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田信長と同盟 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Oichinokata.jpg|thumb|浅井長政夫人画像|200px]]&lt;br /&gt;
[[1560年代]]、[[織田信長]]は、美濃国[[斎藤氏]]との膠着状態を打破するため[[不破光治]]を使者として送り、長政に同盟を提案した。同盟の条件は浅井側に有利であったが、浅井家臣の中では賛否両論あり、遠藤直経も反対だったという。最大の問題は、久政の盟友である[[朝倉義景]]と信長の不仲だった。西美濃勢が信長寄りに振る舞う度に領地が油阪で通じることになり、互いに挑発を繰り返していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同盟の際、長政は永禄11年頃に信長の妹の[[お市の方|市]]を妻とした&amp;lt;ref&amp;gt;『信長公記』によれば市は信長の「娘分」として長政に嫁いだという。また、逸話によると遠藤直経は、お市との婚姻の際に信長を暗殺する計画を長政に提案したという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は浅井との同盟により[[上洛]]経路を確保し、美濃国攻略の足掛かりとした。信長は同盟成立を大いに喜び、通常は浅井側が結婚資金を用意するのが当時のしきたりだったが、信長自身が婚姻の費用を全額負担したとされている&amp;lt;ref&amp;gt;このとき信長の一字を拝領し長政と改名したという説がある。しかし、疑問点もあり、はっきりした事は分かっていない&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;なお、長政と市の婚姻時期について『信長公記』では永禄11年としているが、『浅井三代記』では永禄7年（1564年）となっている。市は天文16年出生とされ永禄11年時の婚姻では初婚としては遅い20代前半にあたることから市の出生年代や婚姻時期の誤り、初婚でない可能性も考えられており、北近江をめぐる地域情勢から婚姻を永禄4年段階とする説もある（太田浩司「北近江の戦国史」『戦国大名浅井氏と北近江-浅井三代から三姉妹へ-』）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
また一説にお市の婚姻は永禄8年（1565年）とする説もある&amp;lt;ref&amp;gt;[[和田惟政]]が三雲定持に宛てた書状に「浅井備前守と信長の縁辺（婚姻）、入眼候…」とあることから、[[近江国]]矢島の和田惟政の元にいた覚慶（[[足利義昭]]）が、上洛を目指すために織田と浅井の婚姻を結ばせたとする（[[高澤等]]『新・信長公記』）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄11年（[[1568年]]）7月、[[越前国]]に滞在していた[[足利義昭]]は、一向に上洛の意志をみせない義景に見切りをつけ、尾張の信長の元に身を寄せた。これによって、9月に信長は上洛を開始した。上洛の道中、反抗する六角氏を攻撃。これにより、長政の宿敵である六角氏の勢力は、南近江の甲賀郡に撤退。浅井氏も、義昭を守護しながら上洛を掩護した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 同盟破棄・信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
[[元亀]]元年（[[1570年]]）、信長が長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破り、[[徳川家康]]と共に[[琵琶湖]]西岸を通過して越前国の朝倉方の城を攻め始める。長政は義景との同盟関係を重視し、織田徳川連合軍を背後から急襲。信長は殿を務めた[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]らの働きにより、命からがら近江を脱出した（[[金ヶ崎の戦い|金ヶ崎の退き口]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長との同盟に反対していた家臣達は、信長が朝倉攻めに際して一報を入れなかったことから、隠居の久政をかつぎ出し、長政に織田軍への進撃を提案したと言われている。敦賀への進軍に、主力である武将達は参加しておらず長政が居たという記録はない。また、そもそも織田と浅井の同盟自体が存在せず、金ヶ崎の戦いでの織田軍は、目的を達して凱旋中に浅井氏の挙兵を知ったという説もある&amp;lt;ref&amp;gt;『安芸毛利元就宛覚書』（毛利家文書）に「浅井備前守別心易色之由、帰洛之途中へ告来候」とあることを根拠に浅井氏挙兵は凱旋途中にその報を受けたとする（[[高澤等]]『新・信長公記』）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年6月、長政は朝倉軍とともに、近江国・[[姉川]]で織田徳川連合軍と戦う（[[姉川の戦い]]）。先鋒の[[磯野員昌]]が織田軍の[[備え]]13段のうち11段まで崩す猛攻を見せ、織田軍は敗走の用意をしていたという逸話はあるものの、信憑性は薄い。結局この戦は、織田徳川連合軍の勝利に終わった。なお、当時浅井軍の名もない足軽だった[[藤堂高虎]]は、姉川の戦いに参戦し、織田軍に対し多くの武功を上げて長政から感状を送られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
姉川の戦いの後、信長に脅威を覚えた[[本願寺]]（[[野田城・福島城の戦い]]）が、反信長の意志を表した（[[信長包囲網]]）。9月には朝倉軍や[[延暦寺]]・一向宗徒と連携し、再び信長への攻勢を強め（[[志賀の陣]]）、坂本において[[森可成]]や[[織田信治]]らを討ち取る。だが、信長が足利義昭に和睦の調停を依頼し、さらに朝廷工作を行ったため、12月に信長と勅命講和することになる。また、浅井氏と協力関係にあった延暦寺は、元亀2年（[[1571年]]）9月に信長の[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]にあい、壊滅してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 武田信玄との連携 ===&lt;br /&gt;
元亀3年（[[1572年]]）7月、信長が北近江に来襲した。長政は父の代からの同盟者である朝倉義景に援軍を要請、義景は1万5,000の軍勢を率い近江に駆けつけた。信長との正面衝突にはならず睨み合いが続いたが、浅井・朝倉連合軍は織田軍に数で劣っており、依然として苦しい状況であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年9月、将軍足利義昭の要請に応えて武田信玄が甲斐を進発する。信玄はこの時、長政、久政親子宛に書状を送っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「只今出馬候 この上は猶予なく行（てだて）に及ぶべく候」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、信玄は遠江で織田・徳川連合軍を撃破し（[[三方ヶ原の戦い]]）、三河に進んだ。長政らに与えられた役割は、北近江の織田軍を[[岐阜]]に戻さないことである。北近江に織田軍を釘付けにすれば、信長は全力をもって信玄の軍勢とぶつかることができず、反信長連合軍の勝機は高まる。織田軍の物量に押され、じわじわと追いつめられていた長政にとって、信玄の西上は必ず成功させたい重要な作戦であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年12月、北近江の長政領に在陣の朝倉義景の軍が、兵の疲労と積雪を理由に越前に帰国。義景の撤退により、北近江に縛られていた織田軍は、美濃に戻った。この時、義景の軍と同様に悪条件がそろう長政の寡兵だけでは、退却する織田軍の追撃は難しかった。信玄は義景の独断に激怒し、再出兵を促す手紙（[[伊能文書]]）を義景に送ったが、義景はそれに応じることが出来ず、黙殺的態度を示した。それでも信玄は義景の再出兵を待つなどの理由で軍勢を止めていたが、翌年2月には進軍を再開し、家康領の[[野田城 (三河国)|野田城]]を攻め落とす。しかし、信玄の急死により、武田軍は甲斐に退却した。これにより包囲網は一部破綻し、信長は大軍勢を近江や越前に向ける事が可能になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 浅井家滅亡 ===&lt;br /&gt;
[[File:Azai Nagamasa&#039;s death place.jpg|thumb|200px||浅井長政公自刃之地（[[小谷城]]内・赤尾屋敷跡）]]&lt;br /&gt;
{{Main|小谷城の戦い}}&lt;br /&gt;
[[天正]]元年（[[1573年]]）7月、信長は3万の軍を率い、再び北近江に攻め寄せる。長政は義景に援軍を要請、義景は2万の軍で駆けつけるが織田の軍勢が北近江の城を即座に落とし、やむなく義景は越前に撤退を始めた。信長は、逃げる朝倉軍を追撃して滅亡させた後（[[一乗谷城の戦い]]）、軍を浅井氏に向けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もはや浅井軍は、信長の大軍によって一方的に勢力範囲を削られるのみであった。ついに本拠の[[小谷城]]（[[滋賀県]][[長浜市]]）が、織田軍に囲まれる。信長は家臣不破光治、さらに羽柴秀吉を使者として送り降伏を勧めたが、長政は断り続け、最終勧告も決裂した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
市が信長の陣営に帰還する際、浅井・織田軍共に一切の攻撃をしなかったと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年8月27日（旧暦）父の久政が自害。翌28日に長政は小谷城内[[赤尾屋敷]]にて自害する。[[享年]]29。墓所は滋賀県[[長浜市]]の[[徳勝寺]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一級史料と評される[[信長公記]]には、天正2年（[[1574年]]）の正月、内輪の宴席において薄濃（はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと）にした義景・久政・長政の首級を御肴として白木の台に据え置き、皆で謡い遊び酒宴を催したとある。なお、これを[[髑髏杯|杯]]にして酒を飲んだという俗説もあるが、史料には見当たらない。信長はあまり酒を飲まなかったので、後世の作り話と考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
浅井氏は始祖を[[正親町三条公綱]]（公家の[[嵯峨家]]）の落胤とする家系伝承を持ち、[[本姓]]を[[藤原氏]]と称するが、江北に古くから土着している[[豪族]]に浅井氏があり、平安時代や鎌倉時代の記録に既に名が見える、古来の浅井氏に、公家の子息が入り婿したとも伝えられる。室町時代には、[[守護]]・[[京極氏]]に従う国人領主の一つとして頭角を表す。やがて梟雄・亮政が[[越前国|越前]]・朝倉氏の後援によって国人一揆の盟主格であった浅見氏を倒し、江北第一の勢力として台頭するに至った。&lt;br /&gt;
; 両親&lt;br /&gt;
* 父：[[浅井久政]] - 近江国[[小谷城]]主で浅井氏の第2代当主&lt;br /&gt;
* 母：[[小野殿]]（阿古御料人）&lt;br /&gt;
; 兄弟&lt;br /&gt;
* [[岡崎安休]] - [[本願寺顕如]]乳兄&lt;br /&gt;
* [[浅井政元]]&lt;br /&gt;
* [[浅井政之]]&lt;br /&gt;
* [[大文字屋新十郎]]（浅井治政）&lt;br /&gt;
; 姉妹&lt;br /&gt;
* [[昌安見久尼|阿久姫]]（昌安見久尼）&lt;br /&gt;
* [[近江の方]] - [[斎藤義龍]]室、[[斎藤龍興]]母&lt;br /&gt;
* [[京極マリア]] - [[京極高吉]]室&lt;br /&gt;
; 妻&lt;br /&gt;
* 正室：[[平井定武]]の娘&lt;br /&gt;
* 継室：[[織田信長]]の妹・[[お市の方|市]]&lt;br /&gt;
* 側室：八重の方&lt;br /&gt;
; 息子&lt;br /&gt;
* 嫡男：[[浅井万福丸|万福丸]]（輝政）&lt;br /&gt;
* 次男：[[浅井万寿丸|万寿丸]]（直政 / 正芸 / 万菊丸 / 幾丸 / 虎千代丸）&lt;br /&gt;
*: {{要出典|範囲=赤児だった万寿丸は命を助けられ、後に出家させられたが、その後、豊後細川藩を頼り子孫は杵築浅井氏として続いた。|date=2014年8月}}&lt;br /&gt;
* [[浅井長明|長明]]（七郎） - {{要出典|八重の方との子で、信長からの追及の手を逃れ尾張に土着する。|date=2014年8月}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[浅井政治|政治]]（円寿丸）&lt;br /&gt;
; 娘&lt;br /&gt;
* 長女：[[淀殿|茶々]] - [[豊臣秀吉]]の側室&lt;br /&gt;
* 次女：[[常高院|初]] - [[京極高次]]の正室&lt;br /&gt;
* 三女：[[崇源院|督]]（江） - [[佐治一成]]の正室→[[豊臣秀勝]]の正室→[[徳川秀忠]]の継室&lt;br /&gt;
* 庶女：[[浅井くす|くす]] - [[京極竜子]]の姥&lt;br /&gt;
* 庶女：[[刑部卿局]] - [[千姫]]の乳母&lt;br /&gt;
; 養子&lt;br /&gt;
* [[浅井井頼]]（政信 / 政賢 / 政春 / 政堅 / 長房）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家臣 ==&lt;br /&gt;
* [[赤尾清綱]]&lt;br /&gt;
* [[磯野員昌]]&lt;br /&gt;
* [[海北綱親]]&lt;br /&gt;
* [[遠藤直経]]&lt;br /&gt;
* [[阿閉貞征]]&lt;br /&gt;
* [[寺村小八郎]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連作品 ==&lt;br /&gt;
=== 小説 ===&lt;br /&gt;
* [[覇者の系譜]]（[[伊藤浩士]]） - 朝倉氏に近しい久政の一派を長政が完全に統制したと仮定した[[if]]小説&lt;br /&gt;
* [[浅井長政正伝　死して残せよ虎の皮]]（[[鈴木輝一郎]]） -浅井長政出生から父久政の放逐、信長との離反、滅亡を長政から描いた歴史小説&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビドラマ ===&lt;br /&gt;
* 『[[その時歴史が動いた]]』怒れる民よ 信長を討て!~浅井長政 逆襲の京都包囲作戦~（2008年、NHK）&lt;br /&gt;
* 『大河ドラマ[[江　姫たちの戦国]]』[[時任三郎]]~（2011年、NHK）&lt;br /&gt;
* 『[[女信長]]』[[玉山鉄二]]~（2013年、フジテレビ）&lt;br /&gt;
* 『[[信長のシェフ]]』[[河相我聞]]~（2013年、テレビ朝日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{Commons|Category:Azai nagamasa}}&lt;br /&gt;
* [[戦国時代の人物一覧]]&lt;br /&gt;
* [[浅井氏]]&lt;br /&gt;
* [[浅井三姉妹]]&lt;br /&gt;
** [[淀殿]]&lt;br /&gt;
** [[常高院]]&lt;br /&gt;
** [[崇源院]]&lt;br /&gt;
* [[浅井町 (滋賀県)]]（現・[[長浜市]]）&lt;br /&gt;
* [[観音寺城の戦い]]&lt;br /&gt;
* [[小谷城戦国歴史資料館]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{浅井氏当主||1560年-1573年}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:あさい なかまさ}}&lt;br /&gt;
[[Category:浅井氏|なかまさ]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:近江国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:滋賀県の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:1545年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1573年没]]&lt;br /&gt;
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