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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%9D%8E%E5%BA%83&amp;diff=174411</id>
		<title>李広</title>
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		<updated>2013-10-24T06:07:58Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;111.73.209.34: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;李 広&#039;&#039;&#039;（り こう、? - [[紀元前119年]]）は、中国[[前漢]]時代の[[将軍]]。[[文帝 (漢)|文帝]]・[[景帝 (漢)|景帝]]・[[武帝 (漢)|武帝]]に仕えた。武勇に優れていたが戦功を認められることなく憤死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[秦]]の名将の[[李信]]の子孫である。従弟に丞相になった[[李蔡]]、孫に[[李陵]]がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 飛将軍 ===&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;float:right; font-size:smaller&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 姓名&lt;br /&gt;
| 李広 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 時代&lt;br /&gt;
| [[前漢]]時代&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 生没年&lt;br /&gt;
| 生年不詳 - [[紀元前119年]]（[[元狩]]4年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 字・別号&lt;br /&gt;
| 漢の飛将軍（綽名）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 本貫・出身地等&lt;br /&gt;
| [[涼州]][[隴西郡]]成紀県&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 職官&lt;br /&gt;
| 漢中郎〔前漢〕→武騎常侍〔前漢〕&lt;br /&gt;
→[[隴西郡|隴西]]都尉〔前漢〕→騎郎将〔前漢〕&amp;lt;/br&amp;gt;&lt;br /&gt;
→驍騎都尉〔前漢〕→将軍([[劉武|梁王武]]の将軍)〔前漢&amp;lt;拒否&amp;gt;〕&amp;lt;/br&amp;gt; &lt;br /&gt;
→上谷[[太守]]〔前漢〕→邊郡太守〔前漢〕&amp;lt;/br&amp;gt;&lt;br /&gt;
→上郡太守〔前漢〕→隴西太守〔前漢〕&amp;lt;/br&amp;gt;&lt;br /&gt;
→北地太守〔前漢〕→鴈門太守〔前漢〕&amp;lt;/br&amp;gt;&lt;br /&gt;
→代郡太守〔前漢〕→雲中太守〔前漢〕&amp;lt;/br&amp;gt;&lt;br /&gt;
→上郡太守〔前漢〕→未央衛尉〔前漢〕&amp;lt;/br&amp;gt;&lt;br /&gt;
→驍騎将軍〔前漢〕→右北平太守〔前漢〕&amp;lt;/br&amp;gt; &lt;br /&gt;
→[[郎中令]]〔前漢〕→後将軍〔前漢〕&amp;lt;/br&amp;gt; &lt;br /&gt;
→郎中令将〔前漢〕→前将軍〔前漢〕&amp;lt;/br&amp;gt; &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 爵位・号等&lt;br /&gt;
| - &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 陣営・所属等&lt;br /&gt;
| [[文帝 (漢)|文帝]]→[[景帝 (漢)|景帝]]→[[武帝 (漢)|武帝]] &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 家族・一族&lt;br /&gt;
| 子：李当戸 李椒 李敢&lt;br /&gt;
孫：[[李陵]] 李禹&amp;lt;/br&amp;gt;&lt;br /&gt;
一族：[[李蔡]]〔従弟〕&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本籍地は隴西郡成紀県（現[[甘粛省]][[天水市]][[秦安県]]）である。[[紀元前166年]]、[[匈奴]]征伐に功があり、郎となり文帝の側に騎士として仕えた。狩猟に付き従った際に猛獣を接近戦で殺すという武勇を見せ、それを見た文帝に「君が[[劉邦|高祖]]の時代に生まれていれば1万戸の侯にもなれたであろうなあ……」と言わしめた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
景帝の時代には驍騎都尉に任ぜられ、[[周亜夫]]の下で[[呉楚七国の乱]]を鎮圧する功績を立てた。ただし、梁王[[劉武|武]]の将軍に任じられていたため、漢からは恩賞を受けられなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に上谷太守、上郡太守となった。その時に10倍の匈奴軍に囲まれたことがあったが、わざとゆっくり後退し伏兵があるように見せかけたため、匈奴軍は追わずに引き揚げた。その後、隴西、北地、雁門、雲中の太守（いずれも漢の北辺で匈奴に近い）を歴任する。この頃には匈奴から&#039;&#039;&#039;飛将軍&#039;&#039;&#039;と怖れられていた。のちに武勇に優れた武将は李広になぞらえ飛将軍と呼ばれることがあり、[[後漢]]末期の武将[[呂布]]も飛将軍と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 悲運の将 ===&lt;br /&gt;
[[武帝 (漢)|武帝]]の時代には、武帝に彼を薦める者が多かったため衛尉に昇進した。&lt;br /&gt;
武帝が[[馬邑]]に匈奴を誘い出して攻撃しようとした際には、驍騎将軍として従軍するが功績はなかった。[[紀元前129年]]には匈奴との戦いに敗れて捕虜となった。その後、脱出して[[長安]]に戻ったが、罪を問われ平民に落とされた。&lt;br /&gt;
のち、右北平太守に復帰、郎中令に遷った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しばしば匈奴と戦うがよい戦果を得られず、[[紀元前119年]]の匈奴攻撃の時には李広は高齢を理由に外されそうになった。李広はこれに猛抗議してようやく参戦が許された。しかし、前将軍であったのが、武帝の密命を受けた大将軍[[衛青]]によって搦手の軍に回された。李広は不服であったがそれに従って別方面から進軍したが、たまたま道案内がいなかったため、道に迷って匈奴との戦いに遅れてしまった。衛青がそのことに対しての報告書を出そうと李広の部下を詰問したところで、李広は思わず、&lt;br /&gt;
:「わしは成人してからこのかた匈奴と大小七十数回戦った。今回幸運にも衛青大将軍に従って単于の兵と戦える機会に恵まれながら、大将軍の衛青がわしを後方の部隊に回したため道に迷って遠回りをする羽目になった。これが天命でなくてなんであろうか！」&lt;br /&gt;
と叫び、そのまま自刎した。これを聞いた李広の配下の将校はもちろん、民衆も李広の死を聞いて老若男女の区別なく涙したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 李広の子孫 ==&lt;br /&gt;
李広の末子の李敢は父の死のことで衛青を恨み、酒宴の席で衛青を殴打した。衛青はこれを隠し不問としたが、このことを知った衛青の甥の[[霍去病]]は恨みに思い、李敢を狩猟場で射殺した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
李広の長男は李当戸といい父譲りの武人だったが、武帝の側近の[[韓エン|韓嫣]]という寵臣が不遜な態度であったため、李当戸は彼を殴った。その果敢さを見た武帝は彼を有能と評したが、その李当戸は早世した。その遺児が[[李陵]]である。（詳細は[[李陵]]を参照）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また李敢には李椒という次兄がいたがこれも長兄同様に早世した。さらに李敢は二人の子がいた。男子は李禹と言い、吝嗇で金銭の執着が強かった。女子はまた李禹の姉で、皇太子の[[劉拠]]の側室となったので、李禹は戻太子（劉拠）に信頼されてその近侍となった。だが、従兄の李陵が匈奴に帰順すると、彼も李陵の後を追って匈奴に逃げようとしていると告げる者があり、刑死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
李陵はのち匈奴に降ったため、李陵の妻子と母は、李陵が匈奴に下って匈奴の手助けをしているという情報が入るとまとめて処刑され、彼を擁護した[[司馬遷]]も[[宮刑]]に処された。李陵が降伏し家族が処刑されて以来、隴西では李氏のことを恥じたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[五胡十六国時代]]に[[西涼]]を建国した[[李暠]]は李広の子孫を称している。そして、[[唐]]代の詩人[[李白]]が李暠の9代目の末裔であるとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==逸話==&lt;br /&gt;
=== 桃李言わざれども下自ずから蹊を成す===&lt;br /&gt;
李広は清廉な人物であり、泉を発見すれば部下を先に飲ませ、食事も下士官と共にし、全員が食事を始めるまで自分の分には手をつけなかったという。後に[[司馬遷]]はこの人柄について触れ、「桃李言わざれども下自ずから蹊を成す」（桃や李（スモモ）の木は何も言わないが、その下には自然と人が集まって道ができる）と評した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、日本の大学である[[成蹊大学]]や[[大阪成蹊大学]]などの名はこれを出典とする。[[俳優]]の[[松坂桃李]]の名前の由来でもある(読みは&#039;&#039;&#039;とおり&#039;&#039;&#039;)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 虎と見て石に立つ矢のためしあり ===&lt;br /&gt;
李広は虎に母を食べられて、虎に似た石を射たところ、その矢は羽ぶくらまでも射通した。のちに石と分かってからは矢の立つことがなく、のちに石虎将軍といわれた。このことを揚子雲にある人が話したところ、子雲は「至誠なれば則ち金石、為に開く」（誠心誠意で物事を行えば金石をも貫き通すことができる）と言った。（『[[西京雑記]]』）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小説[[水滸伝]]の登場人物で弓の名手である[[花栄|花榮]]は、この逸話になぞらえ「小李広」と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家族 ==&lt;br /&gt;
*子&lt;br /&gt;
**李当戸 - 長子&lt;br /&gt;
**李椒 - 次子&lt;br /&gt;
**李敢 - 末子&lt;br /&gt;
*孫&lt;br /&gt;
**[[李陵]] - 李当戸の末子&lt;br /&gt;
**李禹 - 李敢の嫡子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[呂布]]&lt;br /&gt;
*[[花栄]] - [[水滸伝]]の登場人物で弓の名手。「小李広」と渾名された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:り こう}}&lt;br /&gt;
[[Category:漢代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:紀元前119年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>111.73.209.34</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E8%AB%B8%E8%91%9B%E7%9E%BB&amp;diff=108880</id>
		<title>諸葛瞻</title>
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		<updated>2013-10-24T02:30:39Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;111.73.209.34: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{統合文字|葛}}&lt;br /&gt;
{{三国志の人物&lt;br /&gt;
|名前       = 諸葛瞻&lt;br /&gt;
|画像       = ZhugeZhan.jpg&lt;br /&gt;
|サイズ     = 200px&lt;br /&gt;
|説明       = &lt;br /&gt;
|王朝       = [[蜀漢]]&lt;br /&gt;
|称号・役職 = 武郷侯・行都護衛将軍&lt;br /&gt;
|出生       = [[建興 (蜀)|建興]]5年（[[227年]]）&lt;br /&gt;
|出身地     = [[徐州]][[琅邪郡]]陽都&lt;br /&gt;
|死去       = [[炎興]]元年（[[263年]]）&lt;br /&gt;
|死没地     = &lt;br /&gt;
|ピン音     = &lt;br /&gt;
|字         = 思遠&lt;br /&gt;
|諡号       = &lt;br /&gt;
|廟号       = &lt;br /&gt;
|別名       = &lt;br /&gt;
|主君       = [[劉禅]]&lt;br /&gt;
|特記事項   = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;諸葛 瞻&#039;&#039;&#039;（しょかつ せん、[[227年]]－[[263年]]）は、[[中国]]の[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[武将]]、[[政治家]]。[[蜀]]（蜀漢）の[[丞相]][[諸葛亮]]の子。[[字]]は&#039;&#039;&#039;思遠&#039;&#039;&#039;。琅邪郡陽都（現在の山東省臨沂市沂南県）の人。子には[[諸葛尚]]、[[諸葛京]]らがいる&amp;lt;ref&amp;gt;&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:90%;&amp;quot;&amp;gt;[[清]]の学者・[[張ジュ|張澍]]が記した『諸葛忠武侯文集』のうち「諸葛氏譜」「朝真観記」「雑記」・『編集諸葛忠武侯文集自序』によれば、諸葛瞻は[[諸葛質]]という子と[[諸葛懐]]という弟がいたと記されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;諸葛亮の子孫を称している、[[浙江省]]蘭渓市にある諸葛八卦村という村は[[1992年]]になって家系図が見つかったとして諸葛京の血筋であることを自認している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』蜀志「諸葛亮伝」や魏志「[[トウ艾|鄧艾]]伝」等に記録がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==経歴==&lt;br /&gt;
諸葛亮は[[黄承彦]]の娘（[[黄夫人]]）を妻としていたが（『襄陽記』）、諸葛瞻の生母であるかどうかは明らかではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父の諸葛亮は[[234年]]、武功に出陣（[[北伐]]）するときに[[呉 (三国)|呉]]に仕える兄の[[諸葛瑾]]に対し手紙を送り、8歳になる諸葛瞻が見せる利発さと、早熟すぎて長じて大物になれないのではないかと心配する気持ちを伝えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父の諸葛亮が亡くなると、父の爵位である武郷侯を継ぎ、また周囲からの期待を受けた。17歳の時、皇帝[[劉禅]]の娘を娶り、[[騎都尉]]を拝命。翌年、[[羽林]][[中郎将]]となり、射声校尉、[[侍中]]、[[尚書省|尚書僕射]]と昇進し、軍師将軍を加えられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[書画]]が巧みで、記憶力が良く、諸葛亮を追慕する人達から愛された。彼らは何か慶事があるたびに諸葛侯のおかげともてはやし、諸葛瞻は実力以上の評判を受けるようになったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[261年]]、行都護[[衛将軍]]となり、[[董厥]]と共に平尚書事となり、董厥や[[樊建]]と共に国政を動かす地位となったが、劉禅が信任する宦官[[黄皓]]の専横にはなすすべもなく、諸葛瞻と董厥は黄皓と私的な関わりを持つようになったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[262年]]、蜀の軍権を握る[[姜維]]の失脚を黄皓が願うようになると（「姜維伝」）、董厥と共にこれに同調したが、成功しなかった。諸葛瞻自身が姜維に代わって[[閻宇]]を取り立てるよう上奏したともいわれる（[[孫盛]]『異同記』）。閻宇については黄皓と結託していたと明記されている（「姜維伝」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[263年]]、[[魏 (三国)|魏]]の大軍が蜀に侵攻し、姜維を始めとする防衛軍の大半が剣閣で釘付けとなる中、魏将の一人である鄧艾が陰平の間道を経由し、蜀の前線防衛陣を掻い潜って[[成都]]を突こうとした。このとき、諸葛瞻は劉禅の命により出撃する。諸葛瞻は涪まで軍を進めて戦況をうかがうのみで積極的に迎撃に出ようとしなかったため、[[黄崇]]（[[黄権]]の子）にその指揮を批判された。黄崇は涙を流しながら出撃を願ったが容れられなかった。鄧艾は間道を経由し、江由の要害を難なく陥落させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸葛瞻は先鋒隊が敗れたので涪より後退し、[[綿竹]]に陣営を構えた。鄧艾は手紙を送り降伏を勧めたが諸葛瞻は受け入れず、激怒して鄧艾の使者を斬った。諸葛瞻は緒戦では魏軍を退けたが、鄧艾の猛攻の前に大敗し、息子の[[諸葛尚]]や[[張遵]]（[[張飛]]の孫で[[張苞]]の子）、黄崇、李球（[[李恢]]の甥）と共に戦死した（[[蜀漢の滅亡]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 評価 ==&lt;br /&gt;
三国志の編者で蜀の旧臣でもある[[陳寿]]は諸葛瞻は実力以上の名声を得ていたと評し、高く評価しなかったが、陳寿がかつて諸葛瞻の下役として恥辱を受けてから曲筆したという話がある（孫盛『異同記』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[西晋|晋]]の[[司馬炎|武帝]]は詔勅を出し、諸葛瞻が国難に殉じ信義を守ったことを評価した（『晋泰始帰居注』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[干宝]]は諸葛瞻の能力はさほど評価するほどではないが、国家を守り父の志を継いで忠孝を尽くそうとした点は評価した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 史跡 ==&lt;br /&gt;
なお、[[四川省]][[綿竹市]]に綿竹防衛戦で戦死した諸葛瞻と諸葛尚、張遵、黄崇、李球と諸葛亮を祭る、諸葛双忠墓祠がある&amp;lt;ref&amp;gt;  [http://www.china-world.info/sanguo/ruins23001.htm 三国遺址探訪：諸葛双忠墓祠]&amp;lt;/span&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 三国志演義 ==&lt;br /&gt;
小説『[[三国志演義]]』では、生母は黄夫人であると紹介されている。宦官の黄皓の横暴に反発し病と称して門を閉ざしていたが、魏の侵攻が始まると、[[郤正]]の薦めを受けた劉禅によって召還されて出撃し、史実と同様に綿竹の守備につく。一度目は父の木像と共に出陣し「諸葛亮が生きていた」と魏軍を混乱させ、二度目は諸葛尚の活躍で魏軍を敗退させている。そして鄧艾から降伏して魏に仕えるよう迫られると、使者を斬ることでこれを拒絶し出撃するが今度は敗北し、呉に救援を求める使者を送り到着前に出撃し戦死している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==家系図==&lt;br /&gt;
 ●&lt;br /&gt;
 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓&lt;br /&gt;
 諸葛珪　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　                                   [[諸葛玄]]&lt;br /&gt;
 ┣━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━┓                    ┃&lt;br /&gt;
 [[諸葛瑾]]　　　　　　　　　    [[諸葛亮]]                        [[諸葛誕]]       　　        [[諸葛均]]&lt;br /&gt;
 ┣━━━┳━━━┓　　　  ┣━━━━━━━━━━━┓&lt;br /&gt;
 [[諸葛恪]]　[[諸葛喬]]　[[諸葛融]]　  [[諸葛瞻]]　　　　　　　      　[[諸葛懐]]&lt;br /&gt;
 　　　   ┃　　　　　　      ┣━━━┳━━━┓&lt;br /&gt;
 　　　   諸葛攀　　　　　    [[諸葛尚]]　[[諸葛京]]　[[諸葛質]]&lt;br /&gt;
 　　　　  ┃&lt;br /&gt;
 　　　　  諸葛顕&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚註==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しよかつ せん}}&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:琅邪諸葛氏|せん]]&lt;br /&gt;
[[Category:蜀漢の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:227年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:263年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>111.73.209.34</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E8%AB%B8%E8%91%9B%E5%B0%9A&amp;diff=108884</id>
		<title>諸葛尚</title>
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		<updated>2013-10-24T02:30:05Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;111.73.209.34: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{統合文字|葛}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;諸葛 尚&#039;&#039;&#039;（しょかつ しょう、[[245年]]－[[263年]]）は、[[中国]]の[[三国時代 (中国)|三国時代]]末期の軍人。[[蜀]]（蜀漢）に仕えた。蜀の[[丞相]][[諸葛亮]]の孫で[[諸葛瞻]]の長男。母は諸葛瞻が17歳のときに娶ったという記録がある[[劉禅]]の娘か。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ソースが見つからなかったので&lt;br /&gt;
父よりも才能に秀でていたといわれている。&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
263年、[[魏 (三国)|魏]]の[[トウ艾|鄧艾]]が間道を通って蜀の防衛網をかいくぐることに成功し、[[成都]]をめざして侵攻してきたとき、父と共に迎撃にあたった。しかし先鋒隊が涪で敗れたため後退し、[[綿竹]]に立て籠もって抗戦し、一時的に敵を撃退するが、鄧艾の前に遂に追いつめられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このとき、諸葛尚は「さっさと[[黄皓]]を斬らなかった為に敗北を招いてしまった。生きていて何になろう」と嘆いて魏軍に突撃。父とともに戦死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鄧艾は2人を葬りそのまま成都に進撃し、蜀は滅んだ。&amp;lt;!-- この一文は合戦前に行われたはずなので、場所的に不適当かと。&lt;br /&gt;
鄧艾は諸葛亮の息子と孫ということで、降伏することを勧めたが、&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
弟[[諸葛京]]は後に[[西晋|晋]]王朝に仕えている。現在も蜀の諸葛氏の子孫を自称する家は存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小説『[[三国志演義]]』でも、ほぼ同様の結末である。墓所は父と同じ綿竹に存在し、また、[[武侯祠]]には諸葛尚の像も建てられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==家系図==&lt;br /&gt;
 ●&lt;br /&gt;
 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓&lt;br /&gt;
 諸葛珪　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　                                   [[諸葛玄]]&lt;br /&gt;
 ┣━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━┓                    ┃&lt;br /&gt;
 [[諸葛瑾]]　　　　　　　　　    [[諸葛亮]]                        [[諸葛誕]]       　　        [[諸葛均]]&lt;br /&gt;
 ┣━━━┳━━━┓　　　  ┣━━━━━━━━━━━┓&lt;br /&gt;
 [[諸葛恪]]　[[諸葛喬]]　[[諸葛融]]　  [[諸葛瞻]]　　　　　　　      　[[諸葛懐]]&lt;br /&gt;
 　　　   ┃　　　　　　      ┣━━━┳━━━┓&lt;br /&gt;
 　　　   諸葛攀　　　　　    [[諸葛尚]]　[[諸葛京]]　[[諸葛質]]&lt;br /&gt;
 　　　　  ┃&lt;br /&gt;
 　　　　  諸葛顕&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しよかつ しよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:琅邪諸葛氏|しよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:245年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:263年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>111.73.209.34</name></author>
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		<title>諸葛緒</title>
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		<updated>2013-10-24T02:27:51Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;111.73.209.34: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{統合文字|葛}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;諸葛 緒&#039;&#039;&#039;（しょかつ しょ、? - [[273年]]？）は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]から[[西晋|晋]]の武将。[[魏 (三国)|魏]]・西晋に仕えた。諸葛沖の父、諸葛詮・諸葛玫の祖父。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[泰山]][[太守]]となり、[[255年]]、[[トウ艾|鄧艾]]配下として[[呉 (三国)|呉]]の[[孫峻]]との戦いで働きがあった。その後、[[雍州]][[刺史]]となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[263年]]、[[司馬昭]]の命により[[鍾会]]・鄧艾とともに[[蜀漢]]攻略の指揮官に任命された。[[姜維]]の退路を断つべく橋頭を押さえたが、姜維の陽動作戦にはまり退却を許してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、諸葛緒は鄧艾とともに行軍し、白水で鍾会と合流した。諸葛緒は鍾会とともに[[剣閣]]に向かったが、鍾会が「諸葛緒は怖気づいて前進しない」と密告したので、諸葛緒は囚人護送車で召還されてしまった。諸葛緒の軍勢は鍾会が指揮することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後は特に罪にも問われず、西晋の時代に[[太常]]・崇礼[[衛尉]]まで昇進している。孫の諸葛婉は[[司馬炎|武帝]]の夫人となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しよかつ しよ}}&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:273年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:琅邪諸葛氏|しよ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>111.73.209.34</name></author>
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