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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-09-04T14:32:55Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<title>韓遂</title>
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		<updated>2014-08-03T08:47:34Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;111.216.102.181: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;韓 遂&#039;&#039;&#039;（かん すい、? - [[215年]]）は、[[中国]][[後漢]]末期の武将。[[字]]は文約。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[魏 (三国)|魏]]志「武帝紀」・[[蜀漢|蜀]]志「[[馬超]]伝」・『[[後漢書]]』「[[董卓]]伝」等に記録がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後漢末期における[[涼州]]・[[関中]]軍閥の中核を担った人物で、その生涯に亘って涼州の覇権争いを続けつつ、中央への反乱を繰り返した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==生涯==&lt;br /&gt;
はじめ名を韓約といい、[[霊帝 (漢)|霊帝]]の時代、[[辺章|辺允]]と共に西方で高く評価された（「武帝紀」が引く『[[魏略|典略]]』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
計吏として[[洛陽]]に赴いた時、[[何進]]に目をかけられた。何進に対し[[宦官]]を誅滅するように進言したが、何進は従わなかったため、郷里に引き上げたという（「武帝紀」が引く『典略』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[184年]]、涼州で[[羌]]族や枹罕・河関の盗賊、涼州義従の[[宋建]]・[[王国 (後漢の人名)|王国]]らが反乱を起こし、湟中義従胡の[[北宮伯玉]]・[[李文侯]]を擁立して将軍とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼らは金城郡まで来ると降参したふりをして、韓約・辺允ら数十人を人質に取り、護羌校尉の[[伶徴]]・金城太守の[[陳懿]]を殺害した。韓約・辺允は釈放され、反乱軍によって擁立されて軍政を委ねられた&amp;lt;ref&amp;gt;「武帝紀」が引く『典略』では、[[宋揚]]・[[北宮玉]]らが反乱を起こし、韓遂・辺章を擁立したとある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[隴西郡]]では韓約・辺允の名を挙げて彼らが賊徒になったと言い涼州が懸賞をかけたので、この時に韓約は名を韓遂と、辺允は[[辺章]]と改めたという（後漢書「霊帝紀」・後漢書「董卓伝」・後漢書「董卓伝」が引く『[[献帝春秋]]』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
韓遂らは州郡を焼き払い、[[185年]]3月には[[三輔]]地方に侵入した。[[皇甫嵩]]・[[董卓]]が討伐にあたったが、皇甫嵩は成果を挙げられず罷免され、8月に朝廷は改めて[[張温 (後漢)|張温]]に諸郡の郡兵を率いさせ美陽に駐屯させた（「霊帝紀」・後漢書「董卓伝」）。韓遂らも美陽に着陣し、張温・董卓らと戦って勝利を収めたが、11月、董卓に大破され楡中に敗走した（後漢書「董卓伝」）。[[186年]]、張温が召し返されると、韓遂は辺章・北宮伯玉・李文侯を殺し&amp;lt;ref&amp;gt;「武帝紀」が引く『典略』では、辺章が病死したため、韓遂が盟主になったとある。&amp;lt;/ref&amp;gt;、軍勢を擁して隴西を包囲した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[187年]]、涼州刺史[[耿鄙]]が佞吏を信用したため氐や羌が反乱を起こした際、韓遂もこれに続いて反乱を起こしたので、耿鄙はこれらを鎮圧しようとした。耿鄙が[[漢陽]]太守[[傅燮]]の諫めを聞き入れず狄道まで行ったところで部下の寝返りによって殺されると、韓遂らはそのまま進撃して漢陽郡を包囲し傅燮を殺害した（「霊帝紀」・後漢書「傅燮伝」）。耿鄙の司馬であった[[馬騰]]も叛逆して韓遂らと合流し、王国を盟主に推戴して三輔地方に侵攻した（「霊帝紀」・後漢書「董卓伝」）。[[188年]]、韓遂らは陳倉城を包囲したが、皇甫嵩・董卓に敗れたので、盟主の王国を追放した。その後、韓遂らは権力争いを始めて殺し合い、軍勢はばらばらになった（後漢書「董卓伝」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[190年]]、朝廷の実権を握った董卓が[[長安]]に遷都するが、董卓は遷都に反対する司徒[[楊彪]]らに向かって、韓遂らから朝廷には必ず遷都させるようにとの手紙が来ていると言っている。[[192年]]の夏4月にその董卓が[[呂布]]と[[王允]]らに殺され、さらに[[李カク (後漢)|李{{Lang|zh|&amp;amp;#20629;}}]]・[[郭シ|郭汜]]がその王允を殺し、呂布を追い出して自分たちの政権を成立させると、韓遂・馬騰は李{{Lang|zh|&amp;amp;#20629;}}らに恭順の意を見せ、長安に赴いた（魏志「董卓伝」）。韓遂は鎮西将軍に任命され涼州に帰還し、馬騰は征西将軍に任命され&amp;amp;#37119;に駐屯した（魏志「董卓伝」・蜀志「馬超伝」）。[[194年]]、馬騰は朝廷の反李{{Lang|zh|&amp;amp;#20629;}}勢力や[[益州]]の[[劉焉]]と共同で長安を攻めた。韓遂はそれを聞いて馬騰と李{{Lang|zh|&amp;amp;#20629;}}らを和解させようとしたが、結局馬騰に合流することになった。しかし劉焉達との襲撃の計画が外部に洩れてしまい、韓遂・馬騰は[[樊稠]]・郭汜に大敗した。この時、韓遂は陳倉まで逃走したところを樊稠に追い付かれたが、旧知であったため見逃してもらったという（後漢書「董卓伝」・魏志「董卓伝」が引く『[[九州春秋]]』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後涼州に戻った韓遂は、馬騰と意気投合し義兄弟の契りを結ぶなど、当初は極めて親しくしていたという（「馬超伝」が引く『典略』）。その後、涼州を巡って馬騰とも対立し、一転して互いに殺し合う有様となった（魏志「[[鍾ヨウ|鍾&amp;amp;#32327;]]伝」・「馬超伝」が引く『典略』）。その際、韓遂は馬騰の妻子を殺したため、和睦は一層困難なものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[197年]]、[[曹操]]は[[袁紹]]との[[官渡の戦い]]を控え関中の混乱を収めるため、鍾&amp;amp;#32327;を派遣し関中の総指揮を委ねた（「鍾&amp;amp;#32327;伝」）。鍾&amp;amp;#32327;は長安に拠って[[張既]]を使者として派遣、張既や涼州牧の[[韋端]]の仲介により韓遂は馬騰との争いをやめ、その後は子を人質に送り、曹操の傘下となった（「鍾&amp;amp;#32327;伝」・魏志「張既伝」・「馬超伝」が引く『典略』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬騰が曹操の強い要請で[[朝廷]]に出仕し、[[衛尉]]となり一族を引き連れて[[ギョウ|&amp;amp;#37172;]]に移住すると、馬騰の軍勢は馬超に引き継がれた（「張既伝」・「馬超伝」）。[[209年]]、[[張猛 (武威太守)|張猛]]が[[雍州]]刺史の[[邯鄲商]]を殺害して反乱を起こした。[[210年]]、韓遂は上書して張猛を討伐し自害に追い込んだ（魏志「[[ホウイク|&amp;amp;#40848;&amp;amp;#28143;]]伝」が引く『典略』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その翌年の[[211年]]3月（「武帝紀」）、曹操が鍾&amp;amp;#32327;の計画で[[漢中]]の[[張魯]]征討に出兵する動きを見せ、[[夏侯淵]]らの軍を動かすと、韓遂らは張魯攻撃に託け、通り道に当たる自分たちを攻撃するのではないかと危惧し、馬超・[[楊秋]]・[[成宜]]・[[李堪]]ら関中の有力者らとこれに呼応して曹操に対して反逆した（「武帝紀」）。弘農・馮翊の者達はこれに呼応する者が多く、[[杜畿]]が太守を務める河東郡だけが動揺しなかったという（魏志「杜畿伝」・魏志「[[裴潜]]伝」が引く『[[魏略]]』「[[厳幹]]伝」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
曹操は河東に同郡出身の[[徐晃]]を派遣した（魏志「徐晃伝」）。秋7月には、韓遂らは[[潼関]]に拠り曹操軍の[[曹仁]]らと対峙し、渭水の畔で9月まで曹操軍と死闘を展開したが、決着はつかなかった（「武帝紀」）。しかし曹操が配下の[[賈ク|賈&amp;amp;#35425;]]による離間策を採用し、韓遂・馬超と会談を持ちかけてくると、韓遂と曹操は、韓遂の父と曹操が同年の孝廉であったり、同時期に挙兵した間柄であった事から、昔話に興じるなど親しく談笑したため、馬超らに疑われた。曹操は韓遂にわざと疑惑を招くような手紙を送ったため、益々韓遂は疑われた。曹操はこの足並みの乱れに乗じて馬超らを攻撃し、韓遂・馬超は涼州に逃亡した（「武帝紀」）。人質に送られていた韓遂の息子と孫は、曹操に皆殺しにされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[214年]]に馬超が[[テイ (民族)|&amp;amp;#27664;]]族と手を組み反乱を起こし、涼州の動静が乱れたため、曹操が長安に置いていた夏侯淵は、涼州平定のために攻めて来た（「武帝紀」・魏志「夏侯淵伝」）。夏侯淵は馬超を討つついでに、涼州の抵抗勢力を一掃する事を企図し、韓遂にも攻撃を加えてきた。韓遂は異民族と手を組みこれと懸命に戦ったが、夏侯淵の軍略の前に敗れ、金城（あるいは[[西平]]）に逃走した（「夏侯淵伝」）。韓遂は、[[閻行]]に叛かれるなどその勢力を弱め、益州の[[劉備]]の下に逃げようかと配下の[[成公英]]に漏らしたが、成公英は抗戦を主張し、韓遂もこれに従った（「張既伝」が引く『典略』・及び『魏略』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[215年]]、曹操は漢中の張魯を討つために親征してきた。西平・金城に割拠する[[麹演]]・[[蒋石]]は協力して韓遂を殺害し、首を曹操に送ったという。70余歳だった（「武帝紀」が引く『典略』）。晩年の韓遂については異説があり、夏侯淵に敗れた後に西平の[[郭憲]]に庇護されていたが、病死した後にその首を斬り落として曹操への手土産にした者達がいたという（魏志「[[王修]]伝」が引く『魏略』「[[純固]]伝」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==三国志演義における韓遂==&lt;br /&gt;
小説『[[三国志演義]]』では、董卓残党との抗争の時に馬騰の同盟者として登場し、史実と同様に昔馴染みの樊稠に見逃されている。その後、[[赤壁の戦い]]の時に群雄として健在である事が語られる。馬騰が謀殺された後、馬超の忠実な同盟者として「[[旗本八旗|手下八部]]」（楊秋・[[侯選]]・[[張横 (後漢)|張横]]・[[程銀]]・成宜・李堪・[[馬玩]]・[[梁興]]）を率いて曹操と戦う。しかし、手下八部の内の3名を失うなど苦戦し、最後は賈&amp;amp;#35425;の離間の計に嵌まり、怒った馬超によって左腕を落とされてしまう。その後は曹操に降伏して[[関内侯]]に封じられ、夏侯淵と共に涼州に留まる事になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、年齢は史書と異なり40歳（[[172年]]生まれに相当）という設定である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:かん すい}}&lt;br /&gt;
[[Category:漢代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:215年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>111.216.102.181</name></author>
	</entry>
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		<title>馬騰</title>
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		<updated>2014-08-03T07:51:54Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;111.216.102.181: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{三国志の人物&lt;br /&gt;
|名前       = 馬騰&lt;br /&gt;
|画像       = &lt;br /&gt;
|サイズ     = &lt;br /&gt;
|説明       = &lt;br /&gt;
|王朝       = &lt;br /&gt;
|主君       = [[霊帝]]→王國→[[曹操]]&lt;br /&gt;
|称号・役職 =衞尉&lt;br /&gt;
|出生       = ？ &lt;br /&gt;
|出身地     =隴西群&lt;br /&gt;
|死去       =[[建安]]17年([[212年]])&lt;br /&gt;
|死没地     = 鄴城&lt;br /&gt;
|ピン音     =Ma Teng&lt;br /&gt;
|字         = 寿成&lt;br /&gt;
|諡号       = &lt;br /&gt;
|廟号       = &lt;br /&gt;
|別名       = &lt;br /&gt;
|特記事項   = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;馬 騰&#039;&#039;&#039;（ば とう、? - [[建安 (漢)|建安]]17年（[[212年]]）&amp;lt;ref&amp;gt;『[[後漢書]]』巻9 孝献帝紀&amp;lt;/ref&amp;gt;）は、[[中国]][[後漢]]末期の武将。[[字]]は&#039;&#039;&#039;寿成&#039;&#039;&#039;。[[涼州]]扶風郡茂陵県（陝西省興平県の北東）の人。祖先は後漢初期の名将[[馬援]]。父は馬平（字は子碩）。子は[[馬超]]・[[馬休]]・[[馬鉄]]。甥は[[馬岱]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==略歴==&lt;br /&gt;
父は[[漢陽|天水]]郡蘭干県の丞（副長官）を務めていたが、何らかのことで官位を失い、[[隴西郡|隴西]]（[[甘粛省]]南部）に留まった。馬平は家が貧しかったものの妻がなかったため、遂に[[羌]]の娘を娶り馬騰が生まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家業を営んでいなかったため、幼い馬騰は彰山で材木を切って背負い城市で売ることで生計を立てていた。成人した馬騰は、身長6尺を越え容貌も雄異であり、その性格は温厚かつ賢明であったので多くの人が尊敬したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[中平]]元年（[[184年]]）、涼州[[刺史]]の耿鄙が佞吏を信用したため[[テイ (民族)|&amp;amp;#27664;]]や羌が反乱を起こした。さらに、北宮伯玉・李文侯・王国・[[韓遂]]・[[辺章]]といった者たちもこれに続いて反乱を起こしたため、耿鄙はこれらを鎮圧しようと郡内で勇敢な者を募集した。この時、馬騰もこれに応じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬騰を見た役人たちは彼が只者ではないと見て軍従事に抜擢し、部隊を率いさせた。馬騰は期待通りに功績を挙げ、軍司馬（将軍の属官）に任じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、耿鄙が部下の裏切りによって殺されたので、馬騰は韓遂らと手を結び賊軍側に入り戦ったが[[皇甫嵩]]の軍勢に撃ち破られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に[[董卓]]の[[長安]]遷都後に出仕し、反乱異民族を退けるなど軍功を挙げて偏将軍となった。董卓亡き後、長安で[[李カク (後漢)|李{{lang|zh|傕}}]]と[[郭シ|郭汜]]が政権を握ると、馬騰と韓遂は李{{lang|zh|傕}}達に対して恭順の意を見せたため、それぞれ征東将軍と鎮西将軍に任じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、李{{lang|zh|傕}}らと私心を通じようとしたが聞き入れられなかったため対立し、[[益州]]の[[劉焉]]と手を結び、&amp;lt;ref&amp;gt;三国志『益州耆旧伝』より。韓遂・馬騰は関中で争乱を起こした時、幾度も劉焉と連絡を取り合っていたという。&amp;lt;/ref&amp;gt;馬宇・劉範・杜稟らの協力を得て襲撃を計画した。韓遂は軍勢を率いて両者を和解させようとしたが、結局再び馬騰に合流することとなった。一方、李{{lang|zh|傕}}は郭{{lang|zh|汜}}・[[樊稠]]・[[李利]]を出撃させ、長平観で馬騰らと戦わせた。しかし事ここに至り、馬騰らの襲撃計画が洩れてしまったため劉範が槐里に逃亡。また、長平の王承らも馬騰に危害を加えられることを恐れ、馬騰が出撃し防備のなくなったところを攻撃した。馬騰は軍が壊滅して潰走したものの、引き続き将軍位を授けられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、涼州に戻った馬騰と韓遂は、義兄弟の契りを結び仲睦まじくしていたが、互いに攻撃し合うようになった。韓遂は馬騰に攻撃され敗走したが、再び軍勢を集めて反撃し、馬騰の妻子&amp;lt;ref&amp;gt;三国志「馬超伝」より。この事から馬超の母親や実兄弟ではない。&amp;lt;/ref&amp;gt;を殺した。このため和睦は困難なものとなり、戦が絶えなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、[[曹操]]の仲介の元にこの争いをやめたが、以後両者が手を結ぶ事はなかった。二人は曹操軍の[[鍾ヨウ|鍾繇]]・[[張既]]の影響下に置かれるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
争いをやめた馬騰は召し返されて槐里に駐屯し、そこで[[前将軍]]・仮節・槐里侯&amp;lt;ref&amp;gt;馬騰の官職および駐屯地の推移は、生涯を通じて明瞭でない。&amp;lt;/ref&amp;gt;となった。胡族や族徒の侵入に備え、士人を厚遇して賢者を推挙し、民衆を労わった。このため[[三輔]]が安定し、人々は非常に彼を敬愛したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[袁紹]]と曹操が対立するようになると、鍾繇は張既を使者として馬騰の下に派遣し、袁紹軍の[[郭援]]を討伐するよう説得した。はじめ馬騰は袁尚の誘いに応じていたが、[[傅幹]]の勧めもあったため、鐘繇の下に馬超・[[ホウ徳|龐徳]]を派遣し合流させ、郭援を撃破させた。その後も馬騰は曹操の援軍要請に応え、龐徳を従え張白騎・張琰・衛固らの討伐に参加している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建安13年（[[208年]]）、曹操は[[荊州]]遠征の際、馬騰らが[[関中]]に割拠していることを危惧し、張既を派遣して部曲を解散した上で帰還するよう説得した。馬騰は承諾したもののすぐに入朝しなかったという。このため張既は馬騰の心変わりを恐れ、諸県に命令書を送って食糧を用意し、[[太守]]に郊外まで出迎えさせた。馬騰はやむを得ず出立し、朝廷に召されて[[衛尉]]となった。&lt;br /&gt;
また、子の馬休は奉車都尉に、馬鉄も[[騎都尉]]に任じられた。馬騰は一族を引き連れ[[鄴]]に移住した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、解体された馬騰の軍が馬超によって引き継がれたが、馬超と韓遂は共に曹操と敵対（[[潼関の戦い]]）することを選び、大敗した。このため、馬騰は三族皆殺しに処された。馬家は衰退し、最終的には馬超と甥などの僅かな者を残すのみとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==『三国志演義』での馬騰==&lt;br /&gt;
小説『[[三国志演義]]』では、朝廷への忠誠に燃える正義漢として描かれている。[[劉備]]・[[董承]]らの曹操暗殺計画に参加するが、失敗に終わったため涼州に帰る。その後、[[許昌]]に呼び出された際は[[黄奎]]と共に再び曹操暗殺を謀っている。しかし、黄奎が妾に詳細を話したことがきっかけで計画が漏れ、子の馬休・馬鉄と共に一族皆殺しとなってしまう。その後、唯一脱出した馬岱から父の死を聞いた馬超は、曹操に対して反旗を翻すことになっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*『三国志』&lt;br /&gt;
*『後漢書』&lt;br /&gt;
*『三国志演義』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ば とう}}&lt;br /&gt;
[[Category:馬氏|とう]]&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:212年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>111.216.102.181</name></author>
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