禅譲

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テンプレート:言葉を濁さない テンプレート:Sister 禅譲(ぜんじょう)は、天子(ほとんどの場合、皇帝)が、その地位を血縁者でない有徳の人物に譲ることである。実際には、歴史上禅譲と称していても譲られる側が強制して行われていることが多い。

また、天子に限らず、比喩的に地位を平和裏に譲ることを禅譲、無理やり奪うことを簒奪と呼ぶことがある。

中国伝説における禅譲

中国の伝説上の聖天子は、血縁関係によらず有徳の人物に帝位を譲ったとされる。例えば、五帝と呼ばれる天子たちは、に禅譲し、舜がに禅譲した。このような伝説は、儒家が過去を理想化する中で生まれた。実際の権力交代では武力や流血、権謀術策が少なからず伴ったと考えられるが、文献が書かれたその時々の権力への正当性の付与や、儒家の思想の根幹たる「礼」を成立させるためにこのような理想化が行われたと考えられる。

中国史に限らず、太古は王位にさしたる利権がないがゆえに世襲とならず(世襲という概念が存在せず)、有力者が王位を継承していた事情を反映している可能性もある[1]

歴史上の禅譲

歴史上禅譲と呼ばれているものは、実際には簒奪に近いものであり、王朝の正統性を保証する演出として行われ続けた。

中国史で最初の禅譲は、前漢の最後の皇胤(皇太子)孺子嬰から王莽への譲位で、これをうけて王朝が開かれた。その後も、王朝交代のたびに禅譲が行われた。

ただし、新皇帝の即位が存在しない事例も含めると、中華民国は形式上は宣統帝より禅譲を受けた政権であり、これが最後の禅譲といえる(清室優待条件を参照)。

手順

歴史上の禅譲の手順はおおむね下のようにまとめられる。禅譲の手順は、魏の曹操(武帝)・曹丕(文帝)のものが先例となったことから、「魏武輔漢の故事」と称される。

テンプレート:要出典範囲

禅譲した前王朝の君主は、後漢献帝などは殺害されず山陽公として余生を送ることが出来たが、南北朝時代以降になるとすぐに殺されたり自殺を強制されることが多くなった。前王朝の君主を最初に殺したのは[2]、南朝・高祖武帝である。そのため宋の最後の皇帝である順帝は殺される前に、「生まれ変わるなら帝王の家にだけは生まれたくない(願後身世世、再不生帝王家)」とまで残している。ただ、後周恭帝から禅譲を受けた北宋太祖は彼を殺さず、また柴氏の保護を子孫に厳守させている(石刻遺訓)。

なお、過去の王朝の子孫を礼遇する思想は、zh:二王三恪と呼ばれている。「二王」は前王朝及び前々王朝を意味する。「三恪」はさらに3代前の王朝(合わせて5王朝)か、あるいは単に前々王朝の前とされた。

転用

現代では、しばしば歴史上行われた禅譲にたとえて「(社長首相大統領、経済団体・業界団体の代表者などの)指導的な地位を他の実力者に譲ること」を禅譲という場合がある。

芸能マスコミにおいては、長期間放映が続くシリーズものや、リメイクや再映像化が行われた映画テレビドラマなどで、「ベテラン俳優が長年演じてきた自身の当たり役を現役(存命)の内に特定の後進俳優に譲ること」を指して禅譲という表現が使われることがある。

脚注

  1. 中国史以外に類例を見るなら、王政ローマは世襲ではなく有力者が選挙によって選ばれた。ただしこちらも、共和制期においての理想化に過ぎないという説もある。
  2. 直接禅譲に繋がらない殺害は、これ以前からあった。自らに対して兵を挙げた、魏の曹髦を殺した司馬昭(直接の下手人は成済)など。

関連項目