田疇

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田 疇(でん ちゅう、169年 - 214年)は、中国後漢末期の人。子泰、あるいは子春[1]幽州右北平郡無終県(天津市薊県)の出身。従子は田続

経歴

22歳の時(190年)、劉虞から招聘を受け、気に入られて従事に任命された。また、そのまま劉虞の命令を受けて、献帝への忠節を誓う使者に任じられ長安に赴き、任務を全うした。その際、義人であるとして献帝の勅命で騎都尉に任じられるが、天下騒乱の折りで天子も落ち着いていない情勢時に、自分だけ出世など出来ないとして固辞している。幽州に帰着すると、劉虞が公孫瓚によって殺されてしまっていた。田疇は劉虞の墓に赴き哭したが、その行為が公孫瓚の怒りを買い、捕らえられて殺されそうになった。しかし毅然とした態度で反論したため、殺されずに済んだ。その後、取り成しを経て釈放され郷里に戻り平民となって、一族郎党を引き連れて徐無山に登って隠棲した。そこで暮らす内に彼の人徳を慕って多くの人が集まり、家々が数千軒に膨れ上がったという。そこで田疇はリーダーに推されたため、法を整備し教育に力を入れた。いつの間にか田疇の集落は、烏桓鮮卑が使節を派遣して誼を通じようとする程の規模となっていた。その噂を聞きつけた袁紹と子の袁尚が、何度も招聘して自陣営に田疇を引き込もうとしたが、彼はそれらを全て固辞した。

207年曹操の烏桓討伐の折、招聘を受けるとすぐさま曹操の宿営地に赴いた。到着すると、すぐに司空戸曹の属官に任命された。しかし曹操自身が彼と会見してみると、非常に立派な人物であると分かったため「彼はわしの下役人にして良い男ではない」として属官の件を撤回し、茂才に推挙した。その後、役職に就かないまま烏桓討伐に随行し、道案内役(田疇の故郷と烏桓の領地が境を接していたため、その辺りの地理に明るかった)を買って出て討伐の成功に大きく貢献した。その勲功によって亭侯の位を授けられるが、初志に反するとして、侯位を固辞した。所轄の役人が、田疇の固辞する態度が頑なで道に外れているとして、免職とし刑罰を加えるよう曹操に進言したが、曹操は問題にしなかった。

その後、家族を引き連れてに移り住んだ。しばらくして、かつて自分を招聘してくれた袁尚の首が鄴に届いたが、彼は禁令を犯して袁尚の遺骸を引き取り哭して弔った。その行為は本来死刑に値したが、曹操は彼の礼節心を嘉して、またもや問題にしなかった。

その後、荊州討伐から帰還した曹操は、田疇の先の功績が卓越していたのを思い出し、彼に爵位を与えなかったことを後悔した。そこで田疇の友人であった夏侯惇に、自分(曹操)の名前は出さないように内示して、それとなく田疇を説得し爵位の件を受諾させるよう依頼した。内示を受けた夏侯惇は早速田疇宅に赴いて宿泊し、その帰り際に「田君よ、曹操様のご厚意を全く無視するわけにはまいりませんぞ」と彼を諭した。しかし田疇は涙を流し「何ということをおっしゃいますか。私は本来世間から逃げ隠れした人間。今の立場でいられるのは僥倖に過ぎません。徐無山の集落を売って爵位に替えるような真似は出来ません。私を本来理解してくださっている筈の将軍ですら、そのようなことを申されますか。この首を掻き切って命を捧げたいと存じます」と言って固辞した。夏侯惇がそれらをありのままに報告すると、曹操もついに田疇へ侯位を授けるのを諦め、議郎に任命することにした。 

46歳で亡くなった。子供も早くに亡くなっていたという。帝国が成立すると、曹丕(文帝)の勅命によって田続が家を継いだ。

陳寿の賛

「田疇の節義 =中略= は、世俗を矯正するに充分である」

裴松之は田疇伝への注の中で、田疇が袁尚を哭して弔った行為について、田疇が烏桓討伐を手助けした結果、袁尚が捕まり殺されてしまったので「彼の哭した行為は偽善的である」と、批判している。

脚注

  1. 後漢書』巻73「劉虞伝」の章懐太子注には「『魏志』曰、疇字子春」とある。また陶淵明「擬古九首」其二の「聞有田子泰、節義為士雄」を「田子春」に作るテキストもある。

参考文献