成瀬正泰

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成瀬 正泰(なるせ まさもと、宝永6年6月26日1709年8月1日)- 天明5年6月20日1785年7月25日))は、尾張藩附家老尾張犬山藩の第5代当主。

第4代当主・成瀬正幸の長男。子に成瀬正純(長男)、成瀬正典(次男)、娘(四条隆叙室)など。官位は従五位下、隼人正。御附家老をしていたときは名は成瀬正太と名乗っていた。尾張九代藩主徳川宗睦の嫡男五郎太が誕生した際に、「太」の字を避けて正泰とする。

宝永6年(1709年)6月26日生まれとも、同年6月29日生まれとも言われている。享保17年(1732年)8月15日、父の隠居により跡を継ぐ。同年12月に従五位下隼人正に叙任。宗春によく仕え、元文3年の尾張藩の混乱期には、もう一人の御附家老竹腰正武と対立した。宗春が隠居謹慎の際も、幕府と一戦交じうべしという強硬論を唱えたとも言われる。元文4年に徳川宗春が隠居謹慎した後に犬山に戻り、犬山城に白帝城の別名を与える。 明和5年(1768年)1月28日、次男の正典に家督を譲って隠居し、蔵人を名乗り大雅と号する。天明5年(1785年)6月20日に77歳で死去した。法号は諦幻院殿泰翁宗峻大禅定門。墓所は愛知県名古屋市中区栄の白林寺。

人物

脚注

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  1. 小山譽城『徳川御三家付家老の研究』(清文堂出版、2006年) ISBN 4-7924-0617-X