伊一五三型潜水艦

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伊153型潜水艦(海大3型a)
伊号第五五潜水艦
画像は初代伊55(後の伊155
艦級概観
艦種 一等潜水艦
艦名
前級 伊号第一五二潜水艦(海大2型)
次級 伊一五六型潜水艦(海大3型b)
性能諸元
排水量 基準:1,635トン 常備:1,800トン
水中:2,300トン
全長 100.58m
全幅 7.98m
吃水 4.83m
機関 ズルツァー[1]3号ディーゼル2基2軸
水上:6,800馬力
水中:1,800馬力
速力 水上:20.0kt
水中:8.0kt
航続距離 水上:10ktで10,000海里
水中:3ktで90海里
燃料 重油:241.8t
乗員 63名
兵装 40口径十一年式12cm単装砲1門
留式7.7mm機銃1挺
53cm魚雷発射管 艦首6門、艦尾2門
六年式魚雷16本
Kチューブ(水中聴音機)
備考 安全潜航深度:60m

伊一五三型潜水艦(いひゃくごじゅうさんがたせんすいかん)は、大日本帝国海軍潜水艦の艦級。海大III型a(かいだいさんがたエー)とも。全部で4隻が建造され、1927年から1928年にかけて竣工した。太平洋戦争の初期に通商破壊を行ったがこの時点で旧型となっていたため、1942年後半までにすべての艦が練習潜水艦となった。全艦戦没せずに終戦を迎えたが、戦後処分された。伊一五六型潜水艦海大III型b)は船体形状が若干改められたが兵装や性能は本艦級にほとんど等しい。

概要

1922年(大正11年)のワシントン軍縮条約の締結により八八艦隊案を白紙に戻した日本海軍は、1923年(大正12年)度の計画で改めて潜水艦を12隻(当初の予定は13隻)建造した。海大3型aはその最初の4隻である。計画番号はS26

本型は前型の海大2型を改良した量産型である。船体寸法はほぼ同一、主機も同じディーゼル機関を搭載したが、内殻の板厚を増して潜航深度を60mまで増大させた。その他構造上の細かい改正が施されより実用的な艦となった。このため基準排水量で300トン弱増加し速力、航続力はともに若干低下した。外観上の相違は司令塔が内容積増大のため基部が広げられ台形状となり、艦首に防潜網切断器が搭載されたことである。また遭難時の救難のために引き上げ用眼環が初めて装備された。

戦歴

伊153,154,155は第18潜水隊を編成しマレージャワ方面へ進出した。伊158も第19潜水隊に所属しマレー方面に進出、4隻で合計7隻の商船を撃沈している。4隻とも1942年(昭和17年)3月に呉港に帰港。その後は同年6月に伊158がミッドウェー海戦に参加、伊155がアリューシャン作戦キスカ島への輸送任務に参加しただけで、大戦の大半を練習潜水艦として過ごした。伊153は終戦直前の空襲により中破、それ以外の艦は無傷で終戦を迎えている。

同型艦

1942年(昭和17年)5月20日に改称、艦番に100を加えた。

1927年(昭和2年)3月30日竣工(呉海軍工廠)。1948年(昭和23年)解体[2]
1927年(昭和2年)12月15日竣工(佐世保海軍工廠)。1946年(昭和21年)5月伊予灘で海没処分。
1927年(昭和2年)9月5日竣工(呉海軍工廠)。1946年(昭和21年)5月伊予灘で海没処分。
1928年(昭和3年)5月15日竣工(横須賀海軍工廠)。1946年(昭和21年)4月1日五島列島沖で海没処分。

脚注

  1. スイス・SULZER社。英語読みではスルザー。
  2. 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年、354頁では、1946年5月に伊予灘で米軍により海没処分。

参考文献

ファイル:I-58.jpg
初代伊58(後の伊158
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』光人社、1990年 ISBN 4-7698-0462-8

関連項目

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