レオポルド・ゴドフスキー

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テンプレート:Infobox Musician テンプレート:Portal クラシック音楽 レオポルド・ゴドフスキーLeopold Godowsky, ポーランド語 Leopold Godowski レオポルト・ゴドフスキ, 1870年2月13日 - 1938年11月21日)は、ポーランド(現・リトアニア。当時はロシア帝国)のピアニスト作曲家教師。「ピアニストの中のピアニスト The Pianist of Pianists」と呼ばれる。

ピアニストとしてのゴドフスキー

ゴドフスキーは現在のリトアニアの首都ビリニュスの近く、ソズウィ Sozły に生まれた。幼少の頃、彼はピアノ演奏と音楽理論のレッスンを受けていた。14歳になるとベルリン高等音楽院に入学し、エルンスト・ルドルフの下で研鑽を積み始めるも3ヶ月で辞めてしまう。それ以外では、彼は基本的に独学家だった。

コンサート・ピアニストとしての活動(最終的にオーストラリアと南極を除く全大陸に及ぶことになる…日本も含む)を開始したのは、ゴドフスキーが僅か10歳の時だった。1886年、北アメリカの巡回公演後、ヴァイマルにいるフランツ・リストの下で勉強しようと思いヨーロッパに戻ってくるが、直後にリストの死を知り、パリへ赴く。パリで彼は作曲家=ピアニストであったカミーユ・サン=サーンスと親交を結ぶ。サン=サーンスとの出会いは、ゴドフスキーに当時の優れたフランスの音楽家達と知り合うきっかけを与えた。サン=サーンスはゴドフスキーを養子にし姓を継いでもらうよう申し入れたが、ゴドフスキーがそれを辞退するとサン=サーンスは大変不機嫌になったという。

1890年、ゴドフスキーは教師としてニューヨーク音楽大学(New York College of Music)で活動を始めた。ニューヨークに居るとき、彼はフリーダ・サックス(Frieda Saxe)と結婚し、アメリカ合衆国市民権を獲得する。1894年にはフィラデルフィアのブロードストリート音楽院(Combs Broad Street Conservatory of Music)、翌年の1895年にはシカゴ音楽院(Chicago Musical College)に移動。シカゴ音楽院ではピアノ学科代表になった。大成功に終わった1900年のヨーロッパ巡回公演の際、ゴドフスキーはベルリンの地へ再び訪れるが、そこで彼の時間は教育活動と演奏活動で二分した。1909年から1914年にかけて、ゴドフスキーはウィーン音楽院マスタークラスを教える。1914年第一次世界大戦が勃発し、彼はニューヨークに戻った。ニューヨークにある自宅には当時の著名なピアニストや有名人がしばしば訪れた。特別の仲だったセルゲイ・ラフマニノフからは、“W.R.のポルカ”を献呈されている。

終戦を迎えると、ゴドフスキーは演奏活動を再開したが、1930年6月17日ロンドンでのレコーディング中に脳卒中を起こす。それによって彼は公開演奏の経歴にピリオドを打ち、同時に1929年暗黒の木曜日世界恐慌)で彼が負った莫大な経済的損失を回復させる手立てをも失った。1932年の彼の年下の息子の自殺と1933年の妻の死は、悪化するヨーロッパの政治情勢(それはゴドフスキーの死期を暗示していた)への彼の絶望と相まり、ゴドフスキーは作曲活動をも止めてしまう。悪化する欧州政情は、ゴドフスキーが構想していた「音楽と音楽家の世界会議」(World Synod of Music and Musicians)や「国際的な音楽教師機関」(International Master Institute of Music)を無に帰した。1938年11月21日のためニューヨークで死去。

演奏スタイル

ダイナミックレンジは狭かったと伝えられるが、一音も弾き逃さない丁寧な演奏であったことは多くのピアニストによって証言された。もともと演奏家としてあがり性であったことなどから、残されている音源からは彼が当代一流であったかどうかを判断するのは難しい。しかし、ブゾーニのような完璧主義者と異なり比較的多くの音源が残された。「気が乗っていないまま」弾いてしまったショパンのソナタ第二番などは、彼本人も不満であった。ショパンの装飾音も勝手にゴドフスキーの手によって直されるなど、20世紀後半以後のショパン演奏とはかなりかけ離れており、後期ロマン派の脚色が入った表現である。

作曲家としてのゴドフスキー

ゴドフスキーは、他の作曲家のピアノ小品に基づくパラフレーズで最もよく知られている。それらの作品は、精巧な対位法的処理、豊かな半音階的和声により極限まで昇華される。この分野でのゴドフスキーの最も有名な作品はショパンの練習曲に基づく53の練習曲だろう。対声部の導入、技巧的パッセージの右手から左手への転換、左手独奏用編曲、2曲の同時演奏など様々な手法を用いて、ゴドフスキーはショパンの27の練習曲(それは既に演奏困難なものであるが)をそれぞれ編曲している。

これは現代の辣腕な技巧家にとっても極めて苛酷な曲集であり、今までに全曲録音を行ったピアニストはジョフリー・ダグラス・マッジ(Dante)、カルロ・グランテ(Altarus; Music & Arts; 二度の録音)、マルカンドレ・アムラン(Hyperion)の3人。(コンスタンチン・シチェルバコフの録音がMarco Poloから予定されているが、未リリース)。リサイタルで全曲演奏を行ったピアニストは、カルロ・グランテとフランチェスコ・リベッタしかおらず、ゴドフスキーの著作権が切れた現在も全曲演奏の女性の挑戦者は一切存在せず(全集はおろか選集も確認できない)険しい難易度を誇っている。この他に、ミヒャエル・ナナサコフ(Nanasawa Articulates)と名づけられたコンピュータ出力による自動演奏の全曲版もある。

オリジナル作品も同様の難しさで、代表作とされるパッサカリアジャワ組曲などの作品も、その超絶技巧故ごく一部のピアニストを除き、ほとんど演奏されることは無かった。僅かに古きウィーントリアコンタメロン第11番)などの小品が、ヤッシャ・ハイフェッツによってバイオリン用に編曲され、比較的知られ過ぎない状況であった。

ゴドフスキーの「ピアノソナタ・ホ短調」は、一時期録音が急増した時期があり、アダム・アレクサンダージョフリー・ダグラス・マッジマルカンドレ・アムランカルロ・グランテミヒャエル・シェーファーラディスラフ・ファンツォヴィツベンクト=オーケ・ルンディンコンスタンチン・シチェルバコフなど腕自慢のピアニストがこぞって弾いているが、世界初録音はマッジのものである。

彼の作曲家としての実力は楽壇に不当に無視され、ゴドフスキーの没後50年は「ピアニストの書いた難技巧を伴う程度の作品」という不名誉な位置付けに甘んじた。このことは新グローブ音楽辞典(The New Grove Dictionary of Music and Musicians)の2000年改訂版においても全作品リストが編纂されていないという事実や、カールフィッシャー社(Carl Fischer Music)から出版された全5巻のゴドフスキー選集の完結が2004年であったこと、その選集の中に子供の為のAPSシリーズが含まれていないことなどに表れている。

現在はカルロ・グランテとコンスタンチン・シチェルバコフの2人が、ゴドフスキー全集のリリースを長期間にわたり進めている。現在は楽譜の入手が容易になったことも含め、多くのピアニストがゴドフスキーの演奏を行っている。

オリジナル作品

編曲作品

  • J・S・バッハ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番~第3番のピアノ用編曲
  • J・S・バッハ 無伴奏チェロ組曲第2番・第3番・第5番のピアノ用編曲
  • ラモー、リュリ、コレッリ、D・スカルラッティ他 ルネッサンス 16のバロック編曲集
  • シューベルト 楽興の時 第3番の編曲
  • ショパンの練習曲に基づく53の練習曲
  • ショパン ワルツ第6番変ニ長調「子犬」の編曲
  • ショパン ワルツ第9番変イ長調「別れ」の編曲
  • ヨハン・シュトラウス2世 「こうもり」の編曲
  • ヨハン・シュトラウス2世 「芸術家の生涯」の編曲
  • サン・サーンス 「白鳥」の編曲
  • アルベニス 「タンゴニ長調」の編曲

エピソード

なお、彼の息子レオポルド・ゴドフスキー2世(Leopold Godowsky Jr.)はヴァイオリニストになったが、友人のピアニスト・レオポルド・マネス(Leopold Mannes)と共にカラー写真の開発に当たり、コダック社の協力により1935年に初の本格的なカラーフィルム「コダクローム」を開発した。[1]彼はジョージ・ガーシュウィンの妹フランセス(Frances)と結婚している。

外部リンク