シンガポール華僑虐殺事件
シンガポール華僑虐殺事件は、太平洋戦争(大東亜戦争)中の1942年(昭和17年)2月に日本軍が、イギリスの植民地であったシンガポールを守備するイギリス軍との戦い(シンガポールの戦い)に勝利した後に、約1ヶ月にわたって「親連合国」と目された一部の中国系住民(華人、華僑)を殺害した事件。中国語では粛清 (sook ching) と呼ぶ。日本でも「華僑粛清」ということがある。またシンガポール大検証などともいう。
概要
1942年(昭和17年)2月15日に日本軍は、イギリスの植民地であるシンガポールを占領したが、その際山下奉文責任指揮の下、中華民国国民政府(蒋介石政権)ないし、これまでシンガポールを植民地支配下においていたイギリスなどの大日本帝国と対する連合国側を支持していた中国系住民をゲリラまたは反日分子として殺害する挙に出たとされる。背景としては、1937年7月の蘆溝橋事件以後日中間の戦争状態が拡大する中で、東南アジア各地の華僑による抗日運動が盛んとなり、シンガポールの華僑がその中心となったこと、イギリス当局の要請もあって星州華僑抗敵動員総会を発足させるなど、シンガポールの華僑を抗日的と日本軍が見なしたことが挙げられる[1]。
具体的には、日本軍は各所に検問所を設け、18歳~50歳の成年男子を漏れなく取り締まり、以下に挙げられる者を好ましからざる分子として重点的に検証をおこなったうえ抗日分子を処刑したとされる。
- 日本軍及び日系住民に対しゲリラ活動をおこなった者
- 国民政府への財政援助に関わったないし実際に援助した者
- 東南アジアを拠点に抗日活動を続けていた陳嘉庚の支持者ないし関係者
- レジスタンス関係者・支持者
- イギリス植民地時代の公務員・法曹・立法会議員
- 黒社会など秘密組織や反社会的組織に関わっていた者
- 日中戦争以後に移民してきた者
- 海南省出身者(日本軍は多くの共産主義活動家が紛れ込んでいると見ていた)
- 取り締まりに抵抗した者や逃亡しようとした者
東京裁判においては「6000人の華僑が殺害された」とされたが、全体像など不明瞭な点が多い[2]。イギリス軍は事件の責任者として第25軍の作戦参謀だった辻政信の追及を続けたが、辻はこの時期、国外に潜伏中であり、最終的には断念した。いずれにせよ、この事件は華僑のみならずマレー人やインド人などにも日本軍に対する恐怖と不信感を与えることとなった。
シンガポール方面軍である第25軍の幹部会議では華僑虐殺命令が討議された記録や証言はいっさいなく、多くの証拠から、辻の独断を軍司令官の山下奉文が黙認ないし追認した可能性が高い。辻は粛清の各現場に一人で出かけ「シンガポールの人口を半分に減らすくらいの気持ちでやれ!」と怒鳴り散らして命令していたという(『蒋介石の密使 辻政信』渡辺望 祥伝社新書)
辻は戦後、国会議員を数期務めた。国会では何度もシンガポール華僑虐殺事件について論議されているが、これらの論議はすべて、辻が1961年にラオスで失踪し国会からいなくなってからの論議であった。国会ではシンガポールで実際に虐殺を目撃した堀昌雄の証言などがおこなわれた。
結局、最高責任者である辻への追及はうやむやになった。事件の責任者として処刑されたのは(さしたる責任的立場にあったとも思われない)昭南警備司令官であった河村参郎中将であった。
参考文献
- 井伏鱒二『徴用中のこと』中央公論新社 中公文庫 2005年8月 ISBN 4122045703
- 中村粲『教科書は間違っている 沖縄「集団自決」・シンガポール「虐殺」の真相』日本政策研究センター 2005年
- 藤原岩市『F機関』原書房 1966年
- 渡辺望『蒋介石の密使 辻政信』祥伝社新書 2013年