アクション・フランセーズ

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テンプレート:Infobox 組織 アクション・フランセーズAction Française)とは、1894年に発生したドレフュス事件を契機として組織された、フランス王党派ナショナリズム団体である。シャルル・モーラスなどの反ドレフュス派の知識人を中心に結成され、間もなく王政支持に転向。最も徹底した反共和主義の運動として相当の影響力を持った。

「アクション・フランセーズ」の名は「フランス的行動」を意味し、1899年に創刊された同名の機関紙に由来する。

創始

アクション・フランセーズは、ドレフュス事件における既存の国粋主義団体の対応に不満を持った、哲学教授のアンリ・ヴォジョア(Henri Vaugeois)、及びジャーナリストで文芸批評家のモーリス・ピュジョ(Maurice Pujo)が創立した組織に端を発する。彼らは1899年 8月、機関紙『アクション・フランセーズ』を創刊して自説を展開した。

翌年、気鋭の文学者・ジャーナリストとして知られていたシャルル・モーラス(Charles Maurras)が参加。更に、作家アルフォンス・ドーデ(Alphonse Daudet)の息子レオン・ドーデ(Léon Daudet)、歴史家ジャック・バンヴィル(Jacques Bainville)、経済学ジョルジュ・ヴァロア(Georges Valois)らを会員に加えて勢力を伸ばした。

1905年に、政治団体としての「アクション・フランセーズ」を発足させた。1908年には、月2回発行の小冊子であった『アクション・フランセーズ』紙を日刊紙に発展させ、ヴォジョアが主筆に就任した。

また、関連団体として「カムロ・デュ・ロア(Camelots du Roi、「王党員」の意)」と称する行動隊を有していた。これは、『アクション・フランセーズ』紙販売のため雇われた売り子を集めて1908年に創設された団体であったが、のちに暴力組織に発展。共和国派や左翼団体に対する襲撃をたびたび行って恐れられた。

第一次世界大戦の際には、対独徹底抗戦を主張する論陣を張り政府への攻撃は控えた。

思想

ファイル:FR-WW1-1915-French-plans.png
1915年にアクション・フランセーズが主張した第一次大戦後の欧州再編計画。ドイツ、オーストリア、トルコを解体し、その跡地に小国を分立させたり周辺国家に領土を併合させたりする計画だった

アクション・フランセーズの思想は、モーラスがオルレアニストだったように王政復古を核としていた点において、それまでの右翼団体と大きく異なる。ただし、実際に王権を回復するのが目的ではなく、頽廃した第三共和政に対抗して、王を精神的支柱に据えるために過ぎない。この主張はモーラスによって提唱され、1度は他の党員からも「時代錯誤の思想」として退けられたが、モーラスの熱心な説得によって採用されたものであった。オルレアン家の王位請求者ギーズ公ジャンパリ伯アンリが独自の王政復古運動を展開し始めた1934年頃からは同家との対立を深め、1937年後半には遂にモーラスが「主権は国民に存する」とアクション・フランセーズ紙上で発表して事実上断絶した。支持対象から排斥されたことで、アクション・フランセーズは孤立化を深めた。

また、国教としてのカトリックの地位の回復を支持していた。

アクション・フランセーズは、ユダヤ人ドイツ人プロテスタントフリーメイソン社会主義者らを「異国人」として排撃した。また、他の極右団体に対して敵愾心を持っていた。

機関紙『アクション・フランセーズ』は、政治的には王政復古、民族主義を掲げ、当時から敬遠されがちであったが、文化面での評判は非常によく他の追随を許さなかったという。その後、世界的に活躍する識者たちも、これを目当てに同紙を購読しており、その影響は計り知れない。

戦間期

第一次世界大戦後、アクション・フランセーズは反共を旗印に掲げ、ムッソリーニ治下のイタリアとの提携を主張してファシズムに接近した。

その過激な言動を憂慮した教皇ピウス11世は、アクション・フランセーズを異端として公然と非難。1928年にはモーラスの著作を禁書に指定した。

1933年12月、バイヨンヌの市立信用金庫を舞台とする詐欺疑惑が浮上した(スタヴィスキー事件)。首相ショータンの親族や閣僚の一部が関与していたと報道されるや、事件は政治問題と化した。アクション・フランセーズはこの機に乗じ、政府や議会を激しく攻撃した。翌1934年2月6日には、他の右翼団体と共にパリで大規模な反政府デモを展開し、警察や市民を巻き込んだ騒擾事件に発展した。このときの死者は16名、負傷者は2,300名余りと伝えられる(数字は資料によって若干異なる)。

1936年2月、人民戦線内閣によって解散を命じられ、地下運動を余儀なくされたが、ヴィシー政権下に公然と復活する。「ただフランスあるのみ」と主張してつねにヴィシー政権に協力して連合国の大義を敵視しペタン元帥が命じない限りいかなる抵抗、戦闘再開も認めない姿勢だった。ヴィシー政権に結集して保守的政策を推進し、対独協力の積極的な支持母体となったが、その結果、かつて展開した反独の主張を翻したことに不満を持つ者も多く、離反者が相次ぐ。

戦後

レオン・ドーデは1942年に死去。また、シャルル・モーラスは戦後、ナチス・ドイツに協力した廉(かど)により、終身刑に処せられた。支柱を失ったアクション・フランセーズは崩壊へと向かったが、モーリス・ピュジョの尽力によって1947年に再建された。1981年の大統領選挙の際には、保守系の大統領候補では無くかつてアクション・フランセーズに所属していた過去がある社会党の大統領候補ミッテランを支持した。

反EUの思想を掲げ、現在も活動を継続しているが、往年の勢いは失っている。

関連書籍

  • Eugen Weber: Action Française.Royalism and Reaction in Twentieth-Century France.1962.
  • 深沢民司『フランスにおけるファシズムの形成』 岩波書店、1999年
  • 福田和也『奇妙な廃墟―フランスにおける反近代主義の系譜とコラボラトゥール』 筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2002年、ISBN 4480087060
  • ジャック・プレヴォタ/斎藤かぐみ 訳『アクシオン・フランセーズ フランスの右翼同盟の足跡』 白水社(文庫クセジュ)

関連項目

外部リンク