T-2 (航空機・日本)

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テンプレート:Infobox 航空機 T-2は、日本航空自衛隊の高等練習機三菱重工業が製造。初飛行は1971年昭和46)7月20日。日本が初めて開発した超音速航空機である。2006年平成18)3月2日岐阜基地飛行開発実験団のT-2特別仕様機(59-5107)が引退し、初飛行から35年の歴史に幕を閉じた。大抵は「ティーツー」と呼ばれ愛称は無い。

開発経緯

T-2の開発には、1960年代当時のアメリカ空軍の考え方が大きく影響している。米空軍では「戦闘機パイロットの養成には超音速高等練習機が必要である」と言う考え方が主流で、ノースロップのプライベートベンチャーであるN-156F/T(後のF-5T-38)が使用されていた。超音速飛行そのものが特殊であるとされた時代の認識を引きずったものであり、米空軍ではせっかく採用したT-38を用いての訓練でも、ほとんど超音速を用いなかったが、この論そのものは日本の航空機開発と戦闘機搭乗員養成に大きな影響を与えた。

当時の日本では1962年昭和37)から超音速戦闘機F-104J/DJの配備が始まり、1972年(昭和47)には次期戦闘機F-XF-4EJ)の配備も始まることとなったため、従来の練習機T-33Aでは性能差がありすぎることから、超音速飛行のできる練習機が求められていた。

同時期に共同で超音速練習機/攻撃機(後のジャギュア)を開発し、高い費用対効果を上げようと言う試みは、国内開発へのはずみにもなったものの、前回のF-X候補のひとつで、F-104に敗れたN-156Fが、航空自衛隊の超音速練習機採用に合わせて再び売り込みを掛けてきていた。防衛庁内には米空軍のT-38/F-5を導入するべきだと強力に主張する勢力がおり、また、制服組からも純技術的経済的問題から国内開発を疑問視する声があがっていた。大蔵省(現 財務省)とのパイプを持つ彼らは、T-38/F-5こそがコストパフォーマンスに優れ、配備予定期日を守ることができる唯一の方法だと強力に主張していた。

しかし、コスト的にはT-38/F-5が優勢であったものの、T-38では要求をクリアすることは不可能とされ、「国内の航空産業と若い技術者の育成、飛躍を目的とする」とした意見が通り、国内開発が決定された。ただ、当初の予定であればF-X導入までに超音速高等練習機を国内開発することは不可能であり、導入を決定したF-4EJファントムIIが複座であることから、これを機種転換に充てるという手法で、運良く戦闘機パイロットの養成スケジュールを消化する目処が立ったために、T-X国内開発の時間的余裕が出来たようなもので、そうでなければ国内開発は時間切れで断念していた可能性もあった。

次期練習機T-Xへの主な要求内容として以下が上げられた。

  • タンデム複座。
  • 安全性を考えエンジンは双発。
  • 最大速度はM1.6程度。
  • 良好な加速性能と離着陸特性をもつこと。
  • 対戦闘機訓練、対地射爆訓練が可能なこと。
  • 固定武装として機関砲M61)を装備すること。
  • 火器管制装置を搭載すること。
  • 非常時には補助戦闘機として使用できること。
  • 支援戦闘機F-86Fが近々退役することから、最小限度で支援戦闘機への改造が施せること。

特に量産化による開発費低減を狙って支援戦闘機への改造が大きな要求であり、これらの要求を元に1967年(昭和42)2月8日に防衛庁が音速ジェット練習機作成に関する性能要求書に対する返答を、三菱重工業富士重工業が計画書案を提出。9月5日に三菱が主契約企業に決定された。年内に人員75名のXT-2開発設計チーム ASTET(Advanced Supersonic Trainer Engineering Team:超音速高等練習機設計チーム)を編成し、1968年(昭和43)に基本計画に着手した。エンジンは共同開発のロールス・ロイス/チュルボメカアドーア」に決定、1969年(昭和44)4月に基本設計終了、モックアップ審査が行われ、10月より試作1、2号機の製造に入る。

試作機XT-2の1号機は1971年(昭和46)4月28日に三菱重工小牧南工場で1号機がロールアウト、7月20日に初飛行、11月19日にマッハ1.08を記録、国産航空機として初めて音速を突破した。12月15日に防衛庁へ納入され、技術研究本部に所属したが、技術試験および実用試験は岐阜基地実験航空隊飛行実験群で行われた。1972年(昭和47)に試作2号機が航空自衛隊に納入、続いて3号機・4号機が納入された。

  • 1号機(19-5101)
T-2前期型のプロトタイプ。機首ピトー管部には計測ブームが取り付けられており、飛行性能、エンジン関係のテストに使用された。武装はなし。ロールアウト時は全身銀塗装で、胴体尾部にだけ大きな日の丸が描かれていたが、初飛行後に塗装が施された。
  • 2号機(29-5102)
T-2後期型のプロトタイプ。J/AWG-11レーダーとM61機関砲を装備。火器管制システム、武器装備関係の試験に使用された。
  • 3号機(29-5103)
1号機同様に武装は無く、飛行特性などのテストに使用された。特にスピンテストに使用されるため、尾部にスピンシュートを装備、射出座席の改修が施された。T-2前期型のプロトタイプ。
  • 4号機(29-5104)
2号機同様にレーダーと機関砲を装備。火器管制システム、武装関係の試験に使用。機種レーダードームに静電気防止塗装、ネオプレン・コーティングが施された。T-2後期型のプロトタイプ。

XT-2による飛行試験は1974年(昭和49)3月まで続き、計612ソーティ、691時間に及んだ。 その結果、XT-2に施された大きな改良点は次のとおりである。

まず、着陸形態の低速時における縦安定性が弱いという問題があった。この問題は外部搭載物がある場合には著しく、安定性が負になってしまうものだった。これは、主翼前縁の張り出し部の縮小、境界層板の翼上面への追加、増槽タンクのフィンの形状変更(F-86Fのタンクのような逆T字型からX型へ)、パイロン後端の形状変更(外向きに曲がったような形に)で解決した。

また、加速時に縦の短周期運動が発生することで、過大なGが掛かる問題があった。この問題はボブウェイトの変更とQフィールピトーの位置変更(垂直尾翼右側から前縁部へ)で解決した。

1974年(昭和49)7月29日に防衛庁長官によって部隊使用の承認を受け、T-2として部隊配備が開始された。T-2配備の結果、従来より10ヶ月も教育期間が短縮されたという。1976年(昭和51)に松島基地にT-2教育訓練飛行隊である第21飛行隊が新設された。1988年(昭和63)3月7日に最終号機(#196)が納入され、全96機の生産が終了した。派生型F-1支援戦闘機77機と合わせ、量産効果は十分に達成できたと言える。

機体

ファイル:T-2 hikouki.jpg
T-2(26号機)全景

T-2は操縦訓練用の前期型と戦術訓練用の後期型の2種類に大別でき、前期型は機関砲やレーダー、火器管制装置を搭載せず、戦闘機操縦課程においての基礎の課程で使用されたのに対し、後期型は実践的な空中戦闘や射撃などの訓練に使用された。なお、一部の航空雑誌や、ファンが前期型を「T-2A」、後期型を「T-2B」とも記述、表現をしている事もあるが、このような区別・呼称は正式にはしていない。前期型と後期型の外見上の主な相違としては、後期型には機関砲が搭載されているため砲口が開口しているのに対し、前期型には砲口が無く、周囲は単なる膨らみとなっている。また、前期型は後期型と重量、重心を合わせるため、各種機器の代わりにダミーウェイト(重り)を搭載している。

主翼が非常に小さく、また、厚みも薄い超音速飛行に重点を置いた形状となった。水平尾翼は下方向に15度の角がついている全遊動式で、前縁はエンジン排気の耐熱のためチタニウム合金が用いられている。また、ロールアウトの時点では、胴体後部のベントラルフィンは付いていなかったが、最終設計の段階で低速高迎角時に方向安定が不足することがわかり、新たに装備された。車輪はコストダウンのため、F-104J/DJと同じものを使用している。

エンジンは英仏共同開発のロールス・ロイス/チュルボメカ「アドーア」(RT172 Mk102)を石川島播磨重工業ライセンス生産するものとしたが、そのためか、機体はエンジンを同じくする共同開発のジャギュアに非常に良く似たシルエットである。もちろん、直接の関係は無いが「猿真似」と呼ばれた(F-1・形状も参照)

機体の制約から小回りは利かないが、上昇力や加速力は高く、パイロットの評判は良かった。2代目の「ブルーインパルス」に採用され、加速や上昇力を生かしてダイナミックな演技を披露した反面、小回りが利かないので演技の間隔が長くなり、観客には間延びした印象を与えた。また、このため時間内にできる曲芸が限定され、物足りなさを感じさせたのも事実である。

機体配色は、後期型が基本的にグレー一色(水平尾翼、レドームおよびエンジン周辺の無塗装部等を除く)で塗装されていたのに対し、前期型はグレーを基本にして機首、垂直尾翼全面、主翼と水平尾翼の翼端が視認性向上を目的としてオレンジの蛍光色で塗装されていた。教導隊がアグレッサー(仮想敵機)として使用した機体は、同じ理由でオレンジの部分が機体別に黒・緑・黄・茶で塗装されており、また、機首下面に擬似コックピットが描かれている。ブルーインパルスの機体色は一般公募したもので、女子高校生のグループが提案したものをベースとして、青を基本に白と水色の帯が入る。

なお、平均価格は開発費を上乗せして、およそ19億円ほどと見込まれる。

運用史

ファイル:T-2 and F-1 Canopy.jpg
T-2(上)とF-1(下)のキャノピー対比

配備

1971年(昭和48)にXT-2が制式T-2となり、T-2整備要員の教育が開始された。1974年(昭和49)には第4航空団(松島基地)内にT-2企画室が設置され、7月29日に防衛庁長官の部隊使用承認を受ける。三菱(名古屋)ではT-2後期型に関する講習が行われる。また、T-2操縦要員の教育を開始、T-2岐阜基地に岐阜作業班が編成され、T-2整備要員の転換教育が開始された。

1975年(昭和50)3月24日まで松島基地でT-2運用試験第一期を実施、3月26日には量産1号機(#105)が防衛庁に引渡され、3月31日第4航空団臨時T-2訓練隊(T-2 2機)が発足、T-2による操縦講習が開始される。同年の松島基地航空祭でT-2がはじめて飛行展示された。なお、同年6月7日には岐阜基地内にT-2用サイレンサーが完成する。次いで松島基地にもT-2サイレンサーが完成、第4航空団は改編されてT-2DOCKが開設、年度内にT-2によって12名が育成された。

1976年(昭和51)3月25日、臨時T-2訓練隊は臨時第21飛行隊に改編され、T-2による学生教育が開始した。年内に第一期T-2転換課程が終了。25機体制で第4航空団第21飛行隊が正式に発足した。同年、第81航空隊松島飛行班の発足に伴い、昭和52年3月まで支援整備を第4航空団が実施、松島基地に第81航空隊松島飛行班が新設された。

1977年(昭和52)、CT課程4名が第21飛行隊に入校、年内に第一期生として訓練が完了した。しかし、21飛所属の#127号機の射出座席が地上で誤作動する事故が発生、パラシュートが開かずに教官1名が殉職した。

1978年(昭和53)4月5日より、第22飛行隊への配備が開始され、空幕による飛行安全特定監査を受けた。この年にはT-2初の1000飛行時間突破パイロットが誕生。また飛行教育集団司令官が第4航空団を初めて視察し、第4航空団は飛行安全褒章を受賞した。第35飛行隊が浜松基地に移動したことにより、第22飛行隊のベースオペレーションが移動した。

1979年(昭和54)から、第4航空団はT-2用フライトシミュレーターによる要員増強を行う。年内にT-2後期型のフライトシミュレーターが導入され、こちらも運用を開始した。また、無事故を続けていることから、この年も第4航空団が飛行安全褒章を受賞した。ところが、21飛所属の#147号機が訓練終了後の帰途、右脚が出なくなった。T-2/F-1は胴体着陸が禁止されているためパイロットは脱出、機体は放棄されて失われ、最初の消耗機となった。

1980年(昭和55)2月6日F-86Fブルーインパルスの最終展示飛行が入間基地にて実施され、T-2も6機による展示飛行を行った。また、松島基地にて模擬視界装置シミュレーターの運用を開始、矢本海浜緑地公園開園記念に5機による展示飛行を実施した。

アグレッサーとブルーインパルス

ファイル:T2blue176 iruma94.jpg
ブルーインパルスT-2

1981年(昭和56)、T-2によるブルーインパルスのデザイン最終審査が行われ、女子高生の案が採用された。同年には第4航空団20000時間飛行無事故達成により第3級賞状受賞。一方、22飛の#122号機が築城基地を離陸後に墜落、パイロット2名が殉職した。築城基地には12月17日航空総隊飛行教導隊が編成され、T-2が6機、T-33Aが2機配備され、アグレッサー(仮想敵機)として運用された。

1982年(昭和57)、松島基地の第21飛行隊内に戦技研究班を編成、T-2型機による2代目ブルーインパルスの運用が開始され、7月25日には松島基地航空祭にて初公開した。ブルーインパルスの機体配色は前記のように一般公募された女子高校生のグループの案をベースに手が加えられ、青地に白と水色のストライプが入るものとなった。「1982年戦技競技会」にT-2飛行教導隊がフェイカーとして初参加した。第4航空団が飛行安全褒章を受賞。しかし、11月14日浜松基地航空祭にて展示飛行中のブルーインパルス4番機(#174)が墜落炎上し、パイロット1名が殉職すると共に住民が負傷した。これによりT-2による飛行訓練が一時停止された。ブルーインパルスの展示飛行再開はさらに1年を要した。

1986年(昭和61)は松島基地の滑走路工事を行うため、第21飛行隊は築城基地、戦技研究班は新田原基地、第22飛行隊主力は小松基地、分遣隊は浜松基地に移動訓練実施した。年内に滑走路工事終了し、移動訓練は完結した。同年、飛行教導隊所属の#171号機が帰投中に墜落、パイロット1名殉職した。さらに、同じく飛行教導隊所属#167が訓練中に墜落、パイロット2名が殉職した。

1988年(昭和63)、最終号機(#196)を第22飛行隊が受領し、生産は終了した(全96機)1989年平成元)3月22日にも飛行教導隊所属の#135がT-2同士の空中格闘訓練中に接触、墜落して乗員2名が死亡。この事故を受けて教導隊は当初の予定よりも早い1990年(平成2)4月12日F-15DJに更新された。1991年(平成3)7月4日には訓練飛行中のブルーインパルス2機(#112・#172)が宮城県金華山沖で墜落してパイロット2名が殉職、同年の航空祭には不参加となった。1992年(平成4)に訓練を再開したが、6機での展示飛行の再開には3年を要した。なお、同年には量産初号機(#105)が退役し、三沢基地に恒久展示されることとなった。

退役へ

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最後まで残ったT-2 #107(特別仕様機)

ブルーインパルス1994年(平成6)に再復活するが、アクロバット飛行は規制され、直後の8月に来日したF-16A/Bサンダーバーズとの競演では、遠慮がちな展示しか行うことができなかった。1995年(平成7)12月10日那覇基地航空祭の展示飛行で有終の美を飾る予定であったが、地元との調整に難航し、12月3日の浜松基地祭が最後となった。12月8日にブルーインパルス最終訓練を松島基地にて実施、12月22日に戦技研究班は解散となった。同日、第11飛行隊(ブルーインパルス)が発足し、1996年(平成8)からT-4中等練習機に変更された。

上述の通り、本機の開発は超音速戦闘機のパイロットを育成するには超音速練習機が必須という認識によるものであった。実際には後年その認識は必ずしも正しくなく非効率であるとされており、そのため飛行教育体系が変更され、「高等練習機」の後継機は開発されなかった。高等訓練は実際の戦闘機の複座型(F-15DJ要撃戦闘機F-2B戦闘機)によって行われることとなった。

2000年(平成12)3月22日、1機のT-2が宮城県女川の山林に墜落、乗員1名が死亡した。女川原発の至近であったことから、日本共産党などが抗議する。また、この年は、C-1輸送機T-4練習機の墜落が相次ぎ、空自にとって災厄の年となった。

2001年(平成13)3月16日には第22飛行隊の飛行訓練が終了、飛行無事故60094時間を達成した。3月17日に式典を催し、3月27日に第22飛行隊は結成23年で解隊された。T-2初号機は2002年(平成14)10月18日にラストフライトを迎えた。2004年3月末で教育系統から外れ、松島基地でのT-2訓練も終了した。第21飛行隊はF-2Bが配備される為、2002年(平成14)4月1日に「臨時F-2教育飛行隊」が設置され、2003年(平成15)3月末でT-2は退役、更新された。

最後の機体は岐阜基地の飛行開発実験団に配備されていたT-2特別仕様機の#107で、2006年(平成18)3月2日に退役した。

発展

支援戦闘機

ファイル:F-1Support fighter01.jpg
F-1支援戦闘機(岩国基地)
ファイル:T-2 CCV.jpg
CCV研究機(2008年)

T-2は当初から支援戦闘機戦闘攻撃機)に改造できるように開発されたものであり、次期支援戦闘機はFS-T2改と呼ばれていた。1973年(昭和48)度に第四次防衛力整備計画で2機の試作が認められたため、生産ラインにあったT-2の6号機(59-5106)と7号機(5107)をFS-T2改のプロトタイプ(T-2特別仕様機)として開発することとなった。プロトタイプ#107は1975年(昭和50)6月3日に初飛行、#106は6月7日に飛行した。その後、2機は飛行実験団と防衛庁技術研究本部において7月から翌1976年(昭和51)3月まで研究がなされ、11月12日に部隊使用が認められて、F-1支援戦闘機の名が付けられた。

CCV研究機

防衛庁技術研究本部(技本)が将来の戦闘機開発に必要な要素の研究を実施する為に用いた機体。CCVは Control Configured Vehicle の略で、運動能力向上機と称する。コンピュータ制御により、機体が最適条件に保持される為、パイロットの負担が軽減され、操縦性が著しく向上する。

CCVの研究は三菱を主契約企業として1978年(昭和53)に始まった。T-2 #103号機の機体をベースにして、機首に垂直1枚・水平2枚のカナード翼を取り付けているほか、三菱デジタル・フライ・バイ・ワイヤ・システムを使用して、動作をコンピューターで補助する機構をもたせている。1983年(昭和58)8月9日に初飛行、10月14日小牧飛行場にて一般にも公開した。 しかしこの一般公開でCCVは離陸時に非常に不安定な動きをし、パイロットはMBU(Mecha­nical Back UP)システムに切り替え緊急事態を宣言し、緊急着­陸した。原因はフライ・バイ・ワイヤ・システムのフライトソースプログラムのトラブルでこの時期、フライ・バイ・ワイヤ・システムを搭載した最新鋭機で似たような事故が多発していた。最終的にこの問題はソフトを修正する事で解決した。 この模様は別件で取材に訪れていた報道各社のテレビカメラの撮影­するところとなり、全国放映される事となった。 1984年(昭和59)に技本が受領し、実験航空団による各種支援のもと、操縦性応答の最適化など基礎実験が2年にわたり延べ90時間行われた。機体は1987年(昭和62)に返還され、T-2CCVの部隊使用が認可された。

技術は将来の次期支援戦闘機FSX(F-2)に利用できると考えられていたが、FSXは米国との共同開発でF-16をベースにすることになったので、技術を生かしきることはなかった。しかし、当初輸入としていたフライト・コントロール・システムは、T-2CCVで確立した技術を採用している(米議会によるF-16のFBWソースコードの供与拒否でFSXが開発中止にならなかったのは、T-2CCVの成果が一応あったので、独自開発することができたためだとされている)。

派生型

XT-2
試作機。4機製作(#101・103:前期型、#102・#104:後期型)
T-2(前期型)
武装と火器管制レーダー装置を搭載しない、訓練課程前半に使用する機体。俗にT-2Aともいう(#105 - #124、#147 - #156)
T-2(後期型)
機関砲と火器管制レーダー装置を搭載した、後期訓練に使用する戦技訓練機。俗にT-2Bともいう(#125 - #146、#157 - #196)
T-2特別仕様
支援戦闘機のモデル機(#106、#107を改修)
FS-T2改
支援戦闘機計画の呼称
F-1
量産型支援戦闘機(77機)

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T-2CCV
運動能力向上研究機(試作機#103を改造)

スペック

  • 乗員 - 2名
  • 全長 - 17.85m
  • 全幅 - 7.88m
  • 全高 - 4.45m
  • 空虚重量 - 6,200kg
  • 最大離陸重量 - 11,500kg
  • エンジン - RR/石川島播磨重工業 TF40-IHI-801A ×2
  • 出力 - アフターバーナー使用時 3,310kgf ×2/非使用時 2,320kgf ×2
  • 最大速度 - M1.6
  • 固定武装 - JM61 20mm機関砲

登場作品

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参考文献

関連項目

外部リンク

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