Copland

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Copland Project(コープランド・プロジェクト)は、1994年アップルが発表したMacintosh用次世代Mac OSの開発コードネーム。System 8、またはMacOS 8(後に発売されたMacOS8とは別)として発売される予定であった。開発は難航し1996年に当時のCEOであるギル・アメリオと、彼がナショナル・セミコンダクターから引き抜いたCTOのエレン・ハンコックの調査・判断によりプロジェクトは中止された。

背景

1988年の3月にアップル社の技術マネージャー達が今後のMacOSの開発計画を策定した。カラー化の様な短期的に達成が可能なアイデアを青いインデックスカードに、マルチタスクといった中長期的な目標をピンクのインデックスカードに、そして実現が難しそうな物を赤色のインデックスカードにまとめた。これを元に、既存のOSを改修するBlueチームと、新OSを開発するPinkチームとの2つのプロジェクトに分かれてそれぞれ開発が行われた。当初は1990年から1991年にかけてBlueチームが既存のOSのアップデートをリリースし、93年頃にPinkチームが新OSをリリースする予定であった。

Blueチームは1991年の5月13日にSystem 7を発表したが、一方のPinkチームは仕様が巨大化してしまい収拾がつかなくなる、所謂セカンドシステムエフェクトによって遅々として開発が進まずにいた。同年10月2日にIBMとアップルの連携が発表され、その契約の1つとして合弁会社「Taligent」を設立し、Pinkを元にオブジェクト指向型の次世代OSの開発を行うこととなった。この連携はハードウェア的には成功し、RISC型CPUのPowerPCの開発が行われ新しいMacintoshに搭載された。しかし、ソフトウェア的には失敗し、OSの開発は停滞した。事実上IBMが主導して開発することとなり、アップルの手を離れたタリジェントOSはフレームワークCommonPointと姿を変えていった。1995年12月には提携の解消に至った。

その間にもSystem 7は既に基本設計が古く様々な部分で限界が見えていた(オリジナルのMacのOSのリリースは1984年)。問題点として指摘されていたのは、「メモリ保護の欠如」「プリエンプティブなマルチタスク機構の欠如」、「サードパーティの基幹部分への機能拡張によるシステムの不安定化」、などが挙げられていた。これらの理由からシステムは非常に不安定なものとなり、クラッシュが頻発することとなった。さらに、PowerPC搭載モデルのPower Macintosh登場以降もOSコアの部分に残る68000時代のコードによる制約があり、PowerPCのスペックを十分に生かし切れないどころか、それが原因となったクラッシュも多発した。

旧来のMacOSの技術が陳腐化し、さらに次世代OSの開発が停滞する間にも、アップルの創業者であるスティーブ・ジョブズ率いるNeXT社によって開発されたNeXTSTEPMicrosoft社のWindows NTSun Microsystems社のSolarisなど、メモリ保護機構やプリエンプティブマルチタスクを備えた堅牢な次世代OSが市場に出はじめてきた。

以上の背景から、次世代OSの開発の必要性に迫られ、1994年に正式にCopland計画がスタートした。

概要

発表された計画によれば、

など、様々な新要素が約束されていた。アピアランスマネージャを搭載し、テーマファイルを切り替えるだけで外観を大胆に変えることができる機能も発表されていた。この他にNewtonテクノロジーの融合やOpenDocによるドキュメント環境の改革などが挙げられていた。

なおCHRP(Common Hardware Reference Platform; AIX, Windows NT, Mac OSなどの複数OSを実行可能なPowerPCハードウェアの構想)は本来Coplandを意識して開発されたものである。

開発の迷走と中止

Pinkプロジェクトから遡れば1990年代の初頭からすでに開始されており、実に6年にも渡って開発が行われた。しかし、様々な要因から開発は迷走をつづけた。その原因には以下のような要素が挙げられる。

  • 度重なる最高経営責任者の解任などアップル経営上層部の混乱
  • 既存のToolbox APIが68kCPUに強く依存しており、上位互換を保つ事が技術的に非常に困難であった。
  • アップル内部で開発チームの連携がほとんど行われておらず、個々のチームがバラバラにそれぞれの要素を開発していた
  • 営業サイドからの過大な要求によって、計画が際限なく肥大化していった
  • 技術マネージャー側も計画を精査することなく、次々と新機能の開発にゴーサインをだしてしまい、リソースが発散してしまった
  • 既にメモリ保護やプリエンプティブを搭載したWindows NTがリリースされていた市場からの圧力
  • 限定的ながらも、メモリ保護とプリエンプティブを実現したWindows 95のリリースと大ヒット
  • Coplandとは別にTaligentプロジェクトという別OSの開発計画を併行させた

最初にアナウンスされたのは1995年の3月で、同年5月のWWDCでは1995年中には開発用のβ版の配布が始まり、1996年の初旬には正式版がリリースされると発表された。さらにその翌年の1997年には時期大型メジャーアップデートGershwinが登場すると発表されている。しかし年内にβ版の配布は行われることはなかった。

1996年2月に新CEOにギル・アメリオが就任した。彼は当時アップルにあった300の開発案件を整理統合して50にまとめるなど、当時殆マネジメントがされていなかったAppleの開発現場を立て直した。ナショナル・セミコンダクターから引き抜いたエレン・ハンコックにCTOの権限を与え、炎上したCoplandプロジェクトの収拾に当たらせた。結果、1996年にアップルがJDCで配布した資料によればCoplandのマルチタスク環境は暫定的なものとなり、プリエンプティブに動作するのは、バックグラウンドタスクのみとのことだった。また、メモリ管理機構もMac OS 7の改良版に留まりモダンOSと呼ぶには程遠いものとなった。アップルの発表によれば、約束された完全に刷新されたMac用モダンOSの機能は次期プロジェクトのGershwinに搭載される事となった。

しかし、それでも尚開発は混迷を極め、数ヶ月の後にハンコックはプロジェクトの中止を提案し、1996年8月に正式に中止が決定された。 1996年の8月に極少数のパートナーに開発版の "Developer Release 0"が配布されたが、まったく何もしないでもクラッシュするような代物で、実用どころか開発にすら耐えうるものでなかった。 プロジェクト打ち切り時、Coplandの構成技術は各プロジェクトチームで個々別々に開発されている状態だったと言われる。

またアップルは開発リソースのほとんどをCoplandに注ぎ込んでいた結果、従来のMac OSへのアップデートは場当たり的な物しか行われなくなり、結果としてMacintoshの陳腐化がますます進んでしまった。

技術的困難

Coplandの開発にあたっては様々な技術的な困難が発生した。いくつもの要因が指摘されているが、中でも完全なシングルタスクを前提としたToolbox APIは、リエントラントにすることが難しかったためだと推測される。結果としてマルチタスク環境との両立が極めて困難なものとなった(この反省は後のCarbonに生かされた)。

その後のCopland

計画中止後、アップルはNeXTを買収し次世代OS計画を"Rhapsody"へと移行させる。後に"Rhapsody"計画は変更され、代わりにMac OS Xの計画が発表される。"Rhapsody"自身は暫定的にMac OS X Serverとしてリリースされた。その間Copland技術のうち転用が可能な部分は順次Mac OS 8、9などに応用された。ファイルシステムHFS+や、アピアランス・マネージャ(ただしプラチナ以外のアピアランスは搭載されず、アピアランスの切り替え機能はあえて使えなくされていた)、キーチェーンなどがこれにあたる。そのうちいくつかの機能は現在のMac OS Xにも引き継がれた。しかしこれらの機能は、本来Copland用の新しい概念のために設計された技術であり、Mac OS 8 / 9では完全に性能を生かしているとはいいがたかった。

なお、開発中止当時はMacintosh互換機が市場に登場した時期であった。市場では徐々に互換機が売り上げを伸ばし始めた時期であったが、Apple社は再び方針を転換し互換機排除を決定した。この時、アップルと互換機メーカーのライセンス契約がSystem 7 (Mac OS 7) シリーズに限定されていた事を利用し、System 7.7として開発されていた従来型Mac OS(コードネーム:Tempo)にMac OS 8の名を割り当て、ライセンス契約を強行的に打ち切った。

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