1968年アメリカ合衆国大統領選挙

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テンプレート:Infobox Election 1968年アメリカ合衆国大統領選挙は、1968年11月5日に行われたアメリカ合衆国大統領選挙

候補者指名争い

共和党

候補者

党の有力者の多くは様々な問題を抱えていた。リチャード・ニクソン元副大統領は共和党員の間での待望論が強かったが、一般に1962年のカリフォルニア州知事選挙での敗北で政治生命を絶たれたと考えられていた。ネルソン・ロックフェラーニューヨーク州知事は、自らの離婚で人気を失っていた。また前回の候補者、バリー・ゴールドウォーター上院議員は前回選挙での惨敗により、再び候補者として名を挙げられることはなかった。こうした中で、ジョージ・ロムニーミシガン州知事が、ビジネス界での成功と知事としての高い評価を背景に最有力候補者となった。しかし、ベトナム戦争を巡る彼の発言が適切さを欠いたことから支持を失い、撤退を余儀なくされた。イリノイ州選出のチャールズ・パーシー上院議員、ジョン・リンゼイニューヨーク市長らの名も挙げられたが、立候補を表明しなかった。ロムニー撤退後、立候補表明をしていたニクソン、レーガン両候補と急遽立候補を表明したロックフェラーの三人の有力候補が争ったが、終始ニクソンがリードした。8月5日から8日にかけてフロリダ州マイアミビーチで開かれた党大会において、ニクソンは1回の投票で候補者に指名され復活を遂げた。

副大統領候補としては、ロムニーや指名を争ったロックフェラー、レーガンが取り沙汰されたほか、ジェラルド・フォード下院院内総務はリンゼーを公式に推薦した。しかし、ニクソンはこれら大物候補ではなく、全国的に無名のスピロ・アグニューメリーランド州知事を副大統領候補に選んだ。

民主党

候補者

  • トマス・リンチ - カリフォルニア州司法長官
  • ロジャー・ブレニガン - インディアナ州知事

当初、現職のリンドン・ジョンソン大統領が容易に党の候補者指名を獲得するものと思われていた。一方でユージーン・マッカーシー上院議員がベトナムからの即時撤退を訴える反戦綱領を掲げて立候補したが、泡沫候補と見られていた。しかし、ベトナム戦争に反対する世論が高まり、反戦運動が高揚する中、マッカーシーは草の根レベルで運動を行い、広範な支持を得た。ニューハンプシャー州予備選でまったく予想外の高い得票率で2位につけ、ジョンソンを追い詰めたことでマッカーシーは事実上の勝利者としてメディアに扱われ、「マッカーシー旋風」を起こした。その後、ジョンソンは党の指名を求めないと声明した。「マッカーシー旋風」に触発され、ロバート・ケネディ上院議員が立候補を決断した。ケネディはマッカーシー同様にベトナムからの即時撤退を盛り込んだ反戦綱領を掲げ、マッカーシーを支持した層に食い込むと共に、自らの知名度と若年層の間での人気をいかした運動をし、マッカーシーと並び最有力候補に躍り出た。だが、カリフォルニア州予備選で勝利を収め、指名獲得を確実にしたと思われた矢先、カリフォルニア州予備選の勝利演説の場でケネディは暗殺された。ケネディ暗殺後、党内の有力者を中心にヒューバート・ハンフリー副大統領が有力視されるようになったが、副大統領としてジョンソン政権の一員であったハンフリーは、次第に党の多数を占めるようになっていった反戦派にとっては不満の残る選択となる。8月26日から29日にかけてイリノイ州シカゴで開かれた党大会には、反戦運動家が多数集結し会場を取り囲んだ。やがて彼らは暴徒化し、リチャード・デイリーシカゴ市長の派遣した警官隊と衝突、流血の惨事となった。こうして最悪の事態となった党大会で、ハンフリーは予備選挙での運動を行わなかったにもかかわらず、マッカーシーやケネディのあとを継いだジョージ・マクガヴァン上院議員を破り、党の候補者に指名された。

選挙戦

ファイル:George C Wallace (Alabama Governor).png
ジョージ・ウォレス(アメリカ独立党)
他に第三党の候補者として、民主党の前アラバマ州知事で、人種隔離政策を支持する綱領を掲げるジョージ・ウォレスがアメリカ独立党から立候補した。ウォレスは、第二次世界大戦で日本に対する無差別爆撃を指揮し、またベトナムでの無差別爆撃の継続を訴えるカーチス・ルメイ空軍大将を副大統領候補に据え、ベトナムでの強硬な政策を主張した。

選挙戦は当初、ニクソンの圧倒的リードでスタートした。ニクソンは公民権運動や反戦運動が暴徒化、過激化し違法性を強めることに対して、「法と秩序の回復」を訴えた。さらにベトナムからの「名誉ある撤退」を主張し、これを実現する秘密の方策があると語った。またジョンソン政権の国内政策、「偉大な社会」計画を批判した。彼はこれまで民主党を支持してきたが、保守的な南部の有権者をターゲットにし、「南部戦略」を推進した。対するハンフリーは、「偉大な社会」計画の継承を訴え、貧困の撲滅などの実現を主張したが、一方で外交政策、ベトナム政策に関して政権から次第に距離を置き始め、批判的な姿勢に転じた。ハンフリーは選挙戦が進むにつれニクソンに肉薄し、一時は支持率で逆転した。こうして選挙戦は一転して接戦となった。

結果は一般投票でのニクソン、ハンフリー両候補者の得票率の差が1.2%と、まれに見る接戦となった。ウォレスはジョージア州、アラバマ州などのディープサウスで勝利を収めたが、ニクソンは南部諸州に進出し、「南部戦略」は一定の成果を得た。

結果

大統領候補 副大統領候補 政党 選挙人投票 (EV) 一般投票 (PV)
リチャード・ミルハウス・ニクソンニューヨーク州 (当選) スピロ・セオドア・アグニューメリーランド州 共和党 301 31,710,470 43.2%
ヒューバート・ホレイショ・ハンフリーミネソタ州 エドマンド・シクストゥス・マスキーメイン州 民主党 191 30,898,055 42.0%
ジョージ・コーレイ・ウォレスアラバマ州 カーチス・エマーソン・ルメイオハイオ州 アメリカ独立党 46 9,906,473 13.5%
その他     0 253,559 0.3%
合計     538 73,487,137 100.00

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