黒沢年雄

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黒沢 年雄(くろさわ としお、1944年2月4日 - )は、日本俳優歌手。本名・旧芸名(2000年に改名)、黒沢 年男(読み同じ)。神奈川県横浜市西区出身。株式会社プロダクション・クロ代表取締役。弟は歌手のくろさわ博(元ヒロシ&キーボー)、妻はモデルの街田リーヌ(本名・街子、旧姓・宮崎)、娘は女優・タレントの黒沢レイラ(旧芸名・三井万裕美、本名・裕美)。日本大学高等学校中退。

来歴・人物

1964年、第4期東宝ニューフェイスとして東宝に入社。俳優を志した理由は有名になって金持ちになりたかったからとしている[1]

岡本喜八福田純西村潔松林宗恵などの監督作品に数多く出演して人気俳優となる。

独特の低い声が特徴で、その声で歌った『やすらぎ』(1975年)と『時には娼婦のように』(1978年)は大ヒットとなった。

1992年大腸癌が発覚した際、それまでアイパーをかけていた頭髪を短く刈り込んだ(現在はそれに加えて白く染めている)。その後は無精(長さは2mmに揃えているらしい)を生やすとともに、今やトレードマークとなっているニット帽(初めはファッションモデルの夫人が持っていたピエール・カルダンのニット帽)を被るようになった。

近年はオウミ住宅のCMでのはじけっぷりで話題を集めたほか、トーク番組で天然ボケというキャラを確立し、中尾彬などと並んでバラエティ番組への出演が多い。『踊る!さんま御殿!!』では一時期「八方一郎」(やかた いちろう)という名前で呼ばれていた。

2010年、著書「二流芸能人が、何度がんになっても笑って生きている理由」(講談社刊)を上梓、2008年膀胱癌の内視鏡手術を行っていたことを告白した。

エピソード

  • 東宝で面接を受ける日、わざと遅刻して面接会場に現れ、「自分を合格させないと映画界の損失になる」と言い放ったそうである。その時面接を受けた男性希望者で合格したのは黒沢ただ一人だったという。
  • トレードマークとなったニット帽は先述の通り妻が持っていたものである。黒沢は、ある日「このままでは自分の存在が薄くなって忘れ去られてしまうのではないか」と思い立ち、今までの自分を捨てて新しくイメージを構築することにしたそうである。そこでまず頭を丸めたが、まだ何か足りないと思っている時、妻が自分の古い写真を見つけ、さらにその中で被っていたニット帽が箪笥の中から出てきたので被ってみると、思ったより似合っていたため、この格好に決めたという(さらに髭を伸ばして見たとき、自ら「ショーン・コネリーに似ている」と思ったそうである)。
  • 当初『ウルトラマン』のウルトラマン/ハヤタ役の候補に挙がっていた[2][1]。黒沢本人は、当時所属していた東宝プロデューサーの藤本真澄が黒沢に映画の仕事を優先させるために断ったのではないかと推測している[1]
  • いつみても波瀾万丈』出演時によると、デビュー前後に関わらず、ケンカに明け暮れていた。その腕っ節は強く、警察に職務質問を受けても捕まらなかった。
  • 映画スターとなってかなりの収入があったが、森繁久彌が「貯金を残すな」と言ったため、そのとおりに遊興していたために、東宝との契約解除やザ・ハングマンの主役交代など幾度か収入がピンチになってしまったことがあった。「森繁さんの言うことさえ聞いてなければ、今頃は…」と愚痴ることも今でもあるという。

出演作品

映画

テレビドラマ

ゲーム

吹き替え

バラエティ

テレビ番組

CM

ディスコグラフィ

脚注

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外部リンク

  • 1.0 1.1 1.2 テンプレート:Cite book
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