黒木知宏

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テンプレート:Infobox baseball player 黒木 知宏(くろき ともひろ、1973年12月13日 - )は、宮崎県日向市出身の元プロ野球選手投手)、プロ野球コーチ

闘志を前面に押し出したプレースタイルで、千葉ロッテマリーンズの「魂のエース」と称された。ニックネームは「ジョニー」で、「ジョニー黒木」名義でも活動する。テンプレート:Byからは北海道日本ハムファイターズの一軍投手コーチを務める。

来歴・人物

プロ入り前

幼稚園のころ三角ベースで野球を始め、小学校に上がると地元の少年ソフトボールチームに入った。延岡学園高等学校では3年の夏に甲子園に出場するも、初戦の第二試合で四日市工三重県代表)に4-8で敗れた。延岡学園高時代の後輩に黒木純司がおり、投手・黒木知と捕手・黒木純としてバッテリーを組んでいたこともある。黒木純は2002年にロッテに移籍したため、再びチームメイトとなった。

高校卒業後、社会人野球新王子製紙春日井に入社、テンプレート:By都市対抗野球では本田技研鈴鹿の補強選手として森昌彦(NTT東海から補強)と共に優勝に貢献した。

プロ入り後

1994年のドラフト2位で千葉ロッテマリーンズに入団。先発、リリーフとフル回転し、6月30日の対日本ハムファイターズ戦で毎回奪三振をして初勝利を完封勝利で挙げる。テンプレート:Byには先発ローテーション入りし、初めて規定投球回数に到達すると、テンプレート:Byには初の防御率2点台を記録。240イニング以上投げ、13完投とともにリーグ最多となるなど、小宮山悟と共に「チームのダブルエース」となる。

テンプレート:By7月7日、ロッテは16連敗中であり、この日の対オリックス・ブルーウェーブ戦に連敗脱出を懸けて先発登板。福澤洋一捕手とバッテリーを組み、2点リードで9回2死2ストライクまで打ち取るも、ハービー・プリアムに同点2ラン本塁打を浴びる。連敗脱出目前でよもやの同点本塁打を許した黒木はマウンド上に座り込み、悔し涙を流す(その後、延長にて近藤芳久広永益隆から満塁本塁打を打たれサヨナラゲームとなり、チームは日本プロ野球ワースト記録の17連敗となった)。この敗戦は「七夕の悲劇」と呼ばれている。しかし、そこから立ち直って同年のオールスターゲームに初出場しており、最多勝最高勝率のタイトルを獲得。なお、防御率金村曉に次ぐ2位であったが、金村が規定投球回ぎりぎりの135イニングでのタイトル獲得であったため、黒木には三冠王の可能性も十分にあった。連敗脱出後、小宮山悟から「なぜあそこで降りた?試合は終わってなかったぞ。最後まで諦めずに務めなくちゃ」と諭されたという[1]

テンプレート:Byオールスターゲームに選出されるなど、長らくロッテのダブルエースとして小宮山悟と共に低迷時代を支え、テンプレート:Byには小宮山がチームを去った後の正真正銘のエースとして期待されるが、キャンプにて右足に怪我を負う。無理を押して開幕に備えるも、開幕戦(対福岡ダイエーホークス戦)で秋山幸二に史上最年長記録となる初回先頭打者本塁打を打ち込まれると、そのまま引きずってしまい、前半戦の防御率は10点台と絶不調に陥る。その後、前年から決まっていたシドニーオリンピック野球日本代表に向けて二軍で調整し、五輪でも活躍。後半戦はエースとして活躍するも、実は右肩の違和感を持ったままの投球が続いていた。9月13日には1000投球回数を記録した。

テンプレート:By3月24日西武ドーム開幕投手として松坂大輔に投げ勝ち21世紀初の日本プロ野球公式戦勝利投手となり、以降も絶好調が続くが、前年の肩の違和感を引きずったままであり、ファン投票で選出されたオールスターゲーム、27日のオリックス戦に強行出場した後、後半戦からは姿を消す。この闘病のため「弁当の呪い」を受けた選手の一人とされている。右肩の違和感に関して、当初は棘上筋炎症という比較的軽い怪我だという診断をされるも肩腱板の内側靭帯を数本完全損傷する重傷だったことが後に判明したが、手術を選択せず自然治癒を選択。単調なウェートトレーニングやランニングを繰り返す日々が続き、また投球フォームを肩に負担のかからないサイドスローに近いフォームに改造するなど、テンプレート:Byに一軍へ昇格するまで3年という長い月日がかかっている。6月に3年ぶりに勝利を飾る。オフの契約更改では自ら申し出て球団提示額より1000万円減で契約を更改した。

テンプレート:Byは右ひじを痛めて大幅に出遅れる。しかし8月28日、千葉マリンスタジアムでの対オリックス・バファローズ戦で先発。3万人のマリーンズファンに支えられ自身1年2か月ぶり、本拠地では実に1545日ぶりに勝利を挙げる。この勝利はロッテのパ・リーグプレーオフ進出と、10年ぶりのAクラスを確定するものだった。同年の日本シリーズは登板機会なし。しかしアジアシリーズでは第3戦に先発し3回を自責点0で初代アジアチャンピオンに貢献した。

テンプレート:By7月28日、降格から1か月半ぶりに一軍出場選手登録され、その日のスカイマークスタジアムでの対オリックス戦でプロ12年目で初セーブを記録している。全盛期には1億8000万円だった年俸が、テンプレート:Byには10分の1以下にまで下がったものの、マリーンズファンから絶大な支持があり、登板時には誰よりも大きな声援を送られた。当時、「復活のマウンドで勝利投手となりお立ち台に立つのが今の目標」とコメントしている。

2007年は2001年以来の開幕一軍を得た。4月27日の対西武ライオンズ戦の7回裏2アウト一塁で登板し、G.G.佐藤を三振に仕留めた。8回も2アウト三塁のピンチを招くが片岡易之をサードゴロで抑えた。この年はこの1試合のみの登板となり、4月30日に登録抹消されてからは一軍登録されなかった。

引退

2007年10月2日に戦力外通告を受けたが、その時点では現役続行を宣言していた。しかし他球団からのオファーが掛からず、11月30日にロッテの保留選手名簿から外れて自由契約公示された。12月12日、現役続行を諦め、引退記者会見を行った。記者会見で黒木は「1998年の七夕の日にグリーンスタジアム神戸(対オリックス戦)で9回裏同点本塁打を打たれた試合と、チームの18連敗が忘れられない想い出。こうした経験を基に、野球の素晴らしさ、怖さを伝えて行けたらと思っています」と語った。

テンプレート:By3月15日、千葉マリンスタジアムの対東北楽天ゴールデンイーグルスオープン戦の試合後に引退セレモニーが行われた。オープン戦としては異例の前売り券25000枚が完売、当日券も発売10分で売り切れるなど、28926人の満員の観客を集めて行われ、同期入団のサブロー、同級生の楽天の礒部公一、最後は福浦和也と対戦し、サブローを三振、礒部を三塁ゴロ、福浦も三振に打ち取った。挨拶の後、ライトスタンド前で胴上げが行われた[2]

2008年3月15日、ニッポン放送の『師岡正雄ショウアップナイター編集部!』に出演し、ニッポン放送野球解説者として活動していくことが発表された。他にワールド・ハイビジョン・チャンネルTBSテレビと本数契約で出演。テンプレート:By11月23日に北海道日本ハムファイターズ一軍投手コーチへの就任が発表された[3]

エピソード

テンプレート:雑多な内容の箇条書き

  • 現役時代の登場テーマ曲はあしたのジョーの「美しき狼たち」だった。
  • 愛称の「ジョニー」について、2008年4月13日のニッポン放送『春のショウアップナイター検定』にゲスト出演した際に本人の口から理由が述べられた。ミーティング[4]の際に居眠りをしてしまい、その罰として「丸刈りにするように」と言われ、丸刈りではなく角刈りにしたところ後輩に「山本譲二に似ている」として「ジョージ」というあだ名が付けられた。この「ジョージ」がいつの間にか「ジョニー」となり、ピッチャーグラブに刺繍を施したり、周囲に「ジョニーと呼んでほしい」と言うようになったとのこと[5]
  • 上述のように1998年7月7日、黒木はカウント2-1からプリアムに、内角にストレートを投げ同点2ランホームランを浴びる。このカウントではフォークボールまたはホームランを打たれにくい外角を投げるのが一般的には有効であるが、18連敗が始まる前の同年6月12日に黒木は対オリックス戦で1失点完投勝利を収めたが、この唯一の失点はプリアムに投げたフォークボールをホームランにされたものであった。これを踏まえて、バッテリーはフォークではなく、ストレートを選択し、さらにこの打席で全て外角にボールを投げていたことから、意表をついて内角に投げたと言われている。
  • イチローがその実力を認めた選手の一人。決して球が速いわけでも、ズバ抜けた変化球があるわけではないが、エースと呼ばれる前から「球に気持ちが入っている」「一番タフな対戦相手」と高く評価していた[6]
  • ケガをして以来、黒木は走り込みを欠かさず行ってきた。ロッテ浦和球場には黒木が同じところを繰り返し走った結果、そこだけ踏み固められて草(芝)がなくなり道のようになった場所があった。いつしかファンや球団関係者はその場所を黒木ロードと呼ぶようになった(同様のエピソードが桑田真澄にもある。恵まれない体格で試行錯誤し、過酷なトレーニングで球速を上げた結果、肘を痛めるなど両者は共通したエピソードが多い)。
  • 新王子製紙春日井(現王子製紙)在籍時、第63回都市対抗野球で補強選手としてチームに合流した西濃運輸のエース吉井憲治(現日本文理大学投手コーチ)から「球はハートで投げろ!」と気合を注入された。これが黒木の投球術の原点となっており、黒木は今でも吉井を師と仰いでいるという。
  • 黒木のもう一つの代名詞であった背番号54は前任の石田雅彦(1985年度のロッテドラフト1位入団で現在はロッテ球団打撃投手)より譲られたものであった。本人は、ドラフト上位で入団したにもかかわらず、重い番号であることに最初は納得がいっていなかったと言うが、石田に「お前のためにこの番号を温めておいたよ」と言われたことに感激し、恩義を感じていた。そのため、現役選手の間は背番号は替えることはなかった。
  • 2004年から監督に復帰したボビー・バレンタインは「自分がいたらこんな無用な怪我はさせていない」と語っている。これはバレンタイン解任後の1997年に、黒木が敗戦試合にも意味なく長いイニングを投げたことを意味すると思われる。この年、過度に肩を酷使して肩を消耗させたことが、黒木の投手生命を縮めたと言われている。
  • 約3年ぶりの一軍での登板となった2004年4月17日の東京ドームでの対北海道日本ハムファイターズ戦では、ファイターズファンからもマウンドに登る際、大きな拍手を送られた。また、普段はファイターズのホームゲームにおいてビジターチームの投手がノックアウトで降板するときに「Na Na Hey Hey Kiss Him Goodbye」が球場内に流されるが、黒木が7回に降板する際は東京ドーム側の配慮なのか流されず、ただスタンディングオベーションが続いた。
  • 在京期間が長いものの、会話にところどころ自身の出身である宮崎訛りが出る。
  • 趣味は釣りパチンコ。TV番組で「野球と釣り、どちらか選べと言われたら?」の問いに「釣り」と答えたこともあるほどで、シーズンオフは野球を離れ、ひたすら磯釣りに没頭している。チームメイトの堀幸一と共にテレビ東京の『釣りロマンを求めて』に出演したこともある。
  • 2007年レギュラーシーズン最終戦、試合終了後のスタンドにてグラウンドには黒木がいないにもかかわらず「ジョニー」コールが起こった。
  • 黒木が使用していたSSK製のグラブは内野手用をベースに作られているので、一般的には大きめのグラブを使うことが多い投手の中では珍しく小ぶりなグラブを使っていた。
  • 2010年4月7日に同郷の先輩である木村拓也が急逝した際には、自らのブログにて故人への思いを語った。

詳細情報

年度別投手成績

テンプレート:By2 ロッテ 20 10 1 1 0 5 7 0 -- .417 331 80.0 72 7 26 2 2 58 3 1 35 33 3.71 1.23
テンプレート:By2 28 19 0 0 0 8 7 0 -- .533 576 135.2 119 11 57 3 4 90 4 0 58 54 3.58 1.30
テンプレート:By2 32 31 13 1 3 12 15 0 -- .444 995 240.2 206 24 86 5 2 179 13 1 98 80 2.99 1.21
テンプレート:By2 31 28 8 2 3 13 9 0 -- .591 831 197.0 185 14 89 2 1 124 12 0 78 72 3.29 1.39
テンプレート:By2 29 29 7 0 1 14 10 0 -- .583 850 212.2 164 14 68 3 1 171 8 0 67 59 2.50 1.09
テンプレート:By2 26 24 5 1 0 10 12 0 -- .455 698 160.0 181 21 48 1 1 134 2 0 103 92 5.18 1.43
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テンプレート:By2 5 0 0 0 0 0 0 1 0 ---- 20 4.0 5 1 4 0 0 3 0 0 3 3 6.75 2.25
テンプレート:By2 1 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 5 1.1 0 0 1 0 0 2 0 0 0 0 0.00 0.75
通算:11年 199 168 38 6 8 76 68 1 0 .528 5040 1208.2 1090 116 433 16 14 879 49 2 516 461 3.43 1.26
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

  • 月間MVP:2回 (2000年9月、2001年5月)
  • 日向市民栄誉賞第1号(2008年) ※青木宣親と同時受賞

記録

背番号

  • 54 (1995年 - 2007年)
  • 87 (2013年 - )

関連情報

書籍

出演

土曜日に赤星憲広と隔週交代で出演。2012年3月24日の放送では、声帯ポリープの手術を受けた上田晋也くりぃむしちゅー)の代理で、初めてMCを兼務した。

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:北海道日本ハムファイターズ テンプレート:Navboxes テンプレート:シドニーオリンピック野球日本代表

テンプレート:千葉ロッテマリーンズ1994年ドラフト指名選手
  1. あと1球が悲劇に…ジョニーが泣き崩れた日本新記録スポーツニッポン
  2. 魂の17球でジョニーの勇姿焼き付けたスポーツニッポン2008年3月16日
  3. 2013年1軍コーチングスタッフについて北海道日本ハムファイターズ(2012年11月23日)
  4. 放送ではアマ時代かプロ時代かの言及はなかったが、以前は「社会人時代」と発言していた。
  5. なお従前の説としては、入団時に黒木自身が「ジョニーと呼んでくれ」と言ったのがそのまま定着したという説・ウイスキーの「ジョニ黒」(=ジョニー・ウォーカー黒ラベル)から来ているという説・あるいは社会人時代に山本譲二に似ていたことから「ジョージ」と呼ばれていたが、あまり気に入っていなかったために新しい愛称を公表したという説・さらに同じ年にドラフト1位で入団した大村三郎が登録名を「サブロー」としたことで、サブローへの対抗意識から前述のようなアピールにつながったとする説などがあった。
  6. ちなみに、1998年7月7日の「運命の9回裏」の先頭打者はイチローである(三振。その後、ニールの安打→谷佳知のファウルフライと続いてプリアムの打席に続く)。