鮎川誠

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鮎川 誠(あゆかわ まこと、1948年5月2日 - )は、日本ギタリスト作曲家俳優ロックバンドシーナ&ザ・ロケッツ」のリーダー。1970年代福岡市を中心に勃興した、いわゆるめんたいロックの草分けの一人である。福岡県久留米市出身。血液型はA型。身長180cm。

トレードマークの黒縁眼鏡は、ピーター&ゴードンピーター・アッシャーの影響による。

経歴

1948年福岡県久留米市に生まれる。父親がアメリカ人で母親が日本人のハーフ。アメリカ軍軍人だが、会ったことはない[1]。父が転任するとき母は誠と共に日本に残ることを選んだため双方は離れ離れになったが、誠は懸命にローマ字を覚えて父に手紙を書き送り、父からローマ字でしたためた日本語の返事を受け取るなど連絡は相互に続いていた[1]。しかし誠が中学生の時、父の訃報を伝えられた[1]。父が家に残したフランク・シナトラビング・クロスビーレコードが誠のアメリカとの最初の出会いだったことから、彼は後年「僕らのロックへの思いって、個人的なイマジネーションの問題なんですよ」と語っている[1]

小学校5年生の時、誕生日のプレゼントとして母からガットギターを贈られ、「シューベルトの子守唄」や「トム・ドゥーリー」を練習。小学校高学年の頃、久留米の「小川レコード店」の試聴コーナーに入りびたり、レイ・チャールズの「ホワッド・アイ・セイ (なんと言ったら)」を、続けて「ベスト・オブ・レイ・チャールズ」を買う。さらにエルヴィス・プレスリーの「監獄ロック」「ハウンド・ドッグ」「冷たくしないで」などシングル盤を買う。

中学時代はロックの他、野球バイクプラモデル、山歩き、魚釣りなどに熱中。中学2年生の時、リトル・リチャードに夢中になる。1964年1月頃、中学3年の時、隣席の生徒が弁当を包んできた新聞を見てビートルズの名前を知る。高校受験勉強中のFENでビートルズの音楽に接し、1964年、久留米の名門福岡県立明善高等学校に入学。同年、ローリング・ストーンズを知る。高校在学中に友人からマディ・ウォーターズなどブルースレコードを借りて聴いた事や、KBCラジオの当時の人気番組「ヤング・ポップス」の影響で洋楽に興味を持つ。高校時代は、部室にレコードプレイヤーがあるというだけの理由で新聞部に在籍。部室に友人のギターアンプを持ち込んで「ジェニ・ジェニ」「ルシール」「カンサス・シティ」などを練習していた。1965年冬、修学旅行に行く代わりに、その費用を払い戻させて、友人からエレクトリックギター(テスコのセミアコ)を4500円で購入。

1966年、ビートルズ武道館公演に刺激されてアマチュアバンド「ザ・スランパーズ」で活動を始め、ローリング・ストーンズやビートルズ、ヤードバーズをコピー、久留米で一度だけライブを開く。親の反対にあったが、九州大学への進学を条件に許され、現役で九州大学経済学部を受験するもロックに熱中しすぎたために失敗。大学入学後のバンド活動を目的に福岡市水城学園予備校で1年間必死に勉強し、1968年九州大学農学部に入学。同時期、浪人時代に知遇を得たバンド「ジ・アタック」に加入。家庭が貧しかったため、奨学金を貰って大学に通いつつ、福岡市内のダンスホールでハコバン(専属バンド)生活を送る。この当時は、主にフォー・トップステンプテーションズなどのモータウンナンバーや、ウィルソン・ピケットソロモン・バークオーティス・レディングジェームス・ブラウンブッカー・T&ザ・MG'sなどのスタックスナンバーを演奏していた。音楽活動の傍ら、生活のためモデルの仕事をしていた時期もある。1970年、ジ・アタックのギタリストだった篠山哲雄や、バンド活動を通して知り合った柴山俊之らとサンハウスを結成。1974年、九州大学農学部農政経済学科を卒業。同年、郡山ワンステップ・フェスティバルにてジョン・レノンプラスティック・オノ・バンドと共演。 1975年にメジャーデビューを果たし、リードギタリスト兼作曲家として、ボーカル兼ソングライターの「菊」こと柴山とともにバンドの顔となった。

1978年の解散後、妻シーナの父に励まされて夫婦で上京し、シーナ&ザ・ロケッツ結成。1978年エルヴィス・コステロの来日公演のオープニング・アクト(名目上・看板では対バンと明記)を福岡・大阪・東京で務めたとき、東京初日のステージで高橋幸宏から注目され、YMOのライブ・セッション(2度目の六本木ピットインでのライブ)に参加。その後、YMO1980年のツアーに参加。ゲストでギターとして、神戸、福岡と武道館のステージを務める。

数々の大手CM、映画、テレビドラマにも出演。渋谷エフエムにてBLUESVILL SHIBUYAのラジオ・パーソナリティをシーナ2001年から2013年まで12年間以上務めた他、「MONO」「ローリング・ストーンズが大好きな僕たち」「DOS/Vブルース」「200CDロックンロール」「’60s自伝」等、執筆した著作も数多い。

2013年シーナ&ザ・ロケッツ結成35周年を迎えるも、1978年結成当初よりバンド活動には一切のブランクがなく、日々積極的に全国各地でライブ・ツアーを行っている。日本国内では、トップクラスのロック・バンドとして今日に至っている。

人物など

長身と黒いサングラス・黒縁眼鏡、コテコテの九州弁筑後弁)、そして30年以上もメインで使用しているギブソン・レスポール・カスタム(通常は「ロック」との語呂合わせで、1969年製を自称しているが、1970年に入手)がトレードマーク。

1978年以来、東京都世田谷区在住。長女はモデル鮎川陽子。次女鮎川純子(陽子とは双子)と三女鮎川知慧子はロックバンドのDARKSIDE MIRRORSで活動中。

著書に、パソコンとの出会いを熱く語った『DOS/V BLUES』、小説家山川健一との対談『ローリングストーンズが大好きな僕たち』がある。またソフトバンクの孫正義とアマチュア時代に交流があったことを、前出の『DOS/V BLUES』で記しており、孫正義の事を孫君と呼ぶ数少ないロックミュージシャンでもある。

俳優として、テレビドラマ映画にも出演している。主な出演テレビドラマには、『ちゅらさん』(2001年-2004年、NHK)、『いつも心に太陽を』(1994年、TBS)、『愛情物語』(1993年、フジテレビ)などがある。近作は映画『ユモレスク〜逆さまの蝶〜』(2006年)、『ジャージの二人』(2008年)。『愛情物語』では、同郷出身で同じビートルズに影響を受けた財津和夫と共演している(財津は福岡市出身)。

単独、あるいはシーナや鮎川陽子との共演でCM出演も多数。特に九州ローカルでは極めて多く、コンビニエンスストア「ポプラ」や焼酎の「三楽」「黒霧島」などのCMに登場している。全国向けでもジャノメミシン、「角瓶」(サントリー)、「博多んもんラーメン」(日清食品)、「WITH CLASS」(JT)、「サロンパス内服液」(久光製薬)、「ポカリスエット」(大塚製薬)、「ビッグジョン」、パルコ、ユニクロなど著名企業のCMへの出演が多い。日本テレビ開局55周年CM「日テレ55(GoGo)」にも出演。

トラディショナルなロック、ルーツ・ミュージックに造詣が深く、自身もそうした音楽からの影響を色濃く反映したロックサウンドを長年プレイし続けているが、ロキシー・ミュージックデヴィッド・ボウイルー・リードなどのほか、ザ・ストゥージズMC513thフロア・エレベーターズなどのガレージロック、ラモーンズクラッシュテレヴィジョンリチャード・ヘルなどのパンク・ロック、ジミ・ヘンドリックスクリームグレイトフル・デッドなどのサイケデリック・ロック、レッド・ツェッペリンなどのハードなロックも好む[2]ウィルコ・ジョンソンイギー・ポップラモーンズの各メンバー、エルヴィス・コステロらとは面識・親交がある。

アルバム

著書

  • Mono 双葉社 1984年8月
  • ローリングストーンズが大好きな僕たち 八曜社 1992年5月 ISBN 9784827001167 (山川健一と共著)
  • DOS/V BLUES 幻冬舎 1996年12月 ISBN 9784877281441
  • 200CDロックンロール 学習研究社 2005年7月 ISBN 9784054027961 (監修)
  • '60sロック自伝 音楽出版社 2006年6月 ISBN 9784861710162

映画出演

CM

その他、アサヒビール、トヨタ自動車、三菱電機、日本テレビ放送網、キリンビール、メルシャン、ユニクロ/UNIQLO、KITSON、三井ホーム、日本たばこ産業(JT)、森永製菓、小学館、ヤクルト、明治製菓、東洋水産、デジタルツーカー九州、ボーダフォン、ユニチャーム、蛇の目ミシン工業(ジャノメミシン)、東レ、BIG JOHN、キングジム、和光、ユニー/アピタ、クレディセゾン(セゾンカード)、マンダム、renoma/レノマ、東京サマーランド、ほっかほっか亭/プレナス、ドイ(カメラのドイ)、他、多数出演。

関連項目

外部リンク

出典

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  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 『AERA』1996年6月3日号
  2. フジテレビ系の音楽番組「MUSIC SOUP -45r.p.m.(revolution per man)」にて。