鬼頭史郎

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テンプレート:Infobox 人物 鬼頭 史郎(きとう しろう、1934年1月6日 - )は、日本の元裁判官鬼頭史郎謀略電話事件を起こして、法曹資格を喪失した。

人物

名古屋市港区出身。愛知県立松蔭高等学校を経て法政大学法学部卒業、法政大学大学院修士課程修了。

生い立ち

大学在学中に草葉隆円厚生大臣私設秘書から厚生省職員を務めた。1958年昭和33年)に卒業した後、1960年昭和35年)に法政大学大学院修士課程を修了。一旦厚生省を退職し名古屋市役所に入庁するも、慶應義塾大学大学院博士課程に進学[1]

裁判官

1964年昭和39年)に司法試験に合格した鬼頭は、テンプレート:要出典範囲

1967年昭和42年)に名古屋地方裁判所判事補に任官。名古屋地裁在任中に既婚にもかかわらず、女性弁護士に離婚したと嘘をついて3か月間同棲。地裁が関係者に事情聴取する[2]。以降、東京・鹿児島・京都各地方裁判所を転任する。

1974年東京地裁八王子支部に勤務していた時に日本共産党書記長である宮本顕治の身分帳を網走刑務所で閲覧、コピーを自由民主党の有力派閥の許へ持ち込んだが、1976年に発覚した(宮本身分帳事件)。これによって鬼頭は公務員職権濫用罪で刑事訴追され、1987年12月に執行猶予付の有罪判決を受ける。1989年2月の昭和天皇崩御恩赦により、執行猶予期間を終了した。

弾劾と法曹資格喪失

1976年昭和51年)8月4日に鬼頭史郎謀略電話事件を起こしたとされる。11月12日、事件の渦中の中で国会から証人喚問されるも刑事訴追のおそれを理由として宣誓を拒絶して、証言を拒否。この証言拒否は議院証言法違反で告発されたが、1977年昭和52年)3月21日、不起訴処分となった。一方、弾劾裁判所では1977年昭和52年)3月23日に鬼頭本人が出席しないまま、罷免判決が下され法曹資格を失う。

参院選立候補

法曹資格喪失後の1977年昭和52年)6月の第11回参議院議員通常選挙全国区から立候補したが落選。街頭演説の際、聴衆の一人から暴行を受けた。

法曹復帰の試み

その後、1984年昭和59年)に法曹資格回復裁判を弾劾裁判所に請求、翌1985年昭和60年)に請求が認められて資格を回復する。複数の弁護士会に弁護士登録を申請しているものの、入会審査で入会を拒絶される。弁護士登録を認めなかった日本弁護士連合会(日弁連)の裁決を取り消すよう訴訟を起こしたが、2005年平成17年)6月25日1審の東京高裁判決で房村精一裁判長)は「原告による刑事事件が、風化したとは認められない」と述べ、請求を棄却した。そして更に鬼頭に対し「政治問題への執着など、従来から指摘された思考や行動様式を保持しており、変化は認められない」と指摘した。鬼頭はこれまでにも同様の訴訟を3回起こし、いずれも敗訴する。

2004年平成16年)6月には名古屋弁護士会(後の愛知県弁護士会)に4回目の登録を申請したが、拒否された。審査請求を受けた日弁連は「弁護士会の信用を害するおそれがある」と退け、これを不服とする数次の裁判でもいずれも敗訴している。また、日本弁理士会への登録申請を巡る記事でプライバシーを侵害されたとして、産経新聞社に400万円の損害賠償を求めた訴訟を起こしたが、これも一・二審とも敗訴した。

2010年、『週刊新潮』の記事で前科や罷免歴や現在の経済状況や妻の病状などを報じられたのをプライバシー侵害や名誉権侵害として、発行元の新潮社などに850万円の慰謝料を求め、名古屋地裁に損害賠償請求訴訟を提起。2012年2月23日、最高裁で被告の非が一部認定され、新潮社側に250万円の損害賠償命令が下った。またこの裁判途上、週刊新潮の記事概要等を報道した中日新聞社をも同様に訴えたが、これも2013年9月24日付けで最高裁により被告人の上告が不受理とされ、100万円の支払いを命じた二審の名古屋高裁判決が確定した。

映画出演

1979年昭和54年)に公開された日本映画「白昼の死角」(監督村川透)に、弁護士役で出演した。

家族

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脚注

テンプレート:脚注ヘルプテンプレート:Reflist
  1. 1976年10月28日 参議院法務委員会での橋本敦議員の質問[1]および10月29日付 朝日新聞記事 『政治家ともつながり 在学中に厚生省職員』
  2. 1976年10月22日朝日新聞記事『「変な裁判官」鬼頭氏にはとかくの評判』