高畠素之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:出典の明記

高畠 素之(たかばたけ もとゆき、1886年1月4日 - 1928年12月23日)は日本の社会思想家、哲学者。国家社会主義を唱えた。

人物

前橋藩士の子息。クリスチャンとなり同志社大学に入るも、途中キリスト教を捨て中退。高崎市で社会主義雑誌『東北評論』を発刊、1908年新聞紙条例により禁固2ヶ月の刑を受け入獄、獄中で英訳の『資本論』に出合う。1911年、売文社に入り社会主義活動に身を挺す。 1915年、堺利彦山川均らと『新社会』発行、マルクス主義を紹介した。 特にカウツキーの『資本論解説』(原題『カール・マルクスの経済学説』)を翻訳したことは、彼のマルクス研究者としての地位を確固のものとした。一方、折からのロシア革命の影響を受け、1918年に「政治運動と経済運動」を発表し、山川均らと社会主義運動の方法論をめぐって争った。この後、国家社会主義の傾向を深めたため、堺利彦・山川均らと分裂。国家社会主義運動の旗手となる。1919~1925年にマルクスの『資本論』日本初の全訳に成功し、当時のマルクス研究の主要研究者と目されながらも、一方では右翼団体・国粋団体と提携して右傾化の傾向を深めた。他に翻訳・執筆本を多数発刊。

生涯

高畠素之の生涯は大きく三つの時期に分けられる。(1)生誕から社会主義思想家として立つまで、(2)そこから国家社会主義を提唱するまでのいわゆる正統派マルクス主義者の時代、(3)国家社会主義提唱から晩年までである。

第一期

高畠は、明治19年1月4日、旧前橋藩士の五男として群馬県前橋市に生れた。幼い頃は寡黙で根気強かったが、癇癪持ちであった。

地元の前橋中学に入学後、同級生から神童と称される。在学中、前橋に訪れた海老名弾正木下尚江の講演を聴き、キリスト教や社会主義に影響を受ける。

明治39年、前橋中学校を卒業。経済的な問題から同志社(神学部。奨学金が給付されていた)に入学し、哲学と宗教を学ぶ。高畠の同志社入学時は日露戦争の直後であった。そのため平民社系の社会主義運動の影響を受け、遠藤友四郎(遠藤無水。後、天皇中心の社会主義を唱える)、伊庭孝(音楽家)と、同志社内で社会主義を宣伝した。そのため在学一年程度で退学、社会主義者として著明であった堺利彦を頼るも、相手にされず郷里前橋に戻った。なおこのとき堺は、カウツキーの『倫理と唯物史観』の英訳本を高畠に送り、高畠も批評を返したという逸話がある。

前橋に戻った高畠は、遠藤友四郎らと『東北評論』を発行し、地元で社会主義運動の第一歩を踏み出す。この頃の高畠は、時代の影響から正統派社会主義の論陣を張っていた。明治41年、赤旗事件に対する筆禍に問われ、高畠は編輯者として禁錮4ヶ月の罪となった。高畠はこの事件によっていっぱしの社会主義者として認められるようになった。

高畠は、禁錮中に監獄で英訳『資本論』に触れ、『資本論』をドイツ語原典で読むべく語学の勉強を志すことになった。またこれ以後、高畠は合法的に運動することを心掛け、無益な闘争は避けるようになったと言われている。

第二期

出獄後、高畠は新たな運動の可能性を求めて神戸、大阪、名古屋を放浪。京都で第三高等学校の英語教師ケデーの門番をつとめたほか、夜間学校の英語教師をして雨露をしのぎもした。しかしドイツ語や『資本論』の研究には余念がなかった。

高畠に転機が訪れるのは、明治44年頃、京都の岩崎革也の手引きで堺利彦に再会したことにある。堺は大逆事件で壊滅した日本の社会主義者のため、明治43年9月に売文社を立ち上げ、その名の通りの売文稼業で生計を立てていた。その後、堺は大逆事件で死刑になった人々の遺族を弔うべく、西日本を旅していた。高畠と堺が出会ったのはちょうどその頃であった。堺は既にドイツ語を身につけていた高畠に再会すると、すぐさま売文社の技手として雇うことにした。こうして高畠は明治44年9月、売文社に入社した。当時は大杉栄がフランス語を、高畠素之がドイツ語を担当していた。

明治から大正初年にかけて、日本では社会主義者に対する取り締まりが極度に厳しかった。そのため売文社では、政府の圧迫を避けるため、『へちまの花』と題した文芸雑誌風の読み物を編集し、わずかに同志間の連絡を保つことしかできなかった。しかし第一次世界大戦による政治情勢の変化(社会主義に対する取り締まりの軟化)を見てとった堺利彦は、直ちに『へちまの花』を『新社会』と改題し(大正4年9月)、社会主義運動を高唱し出したのであった。この前後、大杉栄は荒畑寒村とともに堺一派と決別したが、大正5年には山川均が売文社に合流し、しばらくして売文社は堺利彦・山川均・高畠素之の合名会社となった。

高畠は、大正6年から『資本論解説』の翻訳を開始。マルクス経済学の数少ない参考書を世間に発表すると同時に、自身もマルクス研究者として知られるようになった。当時の高畠は、マルクスなどのドイツ語の社会主義文献を原語で理解可能な数少ない活動家として知られ、日本社会主義の正統派中の正統派と目されていた。また売文社でも、実務家として有能であり、山川均とともに中枢的位置を占めるようになっていた。しかし時代の変化は高畠を放っておかず、再び高畠に転機が訪れることになる。

第一次世界大戦、それに続くロシア革命の影響を受け、高畠は大正7年に「政治運動と経済運動」を執筆。社会主義運動は、単に経済運動(ストライキなどによる革命)のみならず、政治運動=議会進出が必要であることを強調した。この提言は、無政府主義=アナーキズム的色彩の強かった日本の社会主義に大きい波紋を広げた。この高畠の提言を受け、直ちに山川均・荒畑寒村らが反論を掲げ、しばし論争となった。この頃から、高畠にようやく後年の国家社会主義的傾向が芽生えはじめ、堺利彦とともに軍人・右翼の集会であった老壮会に出入するなどし、売文社の間に微妙な空気を醸し出すことになった。

山川らとの論争の後、偶然にも山川と荒畑は『青服』の筆禍事件で禁固4ヶ月に処された。これにより売文社内の勢力関係は一変し、高畠派の圧倒的優位の状況に変化した。これを受け、高畠は自己の影響下にあった北原龍雄・遠藤友四郎・茂木久平・尾崎士郎らとともに国家社会主義運動の開始を堺利彦に打診する。堺は社会主義の実践活動は時期尚早と判断し、山川・荒畑の復帰後、売文社を分けることを提案し、高畠も了承した。大正8年4月、高畠一派の牛耳るところとなった売文社は、国家社会主義の発行所となった。これ以後、高畠は国家社会主義の旗手として世に出ることになる。

第三期

国家社会主義者として世に出た高畠は、その没年に至るまで、主として『資本論』の翻訳に時間を費やした。後年、『資本論』翻訳のために命を失ったようなものだと言われたのは、そのためである。しかし『資本論』翻訳者として著名になったと同時に、この時期の高畠は三つの側面からも注目されていた。一つは国家社会主義者、もう一つは社会主義の研究者、そして最後に社会評論家である。以下には便宜上、三つに分けて説明する。

(1)国家社会主義

高畠は堺・山川と袂を分かったのち、支持者とともに新たな売文社で『国家社会主義』を創刊し、自己の主張の宣伝につとめた。当時、日本はヨーロッパの政局の変化を受け、社会主義に対する取り締まりが若干緩くなりつつあった。この機会を捉えた高畠は、暴力革命の否定を強調することで、政府の弾圧をかわすことができると考えていた。しかしそのもくろみは甘く、『国家社会主義』創刊号は発売禁止となり、ただちに財政的打撃を受けた。また高畠の予想に反し、国家と社会主義をつなぎ合わせた主義主張に対し、世間的に評判もよくなかった。そのため本誌は、第2号以下、4号まで発刊したが、結局は発売中止のやむなきに至った。なお当時、福田徳三は国家社会主義を評して、「鰻の天麩羅」(脂っこすぎて食べられないという意味)と揶揄したと言われている。

それでも高畠は、『国家社会主義』の廃刊直後、友人の遠藤友四郎とともに『霹靂』を創刊(創刊号のみ)、次ぐ大正9年には『大衆運動』(週刊新聞。11号で廃刊)を、同年再び第1次『局外』(8頁の雑誌)を創刊した。『局外』は、社会主義の圏外から世上を辛辣に批評するという態度が世の中に受け、翌年には紙数を大幅に増補した拡大版『局外』(第2次)に発展した。しかしこれも関東大震災によって壊滅し、借金だけを残して廃刊することになった。

一方で、大正11年12月には、東京帝大教授の上杉慎吉経綸学盟の締結し、同12年に極右と称された大化会の顧問となった。この大化会の援助を受け、再び高畠門下を動員して『週刊日本』(週刊新聞。11号で廃刊)の発刊を行い、国家社会主義の宣伝に勉めた。この後、『資本論』(大鐙閣版)翻訳の完成前後から、大化会との関係が薄まると、再び高畠門下を動員して第1次『急進』(大正13~14年)、第3次『局外』(同14年~15年)などの小雑誌を発刊し、何度も主義の宣伝に勉めている。この間、『資本論』の翻訳者として、またユニークな社会評論家として高畠の名は世の中に知られるようになってはいたが、自身の主張する国家社会主義そのものは普及することなく、相継いで創刊した雑誌はすべて短命のうちに廃刊のやむなきに至っている。

なお決定版となった改造版『資本論』の翻訳がほぼ終わり、高畠の身辺も比較的落ち着いていた昭和3年5月5日、故郷前橋で凱旋講演を行っている。講演内容は「急進愛国主義の理論的根拠」(『高畠素之先生の思想と人物』に収録)であったとされているが、要するに国家社会主義の必要性を説いたものである。この講演は、衆議院議員立候補のための地ならしとも言われているが、このころ高畠は病に冒されており、立候補の考えはなかったとする指摘もある。なおこの講演内容は、高畠没後、その門下によって何度か出版され、高畠国家社会主義の簡便な解説書として流通した。

国家社会主義運動という側面から見れば、高畠の主宰する雑誌は全て短命で、また政治勢力としてもほとんど問題とするに足らないものであった。これは高畠の思惑から全くはずれたもので、その意味からすれば、高畠の政治運動は実りのないものであった。ただし実際勢力とは別に、高畠=国家社会主義(国家主義)という図式は、高畠の健筆ぶりと『資本論』翻訳者としての権威も手伝い、広く世間に知れ渡ることになった。

(2)マルクス研究者

この時期の高畠は、マルクス研究者としても活躍している。大正7年から昭和初期にかけて、日本の社会主義運動は進捗期であった。しかし、世間の要求に応えられる手頃な入門書はほとんどなかった。こうした中、マルクス主義者として日本でも高名であったカウツキーの『資本論解説』を翻訳した高畠の名は、世間に広く知られるようになっていた。

高畠は『資本論解説』の外、『財産進化論』『社会主義社会学』などの社会主義関連書籍の翻訳書を多数発表しているが、自身の研究成果も公表している。それらは『社会主義と進化論』『マルクス学研究』『社会主義的諸研究』『マルクス十二講』(後に『マルクス学解説』)『地代思想史』『マルクス経済学』などとなって現われた。なお未完となった『マルクス経済学』は、高畠の絶筆である(現在のものは、半分弱を高畠が、未完成の後半を高畠門下が執筆したものである)。

高畠自身が意識していたというように、これらの著作は社会主義を絶対視せず、つとめて公平中立の立場で書かれ、概ね世間に好評を以て迎えられた。

(3)社会評論家

『資本論』翻訳者や、社会主義の研究者などの外、世間的に高畠の名を売った最大のものは、社会評論家としての存在であった。高畠の評論は、シニカルな視点から社会を批評するものが多く、当時においても特異な存在として言論界に重宝されていた。

高畠の投稿先は、自身の機関紙の外、『太陽』『改造』『解放』『中央公論』『経済往来』(後の『日本評論』)『読売新聞』『報知新聞』などの中央雑誌・新聞であり、多数のエッセイや論文を残している。これらのエッセイは、高畠の意図的判断から、皮肉や辛辣なものが多い。これらの中で比較的有名なものは、『自己を語る』『論・想・談』にまとめられた。

こうした旺盛な活動は、彼が第三期以後、特に小説や文芸に口を挟み、文筆業者と関係をもったことも関係している。高畠の主宰した『局外』は、『文藝春秋』創刊に影響を与えた。その他、社会評論家乃至社会主義者という立場から、積極的に文芸時評(その時々の文芸評論)を行い、文芸評論家とも交わりを持っていた。また世故に長けていたため、『解放』や第2次『随筆』の顧問となり、積極的に運営にアドバイスを施していたとされる。人文会出版部を主宰していた水守亀之助は、高畠交遊者の代表的人物である。

『資本論』全訳、マルクス経済学の権威、国家社会主義者、社会評論家と、多数の顔を持つ彼は、その絶頂期とも言える時期に病に倒れ、そして突如として昭和3年12月23日に自宅にて没した。葬式には堺利彦ら左翼や高畠門下を始め、上杉慎吉、赤尾敏梅津勘兵衛など多数の右翼の関係者が集まった[1]

国家社会主義理論

高畠素之の国家社会主義を語るには幾つかの難しさがある。まず彼は社会主義者として国家主義に傾き、結果的に国家社会主義という点に落ち着いた。それ故に高畠の転向の複雑さとともに、彼の国家社会主義思想そのものにも高畠の転向の跡が残されている。次に彼は国家社会主義という枠組みを始めから知っており、紆余曲折を経て辿り着いたという、近代日本の知識人の歩んだコースとは異なり、自身の生活実感から国家社会主義という理論体系を築いたという点である。即ち彼の実感やパーソナリティーそのものが、日本の国家社会主義一般を語る上にも色濃く影響を及ぼしているのである。それ故に高畠の国家社会主義を知るには、彼の実感や人間観という、高畠のパーソナリティーを知ることが重要となってくる。

理論骨格

先ず高畠国家社会主義の理論骨格のみを提示すると以下のようになる。

人間というものは欲望=エゴイズムの塊である。経済慾や優勝慾を持っている。しかし同時に人間は、それ自身では弱い存在である。個人では生きられない。だからどうしても団結する必要が生まれる。これは人間が生きていく上には避けられないことである。そこで自然本能的に欲望を抑えつけ、社会的生活を営むようになる。

ところが社会がある一定の段階に到達(進化)して、何等かの文明を持つようになると、この本能的拘束力は有効性を失ってくる。進化した社会は細分化され、自然的拘束力では個人の欲望を抑えることはできず、社会を維持することができなくなる。そこでは人間は、自己の欲望を発揮する為に、好き勝手行うようになる。しかし個人の好き勝手に任せておけば、社会は崩壊する。社会が崩壊すれば、人間は生きておれない。そこで生まれるのが、社会を維持し秩序化するものとしての統制機能である。これは人間が意識的(=機能的)に生み出したものである点、自然本能的拘束力と異なっている。

この社会は、社会として維持するために、当然の前提として一定の地域的限定を持つ。そして地域の秩序維持のために統制機能を持つ。だが統制機能は、進化=分化し続ける社会を統制する便宜上、また統制をより円滑に進める便宜上、必ず権力による支持を必要とする。即ち地域的限定と統制機能とが権力に依って支えられた時、ここに国家が成立する。こうして国家とは近代社会そのものと同義となり、且つ同時に、国家とは支配=統制機能そのものとなるのである。 この支配=統制機能は、一定の段階に進化した社会であれば、裁判官などの形態を取って存在する。しかし特に任意の社会(国家)が他の社会(国家)を支配下に置いた場合、階級支配が生み出される。そして優勝階級が支配=統制機能を掌握することになり、本格的に支配=統制機能が開花する。

この支配=統制機能は、本来的には人間社会を維持し、人間を幸福に導くための装置にすぎない。しかし現実に於いては、社会の優勝階級が他階級を支配するための道具として機能する。特に資本主義社会に於いては、社会は資本階級と労働階級の両極に分解するため、国家は資本家の手に渡ることになる。即ち支配=統制機能は専ら資本家が掌握し、社会の大部分を占める労働者は支配=統制される階級となってしまう。

この資本主義社会は、高畠の信じる所によれば、マルクスの唱えた如く必然的に崩壊する。そして将来には社会主義社会が生まれ、資本家と労働者という階級対立はなくなる。しかし資本家と労働者という対立がなくなっても、人間が社会=国家を構成しているということに変わりはない。ならば人間である以上、エゴイズムはなくならない。支配=統制機能は必ず必要である。しからば社会主義革命によって資本主義社会が亡びた時どうなるか。それは本来的に人間社会を維持する為の装置として機能すべきであった支配=統制機能が、本来の役目を果たすべく社会に君臨する。即ち国家=社会は、資本家と労働者との階級対立が消滅した後、初めて本来の支配=統制という役割を果たすようになるのである。

高畠の当時でいうなら、近代日本(大正~昭和初期)の資本主義は、必然的に崩壊する。しかし崩壊するのは資本主義であり、その後に日本という社会=国家には社会主義が到来する。支配=統制機能が日本という国家の下に継続するのである。ならば日本人である以上、日本という国家の繁栄を望むならば、意識的に社会主義化を望まねばならない。しかし同時に、社会主義化を望むということは、国家主義をも肯定しなければならない。社会主義を望まねば労働者は資本家に支配され続けなければならず、国家主義を望まねば人間は生きていけないからである。即ち、国家主義者は社会主義者でなければならず、社会主義者は国家主義者でなければならない、との結論に至るのである。

彼は国家社会主義のことを、急進愛国主義とも、無産愛国主義とも名付けているが、何れも国家社会主義と同義である。言うまでもないが、国家社会主義、急進愛国主義、無産愛国主義は、何れも国家主義=社会主義、急進主義=愛国主義、無産=愛国ということであり、国家的社会主義、急進的社会主義という意味ではない。

高畠の実感

高畠自身が意識しているように、彼の国家社会主義は、彼の生活実感から来ている。即ち人間は悪であり、自分勝手なものであるという、性悪的人間観がその根本にある。高畠は人間というものの利己心を、近代日本という時代に於いて、実感的に感じ取ったのである。

高畠にとって、社会とは功利的存在である。その功利的存在が一般的に円滑に廻っている間は、社会は巧く機能すると考える。所が富が一方に偏ったり、極端に貧困が蔓延る如き、高畠当時の日本(現実には東京)の如き状態が露出すると、社会はもはや円滑に廻らない。それは社会主義革命によって初めて解決できる問題だと考えた。

しかし社会主義革命が成功しても、人間のエゴイズムはなくならない。社会主義者のいう如き、無制限に必要物が生産されることは常識では考えられず、人間が神のような存在になることもあり得ない。そこで考え出さねばならぬのが、人間の功利性を如何に利用するかというである。

人間は利己的生き物であるため、優勝慾的な意味からも、競争が必要である。資本主義がかくまで発展し得たのは、競争によって優勝慾が刺激され、放任状態でも社会進化の技術がつぎつぎと生み出されていったからに外ならないと考える。こうした競争心理=社会進化という道具がなければ、人間社会は停滞してしまう。だから社会主義社会にも競争心理を持ち込めるように、何等かの方法を考えなければならないという提案に行き着くのである。

これらは何等かの観念的希望によって生み出されたというものではなく、高畠自身が生きた現実からつかみ取ったものである。高畠は人間や社会に対する、極度に悲観的な観点を突き詰め、それにもかかわらず人間が幸福に生きていくにはどうすればよいかという観点に立った時、それをある程度満足させるものとして国家社会主義を思い付いたのである。

高畠の国家社会主義とは、人間として避けられない性悪を基盤として生み出されている。そうしたある種の冷徹な人間観察眼=生活実感に支えられた彼の理論は、理論骨格の単純さとは裏腹に、複雑な一面を浮かび上がらせている。

社会主義と国家主義

高畠の国家社会主義を複雑なものにしているのは、彼の生活実感やパーソナリティーのみではなく、彼が社会主義から国家主義へと近づき、国家社会主義を提唱するに至ったその径路そのものが、国家社会主義一般を規定しているからである。

そもそも国家社会主義とは、高畠によれば一種の社会主義である。その社会主義の中でも、もっとも重要問題である国家論を中心に見た場合、四つの区分が可能であると考える。それが無政府主義社会民主主義共産主義倫理的国家社会主義(国家=社会は人間道徳の完成形態であるとみなす主義)、機能的国家社会主義である。この中、後半の倫理的国家社会主義とはフェルディナント・ラッサールロドベルトスの国家社会主義を指し、機能的国家社会主義とは高畠自身のものを指す。

高畠としては、経済観と人間観との両面の楽観論をもつものが無政府主義で、その対極のものとして、経済観と人間観との両面の悲観論をもつものが機能的国家社会主義であると説く。また社会民主主義、共産主義などを批判するに於いても、マルクスの資本主義崩壊説の分析や、レーニンの国家論などを見極めながら、自己の国家理論を構築してもいる。そのためそこで用いられる用語は、社会主義関係のものが多数をしめている。こうした彼の進展そのものが、社会主義的傾向を濃厚ならしめている。

このことは当初から国家主義、特に日本主義の立場に立つ者と対蹠的な関係を生み出している。特に高畠が国家を機能的なものとして、随って人間のための存在として捉えたことは、国家を唯一絶対の存在として捉え、随って国家の為に人間が犠牲になるべきものとすら捉える国家主義とは、鋭く対立した。

高畠素之に影響を受けつつも、純然たる国家主義者として活躍した津久井龍雄が比較的容易に国家主義者として扱えるのに対し、高畠は社会主義に強い拘りをもったために、的存在として扱われたのも故なしとしない。高畠の国家社会主義とは、こうした左右何れにも納まらない複雑さを持っている。

なお前述の通り、高畠の国家社会主義は彼独自のものである。そのため、同様の名称で呼ばれるロドベルトスやラッサールのいわゆる社会改良主義とは区別される必要がある。因みに国家社会主義とは、英訳するとState Socialismが普通であるが、高畠は敢えてNational Socialismと銘打っていた。これはナチスが掲げていた民族社会主義(National Socialism)、つまりナチズムと同一であるが、時期的には高畠の主張の方が早く、また高畠自身の死亡時期(昭和3年12月)からも、両者は無関係である。

政策・綱領

高畠は国家社会主義政党として無産愛国党なるものを構想していた。現実的には殆んど何も決まっていなかったのだが、全八条からなる綱領は、以後の国家社会主義運動にそれなりの影響を与えた。以下、要点のみを挙げておく(原典は『批判マルクス主義』無産愛国党の基調)。

    • 第一条、国家国体に対する絶対的恭順
    • 第二条、国家国体に対する犯罪の取締法規を極度に峻厳化する
    • 第三条、農民の生活安定策(配給制や低利資金の融資)の実施
    • 第四条、工場労働者の生活安定
    • 第五条、徴兵に伴う失業防止策
    • 第六条、物価の公定策
    • 第七条、軍備の非拡張的充実
    • 第八条、対中国外交の非帝国主義的合理化による日中共存

高畠以後

高畠没後の国家社会主義は、津久井龍雄石川準十郎を中心に動いていく。そのため高畠が長生しても、政治的方面としては津久井、研究者的側面としては石川を越えるものではなかったであろうとされている。

津久井は主として国家主義者として実践的に活動した。二・二六事件以後、日本の状勢が一変すると、津久井は寧ろ反軍運動に転向し、敗戦後は再び日中友好を唱えて転向するなど、二転三転した。しかし高畠的な冷徹な観察眼を保持していたといわれている。

それに対し石川は、主として研究的側面に高畠理論を発展させた。特に石川は、高畠にあっては国家と社会との関係が整合的に捉えられていなかった点を踏み込んで分析し、国家が亡びても社会はなくならず、常に社会を基準として再び国家を取り戻す運動が起こることを指摘している。しかし国家なき社会が如何に悲惨な境遇に置かれるかを指摘し、国家必要の重要性を強調している。

また軍部や日中戦争にも批判的で、特に政府が単なる支配維持の為に、共産主義を含むあらゆる革新的主義・主張を弾圧し、国民にそれらを知らしめぬよう弾圧を加えることを批判している。彼はそのような神国主義政治は、必ずや決定的な危険を伴うことを繰り返し指摘し、数少ない支持者とともに日夜研究を重ねていたといわれている。なお彼は大日本国家社会党の党首でもあり、大政翼賛会以後に次々と政党が解党していく中、最後まで労働組合を背景に政治活動をしていたことでも知られている。

石川にはこれ以外にも、日本に於ける最も早いナチス紹介者として知られている。その著『マイン・カンプの研究』は、その名の通りヒトラー我が闘争』第一部の研究書である。石川は自己の国家社会主義の正しさを信じ、敗戦後も一貫して国家社会主義を奉じた。

資本論の翻訳

高畠が『資本論』に出会うのは、『東北評論』の筆禍事件で下獄したときであった。それは当時出版されつつあった英訳の『資本論』であったが、以後高畠はドイツ語原本で『資本論』を読む必要を感じ、独学でドイツ語を習得した。

そもそも資本論は安部磯雄によって極一部が翻訳されたことはあったが(『週刊社会新聞』、明治42~43年)、マルクス経済学独自の用語の難解さもあり、必ずしも読者を満足させるものではなかった。しかし以後のマルクス経済学の進捗と、第一次世界大戦より来たった社会主義の流行と相俟って、日本の読書会にも『資本論』翻訳が熱望されるに至った。

高畠は売文社入社以前から『資本論』の研究を始めていたが、売文社入社と『新社会』発刊以後、マルクス研究に果敢に乗り出していく。特に『新社会』に連載されたカウツキーの『資本論解説』は苦心の産物であり、この時に生み出された多くの専門用語が、後に高畠訳『資本論』に流れ込んでいった。高畠自身が言うように、高畠の『資本論』理解は、カウツキーの『資本論解説』による所が大きい。

このように長時間かけて『資本論』研究を続けた高畠は、堺・山川と袂を分かった後、折からの社会主義流行も関係して、自らの主宰する売文社で高畠訳『資本論』の発行を企図していた。ところがこれを聞きつけた堺利彦の推薦もあり、高畠は福田徳三門下と共同で『マルクス全集』の一環として、複数人による『資本論』翻訳を諒承した。そこでは高畠は『資本論』第1巻を担当することになっていた。

しかしこの動きと前後して、突如として松浦要生田長江の『資本論』翻訳が出版された。この松浦訳と生田訳の『資本論』は、必ずしも識者を満足させるに至らなかったが、当の高畠自身が執拗に攻撃し、また罵詈雑言を浴びせかけ、遂には完訳を断念するのやむなきに至らしめたほどであった。こうして同業者を駆逐した後、高畠はまず『資本論』第1巻第1分冊を大鐙閣から出版した(大正9年6月)。本冊と第2分冊のみ福田徳三の校注がついているが、校注番号があるのみで、注の本文はない。

高畠は第1巻第2分冊以下を順調に刊行していったが、途中で福田徳三門下が翻訳を放棄したため、第3巻も高畠の翻訳担当となり、続いて第2巻翻訳者も遁走したため、結局高畠が『資本論』全3巻を独力で翻訳することになった。そのため第1巻、第3巻、第2巻という順序で刊行され、また出版社の大鐙閣が関東大震災の余波で倒産し、而立社(大鐙閣の元社員が作っていた出版社)で第2巻が出版されるなどの変更があった。しかし兎にも角にも、この大鐙閣‐而立社で日本で初めて、『資本論』が完訳されたのであった(大正13年7月)。

しかし大鐙閣版『資本論』は、高畠自身、満足できるものではなかった。高畠によると、余りに原文に忠実に訳しすぎたため、訳文のみでは何を書いているか分らないものになってしまったというのである。そのため大震災による紙型の焼失を幸いとして、また新潮社からの申し出もあり、直ちに改訳に着手した。高畠はまず原文を見ずに大鐙閣版『資本論』中の難読箇所を自在に書き改め、ついで再び原文と照らし合わせて訳文の完成を期した。そのため原文の直訳を求めつつ、極力日本文として分りやすい訳文を作る努力を繰り返した。こうして生れたのが新潮社から出版された改訳『資本論』全四冊である(大正14年10月~同15年10月)。これには高畠も自信をもったらしく、大鐙閣版完成の折は断ったという翻訳完成の慰労会を受け、大正15年10月23日に本郷の燕楽軒にて「資本論の会」が開かれた。

「資本論の会」は、六十人余りの出席者だったとされるが、日頃、高畠と意見のあわなかった吉野作造を始め、上杉慎吉石川三四郎平野力三小川未明辻潤ら左右両極、修正派・無政府主義者と多彩な顔ぶれであった(堺利彦共産党事件で下獄中であり、参加を申し込めなかった)。

この新潮版『資本論』から誤字脱字の修正を行い、当時流行しつつあった円本ブームに乗るかたちで出版されたのが、戦前の翻訳『資本論』の定本と言われている改造社版『資本論』である。全五冊であった(第1巻を2冊に分冊。昭和2年10月~同3年4月)。これは高畠が「一先ず拙訳資本論の定本たらしめん」ことを期したものである。改造社版『資本論』終結の8ヶ月後に高畠は死んでいる。

高畠は『資本論』翻訳に携わった時間は、最も精力的に活躍した7年間であったため、関係者は、高畠は『資本論』の翻訳と引き換えに死んだようなものだと噂した。高畠の『資本論』翻訳は、大変な熱意と努力、継続の結晶であった。事実、高畠が改造社版『資本論』を終えた時、座布団の下の畳は既に腐っていたといわれている。

高畠の翻訳の特徴は、極力無駄な言葉を省き、日本文としてこなれたものを求めたと言われる。これは大鐙閣版『資本論』が直訳的であるのに対し、改造社版が流暢な日本語に置き換えられていることからも推察される。しかしこのような訳法に対して批判がないわけではなかった。特に事実上、改造社版『資本論』と商売上で争うことになった河上肇は、自身の『資本論』翻訳に際しては、極力原文に忠実に訳すことを目的とし、ためにまま日本語として意味の通じぬところも已むなしとしたほどであった。

これは『資本論』の如き難解の書を訳す場合には、訳者の訳法に影響されるものであるが、これについて三木清が高畠訳を批判したため、いささか論争を起こしたことがあった。また高畠も、河上が高畠訳を批判する割りに、自身の翻訳は一向に完成させないことに苛立ちを覚えていたと言われている。しかし河上の翻訳は結局完成せず、また高畠自身もそれを知ることなく世を去った。

『資本論』翻訳は、高畠の没後も、河上肇、その門下の長谷部文雄らによって試みられるが、時勢の困難もあり、遂に完訳には至らなかった。そのため高畠訳『資本論』は、戦前を通じて唯一の全訳『資本論』となった。

敗戦後、高畠訳『資本論』は二度ほど出版されたが、既に長谷部文雄、向坂逸郎岡崎次郎らによって新訳が刊行されたこともあり、時代的使命を終えて今日に至っている。

人と特徴

後世、高畠素之は国家社会主義の提唱者と、『資本論』翻訳者として知られるに至ったが、同時代的にはむしろ社会評論家、乃至思想家として知られていた。特にその独特のシニカルな社会批評は当時に於いても特異な存在であった。

編纂・著書・翻訳

編纂

  • 『社會問題總覽』(公文書院、大正9年)
  • 『社會經濟思想叢書』(事業之日本社、高畠素之編纂)
  • 『社會問題辞典』(新潮社、大正14年)
    高畠素之著となっている。社会問題の辞典類では最初期のものである。
  • 『經濟學説大系』(而立社、安倍浩と共訳):著名な経済学説の抜粋集。高畠素之は殆んど訳していない。
  • 『社會哲學新學説大系』(新潮社、北昤吉と編輯)
    高畠門下を多数動員して編纂されたもの。著名な外国書の訳述。ただし短編の場合は全訳に近いことをしている。
  • 『マルクス思想叢書』(新潮社、高畠素之編輯)

著書

  • 『社會主義と進化論』(賣文社、大正8年)
    高畠素之の最初の研究書。公文書院(大正8年)、大鐙閣(大正10年)でも改訂出版している。『社会進化思想講話』と改題してアテネ書院(大正14年)で改訂出版し、最終的に改造社(昭和2年)で『社会主義と進化論』に名を戻して出版している。売文社とアテネ書院との間で大幅な改訂が加えられている。
  • 『マルクス學研究』(公文書院、大正8年)
    高畠素之のマルクス研究の初期研究書。大鐙閣でも同年に出版している。内容は同じ。
  • 『社會主義的諸研究』(大衆社、大正9年)
    マルクス研究の第二研究書。大鐙閣でも同年に出版している。
  • 『幻滅者の社會觀』(大鐙閣、大正11年):初のエッセイ集。
  • 『マルクス十二講』(新潮社、大正15年)
    高畠素之が最も網羅的にマルクス研究を行ったもの。マルクスの伝記より地代学説に及ぶ。『マルクス学解説』と改題・改訂して改造社(昭和3年)より出版。
  • 『自己を語る』(人文會出版部、昭和元年)
    二冊目のエッセイ集。増補版が同じ出版社から昭和3年に出ている。
  • 『マルキシズムと國家主義』(改造社、昭和2年)
    『マルキシズム概説』と『国家主義概説』を足したもの。それぞれ講座物で発表されていた論文。
  • 『論・想・談』(人文会出版部、昭和2年):三冊目のエッセイ集。
  • 『地代思想史』(日本評論社、昭和3年)
    『社会科学叢書』の一冊として発売された。冒頭に『農政研究』第六巻所収論文を収める。主としてマルクス系の地代研究書。地代論争が起こる以前のものでもある。
  • 『ムッソリーニとその思想』(事業之日本社、昭和3年)
    ムッソリーニの伝記とファシスト党の概説。全四章の内、第二章を津久井龍雄が執筆している。
  • 『マルクス経済學』(日本評論社、昭和4年)
    『現代経済学全書』の一冊。高畠素之の絶筆で、全体の三分の一ほどを執筆している。
  • 『批判マルクス主義』(日本評論社、昭和4年)
    高畠素之の死後に門下によって発表された国家社会主義関係の論文集。大正末年までに完成していた同名の書物(未発表)に、その後の論策を加えたもの。マルクスの価値論争に加わった「マルクス価値説の矛盾」などを含む。
  • 『英雄崇拝と看板心理』(忠誠堂、昭和5年):門下が高畠素之の遺稿を集めてつくったもの。

翻訳

  • 『資本論解説』(売文社、大正8年)
    カウツキーの『カール・マルクスの経済学説』を翻訳したもの。三田書房(大正8年)から同じものが、而立社(大正13年)とアテネ書院(大正14年)からその改訂版が、最後に改造社(昭和2年)から決定版が出版された。
  • 『資本論』
    1. 大鐙閣(第一巻:大正9~10年。第三巻:大正10~11年)
    2. 而立社(第二巻:大正12~13年):以上は同じもの。大鐙閣倒産後に而立社(じりゅうしゃ)が肩代わりして出版した。
    3. 新潮社(大正14~15年):大鐙閣・而立社の全面改訂版。大幅に訳文が変った。
    4. 改造社(昭和2~3年):高畠素之翻訳『資本論』の決定版。戦前の定本でもあった。改造社の『マルクス全集』の中には組み入れられなかったが、紙型や小豆色のカバーは同型。
  • 『社會主義社會學』(三田書房、大正9年)
    アーサー・レウヰス(Arthur Lewis)の『社会学への手引き』の訳述。大鐙閣(大正10年)で同じものが出版され、『社会学講話』と改題してアテネ書院(大正14年)から再版、最終的に改造社(昭和二年)からも出た。
  • 『財産進化論』(大鐙閣、大正10年)
    ポール・ラファルグの著書の翻訳。『財産の進化』と改題して新潮社(大正14年)からも『新学説大系』の一冊として出た。
  • 『古代社會』(上下冊。而立社、大正13年)
    モルガンの著書の翻訳。ただし上冊の大半と下冊すべては村尾昇一が翻訳した。
  • 『唯物史觀の改造』(新潮社、大正13年)
    ツガン・バラノヴスキイ(Tugan-Baranovsky)の著書『マルキシズムの学説的基礎』(部分)を訳述したもの。
  • 『社會學思想の人生的價値』(新潮社、大正14年)
    アルピオン・スモールの著書の訳述。『新学説大系』の一つ。
  • 『マルクスの余剰價値説』(実業之日本社、大正14年)
    主として『資本論』中の剰余価値学説に関係する部分を抜粋し、他の学者の説を並置解説したもの。書名の余剰は剰余と同じ。
  • 『哲學の窮乏』(新潮社、昭和2年)
    『マルクス著作集』の一つ。現在は『哲学の貧困』と訳されているもの。

参考文献

  • 主要人物論・回想記
    • 伊井敬(近藤栄蔵)「高畠素之」(『解放』第3巻第5号、大正10年5月)
    • 岡陽之助(岩沢巌)「高畠素之論」(第二次『解放』第5巻第2号、大正15年2月)
    • 「高畠素之氏の印象」(第二次『随筆』第2巻第2号、昭和2年2月)
    • XYZ「高畠素之論」(『経済往来』第3巻第10号、昭和3年10月。人物評論(19))
    • 堺利彦「高畠素之君を懐ふ」(『経済往来』第4巻第2号、昭和4年2月)
    • 白柳秀湖「哲學者の槍さび―逝ける高畠氏のことども―」(『改造』第11巻第2号、昭和4年2月)
    • 茂木実臣編『高畠素之先生の思想と人物―急進愛国主義の理論的根拠―』(大衆社、昭和5年9月。現在、大空社の『伝記叢書』215に収録。ISBN 4-87236-514-3 )
    • 「高畠素之追悼記念号」(『急進』第2巻第11号、昭和5年12月)
    • 津久井龍雄『日本国家主義運動史論』(中央公論社、昭和17年)
    • 同『私の昭和史』(創元社、昭和33年)
    • 「高畠素之の思想と人間」(『新勢力』第12巻第4号、昭和42年5月)
    • 田中真人『高畠素之 : 日本の国家社会主義』(現代評論社、昭和53年)
  • 資本論関連
    • 高畠素之「資本論を了へて」(『自己を語る』、人文会出版部、大正15年)
    • 同「資本論の会」(同上)
    • 堺利彦「新訳資本論の一節を読む」(『マルクス主義』第4巻第3号、大正15年3月)
    • 青野季吉「二つの『資本論』―高畠氏訳本と河上・宮川氏訳本について―」(『東京朝日新聞』(朝刊)昭和2年10月27日)
    • 三木清「『資本論』に於ける邦訳二著の対立」(『三木清全集』第20巻、岩波書店、1986年。もと『東京日日新聞』昭和2年11月7日)
    • 同「翻訳批判の基準―高畠本『資本論』は如何に辯護されたか―」(『東京日日新聞』同年同月21日)
    • 石川準十郎「高畠本の忠実性─両『資本論』の批判─」(『東京日日新聞』昭和2年11月12日)
    • 福田徳三「アリストテーレスの「流通の正義」=マルクスの其解釈に関する疑」(『改造』第10巻第1号、昭和3年1月)
    • 河上肇「反動学派の陣営における窮余の一戦術としての虚構―拙訳資本論に対する福田博士の非難について―」(『社会問題研究』第84冊、昭和2年12月。上記福田論文に対する批判。日付が混乱しているようであるが、河上は書店を通じて福田の論文を既に知っていたため、福田論文が発刊される以前に批判したもの)
    • 福田徳三「河上博士の『真摯なる態度』と『事実の虚構』」(『改造』第10巻第2号、昭和3年2月)
    • 鈴木鴻一郎『「資本論」と日本』(弘文堂、昭和34年)
    • 水島治男『改造社の時代(戦前編)』(図書出版社、昭和51年)

出典

テンプレート:Reflist

リンク

  • 堺利彦『高畠素之君を懷ふ』