高仙芝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

高仙芝(こう せんし、Gao Xianzhi, ? - 天宝14載(755年))は、高句麗系のの軍人。西域で活躍し、タラス河畔の戦いアッバース朝のイスラム軍と交戦した。

生涯

西域での奇功

高句麗の出身で、父の名は舎鶏といった。容貌が美しく、騎射に長け、勇敢で決断力があったが、父からは柔弱なところがある性質を心配されていたという。父が河西軍に従軍して功績があったので、安西軍に入って、二十歳余で遊撃将軍を拝した。安西節度使の田仁琬、蓋嘉運だったころには名は知られていなかったが、後任テンプレート:仮リンク夫蒙霊詧(中国語夫蒙灵詧)に重用された。

開元29年(741年)、達奚部落が唐に反し、北上し、碎葉城に向かって移動していた。都知兵馬使となっていた高仙芝は、夫蒙霊詧の命令で2千騎で討伐に赴き、追いつき、疲れを見せていた達奚部落を皆殺しにした。同年に、安西副都護・四鎮都知兵馬使に任命された。

小勃律(ギルギット)国が唐に反して吐蕃チベット)につき、付近20数カ国が吐蕃に与していたおり、田仁琬の頃から三回も討伐軍を出していたが、いずれも失敗に終わっていた。天宝6載(747年)、高仙芝は配下の封常清李嗣業・監軍の辺令誠ら歩騎一万を率いて討伐に出た。歩兵も全て馬を持ち、安西(クチャ)を出発し、カシュガルを通り、パミール高原に入り、五識匿国(テンプレート:仮リンク地方)に着いた。

その後、軍を三分して、趙崇玼と賈崇カンに別働隊を率いさせ、本隊は護密国を通って、後に合流することにした。高仙芝たちはパミール高原を越え、合流に成功し、急流のパンジ川の渡河にも成功する。この地で吐蕃軍が守る連雲堡(現在のアフガニスタンテンプレート:仮リンク付近にあった)を落とし、5千人を殺し、千人を捕らえた。ここで、進軍に同意しなかった辺令誠と3千人の兵を守備において、さらに行軍した。

峻険な20kmもほぼ垂直な状態が続くと伝えられるテンプレート:仮リンク(4703メートル)を下り、将軍・席元慶に千人をつけ、「大勃律(バルチスタン)へ行くために道を借りるだけだ」と呼ばわらせた。自身の小勃律の本拠地・テンプレート:仮リンク城への到着後、吐蕃派の大臣を斬り、小勃律王を捕らえ、パンジ川にかかった吐蕃へ通じる藤橋を切った。その後、小勃律王とその后である吐蕃王の娘を連れ、帰還する。西域72国は唐に降伏し、その威が西アジアにまで及んだ。

タラス河畔の戦い

途上に都・長安に直接、判官・王庭芬を使わして戦勝報告を行った。そのため、無視された夫蒙霊詧の怒りを買ったが、辺令誠が玄宗に彼をかばう上奏をしたため、夫蒙霊詧は都に呼び返され、高仙芝が代わりに安西四鎮節度使に任命され、鴻臚卿、仮の御史中丞に任じられた。その後も、高仙芝が夫蒙霊詧に謹直な態度をとったために、夫蒙霊詧は恥じいったという。副都護・程千里、衙将・畢思シンたちは夫蒙霊詧に高仙芝を讒言していたが、各々、一言ずつ侮辱しただけで「もう恨みはしない」と断言したため、軍は安んじたという。

天宝8載(749年)には左金吾衛大将軍の官位を加えられ、天宝9載(750年)にはトハラ(吐火羅)国からの要請に応じ、吐蕃と結んだといわれる朅師(チトワール?)国を攻め、王を捕らえ、別王を立てている。また、西トルキスタンタシケント(石国)に、偽って和睦を結んで攻撃し王を捕らえ、その財宝を略奪した。天宝10載(751年)長安に入朝した後、タシケント王を献上してから殺し、開府儀同三司を加えられた。

タシケント王子が逃亡し、各地の王に唐の横暴を説いて回った。当時、勃興したばかりのイスラム帝国アッバース朝の勢力が西トルキスタンに及び始めており、諸国の訴えを聞いたホラーサーン総督アブー・ムスリムがイスラム軍を派遣。高仙芝は李嗣業、テンプレート:仮リンクら3万人を率いて、長躯してタラス城に着き、イスラム軍と対峙したが、カルルク部族が造反し挟撃され、大敗した。高仙芝は李嗣業の意見に従い、退却した。(タラス河畔の戦い)高仙芝は長安に戻り、右羽林大将軍・密雲郡公に任じられた。

その最期

天宝14載(755年安禄山が反乱を起こし安史の乱が勃発。栄王・テンプレート:仮リンク(玄宗の皇子)が討伐軍の元帥に、高仙芝が副元帥に任じられた。高仙芝は飛騎、彍騎などの軍に募兵を加えた、総勢数十万といわれる天武軍を率い、すでに討伐軍の将に任じられていた封常清に続くことになった。陜郡まで来たところで、安禄山側に洛陽を奪われて敗走してきた封常清と会う。そこで、封常清の進言に従い、函谷関の西のテンプレート:仮リンクまで退くことを決める。太原倉を開いて全て兵士に渡し、残りを焼いて退却した。その時、安禄山軍に攻められて、唐軍は多くの兵が逃げて、踏みにじりあって死に、大量の武器、鎧、兵糧が放棄された。しかし、潼関への退却は成功し、安禄山軍は撤退した。

しかし、再び監軍となっていた辺令誠が口出しするのを無視したため、封常清とともに、玄宗に対する讒言を受けてしまったと言われる。玄宗は両名に対する処刑命令を辺令誠に下した。まず、封常清が処刑され、高仙芝も戻ってきたところを捕らえられた。高仙芝は「退却したのが罪なら、死も辞さないが、資財、兵糧を盗んだというならば冤罪だ」と言い、配下に向かって「私に罪があるなら、うち明けるがよい。そうでなければ『枉』(冤罪)と叫べ」と呼びかけると、軍中からの「枉!」という叫びが大地を揺るがした。封常清の死体に「君は私が抜擢し、私に代わって節度となった。今度は君と同じ所で死ぬ。天命なのだな!」と語り、処刑された。

将軍・李承光が代わりに指揮したが、新たに副元帥に任じられた哥舒翰は潼関の守備に失敗し、玄宗は長安を出奔する結果となった。

エピソード

  • 高句麗は668年に唐に滅ぼされ、多くの高句麗人が唐に連行されている。高仙芝は、姓が高句麗王と同じであり、高句麗王族の子孫という話もある。
  • 兵士が険阻な地形で怯えないようにするため、先行した兵を小勃律国の降伏の使者に仕立て上げ、歓迎する旨を伝えさせ、偽って兵を喜ばせ安心させてから進軍させた。
  • 阿弩越城を落とした時、勅命と偽って絹を渡し、小勃律人を呼び寄せて、大臣が来た時その全員を捕らえた。
  • 杜甫の『高都護驄馬行』は彼の馬をうたったものである。
  • 詩人の岑参も彼の配下であった時期がある。
  • 貪欲で多くの私財をため込んでいたが、物惜しみせず人がほしがるものは気前よく与えていた。
  • タラス河畔の戦いにより、杜佑の従子である杜環が捕虜となった。また、捕虜の中に製紙技術を持った者がおり、この時、西方にが伝来したと言われている。
  • 探検家のオーレル・スタインは、パミールの実地を調査し、高仙芝の軍事行動を高く評価している。

伝記資料

主人公とした小説

  • 陳舜臣「パミールを越えて」(短編)

主人公とした漫画

参考文献

  • 酒井敏明「旅人たちのパミール」(春風社、2000年)

外部リンク