香川敬三

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幕末期の香川敬三

香川 敬三(かがわ けいぞう、天保12年11月15日1841年12月27日) - 大正4年(1915年3月18日)は、水戸藩出身の勤皇志士。東山道軍総督府大軍監・皇后宮大夫皇太后宮大夫枢密顧問官は広安。旧姓蓮田幼名は、了介または徳松。旧名、鯉沼 伊織(こいぬま いおり)。変名は、小林彦次郎。明治になり香川広安、のちに敬三に改名。士族だったが、華族に編入される。爵位制度ができると子爵となり、のちに伯爵位。従一位勲一等旭日桐花大綬章。生年は天保10年(1839年)という説もある。

経歴

下伊勢畑(現在の常陸大宮市)の水戸藩郷士蓮田重右衛門孝定・袖の3男に生まれる。次兄には、蓮田東三(安政3年(1856年)にハリス要撃を計画するも発覚し入獄死)がいる。上伊勢畑(常陸大宮市)の吉田神社の神官である鯉沼意信(綱彦)の養子となる。

水戸の野口郷校(時雍館)や藤田東湖の私塾で学び、安政6年(1859年)に起きた勅書奉還事件では、神官同盟の1人として、現在の茨城町長岡に集まった長岡勢に加わった。翌、万延元年(1860年)には同志とともに攘夷を訴えるため、薩摩藩に駆け込み、これがもとで、水戸藩江戸屋敷において謹慎処分を受ける。文久3年(1863年)、藩主徳川慶篤に従って神官同盟として上洛し、諸藩の志士達と交流を深めた。一時、一橋慶喜(徳川慶喜)の側近となったが、急進的であったため罷免された(京都本圀寺党に加わったと言われる)。

のち、京都にて柳の図子党として活躍。慶応元年(1865年)、公家岩倉具視と親しくなる。膳所事件に関わり、志士井上謙三宅に逃げたとされる。慶応3年(1867年)、中岡慎太郎率いる陸援隊の副隊長格となる。同年11月、中岡が暗殺されると、今度は鷲尾隆聚の率いる鷲尾隊の副隊長格として翌月、高野山付近で義軍を挙げ、代官や諸藩と戦った。その際、死を覚悟した香川は郷里に髪を送り、現在も上伊勢畑には「鯉沼伊織埋髪塔」が現存する。

戊辰戦争が勃発すると、岩倉具視の子である具定を総督とする東山道軍総督府大軍監として進軍。江戸より軍を率いて宇都宮へ出立。途中、流山甲陽鎮撫隊新選組)陣屋を襲って、局長近藤勇を出頭させたと言われている。小軍監有馬藤太の証言によると、当時香川は旗役を務めていただけだったとも言われるが、岡田家文書の発見によって、通説通り東山道軍総督府大軍監であったことが明らかになった。宇都宮城の戦いでは、大鳥圭介土方歳三らに敗れ城を奪われ、救援を得て再び奪還している。その後、会津まで転戦した。

のち兵部権大丞となるが、軍務は不向きであるとして異動を申し出る。宮内省に移り、宮内権大丞、宮内少丞等を歴任。岩倉使節団への随行を希望したが選にもれ、宮内省を退官し自費で随行する。のちに宮内省理事官随行心得として使節団の正式な一員となる。

のちに再び宮内少丞、宮内大丞、宮内大書記官、皇后宮大夫有栖川宮閑院宮家政取締、皇太后宮亮、宮内少輔、華族局長、久宮御養育主任、主殿頭諸陵頭主馬頭、閑院宮別当、大膳大夫東伏見宮御用掛、大膳頭、議定官、枢密顧問官皇太后宮大夫など、宮内官僚として要職を歴任した。

明治になると、ともに活動して落命した同志のための名誉回復や、遺族へ訪問するなど、謝罪のため各地を歴訪したという。浪士組に参加した粕谷新五郎の実家、野口(現常陸大宮市)では粕谷家で戦死した者についての碑文を遺している。

大正天皇の生誕の際の御用掛や結婚の際には、御婚儀御用掛長を務めた。徳川慶喜の公爵授与に尽力し、徳川慶喜の娘を大正天皇の后候補として推した。佐々木高行下田歌子主導の皇女教育の方針に異議のあった明治天皇昭憲皇后夫妻の意思で、敬三がその牽制役を担ったこともあった。伯爵となってからも、徳川家の連枝には席を譲ったという。また日露戦争の際には、皇后の夢に坂本龍馬が出たという喧伝を行い、国民を鼓舞させた。

長女である香川志保子も、権掌侍取扱となり「呉竹の内侍」と言われた。明治33年(1900年)には東宮職を兼務している。英国に留学経験があり、通訳や服飾担当を務めた。 孫には、掌典次長を務めた香川朝男がいる。