飯田川町

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テンプレート:Infobox 飯田川町(いいたがわまち)は秋田県中央部に位置していた。秋田県で一番小さな町だった。

2005年(平成17年)、平成の大合併により昭和町、天王町と合併し潟上市となる。

町のシンボル

  • 町の花はうめ、平成7年制定。
  • 町の木は梅、昭和43年制定。
  • 町の鳥は鷺、平成7年制定。
  • 町の魚はフナ、平成7年制定。

地理

隣接していた自治体

歴史

テンプレート:出典の明記

縄文時代

縄文早期(1万2,000年〜1万5,000年前)八郎潟は形成されておらず、現在の湖東部一帯は、男鹿半島をはるかに望む出羽式海岸と呼ばれる海岸だった。海岸線は出羽丘陵の山際までにおよび、現在の飯田川の平地の大部分は海であったとされている。和田妹川の坂ノ下、井戸沢(役場前コンクリート壁部分)の崖に貝殻の層が発見されている。陸地であった丘陵部の古開、鳥木沢(飯塚地区)、井戸沢、松葉沢(下虻川地区)、大宮沢、坂ノ下(和田妹川地区)からは、縄文土器片、石鏃などが出土している。その後、雄物川の砂の堆積により、男鹿半島が陸地とつながり、八郎湖が形成されていった。

平安・鎌倉時代'

878年元慶2年)元慶の乱、大地震と冷害により庶民の生活は窮乏したが、秋田城司・良岑近の税の取立てが厳しく、南秋田郡一帯と米代川流域の土着民が反乱をおこした。秋田城を焼き払い、雄物川以北の独立を要求したが、朝廷側は賊鎮圧に乗り出し、国・郡で管理する備蓄米を放出し、ようやく鎮静化した。

平泉の藤原一族が滅ぼされた後、大半の在地領主が源頼朝に従ったが、湖東部を本拠としていた大河兼任だけは頼朝に降らず、1189年文治5年)頼朝との戦いの準備を進めた。翌1190年(文治6年)正月、本拠地とされる五城目町大川を出発。八郎湖の氷の上を渡って進軍したが、氷が割れ、大半の兵士が溺死した。その後も進軍するも、兼任は、樵(きこり)に殺され、蜂起は終焉する。兼任の大軍が八郎湖で遭難した場所は、昭和町の馬踏川河口付近と推測されているが、それらしい遺物は何1つ発見されていない。

戦国時代

1500年ころ、安藤友季が土崎湊城主となり、家来の三浦盛永が湖東部に赴任。しかし、1589年(天正17年)桧山城主安藤実季と湊城主安藤友季の同族間の争い(湊合戦)がはじまる。主戦場となった湖東部には、城や館が密集し、飯田川にも5か所(飯塚・和田妹川地区の丘陵部)に館がつくられた。湊城主安藤友季は敗れ、三浦盛永とともに浦城にて最後を遂げる。その際、安藤友季の息子・千代若は、家来の三浦左エ門尉にあずけられ、後に元服して和田五郎盛季と名乗り、飯田川町和田妹川地区に居を構える。和田妹川地区に点在する三浦姓は、この時の三浦氏の流れを汲むものとされている。

江戸時代

初代秋田藩主・佐竹義宣が、飯田川町下虻川地区に鷹狩りのお休所を構え、本陣としても活用したことから、屋敷割りした町づくりが行われる。また、羽州街道の宿場町としても栄える。虻川市が開かれ、海・潟の魚、野菜が商われ、全国的に有名な馬市も開かれ、秋田藩のみならず、諸国大名、幕府からも売買に来てにぎわった。

明治・大正・昭和時代

1879年明治12年)小玉久米之助が飯田川町飯塚地区で醤油・味噌の醸造を手がけ、現在の小玉醸造株式会社の前進となる会社を創業。2代目を受け継いだ小玉友吉は、1908年(明治41年)に秋田市内に支店を設立、酒造りも始め事業を拡大、飯塚地区の区長に選ばれてからは、区内の開田・耕地整理に尽力。県会議員に選出後は、国・県に働きかけて、羽後飯塚駅開業、銀行誘致、電話線の開設、開得寺の建立、神明社の建直しに尽力した。テンプレート:要出典1882年(明治15年)から、豊川村にある豊川油田で石油開発の探査が進められ、1904年(明治37年)永井金太郎が天然アスファルトの精製・販売を行う永井商会を飯田川町下虻川地区で創業、また、諸橋竹次がアスファルト製造・石油精製を行う諸橋製油所を同じく下虻川地区で創業した。

昭和40年代、国家プロジェクトである八郎潟干拓事業がはじまり、干拓事業による建設特需がおこる。

2005年3月22日昭和町天王町合併して潟上市となる。

年表

  • 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、塚村・和妹川村・下虻村・金山村が合併して飯田川村が成立。
  • 1935年(昭和10年)11月30日 - 飯田川村が町制施行して飯田川町となる。
  • 1942年(昭和17年)3月24日 - 大久保町・飯田川町が合併し、昭和町が発足。
    昭和町時代
    テンプレート:Main
    • 1942年(昭和17年)4月1日 - 昭和町・豊川村が合併し、昭和町が発足。
  • 1950年(昭和25年)
    • 7月1日 - 昭和町のうち旧豊川村であった地域(上虻川・船橋・岡井戸・槻木・龍毛・山田)が豊川村として再度分立。
    • 9月28日 - 昭和町のうち旧飯田川町であった地域(飯塚・金山・和田妹川・下虻川)が飯田川町として再度分立。
  • 1956年(昭和31年)9月30日 - 昭和町・豊川村が合併し、昭和町が発足。
  • 2005年(平成17年)3月22日 - 天王町・飯田川町・昭和町が新設合併し、潟上市が発足。

観光

  • 全県フナ釣り大会 毎年4月下旬、飯田川釣同好会と潟上市観光協会が共催するイベント。八郎潟調整池に流入する飯塚川、妹川、豊川の3河川を釣り場に開く。
  • 八郎湖 ブラックバス釣りのメッカとして全国から釣りファンが訪れている。滋賀県の琵琶湖、茨城県の霞ヶ浦と並んで三大釣り場として知られている。
  • 鷺舞祭り 毎年8月上旬に行われる伝統芸能。秋田藩二代藩主・佐竹義隆が神明社(現下虻川神社)を建立。その際、佐竹義隆の御前で舞われた鷺舞が伝統芸能として継承されている。テンプレート:要出典
  • イザベラの道 明治のはじめ、東北・北陸・関西などを旅行し、旅行記を記したイギリスの女性旅行家イザベラ・バードは、下虻川地区(現・潟上市飯田川下虻川)も訪れ、一泊している。1880年にテンプレート:Lang-en-short[1]として刊行された『日本奥地紀行』では、下虻川地区は次のように紹介されている。下虻川神明社前の道路が、昔、イザベラ・バードが旅行した羽州街道の面影を残している。

あぶ川(現潟上市飯田川町虻川)というみすぼらしい村で一泊せざるを得なかった。屋根裏の部屋で、ノミが多かった。米飯は、とても汚くて食べる気がしなかった。宿のおかみさんはひどい皮膚病にかかっていた。このあたりではもはや壁土の家はなく、村々の家屋はみな木造であったが、あぶ川は古ぼけて倒れそうな家ばかりで、家を棒で支え、斜になった梁は道路に突き出て、うっかりすると歩行者は頭を打つほどであった。

  • 小玉家住宅 飯田川町飯塚地区にある近代和風建築。小玉醸造株式会社の創業家・小玉家の住宅で、1923年(大正12年)竣工。主屋・文庫蔵・米蔵・車庫の4棟が飯田川町廃止(潟上市成立)後の2008年に国の重要文化財に指定された。

教育

  • 飯田川町立飯田川小学校

中学校はなく、旧飯田川町の中学生は旧昭和町に設置された「昭和町飯田川町組合立羽城中学校(合併後は潟上市立羽城中学校)」が2町全体の学区となっていた。

交通

鉄道

道路

出身有名人

産業

  • 小玉醸造株式会社 日本酒太平山、味噌・醤油ヤマキウを生産。味噌の生産量は秋田県第1位
  • 大久保駅周辺では、スナック、居酒屋、食堂をはじめとする飲食店が集中し、湖東部有数の飲食店街を形成している。

企業

脚注

  1. 直訳すると「日本における人跡未踏の道」

関連項目