頸城鉄道線

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頸城鉄道線新黒井駅跡の碑
黒井駅そば
ファイル:Uragawara tokei-bus 20040718.jpg
旧頸城鉄道線浦川原駅
廃線後に頸城バスの営業所に転用
現在は東頸バス本社
ほくほく線うらがわら駅徒歩約5分)

頸城鉄道線(くびきてつどうせん)は、かつて頸城鉄道自動車(現・頸城自動車)が運営していた、新潟県直江津市の新黒井駅と東頸城郡浦川原村(いずれも現上越市)の浦川原駅を結んでいた軽便鉄道路線。地元の利用者や鉄道ファンの間では「○」の中にアルファベットの「K」があしらわれた社紋にちなんで「まるけい」と呼ばれていた[1]1971年に全面廃止された。

線内で使用されていた2号蒸気機関車は「コッペル」の愛称で親しまれ、1966年5月に引退後、1972年5月から5年間、西武鉄道山口線で余生を過ごし、現在は同市頸城区百間町に保存されている。また廃線後、線路敷の一部には北越急行ほくほく線の建設用地になった箇所もある。

日本有数の豪雪地帯を走るため、雪対策が施された軽便鉄道でもあった。とはいえ軽便規格で豪雪に立ち向かうのは苦労を要し、開業後23年で終日運転不能の日だけで125日あり、全休日のない年はこの間のうち6年しかなかった。しかし同じく頸城鉄道が展開したバス事業はさらに深刻であり、1933年の記録では浦川原 - 高田間の全休日は116日に達したほどだった。結果的には、このバス事業の雪対策の遅れこそが、軽便鉄道が生き延びた最大の理由であった。

路線データ

運行

1967年9月10日当時

運行本数
新黒井 - 浦川原間直通列車:7往復
新黒井 - 百間町間区間列車:2往復
新黒井 - 明治村間区間列車:1往復
新黒井 - 飯室間区間列車:1往復
所要
新黒井 - 浦川原間44分

歴史

  • 1912年(大正元年)8月6日 上越軽便鉄道に対し直江津 - 下保倉間免許[2][3]
  • 1913年(大正2年)4月6日 頸城鉄道設立。
  • 1914年(大正3年)10月1日 新黒井 - 下保倉間 (13.8km) が開通、途中に北四ツ屋・百間町・上森本・飯室の各駅を設置[4]
  • 1916年(大正5年)5月5日 下保倉 - 浦川原間 (1.2km) 開通により全線開通[5]
  • 1919年(大正8年)8月20日 上森本駅を明治村駅に改称[6]
  • 1924年(大正13年) 鉄道営業のピーク。以後、バス事業、国鉄の新線開通により下降線を辿る。
  • 1926年(大正15年)8月7日 ガソリン動力併用認可。同年から気動車導入。
  • 1927年(昭和2年) 国鉄十日町線(現飯山線)の開通により、松代方面からの乗客が減少。
  • 1929年(昭和4年)7月 バス事業を開始。浦川原-直江津間に1日4往復。
  • 1930年(昭和5年)9月1日 大池駅を設置。
  • 1931年(昭和6年)
    • 国鉄上越線の開通によって松代方面の乗客の減少にさらに拍車。
    • 4月 合理化により北四ッ屋・下保倉の両駅を無人化。
    • 5月 本社を黒井から百間町に移転。
  • 1943年(昭和18年) 貨物輸送量のピーク。
  • 1944年(昭和19年)5月5日 交通統合により頸城鉄道から頸城鉄道自動車に改称。
  • 1946年(昭和21年) 鉄道部門の営業収支が初めて赤字計上。これ以後、黒字に転化することは廃止まで無かった。
  • 1955年(昭和30年)4月7日 鵜之木・花ヶ崎停留所を新設。
  • 1968年(昭和43年)10月1日 新黒井 - 百間町間 (5.4km)、飯室 - 浦川原間 (3.7km) を廃止。
  • 1971年(昭和46年)
    • 5月2日 百間町 - 飯室間 (5.9km) 全線廃止。
    • 6月1日 頸城自動車に社名を変更、鉄道部門を完全に事業廃止。

なお、1968年(昭和43年)10月1日の部分廃止によって国鉄線との連絡がなくなった後、『交通公社の時刻表』(現『JTB時刻表』JTB発行)や『ダイヤエース時刻表』(現『JR時刻表』交通新聞社発行)をはじめとする全国版時刻表から当路線の路線図・時刻・運賃が一切掲載されなくなった。それから廃止までの約2年半の間は、時刻表の上では「幻の鉄道」と化していた。

浦川原駅から先安塚村への延伸計画が存在したが1915年に免許が失効した[7]

駅一覧

新黒井駅(しんくろい) - 北四ツ屋駅(きたよつや) - 百間町駅(ひゃくけんまち) - 鵜之木駅(うのき) - 明治村駅(めいじむら) - 花ヶ崎駅(はながさき) - 大池駅(おおいけ) - 飯室駅(いいむろ) - 下保倉駅(しもほくら) - 浦川原駅(うらがわら)

接続路線

所属車両

蒸気機関車

1号機 (6.6t)
1914年製造。ドイツのコッペル社製。後にDC92に改造される。当初は同形機3両を導入の予定[8]
2号機 (5.0t)
製造年、製造所不詳[9]。1918年に売却
3号機 (5.0t)
開業時購入[9]、1915年売却
2号機 (5.0t)
1911年、コッペル社製。旧3号機と交換に1915年に大丸組から購入。1918年に2に改番、1966年に廃車。6輪連結タンク機関車、アラン式弁装置を採用
新3号機 (9.0t)
1945年、協三工業の製造になるいわゆる「戦時形」。1949年、仙台鉄道より転属。1952年にDB81に改造[10]

内燃機関車

DB81
8.0t、1952年、森製作所にて新3号蒸機を改造。出力は130PS。2軸凸型。後に協三工業にて台枠、逆転機、後軸を改造される
DC92
8.0t、1954年、協三工業にて1号機を改造。出力は130PS。3軸凸型。冬季には常時稼動し、信頼性は高かった
DC123
12.0t、1954年、日立製作所にて製造。1960年に十勝鉄道より転属となる。出力143PS。3軸L型。主に冬季に使用されたがエンジンの調子が良くなく、たびたびエンジントラブルを起こした[11]

内燃動車

最多時4両が在籍。全車木造車で、当初すべてガソリン動車。後年、ホジ3のみディーゼル動車に改造された[12]

単端式気動車

最初に導入されたのは定員20名の単端式気動車で1926年・1927年に各1両ずつが丸山車輛で製造。車体のみならず台枠も一部を木造とする。当初重量はいずれも2.07tを公称したが、丸山では類似車で寸法・定員の異なる他社向け車も一律2.07tを公称したため、実態とは異なる可能性が高い。エンジンは当初、丸山が多用したフォード・モデルT用2.9L4気筒(18HP/1,000rpm、20HP/1,500rpm)を専用2速変速機ともども搭載、プロペラシャフトとウォームギアを介して後軸を駆動した。

鉄道省監督局が1928年に実施したガソリン動車運行私鉄へのアンケートで、頸城鉄道は「現在使用する車両は輸送量の少ない路線には問題ないが、国鉄線に接続し連絡客の多い路線には不適当ではないか」という趣旨の回答を行っており、小型車では輸送力不足であった様子がうかがわれる(後年のホジ3・4製作の動機とみられる)。

1935年11月4日認可でエンジンを中古のシボレー1928年型用2.8L4気筒(18.4HP/1,000rpm、22HP/2,200rpm)に換装(フォードT専用の足踏み2段変速機はこの時点で手動3速式に変更必須となる)。その後、1942年7月30日認可で再度エンジンをフォードA型3.3L4気筒(30HP/1,300rpm)に換装、同時に浅川式ガス代燃炉付の木炭車となり(このため実出力はガソリン燃料の本来より低下)、車体左側出入口の拡幅を実施。実際の改造は同時期の多くの私鉄同様、認可に先行していたと推定される。戦後はガソリンカーに復元された。

丸山製単端車は構造脆弱で1930年代末期までに廃車された例が多かった中、頸城の2両は九十九里鉄道キハ102-104(1926年製)と並んで改装を重ね長寿を保ち、戦後は予備車化したが昭和30年代まで運用された。

ジ1
2.07t(後年3.0t)、定員20名、1926年製造。戦後はエンジンをいすゞ製ガソリンエンジンのDG32(4.4L6気筒 定格50PS 最大85PS)に換装、ボンネット前方突出し・チェーン2軸連動となり、車体全面に鋼板張り工事が行われた。1961年廃車。
ジ2
2.07t(後年2.1t)、定員20名、1927年製造。戦後は前面のみ鋼板張りとなったがジ1ほどの手は入れられず、丸山単端車の原型を多く残してボンネットを持たなかった。1956年廃車。

ボギー式気動車

単端式車の輸送力不足から、より輸送力のある大型気動車を製作することになり、既存の畳敷き特別客車ホトク1がほとんど稼働せずに余剰化していたため、これを自社百聞町工場で改造し両運転台ガソリンカーのホジ3とした。両端オープンデッキを残しロングシート客室化したが、車体大改造を避けるため、デッキ外妻ガラス窓に加え内妻にもガラス窓を設け、客室内に置いた運転室からガラス越しにデッキ窓と貫通路を通して前方を視認する、ほとんど他例のないレイアウトを採用した。客車時代そのままにトラス棒も存置された。

頸城鉄道はこの改造を1931年9月に鉄道省に設計申請したが、提出書類内容がずさんで大量の不備指摘を喰らい、1932年3月17日にもなって引換申請するという事態に至った。最後は鉄道省側が「(頸城鉄道に)繰り返し照会・督促したが、満足な書類が得られなかった。つまるところ会社にまともな技術者がいないようである」[13]という趣旨のあきれ気味な文面を記し、後日監査の機会に指摘するという当座の目こぼし的処断で、昭和6年度内ぎりぎりの1932年3月28日に設計変更認可が下りた[14]

ホジ3の成績を受けて1936年にホハ3の改造でホジ4を増備。機構や特異なデッキ内側運転台はホジ3を踏襲している。これらボギーガソリンカー2両は輸送力の大きさで主力となった。

戦後、ホジ4は客車に復元されたが、ホジ3はディーゼル化・デッキ廃止などの大改造を受けつつ、1971年の鉄道廃止まで気動車として運用された。

ホジ3
8.0t(改造当初6.15t)、定員42名、1931年(書類上は認可後の1932年4月)に自社工場にてホトク1を改造。当初は中古のハドソン4.85L直列6気筒(40.5PS/1,500rpm)を搭載、客車時代からの日本車輛製野上式ボギー台車に逆転器取付改造・チェーン2軸連動改造を施して動力台車化。変速機は当初3段式。ジ1・2と同じ1935年11月4日認可でフォードA型4気筒にエンジン換装(名目上日付と見られる)。戦後の1951年10月、車体両端デッキを廃止して車端まで客室を延長、車体中央にステップ付乗降口を設置、非対称3枚ガラス張りの前面を持つ車端片隅運転台車となる。エンジンは「統制型ディーゼル」の系統である予燃焼室式ディーゼルエンジンのいすゞDA45・5.1L直列6気筒(90PS/2,600rpm)に換装され、床下に収まらないためヘッド周りを覆う「木箱」状のカバーが客室床に突出した。変速機は機械式のままだが4段式となっている。動台車の2軸連動はチェーンから蒸気機関車のようなロッド式になったが、後年外されて1軸駆動となった。1957年に空気ブレーキ装備改造。トラス棒付きの木造車体はそのまま、1971年の全線廃止まで一貫して主力車として運行された。
ホジ4
6.25t、定員46名、1936年6月11日改造認可、自社工場にてホハ3を改造。当初からフォードA型エンジンを搭載。その他多くの仕様はホジ3に準じる。ディーゼル化されることなく1952年に再び客車(ホハ5)に戻された。

客車

ホハ1
5.97t、定員56名、1914年に日本車輌の製造。4軸ボギー車。同型車ホハ2
ホハ3
5.99t、定員42名、1914年に日本車輌にてホロハ1として製造。4軸ボギー車。2等廃止に伴い改造される。同型車ホハ4(旧ホロハ2)
ホハ5
5.97t、定員56名、1952年に自社工場にてホジ4を改造(動力類撤去、客車復元)
ホトク1
自重、定員不明、1914年に日本車輌にて日本初の畳敷き特別車両として製造(下駄箱と傘立ても備えた)。現役時は雑誌などに登場し、大人気だった。しかし使用頻度が低く1932年にホジ3に改造される。4軸ボギー車
ハ4
2.15t、定員20名、製造年不明。青梅鉄道工場にて製造。魚沼鉄道よりの転属。2軸箱型。後にニフ1に改造される
ハ5
3.2t、定員20名、製造年不明。青梅鉄道工場にて製造。魚沼鉄道よりの転属。2軸箱型ダブルルーフ、オープンデッキ付。同型車ハ6
ニフ1
2.15t、荷重4.0t、1958年に自社工場にてハ4を改造。荷物車として使用。2軸箱型

貨車

ワ1
2.28t、荷重5.0t、1914年、日本車輌にて製造。木製2軸有蓋車。同型車ワ2-6、ワ8、ワ9、ワ11
ワ7
2.50t、荷重5.0t、1960年にワ1の同型車を自社工場にて改造。鉄製2軸有蓋車。同型車ワ10
ワ12
2.0t、荷重4.0t、製造年、製造所不明。1949年に国鉄松浦線から転属。木製2軸有蓋車。同型車ワ13
ワ14
1.2t、荷重4.0t、製造年、製造所不明。1949年に国鉄魚沼線から転属。木製2軸有蓋車。同型車ワ16
ワ15
1.5t、荷重4.0t、製造年、製造所不明。1949年に国鉄省線魚沼線から転属。木製2軸有蓋車
ト2
1.67t、荷重5.0t、1914年に日本車輌にて製造。木製2軸無蓋車。同型車ト3、ト5、ト6
トフ1
1.67t、荷重5.0t、1914年に日本車輌にて製造。木製2軸手ブレーキ付無蓋車。同型車トフ4

除雪車

ロキ1
5.5t、1937年に自社工場にてワ12を改造した自走可能なロータリー式除雪車。出力は48PS
ラキ1
4.5t、1951年に自社工場にて国鉄省線魚沼線から譲り受けた貨車を改造したラッセル式除雪車。自走不可

保存車両

現在、頸城鉄道で使用された一部の車両が保存されている(ここでは公にされている車両のみ掲載)。なお1971年の頸城鉄道廃止後に、数両の車輌を熱心な鉄道愛好者が譲り受け、兵庫県内の山中に長年保管していた。2004年にその存在が明らかにされ、大きな反響を呼んだ。現車は新潟県に里帰りし、くびき野レールパークに保存されている[15]

くびき野レールパーク(旧百間町機関庫)

※通常は非公開。年に数日設定される定期公開日以外、機関庫への立入や車両の見学はできない。

2号機(蒸気機関車)
廃止後、1972年より西武鉄道に貸し出されるものの、1977年に台湾製の蒸機が導入されたことにより再び直江津に戻る。その後百間町の車庫にて保存
DC92
ディーゼル機関車。2006年外装復元、2007年動態化。
ホジ3
ディーセル気動車。2006年外装復元、2012年動態化。
ハ6
モニタールーフやオープンデッキを備える古典車。2006年外装復元。
ニフ1
パーツとして保管していたが、2014年イメージ復元。 明治時代に製造された軽便客車の数少ない生き残り。
ワ7
1959年銅板張り外装に改造。2012年外装復元。
ワ14
国鉄魚沼線から購入。2012年外装復元。
ト5
ト6
ト3の説もある。うち1両は2011年外装復元。

また、2010年より定期公開時に乗車体験イベントを開催しており、係員が添乗しているホジ3やハ6などに乗車して構内を往復できる。なお、このイベントには新潟県内外で活動している愛好家らも協力しており、今後もさらなる動態化へ向けた活動が進められていくようである。

新潟県立自然科学館

ハ5
1911年製造。現在は魚沼鉄道ハ2の表記になっている。ハ6と同型

羅須地人鉄道協会 まきば線

ラキ1
1951年改造。現在は610mm軌間に改造されている

脚注

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参考書籍

関連項目

外部リンク

テンプレート:Multimedia

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  1. 軽便鉄道』p95
  2. 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1912年8月9日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  3. 『時事新報』掲載の1912年8月10日付記事「軽鉄の指定と免許 - 草津興業と上越軽鉄」(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
  4. 「軽便鉄道運輸開始、停留場位置変更、停車場廃止及改称並哩程異動」『官報』1914年10月8日(国立国会図書館デジタルコレクション)「停留場位置変更…」とは併載の播州鉄道の件
  5. 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1916年5月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. 「地方鉄道停車場名改称」『官報』1919年9月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. 森口誠之著『鉄道未成線を歩く私鉄編』JTB、2001年、p.184
  8. 小林 (1964) は資金面の理由で残り2両を5t機としたとする
  9. 9.0 9.1 小林 (1964) によれば2号、3号ともコッペル製
  10. 小林 (1964) によれば仙台鉄道時代からボイラーの調子が悪く、また重心が高いため脱線の際に180度向きを変え横転する癖があり乗務員に嫌われたという
  11. 梅村『頸城鉄道』には、雪中で立ち往生した列車の救援に向かったDC123が逆にエンジン不調で立ち往生してしまったこともあったと記される。
  12. 本項目は湯口(2004)p129-131、湯口(2005)p242-244、p260、p266に準拠。
  13. 湯口(2004),p130引用の1932年3月設計変更認可時の文面大意。
  14. 仙台鉄道が1933年に自社のボギー客車ハ3を改造して気動車化する際、先行例の頸城ホジ3を参考とし、頸城側もこれに図面提供という形で協力した模様で、この時当局に提出された仙台鉄道キハ2の図面(特に駆動系の設計)は頸城ホジ3に酷似している。
  15. 『編集長敬白アーカイブ「2007年10月22日 前原さんと「門デフ」C57を撮りにゆく。(下)」』(鉄道ホビダス)/2013年8月3日閲覧。