頤和園

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頤和園(いわえん)は中華人民共和国北京市海淀区に位置する庭園公園。1998年ユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録。

歴史

1153年貞元元年)、金朝海陵王は頤和園内の香山、玉泉山に金山行宮を設置している。元朝が大都に都を置いた後、水運整備の必要性から、郭守敬は上流の水源開発を行い、昌平白浮村神山泉水から疏水し、宮廷で使用する水源を確保すると共に水運のための貯水池とした。

明代1494年弘治7年)、弘治帝の乳母であった助聖夫人羅により瓮山前に円静寺が建立(後に荒廃)された。これ以降、瓮山周辺の園林が次第に増加し、正徳帝は湖畔に行宮を建設し「好山園」と命名、皇室園林としての利用が始まり、また「瓮山」を「金山」と、「瓮山泊」を「金海」と改名し、正徳帝や万暦帝が舟遊びのため行幸している。天啓帝の時代になると朝廷内部で権勢を振るった魏忠賢により山園が所有されるにいたった。清初には宮廷の養馬場として牧草地にされている。

頤和園の前身は清漪園である。1750年乾隆15年)、崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦を祝い乾隆帝が西湖掘削と西山、玉泉山、寿安山の造営、更に西湖、高水湖及び養水湖を貯水池することを命じ、西湖を漢武帝が昆明池を掘削して水軍の訓練を行った故事に因み昆明湖と、また、瓮山を万寿山と改称した。1764年(乾隆29年)、洋銀480余万両の費用を費やした清漪園が完成している。当時の清漪園内には居住及び政務施設が極めて乏しかったため乾隆帝の行幸は日帰りに限られていた。道光年間以降は国力の衰退に伴い清漪園は次第に荒廃、1860年(咸豊10年)、第二次アヘン戦争の軍隊により消失してしまった。

1884年から1895年光緒9年から10年)にかけて西太后の隠居後の居所とすべく光緒帝の名により清漪園の再建が命令された。しかし経費の問題より修復は前山建築群に限定されたが、その造営は日本と軍事的緊張が高まり軍備増強の歳出を必要とする清朝には大きな負担となったが、北洋艦隊を整備する海軍予算を再建費に流用していたことで日清戦争敗北の原因の一つとなったと言われる程、国庫を圧迫するものであった。その後、庭園は再建され頤和園と改称、離宮とされた西太后の避暑地に利用された。1900年(光緒26年)、義和団の乱を鎮圧すべく出兵した八ヶ国連合軍の一部により破壊を受けたが、1902年(光緒28年)に修復されている。

中華民国が成立すると頤和園は清室の私有財産とされ、1914年には有料での一般開放がなされた。1924年溥儀が紫禁城から放逐されると、頤和園は北平特別市政府に接収され公園とされた。

1949年、中華人民共和国が成立すると頤和園には中国共産党中央党校が設置された。またその後も柳亜子江青などが園中の聴鸝館等に居住していた。1953年以降、頤和園は公園となり一般開放された。

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。テンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/core

関連項目

ギャラリー

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