阪急800系電車

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阪急800系電車(はんきゅう800けいでんしゃ)は、かつて京阪神急行電鉄及び阪急電鉄に在籍した通勤形電車である。戦前から15年近くにわたって製造された920系に続く神戸線用車両として1949年から1950年にかけて14両が製造された。製造当初の形式名は700系で、一部の車両は阪急で初となる架線電圧600V/1500Vの両区間を直通できる複電圧車両に改造され、神戸-京都間に新設された直通特急に充当されたことで知られている。

920系の最終増備車

太平洋戦争の敗戦によって大打撃を受けた日本の社会は、1948年から1949年にかけて、ようやく終戦直後から続いた混乱期を脱し、それと同時に紆余曲折を経ながら復興へと向かいはじめていた。鉄道車両もその例外ではなく、各私鉄においては終戦直後から1948年にかけて戦災車両の復旧に始まって、戦災国電の払い下げ[1]や一部の私鉄へのモハ63系の割り当てが行われるとともに、運輸省が車体寸法や使用機器等の基準を細かく定めた運輸省規格形電車の投入が行われ、急場の車両不足を脱するとともに、輸送力の増強を図った[2]。それと同時に修理品不足による長期休車車両についても、資材需要の好転によって修理が進んだことから運用に復帰するようになり、新造車両の投入とあいまって輸送力増強の底上げに寄与した。こうして復旧が進むと、運輸省で画一的な統制を続けていくと各私鉄の実情にそぐわなくなることから、1949年に規格の改訂が行われるとともに制約が緩和され、ようやく各私鉄の特徴を備えた車両が製造できるようになった。

阪急においては、1948年に宝塚線向けの550形京都線向けの700系といった運輸省規格形電車を新造した[3]が、戦前から自社のメインラインとして位置づけていた神戸線向けには、阪急スタイルから外れる運輸省規格形電車の投入を避けるために、戦災で焼失した四輪単車の150号[4]をはじめとした神宝線の事故被災車両のほか、当時同一会社だった京阪線からも戦災車両の車籍を集めて、改造名目[5]で920系の最終増備車である6次車10両[6]を製造した。1949年4月1日には大戦末期の1944年12月に休止されていた神戸線の特急運転が復活、阪神間の所要時間は30分と、戦前の25分運転に及ばなかったが、復興のひとつの節目となった。引き続いて輸送力の増強を図ることとなったが、当時の神戸線の標準であった2~3両編成から4両編成へと増結を行い、列車の増発を図るには、当時の神戸線の主力であった600900・920・96の各形式だけではまだ車両が不足していた。こうしたことから、920系の流れを汲んだ増備車を製造することとなったが、細部を変更したことから新形式の700系を与えられて、本形式が登場した。

概要

1949年8月に1次車10両(800-804・850-854)が、1950年6月には2次車4両(805-855・806-856)が、全車ナニワ工機(のちのアルナ工機)で製造された。基本的な設計は920系を継承しているが、連結面の形状や車体寸法等が変更されているほか、半鋼製車体で前面貫通扉付きの1次車に対し、2次車では全鋼製車体で前面非貫通構造となるなど、製造両数は14両と少ないながらも異なる面が見受けられる。こうしたことから、1次車を800形、2次車を805形と呼ぶことがある。項目ごとの概要については以下のとおり。

車体

1次車は、前年登場の920系6次車同様、車内や屋根が木製の半鋼製車体で製造された。基本的な設計は900形及び920系で確立された阪急スタイルを継承しており、側面窓配置d1(1)D8D(1)2(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓)、座席ロングシートは920系と同様であるが、車体長17.7m、車体幅2.75mと全長で100mm、車幅が50mm拡張され、920系では丸屋根だった連結面が完全な切妻形となった。また、920系6次車で採用された片隅式運転台は、本形式では再び全室型に戻されている。屋根中央には920系同様ランボードが設置されたが、ベンチレータの形状は電動車と制御車で異なり、電動車はガーランド形を、制御車は押し込み式を採用している。

2次車は、基本的な設計は1次車と同じであるが、屋根は木製ながらも車内が鋼製の全鋼製車体で製造され、戦前製造の920系同様、窓の四隅のRが復活した。この他、乗務員室と客室との間に仕切扉が設置されたほか、電動車の屋根ベンチレータも、押し込み式に戻されている。

2次車最大の特徴としては前面が非貫通となったことである。これは600形以降の阪急の大型車両では唯一の事例で、中型車を含めても1953年に登場した610系の第1編成の先頭車である610・660と、1956年に登場した210系211・212の3例があるのみである。ただし、2次車では後に登場した610・210の両形式とは異なり、中央窓のウインドヘッダーが上部に突出しているほか、中央窓が左右窓より大きいなど、容易に貫通扉取り付け改造ができるようになっている。2次車の紹介記事などでは「当時流行の湘南形への迎合の表われ」[7]とあるが、本形式は阪急スタイルの前面を非貫通としたものであり、当時関西急電向けにも製造され、三宮駅近辺で邂逅することが多かった80系とは全く異なるデザインであった。

主要機器

台車及び電装機器は、920系と同一ないしは同等のものを使用することとなった。台車は住友金属工業製鋳鋼台車のKS-33Lを履き、モーターは東芝SE-151[8]を4基搭載、制御器は同じく東芝製のPC-2Bを搭載した。ブレーキはAMA自動空気ブレーキである。したがって、920系と同一グループとしての運用が可能であり、最終期に至るまで920系と共通運用されることが多かった。

過渡期の新車

本形式は、被災車の改造名目で製造された920系6次車や550形・700系といった運輸省規格形電車とは異なり、車両新造時の制約が少なくなった中で製造されたが、デザインや性能といった面では戦前に製造された車両をもととしており、大きなモデルチェンジは行われなかった。他社における類似例としては、近鉄6301系をモデルに6401系を製造し、1400系 (初代)をモデルに南大阪線向けの6801系 (初代)を製造した例がある。

阪急においてモデルチェンジが行われたのは、陸上交通事業調整法によって合併した京阪線の分離再独立問題が決着[9]して現在の京阪電気鉄道が再独立後、それぞれ車体規格が違う神戸・宝塚・京都各線の車両規格を統一した阪急標準車体寸法を制定して、これに準拠した神宝線向け810系・京都線向け710系が製造された時である。

直通特急への充当

本形式は登場直後の1949年12月3日より、神戸(現三宮)-京都(現・大宮)間に運転を開始した直通特急の運用に充当されることとなり、702-752・703-753の2編成が急遽600V/1500V複電圧仕様車として改造されることとなった。

阪急における架線電圧の1500Vへの昇圧と神戸-京都間の直通運転の構想は、920系の製造時にまでさかのぼる。その後第二次世界大戦の勃発によってその時期を失してしまったが、戦後1948年末に神戸港に寄港した外国人観光客から京都直通運転を要望されたことで再度昇圧や直通運転に関する機運が高まった。ただ、架線電圧の昇圧は経済面から早期に行うのは困難であったため、それより安価な複電圧車両を投入して直通運転を実施することとなった。このための車両を準備することになったが、100形 (P-6)をはじめとした京都線所属車両では車体寸法的に神戸線への乗り入れが困難であり、両線を直通可能な車両として、新造間もない本形式に白羽の矢が立ち、2編成を600V/1500V複電圧仕様車として竣工させることとした。

複電圧仕様とするため、本来制御車であった750形を電動車とし、SE-151モーターを700・750形に2台ずつ装備して、600V区間では電気的に並列に、1500V区間では直列に接続する、いわゆるおしどり方式を取ることで対応させた。また、750形には、神戸線所属車では初の電動発電機を装備し、低圧の補助電源を確保したほか、主回路ならびに高圧補助機器の電圧切替を行うための電圧転換器を装備した。改造工事は11月までに完了し、11月29日から12月1日の3日間にわたって神戸-京都、十三-梅田西宮北口-宝塚の各区間において試運転が実施された。なお、753のみ試運転期間中はサロンルーム的な車内に改造し、リクライニングシートなどを配置していたが、営業開始前に元のロングシートに戻された。

直通特急は平日3往復、日曜祝日3.5往復[10]、西宮北口・十三・高槻市西院の各駅に停車して所要時間70分で営業運転を開始した。運転開始2日前に元京阪線を軸に京阪神急行電鉄から京阪電気鉄道が分離独立したことから、阪神急行電鉄のメインラインである神戸線と、京阪が高速電車のモデルとして心血を注いで建設した新京阪鉄道を出自とする京都線を直通する列車の運転は、京阪分離直後の新生阪急をアピールするのに格好の装置であった。

運転と電圧切替であるが、乗務員は神戸線所属の乗務員が京都まで直通運転を行った。電圧切替は十三駅京都側に無電圧区間を設け、十三駅停車中に乗務員が駅長から電圧切替ハンドルを受け取って切替操作を行った。このハンドルは600V用と1500V用の2種類があって、穴の形状も前者が三角、後者が四角であり、運転台の電圧表示灯もハンドル操作によって600Vでは赤三角が、1500Vでは緑四角が点灯した。

1950年3月には、京都線向けの700系と番号が重複するために、形式を800系に改めるとともに、車番が700-704・750-754から800-804・850-854に変更[11]された。また、3月21日からは直通特急の第二弾として、京都から西宮北口経由で宝塚に向かう日曜祝日運転の不定期特急(のちの「歌劇号」)の運転を開始、本形式は当時唯一の複電圧車両としてこの運用にも使用された。運転本数は2往復、停車駅は西院・高槻市・十三・西宮北口・宝塚南口の各駅と、競馬開催時の仁川駅[12]、所要時間は京都行き72分、宝塚行き73分である。

同年4月には直通運転用の2本と、600V専用車の801-851の3本については、阪急西宮球場周辺で開催されたアメリカ博覧会の宣伝用に、レモンイエロー+コバルトブルーの塗装に変更[13]され、開催期間中はそのまま使用された。同時に王子公園で神戸博覧会が開催されたこともあり、直通特急を平日4往復、日曜祝日6往復に増発するとともに、一部の列車は西灘の両駅にも停車した。複電圧車両は神戸-京都、京都-宝塚の直通特急以外にも日曜祝日には神戸-宝塚間の直通普通の運用にも充当[14]され、予備車両なしのフル稼働状態となったことから、京都-宝塚直通特急については1往復に削減されている。6月12日にアメリカ博覧会が閉幕すると、神戸-京都直通特急は平日3往復、日曜祝日4往復に削減された。ただし、京都-宝塚直通特急は1往復のままである。特別塗装ももとのマルーンに戻されている。

10月1日には阪急全線のダイヤ改正を実施、神戸-京都直通特急は神戸線内のスピードアップと京阪間をノンストップ運転としたことから65分にスピードアップ、京都-宝塚直通特急も京都行き64分、宝塚行き67分にスピードアップされた。運転本数は神戸-京都直通特急は平日・日曜祝日とも4往復、京都-宝塚直通特急は日曜祝日のみの1往復となった。1951年になると、前年に製造された810系が直通特急に充当されることになり、800系の運用は消滅した。803-853については、直通運用離脱直後の同年4月に600V専用車に復元されたが、802-852は1955年末まで複電圧車のまま残され、810系の予備車とされたほか、車内灯の蛍光灯化や車内放送装置の試験車とされた。1954年10月10日から12月19日にかけて実施された西宮北口駅構内配線改良工事の際には、802-852が810系とともに宝塚線経由[15]で運転された京都-宝塚間直通特急の運用に充当されている。

一般運用

直通特急以外の運用であるが、登場直後の1次車は、神戸線の特急から普通までの各列車において本形式同士の組み合わせで2両ないし4両編成で運用された。2次車については、登場直後こそ単独の2両編成で運行されたこともあったが、早い段階で920系とペアを組み、4両編成[16]で使用される事が殆どとなった[17]。1次車も神戸線の各列車の編成両数が3・4両と長くなるにつれて、900形・920系と同一グループで使用されるようになり、900形を大阪側に連結した3両編成も見られるようになった。1953年4月のダイヤ改正で特急が昼間時10分間隔に増発のうえ全列車4両編成で運転されるようになると、本形式は特急の主力として運用されることが多くなった。また、2次車については、非貫通では運用上不便であることから何度か貫通扉の設置が検討されたが、最後まで設置されずに終わった。

一方、複電圧車両の予備車として残された802-852であるが、複電圧車時代は他車との連結ができず、600V専用車に戻ってからも1次車では浮いた存在になってしまい[18]、のちには同じように中途半端な存在となっていた810系の822-872と編成を組んで使用されることが多くなった。また、1,2次車とも900形や920系同様1950年代前半の今津線や1950年代後半から1960年代前半にかけての伊丹線といった神戸線の支線区において2両編成で運用されたこともある。

1959年11月から神戸線の特急・急行において5両編成での運行を開始すると、1次車は4両編成の先頭に900形を連結することが多くなり、先頭に立つ機会が減少した。2次車はペアを組んだ920系の中間に900形を組み込んで、2+1+2の5両編成[19]を組成した。1962年には特急が全列車5両編成化されるとともに、一部の列車が6両編成化された。本形式をはじめ900・920・810といった吊り掛け駆動車も試行的に6両編成を組成[20]したが、神戸線では運転速度が高いことからブレーキ操作に難があったために乗務員に嫌われてしまい、数日で編成を解かれてしまった。その後810系を中心に旧型車は断続的に6両編成を組むこともあったが、当面5両編成で運用されることとなった。1964年には神戸線の本線運用が全列車5両ないしは6両編成化され、1965年1月ごろには、914+822-872+804-854と、本形式と900形・810系の混成5両編成を組んでいたこともある。

昇圧以後

1960年代後半に予定されていた神宝線の架線電圧600Vから1500Vへの昇圧[21]に際しては、本形式は昇圧対応工事の対象車となり、併せて長編成化に対応するためのブレーキ改造と、車内が半鋼製であった1次車については更新工事が1965年ごろから1967年にかけて実施されることとなった。1次車の更新工事の内容であるが、半鋼製の車内を全鋼に変更し、運転台拡張・踏切事故対策としての前面の強化や窓枠の軽金属化が行われ、屋根周辺についても、ランボードの撤去をはじめ、雨樋の取り付けや2000系以降と同タイプの前照灯シールドビーム2灯化などが行われ、外観は大きく変化した[22]。一方、2次車は更新改造を施工されなかったが、のちに客用扉の交換などが整備は行われている。ブレーキ装置は全車HSC電磁直通空気ブレーキ装置に改造された。

更新改造後、シールドビーム化によって保安面での信頼性が高くなった1次車と、先頭車以外での使用が困難な2次車が揃った800系は、本線の先頭車として重用されることになり、920系や900形を中間に組み込んで6・7両編成の先頭に立つ姿が多く見られた。このため、大阪寄の先頭車となる800形は、ドア間座席の短縮化工事が行われ、窓5枚分の座席しかない車両も存在した。

昇圧後の神戸線では吊り掛け駆動車の特急運用がわずかながら残っていたが、1968年4月7日神戸高速鉄道開業に際して特急全列車が三宮以西に直通するようになったことからついに消滅[23]、神戸線では三宮折り返しの急行・普通運用を主体に運用されるようになった。宝塚線昇圧の際には、1・2次車共に宝塚線に転属し、その後神戸線に戻ったものの、1次車の一部は、宝塚線でも使用される様になった。

1970年代中頃に入っても、800系は801・804・805・806の各編成が7両編成を組まれて、神戸・宝塚線で先頭車として使用されていたが、既に旧型車の優等列車運用は減少おり、普通運用が主体となった。1976年には2次車の2本が920系[24]と差し替えられて今津線に転出し、残る1次車2本のうち、804Fは1977年春に900形3両を外して4連化された上で今津線に転出し、宝塚線に残った801Fについても、ほぼ同じ頃に4連化されて支線に転出し、本線での運用を終了した。

その後は今津線と箕面線、伊丹線で使用されたが、車体が未更新で老朽化が進んでいた2次車が900形に引き続いて廃車されることとなり、1978年4月20日付で806-856が、1979年3月31日付で805-855が廃車された[25]。残った1次車は、新たに甲陽線において3両編成で運用を開始されたが、1981年から廃車が開始[26]され、1982年3月の甲陽線での運用[27]を最後に、同線で運用されていた920系943-938-973の3両編成とともに運用終了し、廃車[28]・系列消滅した。

ファイル:Hankyu 804.JPG
804(説明板では800)の運転台(2010.10.24正雀工場内の阪急ミュージアムにて撮影)

804の運転台部分のみ、1981年4月より宝塚ファミリーランド内の電車館に展示されたが、閉園後は正雀工場に保管されている[29]

脚注

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参考文献

  • 慶應義塾大学鉄道研究会編、『私鉄電車のアルバム 1B』 交友社 1981年
  • 高橋正雄、諸河久、『日本の私鉄3 阪急』 カラーブックスNo.512 保育社 1980年10月
  • 『車両アルバム1 阪急810』 レイルロード 1988年
  • 「阪急鉄道同好会創立30周年記念号」 『阪急鉄道同好会報』 増刊6号 1993年9月
  • 藤井信夫、『阪急電鉄 神戸・宝塚線』 車両発達史シリーズ3 関西鉄道研究会 1994年
  • 浦原利穂、『戦後混乱期の鉄道 阪急電鉄神戸線―京阪神急行電鉄のころ―』 トンボ出版 2003年1月
  • 『鉄道ピクトリアル』各号 1978年5月臨時増刊 No.348、1989年12月臨時増刊 No.521、1998年12月臨時増刊 No.663 特集 阪急電鉄
  • 『関西の鉄道』各号 No,25 特集 阪急電鉄PartIII 神戸線 宝塚線 1991年、No,39 特集 阪急電鉄PartIV 神戸線・宝塚線 2000年、No,54 特集 阪急電鉄PartVII 神戸線 2008年
  • 『レイル』 No,47 特集 阪急神戸・宝塚線特急史 2004年
テンプレート:阪急電鉄の車両
  1. 戦災国電の払い下げは1950年代前半まで続いた。
  2. モハ63系や運輸省規格形電車を投入した私鉄は、それによって生じた余剰車両を地方私鉄に譲渡することとなった。
  3. この他に、当時同一会社だった京阪線向けの1300系もある。
  4. この車両は1930年に休車となってからは、車籍は有していたものの廃車に近い状態で西宮工場の脱衣場として使用されていた。
  5. 当時はこのような名目がない限り、運輸省規格形車両と異なる新車の導入は認められていなかった。
  6. 車番は943-973〜947-977
  7. 『鉄道ピクトリアル』1989年12月臨時増刊号など。
  8. 端子電圧750V時1時間定格出力170kW、810rpm。
  9. 鉄道会社過度経済力集中排除法の適用対象外であったが、財閥解体の流れの中で、大都市圏私鉄の被合併会社の役員を中心に分離独立運動が起き、1948年までにはいわゆる「大東急」が解体されて現在の東京急行電鉄京浜急行電鉄小田急電鉄京王帝都電鉄の4社に分割され、近畿日本鉄道も旧南海鉄道の路線を高野山電気鉄道に譲渡のうえ、高野山電気鉄道が南海電気鉄道と改名した。ただし、阪急と京阪の分離は旧新京阪線の帰属問題があったことから再分離に時間がかかった。
  10. 神戸発平日9:16,12:16,15:16、日曜祝日9:39,14:06,18:06、京都発10:54,13:54,16:44、日曜祝日8:00,12:00,16:22,19:30
  11. 同時に京都線においても神宝線車両と車番が重複する300・500・550の各形式を1300形・1500形・1550形と改番した。
  12. 後に、宝塚南口と京都行きの西宮北口については通過扱いとなる。
  13. 塗装はレモンイエローをベースにコバルトブルーの帯を巻いたものと、その逆のパターンの2種類があった。
  14. 後年の西宮北口駅改良工事実施まで、神戸-宝塚方面への渡り線があった。京都-宝塚直通特急もこの渡り線を使用して今津線に入線している。
  15. 宝塚線経由は宝塚行きのみ。
  16. もっぱら805-955+925-855および806-956+926-856で編成を組まれていたが、他の920系と組まれる事もあった。
  17. 2両編成で伊丹線で使用された記録もある。
  18. 残り4本で4両編成2本を組んでいたため。
  19. 1963年12月時点の805の編成を例にすると、805-955+908+925-855となる。
  20. 神戸線の吊り掛け駆動車で最初に6両編成を組んだのは810系。
  21. 昇圧は神戸線が1967年10月8日、宝塚線が1969年8月24日
  22. 運転台拡張の関係で乗務員扉の位置が左右で少しずれている。
  23. 阪急の吊り掛け駆動車は、一時的に配置された1200系を除き、神戸高速線乗り入れ対象外となった。
  24. 922-954+927-957と932-962+920-950
  25. 806-856から取り外されたアンチクライマーは、900号車の復元の際に流用された。
  26. 802-852と803-853が1981年1月27日付、804-854が同年3月13日付で廃車。
  27. 800-940-850
  28. 801-851が1982年3月9日付、800-850が同年6月5日付で廃車。
  29. 2010年10月24日開催の秋の阪急レールウェイフェスティバルでは「800系(800号車)カットボディ」と紹介されているが、説明文の方に誤りがあるので、注意が必要。