鈴木平

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テンプレート:Infobox baseball player 鈴木 平(すずき たいら、1970年3月10日 - )は、静岡県磐田市出身の元プロ野球選手投手)。引退後は鍼灸師となっている。

来歴

アマチュア時代

磐田市で飲食店を経営する家庭に生まれる。出生時の体重が3,950グラムと幼少期から大柄で、2歳下の弟と自宅前の公園で毎日のようにキャッチボールをしていた[1]。小学校6年生の時に市内のソフトボール大会で投手を務めて優勝したのをきっかけに、少年野球チームに勧誘されて軟式野球を始めている[1]城山中学でも野球部に入り、中学時代の江川卓を指導したこともある監督の下でのびのびと成長した[2]。またこの頃には草薙球場でキャンプを行っていた大洋の選手が実家の飲食店に来て、斉藤明夫松盛茂らとキャッチボールをする機会があり、自然とプロ野球選手を目指すようになった[2]

東海大一高に進むと1年の春には背番号18をもらい、グラウンド脇にある三保の松原で走りこんで足腰を鍛えた[2]。2年生の秋にはチームのエースとなり、秋季県大会では決勝まで進んでスカウトの注目を集めた[3]テンプレート:Byの3年夏には最速140km/hの県内屈指の右腕として県大会に臨んで四番も務めている。同大会では四回戦で東海大工と対戦し、9回裏2死で3点リードと勝利を目前にしながら、エラーなどが重なって逆転負けを喫した[3]

素質の高さやクセのある球筋を評価されて11球団のスカウトが挨拶に来ており[3]同年のドラフト会議では阪急ヤクルト広島の3球団が3位指名で競合。抽選の結果ヤクルトが指名権を獲得し契約金3500万円、年俸400万円(金額は推定)で入団合意した[4]

プロ野球選手時代

プロ1年目のテンプレート:Byは一軍での登板機会がなかったが、右の本格派としては球速や変化球に大きな特長がない事からサイドスローへの転向を決めた[5]。転向間もないテンプレート:By8月12日の対広島戦で、敗戦処理の場面で一軍初登板を経験。8月17日の対阪神戦では初めて先発し、5回を投げて初勝利を挙げている。故障者が多く先発ローテーションが回らない状態のため、さらに8月20日の対広島戦に中2日で先発すると5安打に抑えて完封勝利をおさめた[6]。しかしその後はわき腹痛や制球難などで出場機会が減少し[5]、また同じサイドスローの高津臣吾の活躍もあり一軍に上がる事も少なくなった。

テンプレート:By山内嘉弘との交換トレードでオリックスに移籍すると、クローザー平井正史に繋ぐセットアッパーを野村貴仁とともに務めた。山田久志コーチが四球に我慢して起用したこともあり、自身も体への負担を感じながら高いモチベーションを保ち、50試合に登板して防御率1.83の好成績を残す[7]同年の日本シリーズでは古巣のヤクルトが相手となって気合が入り[7]、3試合に登板して打者13人を無安打に抑えている。同年の契約更改では年俸が3,500万円(推定)に上がり、またオフには結婚式を挙げている[8]

テンプレート:Byは平井の不調もあってクローザーを務め、オールスターゲームに初めて出場している。シーズンでは前年を上回る55試合に登板して7勝2敗19セーブの成績をおさめた。最優秀救援投手となった成本年秀赤堀元之とは4SP差だったが、リーグ優勝決定後はタイトルを狙わず日本シリーズに向けた調整に入っている[7]巨人との日本シリーズは第1戦の9回裏に登板し、先頭の福王昭仁に四球を与えて続く大森剛に同点となる2ランホームランを打たれるも、10回に味方が逆転して勝利投手となった。第2戦で9回2死、走者1塁の場面で登板して落合博満を三塁ゴロに打ち取ると、第3戦、第5戦は計3イニングをパーフェクトに抑え、1勝3セーブと勝ち試合全てでセーブポイントを挙げて日本一に貢献。特に、四番の落合とは3回の対戦で全て抑えている。オフには長女が生まれ、投手陣で一番の貢献という評価を球団から受けて年俸8,000万円(推定)で契約を更改した[8]

テンプレート:Byはキャンプから右肩痛が完治せず、4月19日には右ひじの炎症で登録を抹消されている[9]。夏場にも一時出場登録を抹消され、クローザーは主に小林宏が務めた。同年以降も中継ぎとして毎年40試合に登板したが、高年俸の選手の放出が続いたオリックスにあって[7]テンプレート:Byオフに岸川登俊河野亮との交換トレードで中日に移籍。年俸は700万円減の7,000万円(推定)となった[10]

前年に宣銅烈が退団したためテンプレート:Byはクローザー候補として期待されていた[11]が、気持ちが切れかけた事もあり[7]オリックス時代以来の山田久志コーチの下でも活躍できなかった。同年の契約更改で年俸は5,800万円(推定)に下がり[12]、一軍登板のなかったテンプレート:Byオフに戦力外通告を受ける。その後尾花高夫コーチに誘われてダイエーにテスト入団し、年俸は1,500万円(推定)となった[13]テンプレート:Byは12試合に登板して防御率5.25に終わり、4月10日の対近鉄戦でタフィ・ローズに投げた低めのシンカーを決勝ホームランとされた[14]事が特にショックで、力の衰えを実感したという[7]。同年オフに再び戦力外通告を受け、現役を引退している。

現役引退後

引退後は一生続けられる仕事として鍼灸師を目指し、鍼灸養成施設の神戸東洋医療学院で3年間学ぶ。2006年2月に国家資格を取得し、故郷の磐田市に鍼灸院「タイラ治療院」を開業した。地元の子供たちにプロ野球を身近に感じて欲しくて磐田を選んだという[7]イチローなどかつての同僚から開業祝が贈られている。

プレースタイルなど

小学生の頃から手のひらとボールの間に隙間ができる自己流の握りだったため、ストレートがナチュラルに変化してツーシーム気味になったという[5]。この球がカーブなどと誤解され、変化球が禁止されている少年野球の大会では登板できない事もあった[2]。プロではストレートに加えて大小2種類のカーブとシンカーを駆使している[6]

中学時代は強打者相手でも真っ向勝負を好む気の強さがあり、一方でいたずらをする事も多かった[2]。これに対して父親は厳しく接し、自分の手にタバコの火を押し付けてから平の手にもその火を押し付け、痛みを忘れず反省するよう諭すこともあったという[2][5]。また高校時代には毎週末に1時間かけて父親が高校のグラウンドまで来て声をかけ、精神的に支えとなっていた[3]

詳細情報

年度別投手成績

テンプレート:By2 ヤクルト 8 4 1 1 0 2 0 0 -- 1.000 112 27.0 19 0 13 0 1 21 1 0 7 6 2.00 1.19
テンプレート:By2 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 19 4.1 4 0 3 0 1 2 0 0 1 1 2.08 1.62
テンプレート:By2 13 0 0 0 0 1 2 0 -- .333 78 16.1 20 3 11 2 3 17 2 0 12 12 6.61 1.90
テンプレート:By2 4 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 21 4.0 2 0 7 1 1 4 0 0 3 3 6.75 2.25
テンプレート:By2 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 8 1.1 3 1 0 0 1 3 0 0 3 3 20.25 2.25
テンプレート:By2 オリックス 50 0 0 0 0 2 4 3 -- .333 239 59.0 42 1 22 3 2 53 1 0 15 12 1.83 1.08
テンプレート:By2 55 0 0 0 0 7 2 19 -- .778 304 74.0 55 5 30 2 3 58 1 0 21 20 2.43 1.15
テンプレート:By2 42 0 0 0 0 3 5 6 -- .375 217 47.0 44 2 30 0 8 29 3 0 25 20 3.83 1.57
テンプレート:By2 45 0 0 0 0 5 0 5 -- 1.000 227 51.1 48 3 29 0 1 46 3 2 21 12 2.10 1.50
テンプレート:By2 42 0 0 0 0 5 4 3 -- .556 77 54.1 40 5 37 3 7 37 1 0 32 24 3.98 1.42
テンプレート:By2 中日 21 0 0 0 0 1 1 0 -- .500 77 16.1 19 1 8 2 2 12 0 0 7 7 3.86 1.65
テンプレート:By2 ダイエー 12 0 0 0 0 1 1 0 -- .500 52 12.0 11 2 4 0 2 11 3 0 9 7 5.25 1.25
通算:12年 296 5 1 1 0 27 20 36 -- .574 1596 367.0 307 23 194 13 32 293 14 3 156 127 3.11 1.37

表彰

記録

背番号

  • 40 (1988年 - 1994年)
  • 43 (1995年 - 1999年)
  • 45 (2000年 - 2001年)
  • 13 (2002年)

著書

  • 『プロ直伝!! 野球ひじ・野球肩の治し方と予防法』(2012年9月:日東書院本社

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:日本シリーズ優秀選手

テンプレート:ヤクルトスワローズ1987年ドラフト指名選手
  1. 1.0 1.1 週刊ベースボール、1996年7月8日号、P.125
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 週刊ベースボール、1996年7月8日号、P.126
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 週刊ベースボール、1996年7月8日号、P.127
  4. 朝日新聞、1987年11月27日付朝刊、P23
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 週刊ベースボール、2006年4月24日号、P.90
  6. 6.0 6.1 週刊ベースボール、1989年9月11日号、P.30
  7. 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 7.5 7.6 週刊ベースボール、2006年4月24日号、P.91
  8. 8.0 8.1 週刊ベースボール、1997年1月27日号、P.32
  9. 毎日新聞、1997年4月20日付朝刊、P.23
  10. 毎日新聞、1997年4月20日付朝刊、P.15
  11. 読売新聞、2000年3月30日付朝刊、P.18
  12. 読売新聞、2000年12月2日付朝刊、P.23
  13. 朝日新聞、2001年12月4日付朝刊、P.17
  14. 朝日新聞、2002年4月10日付朝刊、P.15