鈴木傳明

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テンプレート:ActorActress 鈴木 傳明(すずき でんめい、1900年明治33年)3月1日 - 1985年昭和60年)5月13日)は、日本の俳優、水泳選手。無声映画時代の現代劇の人気スターである。本名は同じ鈴木傳明だが、読みはつぐあきら[1]

経歴

東京上野に実業家の息子として生まれる。中学生の頃から水泳選手として実績を残していた。1920年明治大学予科に入学。水泳部の主将となり、上海で行われた極東選手権大会には200ヤードリレーのメンバーとして出場し、優勝している。

またこの頃、かねてより映画に興味を持っていたので、小山内薫の「松竹キネマ研究所」に出入りするようになり、在学中に同研究所製作の『路上の霊魂』に"To Go There"をもじった東郷是也の芸名で出演、これにより日本初の大学出のスターが誕生した。同研究所には、後に名監督といわれた村田実牛原虚彦島津保次郎などがいた。

大学卒業後、日活京都撮影所に入る。入社第1作は、小山内薫原作、溝口健二監督の『塵境』である。その後、1924年浦辺粂子の相手役として貫一を演じた『金色夜叉』などに出演、日本人離れの長身とエキゾチックな容貌で人気スターとなった。

1925年松竹に引き抜かれた。松竹キネマ研究所以来の盟友である牛原虚彦監督とのコンビで『彼と田園』『陸の王者』などの明朗青春映画に主演、溌剌として明るい青年を演じ、新しい形のヒーロー像を作り上げた。また、栗島すみ子田中絹代などの看板女優とコンビを組み、その人気を不動のものとした。1929年に大幹部に昇進した。

一躍、大スターへ上り詰めたが、当時の松竹蒲田撮影所所長、城戸四郎と徐々に対立するようになり、1931年、当時の人気俳優、岡田時彦高田稔と松竹を退社し、不二映画社を設立するが、2年で解散する。その後、日活に復帰し、後には永田雅一第一映画社に参加するが、作品に恵まれなかった。

戦後は、映画界から身を引き、実業界へ転じたが、成功したとはいえなかった。また、1950年第2回参議院議員通常選挙には国民民主党公認で、1953年第3回参議院議員通常選挙には改進党公認で全国区から立候補したが落選している。

1985年肺気腫のため死去。85歳。

代表作

ファイル:Junan bana 1926.jpg
『受難華』(1926年)公開時のポスター。右上に鈴木の写真と名前が確認できる。
  • 路上の霊魂(1921年)
  • 塵境(1924年)
  • 金色夜叉(1924年)
  • 青春の歌(1924年)
  • 曲馬団の女王(1924年)
  • 春は来れり(吹雪をついて)(1925年)
  • 海人 南国篇(1926年)
  • 海人 都会篇(1926年)
  • 受難草(1926年)
  • 新珠(1927年)
  • 真珠夫人(1927年)
  • 昭和時代(1927年)
  • 彼と東京(1928年)
  • 彼と田園(1928年)
  • 陸の王者(1928年)
  • 彼と人生(1929年)
  • 進軍(1930年)
  • 大学の顔役・ラグビー篇(1930年)
  • 金色夜叉(1933年)
  • 建設の人々(1934年)
  • 貞操問答(1935年)

脚注

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関連項目

参考文献

  • 弓館小鰐『スポーツ人国記』 ポプラ書房 1934年

外部リンク

  • 無声映画鑑賞会編 株式会社マツダ映画社監修『日本無声映画俳優名鑑』(アーバン・コネクションズ、2005年)26頁。