野村克則

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テンプレート:Infobox baseball player 野村 克則(のむら かつのり、1973年7月23日 - )は、東京都目黒区出身(出生地は大阪府)の元プロ野球選手捕手)、プロ野球コーチ

現在は東京ヤクルトスワローズの二軍バッテリーコーチを務める。現役時代の登録名は「カツノリ」(テンプレート:Byのみ本名「野村克則」だった)。父は野球解説者・評論家の野村克也、母はタレント野村沙知代、異父兄は団野村ケニー野村。他に異母兄が1人いる。

経歴

生い立ち

1973年7月23日、当時南海ホークスの選手兼任監督だった野村克也と、その愛人だった女性・芳枝(野村沙知代)との間に生まれた[1]。当初、克也は克則を認知せず、芳枝は非嫡出子となる克則を自身の父親と養子縁組させることを画策したという[2]。後に克則は認知されたが、1978年には前妻との離婚が成立した父・克也が芳枝と再婚したことで、この時点で正式な家族関係が成立した。また、芳枝とその前夫であるユダヤ系アメリカ人との間には二人の男の子、団野村ケニー野村がいたため、異父兄弟となった。

プロ入り前

東京都の堀越高等学校から明治大学へ進学し、テンプレート:By秋の東京六大学野球連盟では首位打者山下圭と同率)・打点王の二冠を獲得、ベストナインにも選出された。東京六大学ではリーグ通算76試合出場、256打数72安打、打率.281・3本塁打・33打点の成績だった。大学時代の背番号は父・克也の現役時代と同じ19で、東京六大学野球初の女子選手だったジョディ・ハーラーが唯一登板した試合に捕手を務めた。

1995年のドラフト会議において、父・克也が監督を務めるヤクルトスワローズから3巡目で指名され、捕手として入団。克也との混同を避けることから登録名を「カツノリ」とした[3]。克則がプロ入りする直前、克也に対して「プロに入りたい」と言ったがスカウトは誰一人として来ておらず、克也から「(プロに入ったら)苦労するぞ、お前。ちゃんとした会社に務めて安定した所へ行け。無理だお前じゃ」と諭したが、克則は「いや、オレはプロに憧れて野球を始めたのだから、例え(プロで)失敗しても悔いはない」と言い返した[4]。さらに「親父だってテスト入団だったじゃないか。人生上り坂下り坂、そして『まさか』だ。やってみないと判らない」と言い、これに克也は「おいおい、オレがここまで来たのは『まさか』かよ」と思ったという[4]。母親に似たのか口だけは達者で、そこまで言うならとヤクルトスワローズへお願いして指名してもらったと著書に記している[4]

ヤクルト時代

テンプレート:Byフレッシュオールスターゲームに出場するが、一軍では古田敦也が正捕手として定着していたほか、控え捕手に野口寿浩もいたことで昇格は無かった。テンプレート:Byテンプレート:Byには2年間で51試合に出場するが、多くは自軍の大勝・大敗での起用で、若松勉が監督に就任したテンプレート:Byには一軍出場なしに終わった。

阪神時代

テンプレート:Byに金銭トレードで阪神タイガースへ移籍した。当時の監督は父・克也だったが、当時球団本部長を担当していた野崎勝義によると、ヤクルトスワローズから克則を呼んだのは父・克也ではなく、阪神球団だった[5]。阪神移籍後は捕手としての頭角を現し、テンプレート:Byにはサヨナラ適時打を2回打ったほか、同年8月29日の対読売ジャイアンツ戦では先発出場し、井川慶の完封勝利を呼び込むなど、一定の評価を受けるようになった。2年間で95試合に出場し、両年とも下位に低迷したチームの中で先発起用が増えていくが、星野仙一が監督に就任したテンプレート:Byには僅か11試合の出場に終わった。

テンプレート:Byにはウエスタン・リーグにおいて、規定打席には達していないものの打率.321の好成績を残したが、一軍には捕手・右の代打と共に層の厚さから昇格なしに終わった。

巨人時代

テンプレート:Byの開幕前、新監督に就任した堀内恒夫が率いる読売ジャイアンツへ金銭トレードで移籍した。なお、読売ジャイアンツでは原則として本名での登録としているため、本名「野村克則」で登録された。しかし、正捕手・阿部慎之助の存在もあって出場は僅か3試合に留まり、同年オフに戦力外通告を受けた。その際にブルペン捕手、または二軍バッテリーコーチ就任を打診されたものの現役続行を希望、12球団合同トライアウトを受験した。トライアウトでは2打席連続で本塁打を放つなどの活躍が田尾安志の目に留まり、この年に誕生した新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスが獲得を発表した[6]

楽天時代

楽天球団としても初年度となったテンプレート:Byには、登録名をヤクルト・阪神時代と同じ「カツノリ」に戻して臨んだ。同年4月17日の対北海道日本ハムファイターズ戦ではプロ初のクリーンナップとなる5番・捕手として出場したが、最終的に6試合の出場に終わった。同年オフに田尾が監督を解任され、後任として父・克也が就任、三たび同じユニフォームを着用することとなった。

テンプレート:Byは正捕手・藤井彰人の不振時に先発出場し、オールスターゲームにもノミネートされるが、最終結果で4位となり出場は果たせなかった。さらに、捕手としては元々弱肩だったことで盗塁阻止率は1割を下回ったほか、打撃においても指を脱臼していたとはいえ打率も辛うじて1割を超える程度で、しまいには出場した際にファンからブーイングを受ける状態だった。当初はテンプレート:Byも現役続行を希望していたが、同年9月28日に二度目の戦力外通告を受けた。これを機に現役引退を表明し、同年10月1日の対千葉ロッテマリーンズ戦(フルキャストスタジアム宮城)で引退試合が行われ、克則も先発出場したが、6個の盗塁(平下晃司西岡剛サブロー青野毅:各1、根元俊一:2)を全て許してしまうなど散々な試合となった。試合後、同じく現役引退を表明した飯田哲也と共にセレモニーが実施され、チームメイトから胴上げされた。

引退後

現役引退後もコーチとして球団に留まり、2006年10月9日には新設された二軍育成コーチ(バッテリー担当)に就任することが発表された。背番号は73で、同時に登録名も「野村克則」へ変更した。テンプレート:Byには二軍育成コーチのまま、セ・パ交流戦においてスコアラーで一軍戦のベンチ入りを果たした。

テンプレート:Byには一軍バッテリーコーチへ昇格し、試合中はヘッドコーチを務めていた橋上秀樹と共に作戦面も支えた。テンプレート:Byシーズン終了後、父・克也の退任に合わせる形で楽天を退団、翌年から読売ジャイアンツの二軍バッテリーコーチに就任した。テンプレート:By10月3日、球団より来季の契約を結ばないことを通告され[7]、同年10月23日に東京ヤクルトスワローズの二軍バッテリーコーチ就任が決まった[8]

人物

テンプレート:雑多な内容の箇条書き テンプレート:スポーツ選手の出典明記 打率が2割台半ば、二軍でも3割を記録するなど打撃面では平均的な実力を持つが、遠投では他の選手に遠く及ばない弱肩で、野球選手としては大成しなかった。それでも練習熱心で、父・克也の威厳を笠に着ることもないことから人望を集めた。現役時代から桜井広大(阪神時代)・一場靖弘(楽天時代)・二岡智宏小田幸平(巨人時代)といった若手選手の面倒見がよく、特に2005年には二軍へ降格して落ち込んでいた一場に付きっきりだったという。

コーチ就任後は若手捕手へ積極的、かつ熱血指導で信頼されていた。

エピソード

テンプレート:雑多な内容の箇条書き

  • 幼少期、父・克也は選手兼任監督として45歳まで現役で、それ以外でも講演・野球解説・取材などで不在の場合が多かった。このため、野球以外で父親らしいことをしてもらった記憶はないという。
  • 長嶋一茂と類似しており、選手として比較されることもしばしばあった。プロ入り後もヤクルト・巨人で同じチームに所属していたが、共に在籍していたことは無い。さらに、父親が元プロ野球選手で監督も務めていたほか、その父親が監督を務めるチームに在籍して先発出場もあったなど、ほぼ同じような経歴である。しかし、克則は弱肩で打撃もパンチ力がない抜けるような打撃の捕手で、一茂は荒削りながらも長打力を売りにしていた三塁手だった。
  • ヤクルト時代は石井一久を同い年ながら兄のように慕っており、お揃いのスパイクを使用していた。
  • 2006年10月1日の引退試合で許した1試合6盗塁は、一人の捕手が1試合で許した盗塁数のワースト記録(当時)である。
  • 通算222試合出場のうち、父・克也が監督として出場した試合は202試合ある。また、楽天時代に新設されたばかりのコーチ就任や一軍コーチへの昇格はファンからも非難された。さらにヤクルト・阪神と共に父・克也が監督だった時代は、二番手捕手や右の代打要員として起用されたものの、父・克也の退団と共に克則の出場機会が減っている。阪神時代は成績が悪い中でも一軍に残っていたことが多く、その理由として克也は「親子だから」と発言していた。なお、克也とはヤクルト・阪神・楽天で同じユニフォームを着用していたが、ヤクルト入団・阪神移籍は克也の後を追う形だったのに対し、楽天移籍は監督が田尾安志であり、克也の入団は克則入団の翌年である。
  • 2005年の12球団合同トライアウトで、同年限りで楽天を解雇された小倉恒の再獲得を克也へ進言した。また、2006年には先発投手が手薄になった状況で登板過多になった一場が、秋季の強化リーグで故障した際に電話で「あんた(克也)が一場を壊したんだ」と克也へ抗議したと、スポーツ紙で特集された。2009年には、報道陣と話し込んでミーティングに遅れがちだった克也を別のコーチに呼びに活かせるなど、克也に臆せず発言できる貴重な人物として重宝された。
  • 2007年8月23日の対千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)で、先発した岩隈久志が4回裏に味方の失策から3失点を喫し、この回をもって降板した。岩隈は、降板後にベンチ裏のロッカールームに入ったまま7回途中まで戻らなかったため克則が注意したところ、岩隈が激高し乱闘寸前の小競り合いになった。他のコーチ陣が割って入ったことで事態は収拾し、岩隈は試合中に克則へ謝罪した。
    • 岩隈は理由を、「娘の熱が原因で自宅に連絡を入れていたため」と自らのブログに記している。なお、2人は同じ堀越高等学校の先輩・後輩(克則が8年先輩)で、普段は仲が良い(たびたび談笑する姿も見られる)。
  • 現役引退までファンにサインを求められても殆どしなかった。これは父・克也から「お前はまだサインをファンに出来るレベルの選手では無い」と言われていたからだが、その代わりとして握手が丁寧だったという。

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 ヤクルト 26 33 31 1 8 1 0 1 12 1 0 0 0 0 2 0 0 10 3 .258 .303 .387 .690
テンプレート:By2 25 24 23 0 4 0 0 0 4 1 0 0 0 0 1 0 0 7 0 .174 .208 .174 .382
テンプレート:By2 阪神 43 55 49 6 13 1 1 2 22 3 0 0 0 1 5 0 0 11 2 .265 .327 .449 .776
テンプレート:By2 52 102 95 3 20 3 0 1 26 6 0 0 1 0 4 0 2 28 2 .211 .257 .274 .531
テンプレート:By2 11 16 16 0 3 2 0 0 5 0 0 0 0 0 0 0 0 5 0 .188 .188 .313 .501
テンプレート:By2 巨人 3 5 3 0 1 0 0 0 1 1 0 0 0 1 1 0 0 0 0 .333 .400 .333 .733
テンプレート:By2 楽天 6 10 10 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .100 .100 .100 .200
テンプレート:By2 56 141 129 8 16 4 1 0 22 5 1 0 1 1 7 1 3 26 6 .124 .186 .171 .357
通算:8年 222 386 356 18 66 11 2 4 93 17 1 0 2 3 20 1 5 90 13 .185 .237 .261 .498

記録

背番号

  • 33 (1996年 - 1999年)
  • 50 (2000年 - 2003年)
  • 63 (2004年)
  • 52 (2005年 - 2006年)
  • 73 (2007年 - 2009年)
  • 92 (2010年 - 2013年)
  • 78 (2014年 - )

登録名

  • カツノリ (1996年 - 2003年、2005年 - 2006年)
  • 野村 克則 (のむら かつのり、2004年、2007年 - )

著書

  • 『プロ失格』(日本文芸社、2011年12月、ISBN 9784537258936)
  • 『野村のDNA:頭脳野球とは何』(朝日新聞社、2012年5月)※野村克也共著
  • 『野村の「人生ノート」:夢をつかむ特別講義』(日本文芸社、2012年6月)※野村克也共著

出演番組

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク


テンプレート:東京ヤクルトスワローズ

テンプレート:ヤクルトスワローズ1995年ドラフト指名選手
  1. 野村沙知代に対する公職選挙法違反(虚偽事実公表)の疑いでの告発を受けた東京地方検察局は1999年、実子・野村克則の誕生日から逆算して、1972年当時には野村克也と事実婚の関係にあったとの推定を報告している
  2. 伊東信義「妹 野村沙知代」ラインブックス、1999年
  3. 入団発表会見で着用したユニフォームでは、背ネームが「K.NOMURA」となっていたが、キャンプからは「KATSUNORI」に改められていた。
  4. 4.0 4.1 4.2 野村克也著、『無形の力 私の履歴書』2006年、日本経済新聞出版社、P222
  5. 野崎勝義「ダメ虎を変えた!ぬるま湯組織に挑んだ、反骨の11年」朝日新聞出版、2011年、P61
  6. この時の経緯はTBSテレビプロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達」で紹介された。
  7. 岸川、野村両コーチが退団スポーツニッポン2013年10月3日配信
  8. 2014年のコーチングスタッフについて