酒呑童子

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酒呑童子(しゅてんどうじ)は、丹波国大江山、または山城国京都と丹波国の国境にある大枝老の坂)に住んでいたと伝わるの頭領、あるいは盗賊の頭目。酒が好きだったことから、部下たちからこの名で呼ばれていた[1]。文献によっては、酒顛童子酒天童子朱点童子などとも記されている。彼が本拠とした大江山では龍宮御殿のような邸宅に住み棲み、数多くの鬼共を部下にしていたという。

伝説の概要

一条天皇の時代、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭った、安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼の酒呑童子の仕業とわかった。そこで帝は長徳元年(995年)に源頼光藤原保昌らを征伐に向わせた。頼光らは旅の者を装って鬼の居城を訪ね、酒を酌み交わして話を聞いたところ、最澄延暦寺を建て以来というもの鬼共の行き場がなくなり、嘉祥2年(849年)から大江山に住みついたという。頼光らは鬼に毒酒を飲ませて泥酔させると、寝込みを襲って鬼共を成敗、酒呑童子の首級を京に持ち帰って凱旋した。首級は帝らが検分したのちに宇治平等院に納められた[1]

歴史家の高橋昌明は、正暦5年(994年)に大流行した疱瘡がこの伝説に関わっているのではないかと見ている[1]。また、『史記』に記される蚩尤伝説や、代の小説『補江総白猿伝』、さらには代の『陳巡権梅嶺失妻記』との類似も認められるという[2]

様々な出生の伝説

酒呑童子は、一説には越後国の蒲原郡中村で誕生したという。また伊吹山の麓でスサノオとの戦いに敗れた八岐大蛇出雲国から近江へと落ち延び、そこで富豪の娘に産ませたのが酒呑童子だという伝承もある。その証拠に、父子ともども無類の酒好きであることが挙げられる。

越後国の酒呑童子出生伝説

伝教法師弘法大師が活躍した平安初期(8世紀)に越後国で生まれた彼は、国上寺(新潟県燕市)の稚児となった(国上山麓には彼が通ったと伝えられる「稚児道」が残る)。

12, 3歳でありながら、絶世の美少年であったため、多くの女性に恋されたが全て断り、彼に言い寄った女性は恋煩いで皆死んでしまった。そこで女性たちから貰った恋文を焼いてしまったところ、想いを遂げられなかった女性の恨みによって、恋文を燃やしたときに出た煙にまかれ、鬼になったという。そして鬼となった彼は、本州を中心に各地の山々を転々とした後に、大江山に棲みついたという。

一説では越後国の鍛冶屋の息子として産まれ、母の胎内で16ヶ月を過ごしており、産まれながらにして歯と髪が生え揃い、すぐに歩くことができて5~6歳程度の言葉を話し、4歳の頃には16歳程度の知能と体力を身につけ、気性の荒さもさることながら、その異常な才覚により周囲から「鬼っ子」と疎まれていたという。『前太平記』によればその後、6歳にして母親に捨てられ、各地を流浪して鬼への道を歩んでいったという[3][4]。また、鬼っ子と蔑まれたために寺に預けられたが、その寺の住職が外法の使い手であり、童子は外法を習ったために鬼と化し、悪の限りを尽くしたとの伝承もある[4]

和納村(現・新潟県新潟市)では、村付近の小川に棲む「とち」という魚を妊婦が食べると、その子供は男なら大泥棒、女なら淫婦になるといわれ、その魚を食べたある女の胎内に16ヶ月宿った末に生まれた子供が酒呑童子だといい、この地には後に童子屋敷、童子田などの地名が残されている[5]

伊吹山の酒呑童子出生伝説

大蛇の八岐大蛇と人間の娘との間で生まれた彼は、若くして比叡山に稚児として入って修行することとなったが、仏法で禁じられている飲酒をし、しかも大酒呑みであったために皆から嫌われていた。ある日、祭礼の時に被った仮装用の鬼の面を、祭礼の終了後に彼が取り外そうとしたが、顔に吸い付いて取ることができず、やむなく山奥に入って鬼としての生活を始めるようになった。そして茨木童子と出会い、彼と共に京都を目指すようになったといわれている。

大江山の酒呑童子伝説

平安時代から鎌倉時代に掛けて都を荒らした無法者としての“鬼”は、丹波国大江山、または現在の京都市西京区大枝(おおえ)、老ノ坂(おいのさか)(京都市洛西地区)及び隣接する亀岡市篠町王子(大江山という小字がある)に本拠があったという。丹波国の大江山の伝説は、大枝の山賊が行人を悩ませたことが誤り伝えられたものとする説がある[6]

大和国の酒呑童子出生伝説

大和国(現・奈良県)の白毫寺の稚児が、近くの山で死体を見つけ、好奇心からその肉を寺へ持って帰り、人肉だと言わずに師の僧侶に食べさせた。その後も稚児は頻繁に肉を持って帰り、やがて死体の肉を奪うだけでなく、生きている人間を襲って殺し、肉を奪うようになった。不審に思った僧が稚児の後を追って真相を知り、稚児を激しく責め、山に捨てた。この稚児が後に酒呑童子となり、捨てられた場所は「ちご坂」の名で後に伝えられた[7]

別説では、白毫寺の住職のもとに生まれた子が、成長に従い牙や角が生え、後には獣のように荒々しい子供となった。住職は世間体を恥じて子供を捨てたが、後にその子が大江山に入り、酒呑童子となったという[7]

酒呑童子の配下

酒呑童子の配下は副首領の茨木童子、そして四天王として熊童子、虎熊童子、星熊童子、金熊童子の四人の鬼が在り、いくしま童子という名前も伝承上には存在する。

茨木童子との関係

酒呑童子とともに京都を荒らした大鬼、茨木童子だが、実は彼らの関係も様々な諸説がある。その諸説の中に、実は茨木童子は“男の鬼ではなく、女の鬼だった”という説があり、または酒呑童子の息子、はては彼の恋人だったという説も伝わっている。そして、しばらくしてから酒呑童子と茨木童子は互いの存在を知り、共に都を目指すようになったといわれている。

妖怪としての酒呑童子

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『大江山絵巻』

京都に上った酒呑童子は、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従え、大江山を拠点として、しばしば京都に出現し、若い貴族の姫君を誘拐して側に仕えさせたり、刀で切って生のまま喰ったりしたという。あまりにも悪行を働くので帝の命により摂津源氏源頼光嵯峨源氏渡辺綱を筆頭とする頼光四天王(渡辺綱、坂田公時碓井貞光卜部季武)により討伐隊が結成され、長徳元年(995年)に討伐に向かった。姫君の血の酒や人肉をともに食べ安心させたのち、頼光が神より兜とともにもらった「神便鬼毒酒」という毒酒を酒盛りの最中に酒呑童子に飲ませ、体が動かなくなったところを押さえて、寝首を掻き成敗した。しかし首を切られた後でも頼光の兜に噛み付いていたといわれている。

頼光たちは討ち取った首を京へ持ち帰ったが、老ノ坂で道端の地蔵尊に「不浄なものを京に持ち込むな」と忠告され、それきり首はその場から動かなくなってしまったため、一同はその地に首を埋葬した。また一説では童子は死に際に今までの罪を悔い、死後は首から上に病気を持つ人々を助けることを望んだため、大明神として祀られたともいう。これが現在でも老ノ坂峠にある首塚大明神で、伝承の通り首から上の病気に霊験あらたかといわれている[8]大江山(京都府福知山市大江町)の山中に埋めたとも伝えられ、大江山にある鬼岳稲荷山神社の由来となっている。

また京都府成相寺には、この神便鬼毒酒に用いたという酒徳利と杯が所蔵されている[9]

酒呑童子という名が出る最古のものは重要文化財となっている「大江山酒天童子絵巻」(逸翁美術館蔵)で、南北朝時代後期もしくは室町時代初期に造られたといわれている[1]。この内容は上記の酒呑童子のイメージとはかなり異なっている。まず綴りが酒「天」童子であり、童子は一種の土着の有力者・鬼神のように描かれていることがうかがえる。また童子は「比叡山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師に追い出され大江山にやってきた」とも述べている。酒で動きを封じられ、ある意味だまし討ちをしてきた頼光らに対して童子は「鬼に横道はない」と頼光を激しくののしった。

酒呑童子を題材にした作品

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大江山の酒呑童子と源頼光主従 (歌川芳艶 江戸時代)

歌舞伎

萩原雪夫十七代目中村勘三郎に充てて書き下ろした長唄舞踊劇。昭和38年 (1963) 6月歌舞伎座初演。

宝塚歌劇

1986年 平みち主演

映画

酒呑童子や大江山の鬼退治を題材にした映画は、戦前から戦後にかけて数本製作されている。

昭和35年 (1960) 大映京都田中徳三監督。当時の大映オールスターキャストで製作された豪華大作。出演:長谷川一夫(酒天童子)、市川雷蔵(源頼光)、勝新太郎(渡辺綱)、本郷功次郎(坂田金時)他。
当時の60年安保での世相を反映し、酒天童子を志を持った革命家として描いている[10]

  • 『酒吞童子』―陰陽座の楽曲。アルバム『魑魅魍魎』に収録。

郷土祭り

東京都千代田区にある神田明神で毎年5月に行われる「神田祭」では、2年に一度の本祭でのみ実施される神幸祭の附祭(つけまつり)として、源頼光・頼光四天王・従者達に扮した人々が酒呑童子の首をかたどった山車と共に練り歩く「大江山凱陣」が行われる。この行事はかつて同祭が「天下祭」と呼ばれていた頃に人気を誇った曳物の一つで[11]、『江戸名所図会』の「神田明神祭禮」図にもこれを見て取ることができる。その後曳山が失われたことにより長らく途絶えていたが、平成19年 (2007) の神幸祭で文化資源学会の協力により高さ4メートルのバルーンとして復元され、約170年ぶりに復活した[12]
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11番曳山。米屋町の酒呑童子と源頼光の兜
佐賀県唐津市で毎年11月に行われる唐津神社の秋季例大祭「唐津くんち」では、米屋町の「酒呑童子と源頼光の兜」が市内を巡幸する。
  • 酒呑童子行列
酒呑童子の出生伝説がある越後国は新潟県燕市では、同市の秋期イベント「酒呑童子行列」などでよさこい風演舞チーム「酒呑童子」がその伝説をコンセプトにした演舞を披露している。

漫画

アニメ

コンピュータゲーム

補注・出典

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参考文献

  • 『酒呑童子の誕生』高橋昌明、中公新書、1992年

関連項目

  • 1.0 1.1 1.2 1.3 『異界と日本人』第二章「源頼光と酒呑童子」小松和彦、角川学芸出版, 2003
  • 『酒呑童子の誕生』書評06.07.01
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  • 4.0 4.1 テンプレート:Cite book
  • テンプレート:Cite book
  • 『日本大百科全書』 大江山の解説
  • 7.0 7.1 テンプレート:Cite book
  • コジューリナ・エレーナ「酒呑童子伝説の地域的展開」『慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要』第71号、2011年、119-134頁。
  • 宮本幸枝・熊谷あづさ 『日本の妖怪の謎と不思議』 学習研究社、2007年、34頁。ISBN 978-4-056-04760-8。
  • テンプレート:Cite
  • 木下直之 / 福原敏男・編『鬼がゆく 江戸の華 神田祭』平凡社 2009年 ISBN 978-4582834314
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