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'''遠山 綱景'''(とおやま つなかげ、[[永正]]10年([[1513年]])? - [[永禄]]7年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]([[1564年]][[2月19日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[後北条氏]]の家臣。[[武蔵遠山氏]]の当主。[[遠山直景]]の長男とも。子に[[遠山隼人佐]](- はやとのすけ、実名不詳、妻は[[北条綱成]]の娘・浄光院殿)、[[遠山政景]]、[[法性院]](後に[[北条氏綱]]養女となり、[[太田康資]]に嫁ぐ)。官位は甲斐守、丹波守。 『小田原衆所領役帳』にて、江戸衆筆頭に列せられ、相模西郡松田や曽比郷、相模中郡金目郷などに約963貫(武蔵葛飾郡にも飛び地があり合わせると1242貫)を知行した。 == 生涯 == 永正10年(1513年)頃、北条氏の重臣・遠山直景の子(長男とも)として誕生。主君の[[北条氏綱]]から[[偏諱]](綱の一字)を賜い、'''綱景'''と名乗る。 [[天文 (元号)|天文]]2年([[1533年]])に父が死去すると、家督を継ぐとともに、父に引き続き江戸城代となった。なお、江戸城代は3人置かれており、本丸には[[富永氏]]、三の丸には[[太田氏]]が寄っており、遠山氏は二の丸にあった。そのため、本丸の富永を城代の主席であるとする見方があるが、同時代の資料(宗牧の記述)によれば、遠山氏を城代として重きを置いているという。 天文13年([[1544年]])に連歌師の[[宗牧]]を呼び、連歌の会を催したことが記録に残っている。当時の関東は田舎であり、文化の中心地である京とはかけ離れた土地であったが、そのようなところで連歌の会を開いたことは、綱景の教養の高さや連歌師を呼べるだけの北条家中における地位を端的に表している。また、永禄元年([[1558年]])の[[古河公方]][[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]の[[小田原城]]訪問時には、北条氏の5宿老として[[松田盛秀]]([[松田憲秀|憲秀]]の父)・遠山綱景・[[笠原綱信]]・[[清水康英]]・[[石巻家貞]]が義氏に拝礼を行っている。また、この頃に江戸城の東側にあった[[葛西城]]を与えられた。 永禄7年(1564年)、娘婿でもあり、同じく江戸城代でもあった太田康資が離反。太田らの救援を[[越後国]]の[[上杉謙信]]に依頼された[[安房国]]の[[里見氏]]が出兵したことにより第二次[[国府台合戦]]が起こる。娘婿の離反を見抜けなかった綱景は、同じく江戸城代の地位にあった[[富永直勝]]とともに、北条綱成が率いる本隊よりもかなり先行して江戸川を渡河するが里見氏の反撃にあい、子の隼人佐や娘婿の舎人恒忠とともに討ち死にした。 綱景と嫡男であった隼人佐が戦死したため、家督は出家していた三男(後の遠山政景)が還俗して継いだ。 なお、弟である[[遠山康光]](やすみつ)・[[遠山直次|直次]]父子は[[上杉景虎]]付きとして[[越後国]]に赴いた後に[[御館の乱]]で父子ともども殺害された。恒忠に嫁いだ娘は、夫の死後、嫡男の勇丸を連れて[[大道寺政繁]]と再婚し4人の男子を生んだ。勇丸は養子となり、大道寺隼人直英を名乗った。政繁の四男の大道寺直次は一時、遠山長右衛門を名乗ったが、旗本千石の任で復姓した。 {{DEFAULTSORT:とおやま つなかけ}} [[Category:戦国武将]] [[Category:遠山氏|つなかけ]] [[Category:戦死した人物]] [[Category:1513年生]] [[Category:1564年没]]
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