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'''近藤 勇五郎'''(こんどう ゆうごろう、[[嘉永]]4年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]([[1851年]][[12月24日]]) - [[昭和]]8年([[1933年]])[[2月23日]])は、[[幕末]]・[[明治]]の[[剣客]]である。[[天然理心流|天然理心流剣術]]5代目宗主。[[新選組]]局長・[[近藤勇]]の[[甥]]で、後に[[婿養子]]となった。[[旧姓]]は宮川。[[諱]]は信休。 == 人物 == [[武蔵国|武州]][[上石原村]]に、[[宮川音五郎]](近藤勇の兄)の次男として生まれる。天然理心流剣術に入門し、宮川家の[[道場]]で稽古した。 [[文久]]3年([[1863年]])、近藤勇が[[浪士組]]として[[京都]]へ出立する際、勇の一人娘・[[近藤たま|たま]]の許嫁となる。その後は[[松井つね]](勇五郎の[[除籍謄本]]に「[[東京府]][[麹町区]]飯田町 [[士族]]松井八十五郎長女入籍ス」と記述される)・たまと共に生活していた。 [[戊辰戦争]]時、勇処刑の知らせを聞いた勇五郎は[[板橋 (板橋区)|板橋]]で処刑を目撃。すぐさま郷里へ立ち帰り、音五郎と共に勇の遺体を引き取りにいったという。 [[明治]]9年([[1876年]])、たまと結婚して剣術道場「[[撥雲館]]」を新設。 明治16年([[1883年]])、長男・[[近藤久太郎|久太郎]]が生まれた。しかしその3年後の明治19年([[1886年]])にたまが死去。国分寺のたよと再婚したが、姑・つねと相性が悪く2年半程で離婚。次にかしと結婚した。 昭和初期、[[子母澤寛]]の取材を受けて幕末当時の回顧談を語る。 昭和8年(1933年)、死去。享年83。「俺が死んでも[[線香]]はいらない、ただ、[[竹刀]]の音だけは絶やさないようにしてくれ」と言い遺した。 天然理心流剣術6代目は[[桜井義則]]、7代目は[[近藤新吉]](勇五郎の次男、後妻の子)が継いだ。新吉は[[警視庁 (内務省)|警視庁]]の[[剣道]]助手も務めたが、昭和11年([[1936年]])早世した。 == 参考文献 == *『[[月刊剣道日本]]』1978年9月号 特集天然理心流と近藤勇、スキージャーナル {{DEFAULTSORT:こんとう ゆうころう}} [[Category:剣客]] [[Category:天然理心流剣術]] [[Category:武蔵国の人物]] [[Category:1851年生]] [[Category:1933年没]]
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