辻内崇伸

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テンプレート:Infobox baseball player 辻内 崇伸(つじうち たかのぶ、1987年12月5日 - )は、奈良県磯城郡川西町出身の元プロ野球選手投手)、プロ野球コーチ

2005年のドラフト読売ジャイアンツ(巨人)から高校生1巡目指名を受けて入団したが、度重なる故障に悩まされて一軍登板がないままテンプレート:By限りで引退。テンプレート:Byからは日本女子プロ野球機構(JWBL)のイースト・アストライアのコーチへ就任するとともに女子プロ野球を支援している、わかさ生活の正社員を務める。

経歴

プロ入り前

奈良県出身[1]。小学校1年生の時、一塁手として野球を始める。中学時には「郡山シニア」に所属し、投手に転向した。

大阪桐蔭高校では、2年の秋からエースとなり、3年時に出場した夏の甲子園一回戦の春日部共栄戦、5回6失点の乱調で降板したものの、先頭打者への2-2からの外角に外れた速球が国内左腕最速となる156km/hをマーク(ネット裏のオリックス・バファローズスカウトのスピードガンによる計測。甲子園の電光掲示板には152km/hと表示(当時の高校野球での記録では寺原隼人についで2位、左腕では1位))。日本中の注目の的となった。

二回戦の藤代戦では大会タイ記録となる19奪三振を記録。同校が初出場・初優勝を果たした1991年の夏の甲子園以来の4強入りを果たし、辻内自身も1大会における通算奪三振で板東英二の83奪三振に次いで当時歴代2位の65奪三振[2]を記録した。準決勝では駒大苫小牧田中将大から本塁打も打っている。

同年のAAAアジア野球選手権大会日本代表として出場し、松坂大輔らを擁した1998年大会以来となる優勝に貢献した。

2005年高校生ドラフト読売ジャイアンツオリックス・バファローズとの競合の末巨人が指名権を獲得し、1巡目指名で入団(入団までの経緯は後述参照)。抽選に外れたオリックスは岡田貴弘(T-岡田)を外れ1巡目指名している。入団当時の背番号は15

プロ入り後

テンプレート:By、春季キャンプでは一軍キャンプスタートとなるかに注目が集まったが、肩痛もあり二軍スタートとなる。6月に発症した左肩の炎症による離脱でフレッシュオールスターゲーム出場を辞退するなど、ルーキーイヤーはシーズン終了まで二軍で制球力の育成・調整登板が続けられたため、一軍公式戦での登板は果たせなかった。イースタンリーグ成績は、登板13、3勝4敗、防御率6.04。オフ、ハワイ・ウィンターリーグ10月1日11月21日)に派遣。現地では「ホノルル・シャークス」に所属し、テークバックや体重移動の少ないフォームを目指し、いわゆる「外国人のフォーム」を吸収する。また投球の幅を広げる為スライダーを試投、チェンジアップも習得。先発投手として8試合30イニング、1勝2敗、35奪三振、防御率2.30の成績を残した。

テンプレート:By、自主トレではハワイで磨いたスライダーとチェンジアップを軸にするため、井川慶の投球術を手本にしたいと語り、一軍スタート組に抜擢された春季キャンプでは、ストレートなど同一の球種を状況において投げ分けることを目指した。監督の原辰徳を始め首脳陣も辻内への期待のコメントを残していたが、2月9日に左肘痛で二軍落ち。ノースロー調整を続け3月中にはキャッチボールをするまでに回復したものの3月24日に再発。精密検査の結果、内側側副靭帯の断裂と診断され、再建手術を行う事となった。4月26日に手術を受け無事に成功したが、手術の特性上再建した靭帯の定着に非常に時間がかかるため、二軍を含む公式戦での登板はなかった。

テンプレート:Byはファームの連合チームであるフューチャーズの一員として実戦復帰し、速球も最速150km/hを記録するなど復活の兆しを見せたが、二軍公式戦の登板はなかった。オフに背番号が39に変更された。

テンプレート:Byは二軍で先発ローテーションの一角に入って7勝を挙げ、規定投球回には達しなかったが防御率2.69と自己最高の成績を残した。2006年に出場辞退したフレッシュオールスターゲームにも選出されておる。しかし49与四球・7暴投はいずれもチームワーストで制球難は解消されたとは言えなかった。テンプレート:Byからは再び出場が減少し、この年は二軍で3試合の登板に終わってオフに背番号が98に変更され、翌テンプレート:Byは二軍公式戦の登板なしに終わる。2011年のオフには朝井秀樹などとともにヤンキース傘下のルーキーリーグ「Gigantes de Carolina(カロリーナ・ジャイアンツ)」へ派遣された。プエルトリコで約50日間を過ごし、現地の投手コーチからは「一朝一夕には行かないかもしれないが、是非、正しい投げ方を身に着けてほしい」とアドバイスされた[1]

テンプレート:By3月17日埼玉西武ライオンズとのオープン戦に2番手として一軍戦での初登板を果たし、最速147キロをマーク。被安打2・失策絡みの1失点を記録した。リリーフとして二軍戦で43試合に登板し、8月16日には初めて一軍に昇格したが、登板はないまま8月22日に登録抹消された。オフには4歳年上の女性と結婚している。

テンプレート:Byは春季キャンプでは一軍でスタートしたが肩の調子が上がらず、第2クールからは二軍に合流した。ブルペン入りの翌日左肘に強烈な痛みを覚え、腕が上がらなくなる状態に陥ったため別メニューでの調整が続いていたが、痛みの原因となっている遊離軟骨内視鏡で除去する関節クリーニング手術を受けることが決まり[3]3月11日に群馬・館林市内の病院で手術を受けた。8月31日に帝京大学とのプロアマ交流戦で復帰登板したが、シーズン登板はこの試合のみであった。結局10月1日に戦力外通告を受け[4]、一軍での公式戦の登板がないまま引退することとなったが[3][5][6]、辻内は帝京大学との試合の約1週間前に肘の痛みが再発した時点で引退を覚悟しており、試合でも直球が最速131km/hに留まるなど本来の姿からは程遠く諦めの気持ちもあったという[7]

現役引退後

引退を決めた直後には、不動産会社の営業職に転身することを検討[8]。2013年12月30日TBS系列で放送された『プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達』(TBS制作)では、巨人から戦力外を通告された直後から不動産業界への転職活動に至るまでの経緯を、妊娠中の夫人を交えての密着取材映像などで紹介した。しかし、日本女子プロ野球機構(JWBL)の関係者が、長年にわたって故障のリハビリへひたむきに取り組んできた辻内の姿勢などを高く評価。辻内も、JWBLから指導者としてのオファーを受けたことを機に、テンプレート:ByからJWBLに所属するイースト・アストライアのコーチへ就任するとともに女子プロ野球を支援している、わかさ生活の正社員になることが決まった[9][10][11]2014年6月には、TBS系列「私の何がイケないの? 元巨人軍選手の引退後の人生」において、その仕事ぶりと日常生活が紹介された。

選手としての特徴

高校時代にはストレートが156キロを計測したものの[3]、プロ入り後は制球難と[6]度重なる肘と肩の故障に悩まされ[3]、2013年8月に登板した時のストレートの球速は120キロ台にまで落ち込んでいた[3]。二軍では2013年シーズン終了時で通算75試合に登板し、177回を投げ、12勝10敗、防御率3.76を記録しているものの、プロ8年間のうち実働は4年にとどまっている。

人物

趣味は読書。

リトル時代は、足を怪我していた試合でランニングホームランを放ったり、手を怪我していた時にも投球をしたこともあった。

本人は地元の県立高校に進学したかったが、所属していた「郡山シニア」の監督や両親から説得され、大阪桐蔭高等学校への進学を決意した。高校時代にフォームを崩した際、野球部の西谷浩一監督が工藤公康の投球フォーム連続写真を参考に練習メニューを組み立て、フォームの修正に成功した。この事もあり、辻内は工藤を尊敬している。母校を訪れていたOBの岩田稔(当時関大)から指導を受けたことがある。

ドラフトまでの経緯

2005年のドラフトでは前年から目玉投手として注目を集めており、大物選手には珍しい「12球団OK」という発言もあって、当初は多くの球団が名乗りを上げ激しい争奪戦が予想された。しかし粗削りな点や、抽選を外した場合のリスクを嫌った球団が次々と回避した事もあり、10月3日高校生ドラフトでは最終的には読売ジャイアンツオリックス・バファローズの2球団のみの競合となった。

結果は巨人が交渉権を獲得するのだが、その際、外れ抽選券を引いたオリックスの中村勝広GMが、当たり外れに関わらず押してあるNPBの印鑑を見て交渉権獲得したと勘違いしてガッツポーズをするという一幕があった。「交渉権獲得」の印が押されたくじを持った巨人監督の堀内恒夫もオリックスGMの中村勝広の反応のあまり、首をひねりながらも抗議をせず、主催者側も確認を怠ったなど勘違いとミスが重なって、一時はオリックスの選択確定と誤って発表された。

直後の会見で辻内は硬い表情で「オリックスさんは素晴らしい球団」とオリックスからの指名受諾を表明したが、その後に巨人が交渉権を獲得したことが判明。異例のやり直しとなった会見では笑顔で「小さい頃から巨人が好きだったんで…」と語り、詰め掛けた関係者や報道陣からも笑みがこぼれた。本人の「どの球団でも光栄だし好き嫌いを口にすべきでない」という意思から表明を控えていたもので、両親でさえこのとき初めて辻内が巨人ファンだった事を知った。

巨人では松井秀喜以来となる、高卒での契約金1億円(推定)で契約、12月9日に入団発表を行った。大阪桐蔭からは初の巨人入りした選手である。

詳細情報

年度別投手成績

  • 一軍公式戦出場なし

背番号

  • 15 (2006年 - 2008年)
  • 39 (2009年 - 2010年)
  • 98 (2011年 - 2013年)
  • 51 (2014年 - )

脚注

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関連項目

外部リンク

テンプレート:イースト・アストライア

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  2. その後2006年の夏の甲子園斎藤佑樹が78奪三振、2012年の夏の甲子園松井裕樹が68奪三振を記録し、2012年夏終了時点で歴代4位。
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 テンプレート:Cite news
  4. テンプレート:Cite web
  5. テンプレート:Cite news
  6. 6.0 6.1 テンプレート:Cite news
  7. 元巨人ドラフト1位・辻内崇伸「8年間の悔恨」を語る Sportiva2013年11月24日
  8. 【セカンドチャレンジ】巨人・辻内元投手、営業で家族支える(『サンケイスポーツ2013年12月10日付記事)
  9. 巨人引退辻内氏 女子プロ野球コーチ就任(『日刊スポーツ2014年1月12日付記事)
  10. イースト アストライアコーチに辻内崇伸氏就任のお知らせ 日本女子プロ野球リーグ(2014年1月14日)
  11. 巨人ドライチ投手が選んだ新たな道 スポーツライター岡部充代の新発見女子プロ野球(2014年2月1日)