輪中

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テンプレート:出典の明記 輪中わじゅう)とは岐阜県南部と三重県北部、愛知県西部の木曽三川木曽川長良川揖斐川)とその支流域の扇状地末端部から河口部に存在した堤防で囲まれた構造あるいはそれを守るための水防共同体を有する集落のことである。曲輪(くるわ)、輪之内(わのうち)とも呼ばれる。加納輪中や室原輪中のように集落が山裾や高位部に接するため上流側からの大量の水が流入する可能性が低いためその部分に大きな堤防を持たないものもみられるなど、完全に堤防に囲われていない例外もある。

歴史

百輪中旧記によれば鎌倉時代末期の元応元年(1319年)に、標高が低いために高潮などによる水害に苦しんだ農民たちがそれまで下流側に堤防が無い「尻無堤」に下流部からの逆水を避けるための潮除堤を追加し集落全体を囲う懸廻堤を有する最初の輪中である古高須輪中が完成したとされるが、輪中を維持管理するための社会構造がこの時代には存在できないと推定され、実際に古高須輪中が完成したのは江戸時代初期であるとされる[1]。初期に成立した輪中についてはその正確な年代を特定する文献が乏しいが輪中には内水による災害の危険が伴うため、排水路が整備された年代などからその成立時期が推定されている。その後周辺の集落もこれに習い明治時代中ごろまでに順次造られた。研究者の定義により差異はあるが、最終的に1,800km2の面積に及び、数は80ほどに達した[2]。時代が下ると大垣輪中や多芸輪中など、大きな河川に対して利害が一致する輪中同士がその河川に対する堤防を共有したり、旧来の輪中の外側の湿地帯や河川敷で新田開発のため新たな輪中が形成されるなどして内部に輪中構造を持つ複合輪中も誕生した。これに対して内部に輪中堤を持たない輪中を独立輪中と呼ぶ。複合輪中は外側の河川に対する堤防を持つ輪中として外郭輪中とも呼ばれた。これに対して外郭輪中の内側に含まれる輪中は内郭輪中と呼ばれた。ただし、堤防が共有される場合でも水防に関して独立している場合は複合輪中とは見なされない。

江戸初期に御囲堤が尾張の木曽川沿いに築かれ、木曽川から尾張側へ流れる河川が締め切られることにより木曽川の水量が増して水害が起こりやすくなった。また、木曽川西岸の堤防は御囲堤よりも3尺(1m)低くしなければならない、御囲堤の修繕が終わるまで対岸の堤防の修理を控えなければならないといった不文律もあったため(異説あり)水害が絶えず、美濃で特に輪中が発達することとなったと言われる。ただし御囲堤は国境よりも東側にあり、また木曽川の河口までは延びていなかったため尾張国内でも弥富市などの御囲堤に守られていなかった地域には多くの輪中が造られている。更に美濃側の木曽三川下流域は、天領、旗本領、尾張藩領、高須藩領、大垣藩領、加納藩領その他の領土が混在し共同して治水に当たることが難しかったことも一因として挙げられる。

輪中地域は傾斜が少ない氾濫原で、多くの領域は潜在的な遊水地となりえた。そのため輪中の形成は遊水地の減少を意味し、近隣地域の水害の危険性を高めることとなった。また、以前は輪中内の地域に流れ込んでいた土砂が、輪中の形成により河川に堆積し天井川になるという悪影響もあった。そのため以前は洪水に見舞われなかった上流域も水害の危険が増し、順次輪中が形作られていくこととなった。しかし前述の通り、輪中の形成により遊水地が減少することから近隣の輪中は新たな輪中の形成には強く反発した。その例として松枝輪中があげられる。また河口部では新田を開発するため河口部を干拓することによって新たな輪中が作られた。

明治時代に入って木曽川、長良川及び揖斐川の三川の大規模な治水事業により水害は激減したため輪中の必要性は薄くなり逆に道路交通に支障をきたすとして多くが削り取られたり取り壊されたりした[3]。また戦争中の食糧難によって比較的上流にある輪中は次々に田畑にされ、ほとんど残っていない。

現在でも残る一部の輪中堤防は洪水の際に利用されることがある。昭和51年(1976年9月12日に起きた水害(通称:9.12水害)では輪之内町の福束輪中の水門を締め切ることでその内側は水害から免れることができた[4]。近年、洪水に対する減災の観点から見直され、京都府由良川流域や青森県馬淵川流域等で採用されている。

施設

ファイル:上げ舟 1.JPG
玄関の軒下に備え付けられている「上げ舟」(岐阜県海津市
木曽三川公園センター輪中の農家にて

輪中には水害から身を守るために様々な施設が存在した。

助命壇
洪水の際に、水害から身を守るために住民が避難した高台。多くは集落の中心に作られ、目印となるように木が植えられている。多数人が避難できるが、食料などが備蓄してあるわけではない。水屋を作ることのできない貧しい農民が利用した。命塚とも。
上げ仏壇
水害の際に仏壇が濡れないように可動式となっており、水害が発生したときは天井裏へあげられるようになっている。
上げ舟
水害の際の移動手段として、軒下などに小船が備え付けられていた家も多い。これらは上げ舟と呼ばれた。
水防倉庫
江戸期においては水小屋、郷倉、諸式倉などと様々に呼ばれた。輪中堤の破堤に備えて水防に必要な道具類を収蔵した倉庫。土嚢を造るための麻袋や杭、縄、タコ槌、スコップ、松明が収められていた。堤防上や堤防沿いに建てられている場合が多い。
水神
輪中堤防が決壊したことのある場所(切所)には再びの破堤からの守護を祈念して祠が建てられている場合が多い。これを水神(みずかみ)と呼ぶ。切所は再び破堤する危険が高くそれを警戒する意味合いもあった。水神の例祭は水害の発生した日となっている場合が多い。

水屋

洪水による浸水を避けるため母屋とは別に石垣や土盛りの上など、高い場所に作った家屋。母屋と渡り廊下(どんどん橋と呼ばれることもある。)でつながっていることも多い。一般には倉庫として扱われ、洪水の際には住居として使われるものが多い。建造する費用が高いので全ての家にあるわけではなく、所有者は裕福な家に限られた。また、立地としては洪水時に避難できる高台や堤防から離れた地区に多い。類似の建築は日本各地に見られ、利根川流域の水塚や淀川流域の段蔵や信濃川流域の水倉が挙げられる。文献上は18世紀後半にみられ以降輪中地域全体に広がるが、明治時代の木曽三川の分流工事の後は水害の危険が少なくなり新しく水屋が建てられなくなったためその数を減らしつつある。大垣市輪中生活館には住居式水屋と土蔵式水屋の双方を併せ持つ名和邸が保存整備されており、同市釜笛地区の水屋群が文化庁により文化的景観重要地域に選定された。

その形態により以下の5つに類型化されている。

住居式水屋
住居としての基本的な機能を備えた水屋。生活ができるように便所なども備えている。倉庫としての機能は有さない。
倉庫式水屋
普段は倉庫として農具や食料を保存してある蔵として使用され、出水時に避難所として利用される。味噌倉として用いられていた例が多い。
土蔵式水屋
土壁で作られた土蔵を水屋として用いたもの。
倉庫住居式水屋
倉庫式水屋と住居式水屋の両方の機能を持つもの。最も一般的な形態。
土蔵住居式水屋
土蔵式水屋と住居式水屋の双方の機能を兼ねるもの。

堀田

堀田(ほりた)とは特に濃尾平野にある輪中地域に作られた溝渠農業を示す。まわりの土を掘り上げて盛ってできた水田面とその掘られてできたクリークで成り立ち前者は堀上げ田、後者を堀潰れと呼ばれる。濃尾平野の地形上、定期的にどべあげ(じょれんで堀潰れの泥をかき上げる作業)が必要でかき上げられた泥は肥料として用いられた。また耕作には備中鍬くれんこ、除草には田すりごまが用いられた。

堀田は形態や構造の違いにより、以下の3つに類型化されている。

河間(がま)吹型堀田
水田中に湧く湧水を排除するために設けられた細長い溝渠で、それらの堀潰れは不規則なものが多い。水深は湿地状の場所から2mを越えるところまである。水温を15℃程度に保ち緩やかに水が流れることがほとんど。堀田の中でも存在していた地域が少ないタイプである。冬季の淡水魚の避難所として利用されていると考えられる水域もある。
孤立型堀田
堀潰れが短冊状に並び、水路とは直結せずに孤立している。通常水深は浅く、時には湿地になったり干上ったりもする。梅雨時などには排水路や堀上げ田と繋がる。これは、小規模の溜池わんどなどの環境に近いものと考えられる。
田舟型堀田
水はけが最も悪い場所に存在した堀田で規模も大きく堀上げ田と堀潰れの比が6対4、あるいはそれを上回るところもあった。堀潰れは櫛の歯状や梯子状で、水深は平均的に見て1~1.5mと深い。ほとんどは悪水路と直結する。流れはほとんどなく止水である。田舟でしか水田へ行けないところが多い。
ファイル:Kato Diesel 01.JPG
土地改良事業で使用された加藤ディーゼル機関車

また、裏作として米以外の農作物を育てる目的で作られた堀田は根腐れを防ぐために土盛りを通常の堀田より高くした。このような田をくね田と呼んだ。

堀田は昭和29年(1954年)から昭和45年(1970年)にかけて行われた土地改良事業により消滅した。一例として国土地理院地図・空中写真閲覧サービスによる、現在の[[[:テンプレート:座標URL]]35_11_21.35_N_136_38_48.35_E_type:landmark_region:JP-21&title=%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%9C%8C%E6%B5%B7%E6%B4%A5%E5%B8%82%E6%B5%B7%E6%B4%A5%E7%94%BA%E6%B7%B1%E6%B5%9C 岐阜県海津市海津町深浜]付近の航空写真を示す。

農家が堀田を造ることは無くなったが、海津市歴史民俗資料館の敷地内に復元された堀田で稲が栽培されている様子を見ることが出来る。また埋め立て用土砂の運搬に用いられた加藤製作所製のディーゼル機関車も展示されている。

内水災害の防除

輪中は集落の低位部に堤防が存在するため、その外側に自然に排水が流れ出ることがなかった。流れ出ずに溜まった排水は悪水と呼ばれ、その排水の為に堤防に排水のための悪水吐圦樋を設けた。圦樋は増水時には閉じられたが、水圧が大きい場合には破壊されてそこから水が流入してくる場合があった。

河川の水位が土砂の堆積により上がると圦樋での排水が困難となる場合があった。その際は圦樋の位置を従来より低位部に移した。これを江下げと言った。さらに河川水位が上がり天井川となると輪中の外周の河川へ排水ができなくなった。そのような場合には河床の下を通りサイフォンの原理で河川下流部へ排水する伏越樋が造られた。伏越樋は木製で経年劣化したので一定の期間を経ると伏せ替えが行われた。海抜ゼロメートル地帯に属する輪中では伏越による排水も出来ないため、干潮時は外側に開き満潮時に閉じる仕組みの門樋が作られた。海津市歴史民俗資料館には明治期に用いられた金廻四間門樋が復元展示されている。悪水吐による排水は近代化が進むにつれ工業排水が増える等の理由もあり、ポンプによる機械排水に取って代わられ、廃れた。

また、破堤等により輪中内に大量に水が滞留し、悪水吐では能力が不足して排水ができない場合は非常手段として低位部堤防を意図的に切り割りして破堤させる乙澪(おとみよ、乙澪切り)が行われる場合があった。明治29年の豪雨により大垣輪中内に滞留した水を揖斐川へ排水するために金森吉四郎により横曽根権現下堤を切り割りした例が最も著名であるが、江戸期からこの方法は採られていた[5]

内水の問題は輪中内部でも利害が異なり、上流側で高位部の上郷と下流側で低位部の下郷で対立を惹起させた。上郷の集落では井戸を掘って水を得ていたが、得られた水は最終的には排水となって下流部へ流れ込んだ。しかも輪中地域は西は養老町から東は羽島市まで、北は瑞穂市から南は海津市までが自噴帯であり井戸を掘ると止め処なく水が出た。よって上郷が多くの井戸を掘ればその分下郷は排水により害を蒙るため、上郷が掘る井戸の数を制限するため株井戸という制度が設けられた。上郷は井戸の数に応じて下郷に対して保障を行った。他にも下郷は上流部からの悪水が流れ込まないように上郷との境界に小さな堤防を作る場合があった。これは除(よげ)、除桁(よげた)、横堤、横土手、中提などと呼ばれた。上郷からは排水の妨げになるものであったため、対立の原因となった。

輪中の生活

輪中では堤防が切れることは死活問題であったため、各輪中では水防組が作られ、水害に備えて準備を怠らなかった。この水防組は明治以降も水害予防組合として存続している。

一般に輪中地域では生死を共にする輪中内での結束力は強かったが、他の輪中とは険悪な仲であった。他の輪中が自分たちの輪中より高くなることは自分たちが水害に遭うことに等しかったからである。自分たちの輪中を水害から守るため隣の輪中堤防を破壊することもあったといわれているが、このような行為は現在で言うところの現住建造物等浸害罪などにあたり当時も厳しく罰せられた。

このような水害から自分の住む輪中を守るためにその中での結束が固くなるが他の輪中の人に対しては冷ややか、という排他性から輪中根性という言葉が生まれた。岐阜県民の県民性を表すときによく使われるが、保守的で猜疑心の強い排他的な自己本位の田舎者といった意味であることが多い。

同一輪中でも上流域と下流域の仲は悪かった。上流で掘った井戸の水が下流部に溜まって悪水と化すからである。その為、同じ輪中でも上流部と下流部のあいだに堤防が築かれたこともあった。

また輪中地域は水害に悩まされた反面、渇水にも悩まされた。これは水害を防ぐため田畑はやや高いところに存在していたためである。そのため、これらの地域では雨乞い踊りなどが伝わっている。

対象地域

主な輪中

  • 三重県 - 長島輪中
  • 岐阜県 - 高須輪中、大垣輪中、桑原輪中、福束輪中、多芸輪中、墨俣輪中、松枝輪中
  • 愛知県 - 立田輪中

脚注

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関連項目

外部リンク

  • 輪中 その構造と展開
  • 輪中と治水
  • テンプレート:Citeweb
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  • 洪水と人間 その相克の歴史 伊藤安男 古今書院