解脱

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解脱(げだつ テンプレート:Lang-sa-short、毘木底、ヴィムクティ、テンプレート:Lang-sa-short、毘木叉、ヴィモークシャ)は、

  1. 仏教においては、煩悩による繋縛からき放たれて、全ての執着を離れることで、迷いの苦悩の世界から悟り涅槃の世界へと出することを指す。
  2. ヒンドゥー教において用いられている究極的な意味合いにおいては、サマーディ(仏教の漢訳三昧)に入定し、サンサーラ(saMsAra 仏教の漢訳輪廻)の迷いの境界から脱することを指す。
  3. ジャイナ教においては、 モクシャ (ジャイナ教)という。

解脱を果たしたものを解脱者と呼ぶことがある。

このテンプレート:Lang-sa-short(ヴィムクティ)、テンプレート:Lang-sa-short(ヴィモークシャ)という言葉はけっして仏教のみの術語ではなく、ニルヴァーナ(nirvana)(仏教の漢訳涅槃)と共に古くからインドで用いられ、人間の究極の目標や理想を示す言葉として用いられてきた。

語義

テンプレート:Lang-sa-shortテンプレート:Lang-sa-shortも、共にテンプレート:Lang-sa-shortを語根とする。これは「開放する」「放棄する」などの意味である。両者とも、全ての束縛から離れることであり、繋縛を離れて自在を得るという意味である。その意味で、古来「自在」と解釈されてきた[1]。それは、外からの束縛の解放や自由より、内から自らを解放することや自由を獲得することを重要視する。

仏教における解脱

仏教では、この解脱に慧解脱(えげだつ)と倶解脱(くげだつ)の別を説く。

  • 慧解脱 - 「智慧」の障りを離れていることで、正しい智慧を得ていることをいう。
  • 倶解脱 - 慧の障りを離れるだけでなく「」の障りをも脱していることをいう。

また、心解脱と慧解脱を説く。

  • 心解脱 - 心に貪著を離れること。
  • 慧解脱 - 無明を離れていること。

あるいは心解脱と身解脱という。

  • 心解脱 - 精神的には既に解脱していても、肉体的にはどうにもならない束縛を持っている場合をいう。例えば釈尊の成道後の伝道生活の如きである。
  • 身解脱 - 完全に肉体的な束縛を離れているのをいう。

自分の心や自分の身体は、自分のものでありながら、自分自身で制御することは難しい。これこそ、もっとも根本的な束縛といえるであろう。このような根本的な束縛を解き放した状態、それを「解脱」という。

諸宗教・宗派間の解釈の違い

仏教以外のインド一般の教えでは、輪廻からの離脱であるからむしろ空相的世界の意味が強く、仏教の場合も、部派仏教では無余涅槃を究極の目的としており、身心都滅(しんしんとめつ)にして初めて解脱であるから、空相的な意味が強い。しかし、後の大乗仏教では解脱といっても、無住処涅槃の理想からいえば、生死にも涅槃にも囚われないまったくの無執着、逆にいえば任運自在の境地をいうとみてよいから、実相的な意味あいである。

ジャイナ教における解脱

テンプレート:Main ジャイナ教のモクシャは解脱と和訳される。

解脱の名を有するもの

関連項目

脚注

  1. 「解脱というは、作用自在を謂う」(『華厳大疏』)

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