藤堂高朗

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:基礎情報 武士 藤堂 高朗(とうどう たかほら)は、伊勢津藩の第7代藩主、元は支藩久居藩の第5代主。幼名は万治郎、元服後の初名は高豊

生涯

藤堂家一門の藤堂出雲家第4代・藤堂高武の子として生まれ、父の死後に家督と7,000石を継いだ。享保11年(1726年)に、当時久居藩主であった叔父・高治の養嗣子となる。

享保13年(1728年)、高治が本家の津藩を継ぐこととなったため、その跡を受けて久居藩主となった。ところが享保20年(1735年)、津藩主となっていた高治が病に倒れたため、再び高治の養嗣子となって津藩の家督を継いだ。久居藩主は弟の高雅が継いだ。

藩政においては幕府の歓心を得るために、自ら指揮して日光東照宮の修補造営に努めたが、この出費により24万両もの借金を作った。さらに文学を奨励したため、儒学は発展したが、高朗自身が奢侈に走ったため、士風などが緩んだ。ほかに寛保二年江戸洪水のために西国大名の手伝い普請に参加した。

明和6年(1769年)2月9日、病を理由に四男の高悠に家督を譲って隠居し、天明5年4月7日1785年5月15日)に69歳で死去した。

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