藤原能信

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テンプレート:基礎情報 公家 藤原 能信(ふじわら の よしのぶ)は、平安時代中期の公卿・廷臣。摂政太政大臣藤原道長の四男。

生涯

道長の妻の一人・明子腹の三男に生まれる。父・道長に似て勝気な性格だったらしく、15歳の時に敦良親王(のちの後朱雀天皇)誕生を祝う儀式中に同席した藤原伊成藤原義懐の次男)と喧嘩をした挙句、加勢した能信の従者によって一方的に負傷した伊成が憤慨して出家するという事件を起こしている。だが、その勝気さは次第に異母兄頼通への対抗意識に変化していった。

道長には頼通・教通を生んだ源倫子左大臣源雅信の娘)と能信の母・明子という、主な夫人が2人いた。だが、倫子は道長の最初の妻であると同時に当時の現職大臣の娘で道長の出世への助けになったのに対し、明子の父源高明はかつての権力者ながらもすでに故人で、しかも安和の変で流罪になった人物であった。そのため、倫子所生の子供たちは嫡子扱いを受けて出世を遂げたのに対して、明子所生の子供たちはそれより下の出世に限定されていた。能信の他の兄弟は頼通と協調して自己の出世を図ろうとしたのに対して、能信はそれを拒絶し公然と頼通と口論して父の怒りを買うことすらあったという。(なお、官位の昇進は治安元年(1021年)の正二位大納言昇進が最後であった)

長元5年(1032年)、教通の子信長元服に際して加冠役を務める。同10年(1037年)、後朱雀天皇の中宮(のちに皇后)に禎子内親王(のちの陽明門院)が決まると、その側近である中宮大夫に任じられる。既に頼通の養女・嫄子が天皇の新しい中宮として入内することが確定しているにもかかわらず、あえてその対立陣営の中心に立った。そして禎子内親王所生の尊仁親王(のちの後三条天皇)の後見人を引き受けることになった。寛徳2年(1045年)に後朱雀天皇が重態に陥ると、能信は天皇に懇願して、尊仁親王を異母兄の親仁親王(のちの後冷泉天皇)の皇太弟にするよう遺詔を得たとされる(『今鏡』)。

だが、世間では頼通・教通兄弟がそれぞれ娘を後冷泉天皇の妃にしており、男子が生まれれば皇太子は変更されるだろうと噂され、尊仁親王やその春宮大夫となった能信への眼は冷たいものがあり、親王が成人しても娘を入内させる公卿はなかった。やむを得ず自分の養女(妻祉子の兄である藤原公成の娘)である茂子を立太子に際し添臥として入内させ、「実父の官位が低すぎる」という糾弾を能信が引き受けることで皇太子妃不在という事態を回避した。

以後、20年にわたり春宮大夫として尊仁親王の唯一の支援者であり続けた能信は、尊仁親王の即位を見ることなく、しかも同母兄の右大臣頼宗の急死で大臣への道が開かれたそのわずか6日後の康平8年(1065年)2月9日、71歳で没した。

その3年後に後冷泉天皇が男子を遺さずに崩御すると、尊仁親王が後三条天皇として即位、続いて茂子の息子である白河天皇が即位した。後三条天皇は能信の死後に春宮大夫を継いだ養子の能長(実父は頼宗)を内大臣に抜擢した。また白河天皇は能信に太政大臣の官職を贈り、必ず「大夫殿」と尊称した。(後三条・白河両天皇による政治とその後の院政の開始は、摂関家による摂関政治を終焉に導く事となる)

なお、少数説であるが、道長とその一族の歴史を鋭い視点で描いた『大鏡』の作者を能信とする説もある。

系譜

官歴

能信を題材とした小説