薬師寺

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薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇道昭義淵である。1998年平成10年)に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。現・管主は山田法胤である(2009年8月着任)。

歴史

薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥藤原京(奈良県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺[[[:テンプレート:座標URL]]34_29_33.88_N_135_48_0.95_E_scale:10000 北緯34度29分33.88秒東経135度48分0.95秒])の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。

創建

日本書紀天武天皇9年(680年)11月12日条には、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させたとある。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔檫銘」(とうとうさつめい、「さつ」は木扁に「察」)にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。

「東塔檫銘」には、「清原宮に天の下を統治した天皇(天武)の即位八年、庚辰の歳、中宮(後の持統天皇)の病気のため、この伽藍を創り始めたが、完成しないうちに崩御したので、その意志を継いで、太上天皇(持統)が完成したものである」という意味のことが記されている。ここでいう「天皇即位八年、庚辰之歳」は、『書紀』の「天武天皇9年」と同じ年を指している。すなわち、『書紀』は天智天皇の没した翌年(壬申年、西暦672年にあたる)を天武天皇元年とするが、天武が正式に即位したのはその翌年(西暦673年にあたる)であり、「天皇即位八年」とは即位の年から数えて8年目という意味である[1]

持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)という行事が行われたことが『書紀』に見え、この頃までにはある程度伽藍が整っていたものと思われる。『続日本紀』によれば、文武天皇2年(698年)には寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせている。この創建薬師寺は、藤原京の右京八条三坊の地にあった。大和三山の畝傍山香久山の中間にあたる橿原市城殿町に寺跡が残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡に指定されている。

平城移転

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薬師寺式伽藍配置の概念図。A:中門、B:回廊、C:金堂、D:塔、E:講堂、F:鐘楼、G:経蔵

その後、和銅3年(710年)の平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した右京六条二坊(現在地)に移転した。移転の時期は長和4年(1015年)成立の『薬師寺縁起』が伝えるところによれば養老2年(718年)のことであった。ただし、平城薬師寺境内からは霊亀2年(716年)の記載のある木簡が出土していることから、造営は養老2年よりも若干早くから始まっていたとみられる。『扶桑略記天平2年(730年)3月29日条に、「始薬師寺東塔立」とあり、東塔(三重塔)が完成したのがその年のことで、その頃まで造営が続いていたものと思われる。

なお、平城京への移転後も、飛鳥の薬師寺(本薬師寺)はしばらく存続していた。史料や発掘調査の結果からは平安時代中期、10世紀ころまでは存続していたようだが、後に廃寺となった。本薬師寺跡には金堂・東塔の礎石、西塔の心礎が残っている。本薬師寺の伽藍配置は「薬師寺式伽藍配置」と称されるもので、中央に金堂、その手前に中門、背後に講堂を配し、金堂の手前東西にを置く。そして、中門左右から出た回廊が講堂の左右に達し、金堂、東西両塔は回廊で囲まれている。この伽藍配置は平城薬師寺においても踏襲されている。本薬師寺、平城薬師寺双方の発掘調査により、両伽藍の建物の規模、位置関係などはほぼ等しく、本薬師寺の伽藍を平城薬師寺に再現しようとしたものであることがわかる。ただし、平城薬師寺では中門の規模が拡大され、回廊も幅が広げられている。

平城京の薬師寺は天禄4年(973年)の火災と享禄元年(1528年)の筒井順興の兵火で多くの建物を失った。現在、奈良時代の建物は東塔を残すのみである。天禄4年の火災では金堂、東塔、西塔は焼け残ったが、講堂、僧坊、南大門などが焼けた。発掘調査の結果、西僧坊の跡地からは僧たちが使用していたとみられる奈良時代や唐時代の陶磁器が多数出土しており、天禄4年の火災の際に棚から落ちて土中に埋もれたものとみられる。

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大池からみた薬師寺両塔・金堂の夜景
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大池からみた薬師寺両塔・金堂と若草山

移建・非移建論争

平城京の薬師寺にある東塔及び本尊薬師三尊像が飛鳥の本薬師寺から移されたものか、平城京で新たにつくられたものかについては明治時代以来論争がある。21世紀の現在では、東塔は平城京での新築とするのが、ほぼ通説となっているが、論争は完全に決着したわけではない。

11世紀成立の『薬師寺縁起』に引用される奈良時代の流記資財帳に「薬師寺には塔が4基あり、うち2基は本寺にある」という趣旨の記載があり、ある時期までは平城と飛鳥の両薬師寺にそれぞれ2基の塔があったと解釈されることから、足立康町田甲一らはこれを非移建説の根拠の1つとしている。現存する東塔に、他所から解体移築した痕跡の見られないことからも[2]、東塔については『扶桑略記』の記述どおり、平城移転後の天平2年(730年)新築と見る説が通説となっている[3]。ただし、平城薬師寺の境内からは本薬師寺から出土するのと同様の古い様式の瓦も出土しており、西塔は飛鳥からの移築だったとする説もある[4]

発掘調査の結果、平城薬師寺の廻廊は当初単廊(柱が2列)として計画されたものが、途中で複廊(柱が3列、通路が2列)に設計変更されたことが判明している。このことから、当初は本薬師寺の建物を一部移築しようとしていたものを、途中で計画変更したのではないかとする説もある。

金堂本尊薬師三尊像については、記述の「持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)が行われた」との記述(『書紀』)を重視し、この年までには造立されて、後に平城薬師寺に移されたとする説がある一方、主に様式や鋳造技法の面から平城移転後の新造とする説もあり、決着はついていない。

金堂・西塔などの再建

20世紀半ばまでの薬師寺には、江戸時代後期仮再建(従来は1600年再建説や1676年再建説などもあった)の金堂、講堂が建ち、創建当時の伽藍をしのばせるものは焼け残った東塔だけであった。1960年代以降、名物管長として知られた高田好胤(たかだこういん)が中心となって写経勧進による白鳳伽藍復興事業が進められ、1976年に金堂が再建されたのをはじめ、西塔、中門、回廊の一部、大講堂などが次々と再建された。再建にあたっては、「鉄は持って数百年程度、木材(ヒノキ)は千年持つ。鉄を使うとその部分から腐食する。」と主張する宮大工西岡常一と、「台風や地震、火災からの文化財保護の観点からも鉄筋コンクリート補強が望ましい。」と主張する竹島卓一(元名古屋工業大学)の意見が衝突した。結果、金堂の内陣は鉄筋コンクリートとし、西塔は鉄の使用を極力少なくし木材の乾燥収縮を考慮して東塔より約30センチ高くして再建された。なお、入母屋造だった旧金堂は現在興福寺の仮中金堂として移築され、寄棟造に改造され前部の庇が取り払われるなど、外観を大きく変えて現存している。

伽藍

東塔

国宝。現在寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)にさかのぼる唯一のもの。総高34.1メートル(相輪含む)。日本に現存する江戸時代以前に作られた仏塔としては、東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さを誇る。屋根の出が6か所にあり、一見六重の塔に見えるが、下から1・3・5番目の屋根は裳階(もこし)であり、構造的には三重の塔である。仏塔建築としては他に類例のない意匠を示す。塔の先端部の相輪にある青銅製の水煙(すいえん)には飛天像が透かし彫りされており、奈良時代の高い工芸技術を現代に伝えている。

相輪の中心部の柱の最下部には「東塔檫銘」(さつめい、「さつ」の漢字は木扁に「察」)と称される銘文が刻まれており、薬師寺の創建と本尊造立の趣旨が漢文で記されている。塔の建築年代については飛鳥の本薬師寺から移築されたとする説(移建説)と、平城京で新たに建てられたとする説(非移建説)とがあったが、『扶桑略記』の記述のとおり、天平2年(730年)に平城京にて新築されたとする説が通説となっている。当初、東塔・西塔の初層内部には釈迦八相(釈迦の生涯の8つの主要な出来事)を表した塑像群が安置されていたが、現在は塑像の断片や木心が別途保管されるのみである。

前述のような特徴的な姿から、この塔を評してしばしば「凍れる音楽」という評語が使われる。なお、「明治時代に本寺を訪れたアーネスト・フェノロサが、この塔を指して「凍れる音楽」と表現した」と説明されることが多いが、複数の文献が「凍れる音楽」をフェノロサの言葉とするのは誤りだと指摘している[5]佐佐木信綱会津八一はそれぞれ東塔を題材にした短歌を残しており、両人の歌碑が薬師寺境内に建立されている。

東塔の修理

地震や台風での損傷を修理する為、幾度と修理が行われている[6]。 主な修理は、

  • 1524年 明応3年(1494年)の地震による塑像、相輪などの損傷を修理。
  • 1644年 正保修理、慶長伏見地震(1596年) の地震による損傷を修理。
  • 1783年 天明修理、宝永地震(1707年)の地震による塔九輪折れを修理。
  • 1808年 天明修理での不具合箇所を修理、六層目より上を解体修理など。
  • 1856年 伊賀上野地震(安政奈良地震)による傾斜の立て起こしや損傷を修理。
  • 1898年 明治の修理:解体修理[7]
  • 1950年 昭和の修理:部分修理[8]
  • 2009年 平成の修理:解体修理で、2018年までの予定で約110年振りの東塔の解体修理が進められている[9]
    • 2011年9月 - 東塔全体を覆う素屋根の設置工事を開始。
    • 2012年9月 - 瓦が外され東塔の解体が始まる[10]

その他の建物

  • 南門(重文)-境内南正面にある小規模な四脚門。室町時代・永正9年(1512年)の建築で、もとは薬師寺西院の門であった。
  • 中門-1984年の再建。両側に回廊が延びる。
  • 金堂-1976年の再建。奈良時代仏教彫刻の最高傑作の1つとされる本尊薬師三尊像を安置する(薬師三尊像については後述)。
  • 大講堂-2003年の再建。正面41m、奥行20m、高さ17mあり、伽藍最大の建造物である。本尊の銅造三尊像(重文)は、中尊の像高約267センチの大作だが、制作時期、本来どこにあった像であるかなどについて謎の多い像である。かつては金堂本尊と同様、「薬師三尊」とされていたが、大講堂の再建後、寺では「弥勒三尊」と称している。
  • 西塔-東塔と対称的な位置に建つ。旧塔は享禄元年(1528年)に戦災で焼失し、現在ある塔は1981年に伝統様式・技法で再建されたものである。デザインは東塔と似ているが、東塔が裳階部分を白壁とするのに対し、西塔は同じ箇所に連子窓を設けるなどの違いもある。東塔も元々は連子窓であったが修復で白壁にされた。一見すると東塔に比べ若干高く見えるが、これは1300年の年月の内に、東塔に材木の撓みと基礎の沈下が起きたためであり、再建された西塔はそのような年月の経過を経験していないため、若干高く見えるとのことである。西塔の再建に当たった文化財保存技術者西岡常一によれば、500年後には西塔も東塔と同じ高さに落ち着く計算とのことである[11]
  • 東院堂(国宝)-境内東側、回廊の外に建つ。元明天皇のために皇女の吉備内親王が養老年間(717-724年)に建立した東禅院が前身で、現在の建物は鎌倉時代・弘安8年(1285年)の建築。堂内の厨子に本尊・聖観音立像を安置する。
  • 玄奘三蔵院-主要伽藍の北側にあり、1991年(平成3年)に建てられたもので玄奘三蔵を祀る。日本画家平山郁夫が30年をかけて制作した、縦2.2メートル、長さが49メートル(13枚の合計)からなる「大唐西域壁画」がある。
  • 休ヶ岡八幡宮(重文)-南門を出て、公道を横切った向かい側の敷地にある。薬師寺の鎮守社で、現在の社殿は桃山時代の慶長元年(1596年)、豊臣秀頼の寄進によるもの。

文化財

薬師三尊像

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薬師三尊像(手前から日光菩薩、薬師如来、月光菩薩)
写真は再建前の旧・金堂に安置されていた時のもの

金堂に安置する、薬師寺の本尊。国宝。飛鳥時代後期(白鳳期) - 奈良時代(7 - 8世紀)の作。国宝指定名称は「銅造薬師如来及び両脇侍像 3躯」。中尊は薬師如来、左脇侍(向かって右)に日光菩薩(にっこうぼさつ)、右脇侍に月光菩薩(がっこうぼさつ)を配している。像高は薬師如来254.7センチメートル、日光菩薩317.3センチメートル、月光菩薩315.3センチメートル。日本の仏像彫刻が、中国・六朝や唐の影響を受けつつ、独自の古典様式を完成した7 - 8世紀の作品のなかでも最高傑作の1つとして古来名高いものである。

中尊は「東塔檫銘」に「巍巍蕩蕩(ぎぎとうとう)たり薬師如来、大いに誓願を発し、広く慈哀を運(めぐら)す」とある薬師如来である。「巍巍」とは高い峰のように大きく堂々としている様子、「蕩蕩」は大河のように広くゆったりとした様子で、この表現のとおり、中尊像は男性的な堂々たる像容を表す。両脇侍像は首と腰を軽くひねり、頭部、上半身、下半身がそれぞれ異なった角度を表す「三曲法」と呼ばれるポーズを示す。これはインド・グプタ朝の彫刻様式の影響が、唐時代の中国を経て日本へ伝わったものである。

各像の面貌や体躯は、飛鳥時代彫刻のような観念的表現を離れ、人体の正確な把握に基づいた自然な肉付けがみられる。一方、衣文は深く明瞭に表され、鋭角に切り立った面を構成している。総じて中国・初唐様式の影響がみられる。

中尊の掌には輪宝を線刻し、足裏には輪宝のほか、指に卍花を刻むなど、吉祥文が表されている。これらは仏の三十二相に基づく表現である。中尊像の台座は宣字座の上に裳を広げた裳懸座である。この宣字座にはギリシャペルシャインド中国などに淵源をもつ葡萄(ぶどう)唐草文、異国風の人物像、四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)などの意匠があしらわれている[12]

制作年代については、「歴史」の項で述べたように持統天皇2年(688年)無遮大会実施までには完成していたとする説、『日本書紀』に持統天皇11年(697年)、薬師寺にて公卿百寮が仏像を造り開眼法会を行った旨の記録があることから、この時に制作されたとする説、平城京移転後の新造とする説があり、決着をみていない。685年頃の制作である旧山田寺仏頭(現・興福寺蔵)と比較すると、薬師寺像は鋳造技法の点で進歩がみられる。すなわち、山田寺像では鋳造の際に中型と外型のずれを防止するための「型持」と「笄」(釘)がずれてしまっているが、薬師寺像では「型持」と「笄」を一体化してずれを防止しており、銅厚も一定である。こうした鋳造技法の進歩を制作年代の下降と見る説がある一方で、天皇発願の寺である薬師寺と、私寺である山田寺を同一視はできず、技法の違いは即年代の違いではないとする説もある。[13]

国宝

  • 銅造薬師三尊像(前述)
  • 東塔(前述)
  • 東院堂(前述)
  • 銅造聖観音立像 - 東院堂本尊。像高約189センチ。金堂薬師三尊像と同じく、飛鳥時代後期(白鳳期) - 奈良時代の金銅仏の代表作の1つである。国宝指定名称は「銅造観音菩薩立像」。
  • 木造僧形八幡神・神功皇后・仲津姫命坐像-平安時代初期の作。いずれも像高30数センチの小品で、薬師寺の鎮守八幡宮の神体として作られたもの。日本の神像彫刻は仏像の影響を受けて作り始められたもので、薬師寺の三神像は日本の神像としては現存最古作の1つである。奈良国立博物館に寄託されている。
  • 麻布著色吉祥天 - 『金光明最勝王経』所説に基づき、吉祥悔過会(きちじょうけかえ)の本尊として制作されたもので、数少ない奈良時代の絵画遺品として貴重なものである。頭部の背後に光背(後光)があることからこれが仏画であることがわかるが、一見すると奈良時代の美人画のように見える。風になびく着衣の繊細さがよく表現されている。春・秋などに期日を限って、寺内の大宝蔵殿で公開される。
  • 絹本著色慈恩大師像 - 中国法相宗の祖の肖像画。11世紀の作。
  • 仏足石 - 大講堂内にある。礼拝対象としての仏陀(釈迦)の足跡を刻んだ石。側面に長文の銘があり、黄書本実(きぶみのほんじつ)が唐で写し持ち帰った仏足跡を文室真人智努(ぶんやのまひとちぬ)が夫人の追善のために写させたもので、天平勝宝5年(753年)の作と知られる。
  • 仏足跡歌碑 - 大講堂内にあり、仏足石とともに伝来したものだが、元来一具のものであるかどうかは定かでない。高さ194cmの石碑に仏足跡を称える歌など21首の歌を万葉仮名で刻む。ここに刻まれた歌はいずれも通常の和歌より1句多い「五・七・五・七・七・七」の歌体になり、これを「仏足跡歌体」と称する。

重要文化財

  • 南門
  • 休岡八幡神社社殿(本殿、東西脇殿) 3棟
  • 若宮社社殿
  • 板絵著色神像 6面 永仁三年三月尭儼筆 
  • 銅造如来及両脇侍像(大講堂安置)※寺では2003年より本像の呼称を「薬師三尊」から「弥勒三尊」に変更している。
  • 木造十一面観音立像(1897年指定、像高165.5cm)(奈良国立博物館に寄託)
  • 木造十一面観音立像(1902年指定、像高191.5cm)(奈良国立博物館に寄託)
  • 木造十一面観音立像(1921年指定、像高180.3cm)(東京国立博物館に寄託)
  • 木造地蔵菩薩立像(大阪市立美術館に寄託)
  • 木造地蔵菩薩立像 善円作(東京国立博物館に寄託) 
  • 木造伝大津皇子坐像
  • 木造四天王立像3躯(附:腕1箇)[14]
  • 木造文殊菩薩坐像(奈良国立博物館に寄託)
  • 木造弥勒菩薩坐像(奈良国立博物館に寄託)
  • 木造吉祥天立像(大阪市立美術館に寄託)
  • 塔本釈迦八相像残欠
    • 東塔塑像心木 160箇
    • 西塔塑像断片 52箇
    • 附:塑像断片一括、木像残欠25箇、土塔1箇、和同開珎残片2箇分、硬玉丸玉1箇
  • 木造光背残欠 
  • 木造狛犬(獅子)一対
  • 銅鐘(梵鐘
  • 大般若経 33巻
  • 増壱阿含経 巻第五十
  • 大般涅槃経 巻第十六 - 敦煌経、北魏時代[15]
  • 黒草紙 1冊(附:黒草紙(宝暦三年書写本)1冊)[16]
  • 薬師寺枡 3口

典拠:2000年までの指定物件については『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

史跡

橿原市畝傍御陵前駅近くの本薬師寺跡は特別史跡に、奈良市の薬師寺旧境内が史跡に指定されている。

年中行事

  • 12月31日~1月1日 越年写経会(写経道場) 写経道場で一般信徒が、越年写経会として夜を通して写経をする。
  • 1月1日~15日 修正会吉祥悔過法要(金堂) 吉祥天女画像を本尊として、1年の吉祥招福・天下泰平・滅罪消滅などを祈願する法要。宝亀2年(771年)より千年を超えて続いている。
  • 1月5日 初玄奘三蔵会・平和祈願祭(玄奘三蔵院伽藍) 玄奘三蔵の命日が2月5日なので、初めての月命日として1月5日に初玄奘三蔵会を行い、併せてその年1年間の平和祈願を執り行う。
  • 1月8日 初薬師縁日・大般若経転読法要(金堂) 薬師寺では毎月8日を薬師如来の縁日と定め、1月8日は初薬師縁日として大般若経転読の法要を行なう。
  • 1月15日 吉祥天にちなむお香とお茶の会(写経道場他) 修正会の結願の日に1年の吉祥福徳を吉祥天に祈願し、茶会を開き、またをたく。
  • 2月3日 節分会星祭
  • 3月23日 お身ぬぐい
  • 3月25日~3月31日 修二会(花会式) 奈良時代から続く薬師如来に対する悔過法要。国家繁栄、五穀豊穣などを祈る春の行事。薬師寺の修二会には十種の造花が本尊に供えられるところから「花会式」と呼ばれ、奈良の春の風物詩となっている。最終日の3月31日の夜には「鬼追式」が法会を締めくくる。修二会を参照。
  • 5月4日 最勝会(さいしょうえ) 平成15年に約500年ぶりに復興された行事。国家安泰や五穀豊穣などを祈る法要であり、また官僧の任命の為の国家試験の場でもあった。僧侶の口頭試問が仏前で行なわれる。
  • 5月5日 玄奘三蔵会大祭 法相宗の始祖・玄奘三蔵を讃える法要。伎楽、雅楽が演じられ、日没後は万灯供養会が行なわれる。
  • 8月1日~6日 夏休み寺子屋 小・中学生が集まり、お経を唱えたり、写経、お坊さんの法話など普段できない生活を体験し、礼儀作法を勉強する。 
  • 8月8日~10日 暁天講座 早朝5時の勤行の後、僧侶が法話を行なう。
  • 8月13日~15日 盂蘭盆会
  • 8月23日 地蔵盆
  • 9月25日 観月会
  • 10月8日 天武忌・万燈会 天武天皇の遺徳を偲んで法要を行なう。
  • 12月29日 お身拭い 午前中に正月用の餅をつき、その時に使ったお湯を使って僧侶が仏像の体を拭き清める行事。金堂薬師如来像・日光菩薩像・月光菩薩像のお身拭い後、大講堂、東院堂など各諸堂でも引き続きお身拭いが行なわれる。
  • 12月31日 除夜の鐘 午後11時45分頃より。
  • なお、これらの行事以外にも、大峯山入峰修行や小豆島八十八箇所巡礼などの行事もある。

別院

奉納コンサート

薬師寺では、クラシック系の音楽[17]や高校生の吹奏楽[18]から、ポピュラー音楽まで、様々な機会に多様なジャンルの音楽家による奉納コンサートが開催されている。2001年には、さだまさしが「薬師寺玄奘三蔵院伽藍総供養記念さだまさし薬師寺奉納公演」を行い、その模様は『瑠璃光 薬師寺ライヴ2001』としてライブ盤となった。その後、2003年大講堂が再建されてからは大講堂前特設舞台をステージとし、金堂との間に席を設けた屋外コンサート形式が多くとられている。これまでに奉納コンサートを行なった中には、安全地帯[19][20]AKB48[19]石井竜也[19][21]甲斐バンド[22]スターダストレビュー[23]堂本剛[24][25]徳永英明[26]南こうせつ[27][28]などが含まれている。

アクセス

周辺

歴代管主

脚注

  1. 東野(2008)、p18
  2. 『週刊朝日百科 日本の国宝』5号(薬師寺)、朝日新聞社、1997、p4 - 145。解説執筆は後藤治。
  3. 『国史大辞典』(吉川弘文館)の「薬師寺」の項、ほか多数
  4. 鈴木嘉吉「薬師寺新移建論 -西塔は移建だった-」『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』(白鳳文化研究会編、冨山房インターナショナル、2008)所収
  5. 「建築は凍れる音楽」というフレーズはフェノロサ以前からドイツで使われていたもので、ゲーテとエッケルマンとの対話(1829年3月23日)でも「凍れる音楽」にあたるerstarrte Musikというフレーズが用いられており、その初出はフリードリヒ・シェリングの『芸術の哲学』(1802 - 03年)とも言われている(以上、町田甲一『大和古寺巡歴』による)。町田甲一、寺沢龍らは、フェノロサが薬師寺東塔を指して「凍れる音楽」と評したとの説は誤りであると明言している。この件については以下の文献を参照。
    • 町田甲一『大和古寺巡歴』、講談社学術文庫、1989、pp140 - 144
    • 竹内昭「<凍れる音楽>考 異芸術間における感覚の互換性について」『法政大学教養部紀要』96号、1996(オンラインで閲覧可能[1]
    • 寺沢龍『薬師寺再興-白鳳伽藍に賭けた人々-』、草思社、2000
    • 山折哲雄監修、槇野修著『奈良の寺社150を歩く』(PHP新書)、PHP研究所、2010、pp.105 - 107
  6. 国宝薬師寺東塔の地震被害の履歴について -文化財建造物の地震被害履歴に対する構造学的な一考察- 日本建築学会計画系論文集 Vol.75 (2010) No.647 P271-278
  7. 国宝薬師寺東塔の明治修理の検討 : 安政伊賀上野地震(1854)による被害とその復旧と明治修理での小屋組構造の補強について 学術講演梗概集. F-2, 建築歴史・意匠 2007, 381-382, 2007-07-31
  8. 薬師寺東塔及び南門修理工事報告書, 1956 奈良県教育委員会文化財保存課
  9. 「国宝東塔修理について」『奈良薬師寺公式サイト』
  10. 110年ぶり修理、瓦取り外し始まる 奈良・薬師寺東塔朝日新聞2012年9月15日
  11. 寺沢龍『薬師寺再興-白鳳伽藍に賭けた人々-』、草思社、2000、p203
  12. 台座に表された異国風の人物像については、『金光明経』「堅牢地神品」との関連を説く説がある(戸花亜利州「薬師寺金堂薬師如来像台座に表された異形の意義」、『佛教藝術』284号)。
  13. 本項の記述は、『週刊朝日百科 日本の国宝』5号の解説(薬師三尊の解説は松島健)のほか、金子(2008)及び浅見(2008)による。
  14. 大破していた四天王像のうち2躯が明治時代に復元され、「木造二天王立像2躯」(持国天・多聞天)として1902年に重要文化財(当時の国宝)に指定された。2006年以降、寺内に保管されていた破損仏の断片を接合し、欠失部を補作して四天王像4躯に復元したものである。調査の結果、旧・持国天像の右腕は本来は増長天像に属していたものであると判明し、旧持国天像は腕の部分を作り直して、現・広目天像となった。現・持国天像は寺内にあった破損仏を、頭部を補作するなどして復元したものである。増長天像は右腕のみが古いものである(以上『国宝薬師寺展』図録、岐阜市歴史博物館、2011、による)。現・持国天像は2008年に重要文化財に追加指定(平成20年文部科学省告示第114号)。増長天像は右腕のみが2009年に追加指定されている(平成21年文部科学省告示第101号)。
  15. この経巻は、1941年に重要文化財(旧国宝)に指定された時は個人所蔵だったもので、後に薬師寺所蔵となった。
  16. 平成26年8月21日文部科学省告示第108号
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参考文献

  • 井上靖、塚本善隆監修、大岡信 安田暎胤著『古寺巡礼奈良15 薬師寺』、淡交社、1980
  • 大橋一章『薬師寺』(日本の古寺美術4)、保育社、1986
  • 田辺征夫「都城の大寺 大官大寺と薬師寺」狩野久編『古代を考える 古代寺院』所収、吉川弘文館、1999 ISBN4-642-02190-6
  • 町田甲一『大和古寺巡歴』、講談社学術文庫、1989
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』5号(薬師寺)、朝日新聞社、1997
  • 『日本歴史地名大系 奈良県の地名』、平凡社
  • 『角川日本地名大辞典 奈良県』、角川書店
  • 『国史大辞典』、吉川弘文館
  • 特別展図録『国宝薬師寺展』、東京国立博物館、2008(解説執筆は東野治之、金子啓明、浅見龍介)
  • 東野治之「薬師寺の歴史」、特別展図録『国宝薬師寺展』所収、東京国立博物館、2008
  • 金子啓明「若き古代 初期律令国家の理想仏 薬師寺金堂薬師三尊像について」、特別展図録『国宝薬師寺展』所収、東京国立博物館、2008
  • 浅見龍介「金堂薬師如来・日光菩薩・月光菩薩の制作年代論争」、特別展図録『国宝薬師寺展』所収、東京国立博物館、2008

関連項目

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外部リンク

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