葛根廟事件

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ファイル:China Inner Mongolia Hinggan.svg
満州国興安総省(現中国内モンゴル自治区ヒンガン盟
ファイル:T34 2.jpg
第二次大戦当時のソ連軍中型戦車(増加装甲付きのT-34-76(1941年戦時簡易型))(wikipediaのT-34参照)

葛根廟事件(かっこんびょうじけん)は、1945年8月14日満州国興安総省葛根廟(現在の中華人民共和国内モンゴル自治区ヒンガン(興安)盟ホルチン右翼前旗葛根廟鎮)において日本人避難民約千数百人(9割以上が婦女子)がソ連軍および中国人によって攻撃され、1,000名以上が虐殺された事件。

事件の経過

1945年8月8日ソ連日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦を布告し、さらに8月9日未明に満洲国、朝鮮半島樺太などに侵攻を開始した。

8月10日11日の両日、興安(別称、興安街ないし王爺廟。現在の内モンゴル自治区ヒンガン盟のウランホト)が爆撃を受け、興安の都市機能はほぼ破壊された。11日午後4時、興安街在住の日本人約千数百人が近郊のウラハタに集結、興安総省参事官浅野良三の指揮の下、行動隊が組織された。

行動隊の当初の目的地は100キロメートル離れたジャライトキだったが、12日からの降雨や興安軍による馬車の略奪などにより計画を変更。興安街の南東約40キロメートルに位置する葛根廟を経由し列車白阿線)で白城子(現在の吉林省白城)へ避難、同地で関東軍の保護を受けつつ列車でさらに南下するという計画を立て、徒歩で移動を開始した。

8月14日午前11時40分頃、行動隊が葛根廟丘陵付近まで到達したところで、ソ連軍中型戦車14両とトラック20台に搭乗した歩兵部隊に遭遇したため、浅野参事官は白旗を掲げたが、機関銃で射殺された。ソ連軍は丘の上から行動隊に対し攻撃を開始し、戦車が機関銃で攻撃を加えながら、避難民を轢き殺していった。戦車の後方からは、ひき殺された人々がキャタピラに巻き込まれ宙に舞いだしたという。ソ連軍戦車は攻撃をある程度続けると、丘に引き返し、何度も避難民めがけて突入しながら攻撃を繰り返した。戦車による襲撃が止むとトラックから降りたソ連兵が生存者を見つけ次第次々と射殺し、銃剣で止めを刺していった。2時間余りの間に非武装の女性、子供を主体とした1,000人以上が殺害され、生存者は百数十名にすぎないとされている。殺害を免れた者も戦車に轢かれたり、被弾して負傷したものや、家族が殺害されたものがほとんどであり、大勢が自決した。犠牲者のうちの200名近くの児童は、興安街在満国民学校の児童であった[1]。護衛・反撃に回るはずの肝心の関東軍部隊は既に南転済みでいなかった。[2]

生存者に対する襲撃も執拗を極めた。生存者は、中国人暴民によって、身につけている下着にいたるまで身ぐるみ全てを剥がされるなどした。また、暴民から逃れようとして川で溺死した者もいた[3]。ある女性はソビエト兵に子供を殺され、続いて襲ってきた暴民に衣服を全てはぎ取られた上に乳房を切り落とされている[4]。暴民たちは、生き残った母子を見つけると母親を棒で殴りつけ、子供を奪っていった[3]。親を殺された子供達は、生き残った大人のもとに集まっていたが、暴民たちはその子供たちをも同様に奪っていった[3]。当時は日本人の男児は300円、女児は500円で売買されるのが一般的であった[5]

8月15日の終戦後も、避難民に対する襲撃は続いた。事件後に10人余りの婦女子の一団に加わった12才の少女の証言によると、少女が加わった女性たちの一団は、暴民に襲われて衣服を奪い取られ暴行を受けるなどしながら、一週間余りをかけて葛根廟駅から10キロのところにある鎮西駅にたどりついた。女性たちは駅から少し離れたところにある畑の空き家に身を寄せることにしたが、夜になるとソビエト兵に発見され、深夜まで暴行が行われた。暴行が終わるとソ連軍兵士たちは屋外に積まれてあった枯れ草を家の中に投げ入れては火を付け、女性たちを焼き殺そうとした。少女と妹は窓のそばにいたために難を逃れることができたが、他の女性たちは火の回りが早く脱出できなかったようであると証言している。助かった少女はその後、残留孤児として生きることを余儀なくされた[6]

一方、中国人、モンゴル人、朝鮮人のなかには生存者に食事を提供する者もおり、中国人のなかには子供を手厚く育てる者もいた。行動隊の生き残った子供は、さまざまな経緯から中国残留孤児となっていた。また、多くの女性が中国残留婦人となることを余儀なくされた[7][8]

この事件は戦後第二次世界大戦におけるソ連の戦争犯罪として取り上げられており、暴民ではなく一国の軍隊の攻撃によって無差別的に大量虐殺されたジェノサイドであり、その点では終戦時に満洲の日本人難民が遭遇した悲劇のなかでも最大のものである[9][注釈 1][注釈 2]。。

脚注

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注釈

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出典

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参考文献

関連項目

外部リンク

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  1. 藤原(1995)p.323
  2. 興安街命日会(2014)
  3. 3.0 3.1 3.2 大櫛(1996)pp.163-165
  4. 大櫛(1996)pp.158-164
  5. 半藤(2002)p.317
  6. 読売新聞大阪本社(1992)pp.212-222
  7. 大櫛(1996)p.138
  8. 大櫛(1996)p.166
  9. 藤原(1995)p.323


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