名字

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
苗字から転送)
移動先: 案内検索

名字(みょうじ、苗字)は、家(家系家族)ののこと。法律上はと呼ばれ(民法750条、790条など)[1]、一般にはともいう。

概要

名字は、元々、「名字(なあざな)」と呼ばれ、中国韓国から日本に入ってきた「(あざな)」の一種であったと思われる。公卿などは早くから邸宅のある地名を称号としていたが、これが公家武家における名字として発展していった。近世以降、「苗字」と書くようになったが、戦後は当用漢字で「苗」の読みに「ミョウ」が加えられなかったためテンプレート:要出典範囲

「名字」と「姓」又は「氏」はかつて別ものであった。例えば、清和源氏新田氏流を自称した徳川家康の場合は、「徳川次郎三郎源朝臣家康」あるいは「源朝臣徳川次郎三郎家康」となり、「徳川」が名字(苗字)、「次郎三郎」が通称、「源」が(「姓」、本姓とも呼ばれる)、「朝臣」が姓(かばね)(古代に存在した家の家格)、「家康」が(いみな、つまり本名)ないし実名(じつみょう)になる。

明治時代以前の名字

公家の名字

古代の氏族制度が律令制に移行した後に、氏族格式そのものよりもその本人が属する家系や家族の方が重要になってきており、従来の(うじ)の中でもその家を区別する必要が現れた。例えば、同じ藤原氏でも藤原北家藤原式家、藤原北家の中でも道長頼通流とそれ以外といった様に同じ氏の中でも格の違いが現れている。

そのため、その家を現すためにその出身地を付けたのが名字の始まりと言われている。平安時代の貴族は母親の邸宅で育つため、その母方の邸宅のある地名などを名字につけた。貴族の初期の名字は一代限りのもので、号といい家名を現すものではなかったが、平安時代後期から家名となりその家系を示す様になってくる(近衛家九条家西園寺家など)。この家名が武家社会以降の公家の名字となり、明治維新以降も受け継がれることとなる。

公家の場合、原則として通称は無かった。通常、名字の下に(実名)を直接つなげるか、官位を間に入れることが多かった。

武士の名字

平安時代後期になると律令制が崩壊し、荘園の管理や自ら開拓した土地や財産を守るために武装集団である武士が出現する。武士は自らの支配している土地の所有権を主張するために自分の所有する土地(本貫地)( - みょう)の地名を名字として名乗り、それを代々継承した。また荘官であれば荘園の名称を、郡司であれば郡の名称を名字とする者も現れた。

鎌倉時代になると武士の所領が拡大し、大きな武家になると全国各地に複数の所領を持つようになった。鎌倉時代の武家は分割相続が多かったため、庶子が本家以外の所領を相続すれば、その相続した所領を名字として名乗るようになる。またさらなる土地の開墾によって居住域が増え、新たな開墾地の地名を名字とし、ますます武士が名乗る名字の数は増大していった。ただし、注意すべきは、名字(苗字)は異なろうとも姓(本姓)は同じということである。

例えば、新田義貞の弟は脇屋義助だが、本姓で言えばどちらも源姓であり、源義貞、源義助である。新田という名字(苗字)は、源義家(八幡太郎義家。八幡太郎とは義家の通称)の四男の源義国(足利式部大夫義国。足利は義国の母方の里の地名、式部大夫は役職)の長男の源義重が、新田荘を開墾し、そこを所領とし、藤原忠雅に寄進して荘官に任命されたことから新田荘の荘名を名字にしたことに始まる。義助は兄の義貞が相続した嫡宗家から独立して新田荘内の脇屋郷を分割相続して住んだことから、脇屋を自己の名字とし、脇屋義助と名乗った。ただし、新田氏は源頼朝から門葉として認められなかったため、鎌倉時代には幕府の文書に「源○○」と署名する事や記載されることはなかった。

南北朝時代以降は嫡子単独相続が主流となったため、このような形での名字の拡大は収まった。つまり一族の所領は兄弟で分割相続するのではなく、嫡子が単独で相続するため、嫡子以外の兄弟はその配下となり、独立しないため、新しい名字を名乗ることが少なくなった。

そして、室町時代から江戸時代になると、本姓は、もっぱら朝廷から官位を貰うときなどに使用が限られるようになり、そのような機会を持たない一般の武士は、本姓を意識することは少なくなった。事実、江戸幕府の編纂した系図集を見ると、旗本クラスでも本姓不明の家が散見される。一方で、一般の人であっても朝廷に仕えるときは、源平藤原といった適切な本姓を名乗るものとされた。また、一部の学者等が趣味的、擬古的に名乗ることもあった。したがって、名字は支配階級の象徴として固定化されたが、本姓の有無は支配階級の象徴として本質的なものではなかったのである。

武士の場合、名字の下に直接接続するのは通称であり、諱を直接つなげることは明治時代までなかった。諱を直接つなげる場合は、本姓に対してが通常であった。下級武士においては、通称のみで諱を持たない者も少なくなかった。

庶民の名字

古代の庶民は主に、豪族の所有民たる部曲の「○○部」という姓を持っていた。例えば「大伴部」「藤原部」というようなものである。しかし部曲の廃止や支配者の流動とともにその大半は忘れられ、勝手に氏を名乗ることもあった。

名字(苗字)は、姓(本姓)と違って天皇から下賜される公的なものではなく、近代まで誰でも自由に名乗る事が出来た。家人も自分の住む土地を名字として名乗ったり、ある者は恩賞として主人から名字を賜ったりもした。

江戸時代には幕府の政策で、武士、公家以外では、平民の中で、庄屋名主など特に許された旧家の者だけが名字(苗字)を名乗ることを許されるようになった。これをもって「江戸時代の庶民には名字が無かった」という具合に語られることがある。だが庶民といえども血縁共同体としての家があり、それを表す名もある。また先祖が武家で後に平民になった場合に先祖伝来の名字が受け継がれる場合もあった。ただそれを名字として公的な場で名乗ることはできなかった。そうした私称の名字は寺の過去帳や農村の古文書などで確認することができる。また商人がしばしば屋号をそのような私称として使った。魚や野菜などの食べ物、土地にちなんだ名字が多く見られるのもこのためで、「○○の人」と分かりやすくするため、用いられていたと言われている。

明治時代以後の名字

明治政府も幕府同様、当初は名字を許可制にする政策を行っていた。幕府否定のため幕府により認められていた農民町人の苗字を禁止し(慶応4年9月5日)、賜姓による「松平」の名字を禁止したり(慶応4年1月27日)する一方、政府功績者に苗字帯刀を認めることもあった。明治2年7月以降、武家政権より天皇親政に戻ったことから、「大江朝臣孝允木戸」のように本姓を名乗ることとした時期もあった。しかし公家出身の者はほとんどが藤原姓、武家出身の者はほとんどが源姓など、源平藤橘で84.6%となった。時代にも合わなかったためか、早々に廃止された。

明治3年(1870年)になると法制学者細川潤次郎や、戸籍制度による近代化を重視する大蔵省の主導により名字政策は転換された。9月19日の平民苗字許可令、明治8年(1875年)2月13日の平民苗字必称義務令により、国民はみな公的に名字を持つことになった。この日にちなんで、2月13日は「名字の日」となっている。明治4年10月12日には姓尸(セイシ)不称令が出され、以後日本人は公的に本姓を名乗ることはなくなった。氏・姓は用語も混乱していたが、この時点で太政官布告上は、いわゆる本姓は「姓」、氏・名字は「苗字」、かばねは「尸」というように分類されたのである。また公的に登録された戸籍上の氏名は、明治5年(1872年)8月24日の太政官布告により、簡単に変更することができなくなった[2]。夫婦の名字については、妻は夫の名字を名乗るのが慣例ではないかという伺いが地方から寄せられたが、明治9年(1876年3月17日太政官指令によって、妻は「所生ノ氏」つまり婚前の名字を改めないこととし、夫婦別姓とする決定がなされた。なお、現在と同じ夫婦同氏の原則に転換したのは明治31年(1898年)に明治民法が成立してからである。

明治以前の名字は先祖伝来の名を名乗るものとは限らず、地元の有力者に倣って名字を変える者などがおり、血のつながりとは無関係に同じ集落の家の苗字がみな同じということも起こった。明治になって名字を届け出る際には、自分で名字を創作して名乗ることもあった(たとえば与謝野鉄幹の父礼厳は先祖伝来の細見という名をあえて名乗らず、故郷与謝郡の地名から与謝野という名字を創作した)。このため現代の名字が武家や公家と同じ名字だからというだけでその子孫だとはいえない。僧侶や神官などに適当につけてもらうということもあった[3]が例は少ない。

丹羽基二の名字収集と珍姓研究

丹羽基二は1978年の『日本の苗字』(日本経済新聞社)で11万867件の名字(苗字)を採集し、1985年の『日本姓氏大辞典』(角川書店)では13万3.700件、さらに1997年の『日本苗字大辞典』(芳文館)では29万1.129件を採集した。これらの名字(苗字)のなかには現在実在しないものも含まれているが、丹羽は現在での実在・非実在よりも歴史上に記録されている名字(苗字)の悉尽を目的としてこの調査に取り組んだ。

また丹羽は名字の表記は歴史的にみて苗字、または姓氏が適切であると主張し、生涯を通じて珍姓・難読姓の由来解明を研究の主要テーマとし、地名学や民俗学・国語学を用いた名字(苗字)由来解説の著書を数多く世に出した。現在の名字(苗字)研究の基礎を築いた丹羽の功績は大きく、多くの名字研究家が丹羽の著作を基礎文献として利用している。丹羽の名字(苗字)研究を継承する研究者としては、家系図作成を指導している名字(苗字)研究家の岸本良信がいる。

外来名字

近代になって国際化がすすむにつれて日本に帰化する外国人が必ずしも「日本風」の氏名でなくても許可されるようになり[4]、アメリカ人だったドナルド・キーンは「キーン ドナルド」で日本国籍を取得している。また外国人と結婚して氏を改める(1984年戸籍法改正)例も増え、外国由来の名字を持つ日本人が増えてきており、中でも中東圏は父親の名字を継承する習慣があるため、日本人女性と結婚しても日本国籍を取得しても、アラビア語やペルシャ語の名字をそのままカタカナ表記で使用している事が多い(ダルビッシュ有 など)。

幽霊名字

近年刊行されている雑学本や名字関連の本に記載されている珍姓・奇姓・難読姓には、架空のものや江戸時代戯書から引用されたものが多いので、そのまま実在すると思ってはならない。このように実在が確認できない怪しげな名字の存在は佐久間英が「お名前風土記」(読売新聞社、1971)で指摘していたが、森岡浩はそれに「幽霊名字」という名称を与えた[5]

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

  • 井戸田博史『『家』に探る苗字となまえ』雄山閣、1986年4月、ISBN 9784639005650
  • 井戸田博史『夫婦の氏を考える』世界思想社、2004年
  • 坂田聡『苗字と名前の歴史』吉川弘文館、2006年4月、ISBN 9784642056113
  • 井戸田博史平民苗字必称令 : 国民皆姓
  • 丹羽基二『日本人の苗字:三〇万姓の調査から見えたこと』光文社、2002年8月、ISBN 9784334031541

関連書籍

  • 武光誠『名字と日本人 先祖からのメッセージ』文藝春秋、1998年11月、ISBN 9784166600113
  • 村川浩平『日本近世武家政権論』日本図書刊行会/近代文芸社、2000年6月、ISBN 9784823105289
  • 奥富敬之『苗字と名前を知る事典』東京堂出版、2007年1月、ISBN 9784490107036

関連項目

テンプレート:Sister

外部リンク

  • 現行民法における氏の性格については「家の名」だけでなく、学者の間で議論がある。井戸田博史『夫婦の氏を考える』世界思想社、2004年。
  • 井戸田(2004)、23ページ。
  • 丹羽基二『日本人の苗字 三〇万姓の調査から見えたこと』(光文社 2002年)193頁、201頁
  • 帰化申請・良くある質問
  • 幽霊名字とは - 『日本人の名字なるほどオモシロ事典』(森岡浩日本実業出版社 ISBN 4534028660 1998)98ページが初出