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ファイル:Strike motor & Pound mallet.JPG
一般に市販されている木製の搗き臼と杵
ファイル:Metate fcm.jpg
現在でも中米で使用されるサドルカーン「メタテ」

(うす)とは、穀物の脱穀や製粉、餅つきなど用いる道具である[1]

臼にはひき臼(碾き臼、挽き臼)とつき臼(搗き臼)の2種類がある[2]。このうち、ひき臼は大きくサドルカーン(英:saddle quern)ロータリーカーン(英:rotary quern)に大別される。なお、ひき臼、つき臼のいずれも業務用の電動式のもの販売されている。

ひき臼

ひき臼は、主に石製で、二つの石などをすり合せて粉砕を行うものを指す。

二枚の円板を重ねて、片方を回転させるロータリーカーンと、石板の上で石塊を往復させるサドルカーンに大別される。

en:Quern-stoneも参照のこと。

サドルカーン

日本語では「すりうす」・「型臼」。大きな板石でできた「下石」と、下石の幅ほどの長さをした「上石」のセットによって成り立つ。下石の上に少量の穀物を載せ、上石を「床の雑巾がけ」のような姿勢で交互に動かし、挽き潰す。

古代エジプト文明においてはこの方法で小麦製粉し、パンを焼いた。そのありさまは多くの土偶や壁画に残されている。新石器時代の中国や朝鮮の遺跡からもこのサドルカーンは出土しているが、この方法での製粉は長時間の不自然な姿勢による重労働を強いられ、腰痛の原因ともなった。そのため後述されるロータリーカーンが発明されるや、たちまち衰退した。しかしロータリーカーンが伝来しなかったサハラ砂漠以南の「ブラックアフリカ」では、20世紀後半になってもこのサドルカーンでの製粉作業が連綿と行われていた。

白人の到達までロータリーカーンが存在しなかったアメリカ大陸においても、このサドルカーンに類する製粉道具でドングリトウモロコシを挽き、粥や蒸し団子、トルティーヤに加工していた。

石皿も参照のこと。

ロータリーカーン

西南アジアで小麦の栽培が普及し、小麦を粉にするために発明された。

当初は人力でなされ、次にの力を利用し、そして中央アジアの流れを利用する水車で石臼を回す水臼が開発された。水臼は、人類が手にした最初の自然の力を動力として使った機械と言える。カール・マルクスは『資本論』の中で、「全ての機械の基本形は、ローマ帝国が水車において伝えた。」「機械の発達史は、小麦製粉工場の歴史によって追求できる」と、述べている。

en:Millstoneも参照のこと。

(てん、「碾子」とも)は、中国で発達したひき臼の一種で、輪石ローラー)を回転させて精米や製粉を行った臼である。中国では、粉食の習慣発生が意外に遅く、しかも稲米類でまれに行われる程度であった(小麦の伝来は前漢、その普及はとされている)。このため、古くはと呼ばれる今のすりばちのようなものであった。このため、磨から改良されたと見られる碾の記録も後漢末期が最古のものである。やがて、磨や碾に改良が加えられて、水力を用いた水碾(すいてん、後述)や小麦の製粉に優れた(がい)、のもみを砕くための(ろう、磨の間に竹の歯を挟み込んでもみを砕いて中身だけを最下層に落とした)が生まれた。
ヨーロッパでも類似の臼が存在する。en:Edge millドイツ語版オランダ語版の方が詳しい)を参照。
日本の挽き臼
日本で多く用いられている挽き臼は、ほぼ同様の厚みを持つ円形の下臼(雄臼)の上で上臼(雌臼)を回転させ上臼の穴から供給される大豆などを砕く形式のものである[3]。反時計回りに使用するものが多いがその理由は明らかになっていない[2]。上臼と下臼にはそれぞれ溝が刻んであり地域によって6区画で溝が刻まれているものと8区画で溝が刻まれているものが分布している[2]。製粉時に熱が入りにくいという利点がある[2]
唐臼
臼石に歯が付けられているものは唐臼(とううす[4])とも呼ばれる。

つき臼

つき臼は、木製または石製で、杵(きね)を用いて脱穀などを行うものである。餅つきにも使用される。つき臼の一種に碓(唐臼、踏み臼)がある。en:Stamp millも参照。

ファイル:Monjolo.JPG
水力を使用した碓。「添水唐臼」(そうずからうす)、「バッタリ」などと呼ばれる。

(たい)、唐臼(からうす[5])、踏み臼(ふみうす)は、中国で発達したつき臼の一種で、てこの原理などを利用して足で踏んでを動かすことによって精米や製粉、餅つきを行う足踏み式の臼。有史以前に日本にも伝来し、近年まで使われていた。東南アジア等にも広く普及し使われている。

また、後漢時代には河川などの水を利用して精米を行う、水臼と同じ原理の水碓(すいたい)と呼ばれる大型の碓も利用された。水碓は大量の穀物を精製できるために、権力者の中には水碓を用いて、自分の土地の穀物のみならず他人の穀物の精製も受け持って(あるいは水碓そのものを貸し出して)利益を得るものもいて、一種の財産となった。

西晋の時代に河内太守となった劉頌が、同郡には公主(同郡は晋皇室(司馬氏)の故郷で皇族の封地が多い)が勝手に水碓を設けて水路を切り開くために、一般農民の灌漑の妨害になっていると皇帝に訴えて、これらを全て壊したという(『晋書』)。

だが、後にひき臼である水碾を参照)の要素を加えて製粉も可能とした碾磑(てんがい/みずうす)が登場するようになると、その害はますます激しくなった。碾磑の初期のものはすでに後漢時代には中国本土から離れた楽浪郡でも発掘されているが、特に盛んになったのはの時代になってからで、貴族が自己の荘園内の河川や水路に碾磑を設置して専門の戸(磑戸)を設置して製粉業を行った。これは華北・中原においてはの栽培を基本にしつつ水稲栽培も推進されていた均田制期の農業政策に対する阻害となることから、唐王朝は灌漑用水の妨害となる碾磑に対して厳しい態度で臨み、たびたび碾磑設置の禁令や実際の撤去が行われていたが、気候的・地理的条件において不利を抱えていた華北における稲作政策が次第に放棄されて、代わりに小麦栽培が奨励されるようになったことに加え、均田制の解体と、それに替わって華北・中原において粟と小麦による2年3毛作を前提とした両税法への移行によって、碾磑規制の必要性が希薄となり、却って小麦の粉食に対応するために碾磑の設置に対する規制は有名無実化されていった。もちろん、水稲栽培地域では依然として碾磑規制は必要性をもって行われていた。

中国歴代王朝政権にとって、こうした水碓・水碾・碾磑の利便性・財産的価値と一般住民の生活・農業用水の確保という相反する目的をいかに調和させるかが、洪水防止と並ぶ、治水政策の最大の課題となったのである。

なお、日本にも推古天皇18年(610年)に来日した曇徴によって碾磑が伝来され(『日本書紀』)[6]天平19年(747年)に法隆寺大安寺が作成した資財帳にそれぞれ「碓屋」と記された家屋の所有が確認でき、これが碾磑施設と見られている。ただし、日本で粉食が行われるようになったのは後世のことであり、当時の日本では普及しなかったと考えられている。

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脚注

  1. 社団法人全国調理師養成施設協会『調理用語辞典 改訂版』1999年、113頁
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 農具など生産の道具 高崎市歴史民俗資料館
  3. 石臼 関ケ原町歴史民俗資料館
  4. 社団法人全国調理師養成施設協会『調理用語辞典 改訂版』1999年、113頁
  5. 社団法人全国調理師養成施設協会『調理用語辞典 改訂版』1999年、113頁
  6. 「飲食事典」本山荻舟 平凡社 p54 昭和33年12月25日発行

関連項目

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