羽生田忠克

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テンプレート:Infobox baseball player 羽生田 忠克(はにゅうだ ただかつ、本名:羽生田 忠之(はにゅうだ ただゆき)1964年5月1日 - )は、茨城県新治郡桜村(現:つくば市)出身の元プロ野球選手外野手)、野球指導者。

テンプレート:Byからテンプレート:Byまでの登録名は本名である羽生田 忠之

来歴

テンプレート:By、ドラフト外で西武ライオンズに入団。テンプレート:By笘篠誠治相馬勝也とともに1Aのテンプレート:仮リンクに野球留学し、71試合に出場した[1]。この時、同じ外野手のチームメートとしてアロンゾ・パウエルが在籍していた[1]。帰国後、テンプレート:Byスイッチヒッターに転向している[2]

テンプレート:Byには一軍で初出場を果たしたが、5月6日の日本ハム戦で1点リードの九回裏二死一塁の場面で平凡なライトフライを落球し、これがチームのサヨナラ負けに繋がった[3]。これは自身に取って引退後まで忘れられない試合となり、集中力を鍛え直すため翌テンプレート:Byに再びアメリカに派遣される原因ともなった[3]。1988年は鈴木健らとともにテンプレート:仮リンクでプレーし、ミスを気にしない周囲の選手を見て悩みが吹っ切れたという[3]。チームでは"TAD"というニックネームで呼ばれ、強肩選手に贈られるベストアーム賞を獲得している[4]。。

テンプレート:Byは一軍で39試合に出場し、8月5日の対近鉄戦ではライトフライを追ってフェンスに激突する[5]など、気迫あふれるプレーを見せた[2]秋山幸二平野謙が外野手のレギュラーとして定着している中で、テンプレート:Byは長打力のあるバークレオ森博幸、バランスの良い吉竹春樹左翼手のレギュラーの座を争い[2]、出場は47試合に増えたものの10月12日の対ロッテ戦でファールフライを追って川崎球場のフェンスに激突し、左ひざを骨折して全治3ヶ月の重傷を負っている[6]

テンプレート:By1月には自主トレの一環として北海道深川市極真空手の荒行に参加し、気温-7の道場での1時間座禅、-20度の大雪山で空手着1枚で3時間立ち続けるなどの修行を行なった結果、足の裏が凍傷状態になった[4]。完治前にランニングした際に化膿して傷が悪化し、同年はマウイの1次、春野町での2次の両キャンプに参加できず、治療に専念していた[4]。この怪我で『トウショウボーイ』というニックネームを付けられている[4]

テンプレート:Byは不振の平野謙に代わって起用された5月に好調な打撃を見せ、スタメンに定着しかけた[7]が、シーズンを通じてのレギュラー奪取はならなかった。右ひじの度重なる故障などもあって一軍出場はテンプレート:Byが最後になり、同年に入団した高木大成背番号10となったのにともない、球団史上初の背番号0に変更されている[8]テンプレート:By3月に3度目の右ひじ手術を行なったが痛みが消えず、同年で現役を引退した[3]

同年のシーズン中に妻を代表取締役としてマルチメディアFAXなどの販売代理店である有限会社を設立しており、引退後はその社長となった[3]。また、プロ野球マスターズリーグの札幌アンビシャスでプレーしている。テンプレート:Byからテンプレート:Byまでは茨城ゴールデンゴールズでコーチを務め、テンプレート:By岩手21赤べこ野球軍団の監督となった。知人の宇梶剛士をチームの総監督に招き[9]、「接戦での戦い方は試合を重ねることで身につく」として練習試合を重ねた[10]。チームは同年の都市対抗に初出場したが、自身は7月の2次予選を体調不良で欠場し[11]7月下旬に退団している。

プレースタイルなど

遠投127メートルの強肩に定評があり[2]、「球界一の鉄砲肩」と評された[4]右翼手の定位置から本塁三塁までダイレクトの低い送球が届いたという[2]。また、100mを11秒4で走る俊足だった[2]。現役時代は打撃が課題とされレギュラー定着はならなかったが、西武黄金期の貴重な控えとして代走守備固めで起用される事が多かった[3]

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 西武 13 0 0 1 0 0 0 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
テンプレート:By2 39 118 89 18 23 2 1 0 27 6 3 2 19 0 10 0 0 16 2 .258 .333 .303 .637
テンプレート:By2 47 83 71 13 17 2 3 0 25 2 2 0 9 0 2 0 1 9 0 .239 .270 .352 .622
テンプレート:By2 56 71 62 7 17 1 1 0 20 4 4 3 5 1 2 0 1 10 1 .274 .303 .323 .626
テンプレート:By2 24 15 11 6 2 0 0 1 5 1 0 2 2 0 2 0 0 2 0 .182 .308 .455 .762
テンプレート:By2 44 117 94 19 26 1 3 0 33 4 7 3 12 0 10 1 1 13 2 .277 .352 .351 .703
テンプレート:By2 73 107 89 17 26 6 0 0 32 11 3 4 5 1 12 0 0 14 0 .292 .373 .360 .732
テンプレート:By2 45 35 30 6 4 0 0 0 4 3 4 0 2 0 3 0 0 8 2 .133 .212 .133 .345
通算:8年 341 546 446 87 115 12 8 1 146 31 25 14 54 2 41 1 3 72 7 .258 .323 .327 .651

記録

背番号

  • 69 (1983年 - 1986年)
  • 10 (1987年 - 1995年)
  • 0 (1996年 - 1997年)

登録名

  • 羽生田 忠之 (はにゅうだ ただゆき、1983年 - 1988年)
  • 羽生田 忠克 (はにゅうだ ただかつ、1989年 - 1997年)

関連項目

脚注

テンプレート:Reflist

外部リンク

  • 1.0 1.1 baseball.reference.com 1985 San Jose Bees
  • 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 読売新聞、1990年3月2日付朝刊、P.19
  • 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 読売新聞、1998年5月19日付朝刊、東京地方面、P.26
  • 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 【1月29日】1992年(平4) 当日キャンセル…羽生田忠克、気合い入れすぎて凍傷に(野球) - スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球10年1月
  • 読売新聞、1989年8月6日付朝刊、P.18
  • 読売新聞、1990年10月13日付朝刊、P.19
  • 読売新聞、1993年5月26日付朝刊、P.18
  • 読売新聞、1995年12月23日付朝刊、P.23
  • 毎日新聞、2007年4月17日付朝刊、P.31
  • 毎日新聞、2007年6月5日付朝刊、岩手地方面、P.20
  • 毎日新聞、2007年7月1日付朝刊、岩手地方面、P.24