続縄文時代

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続縄文時代(ぞくじょうもんじだい)は、北海道を中心に紀元前3世紀頃から紀元後7世紀弥生時代から古墳時代)にかけて、擦文文化が現れるまで続いた時代で、続縄文文化に対応する。縄文時代から引き続くものとして山内清男により名づけられ、実際に連続する要素は多い[1]。 南部に恵山文化、中央部に江別文化、その終末期(5 - 6世紀、古墳時代中期から末期)の北大文化など、内部には地域と時代により異なる文化が含まれる。

本州の住民が水稲栽培を取り入れて弥生時代に移行したときに、気候的条件からか水田を作らず縄文時代の生活様式を継承した人々が営んだ文化が、本州の弥生古墳文化に並行する続縄文文化である。このときまで本州と北海道の住民は同じ縄文文化を共有していたが、ここで道が分かれることになった。

続縄文文化の人々は竪穴式住居に住み、狩猟と漁労を中心に、採集と原始的栽培も行った。縄文時代と比べ、魚介と海獣の比重が大きかった。アワキビヒエソバの存在から、これらの穀物を栽培していた可能性が高い。遺物となった道具としては、石斧、石ナイフなど多様な石器がある。他に本州製の鉄製品が入り込み、後期には鉄器の普及が石器製作技術の衰退を招いた形跡がある。骨角器も多く出土している。遺物として残りにくい木器と繊維製品は出土数こそ少ないが、当時は盛んに用いられていたと考えられる。

続縄文時代には、北海道北部が大陸・樺太方面から、北海道南西部が本州からの文化と産物の流入の窓口になっていた。北方産とみられる琥珀製の玉類が北海道から東北地方北部にまで分布し、佐渡島産とみられる碧玉製の管玉が石狩川河口付近までみられる。逆に続縄文文化が北海道の外に拡大する動きもあり、樺太南部や東北地方北部、千島列島に広がっていた。

この時代の後期にあたる5世紀古墳時代中期)から、樺太から北海道のオホーツク海沿岸にかけてオホーツク文化が定着した。これは続縄文文化とは異質のものである。

脚注

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参考文献

  • 野村崇・宇田川洋編『続縄文・オホーツク文化』(新北海道の古代2)、北海道新聞社、2003年、ISBN 4-89453-262-X

外部リンク


関連項目

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  1. この呼称は「稲作中心史観」の考え方、つまり、気候的条件からか水稲耕作を受容・摂取できずに、また、縄文文化から完全に抜け出せなかった状態を表している。関口明「文化は北から南から」23ページ(田端宏・桑原真人・船津功・関口明『北海道の歴史』山川出版社 2003年3月)