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'''篠田 傳'''(しのだ つたえ、[[1948年]] - )は、世界で初めてフルカラー[[プラズマディスプレイ]]を作った開発グループのリーダー。[[博士(工学)]]。元[[東京大学]][[客員教授]]、[[富士通研究所]][[フェロー]]、現・[[篠田プラズマ]]会長兼社長、[[広島大学]]客員教授。 == 経歴 == 彼は[[山口県]]の田舎に生まれた活発ある少年だった。[[2003年]][[6月3日]]の[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜]]の中に、『彼が遊んでいる最中に大人たちの大きな声が聞こえ何事かとかけつけ、彼はショックを受けときめいた。大人たちは口々に「変な箱があるぞ」といい、篠田はときめいた。』とあったが、これは演出で、実際は大学で初めて興味を持ったらしい。子供のころの夢は、研究者か医者。 [[山口県立小野田高等学校]]時代はあまり成績はかんばしくなく、当時新設だった広島大学[[電子工学]]科に第一回生として入ったときは、先生から「奇跡だ」と言われたらしい。 大学で彼は[[シリコン]]の研究をやりたかったが、[[真空]]状態のガラスに電圧をかけたときに発生する[[プラズマ]]の実験を見た。この実験を試みたのは当時講師だった[[内池平樹]]である。篠田は内池に「人と違うことをやれ!」といわれ、この原理を[[カラーテレビ]]に使えないかと考え、プラズマの研究をしていると耳にした[[富士通]]に入社した。 しかし、配属されたところは[[明石市]]の明石工場で、赤字は年2億だった。プラズマテレビの試作品は12個の「愛」の文字を浮かばせこれは伝説となる「愛」の他にいろいろ試したうちの一つは「輝」である。 しかし、この実験の直後彼は[[急性肝炎]]で倒れ2年間の入院を余儀なくされた。退院後試作機1つが完成し、平成3年の[[エレクトロニクスショー]]に出展したが、黒い断線、色の変化などにより、即下ろされた。 しかし、1年後のエレクトロニクスショーまでに21型のプラズマテレビをついに完成させて、世界に今の原型となるものをはじめてお披露目した。 その3年後に42型を完成させ、今も大型化に取り組んでいる。 ちなみに、同僚からは『[[ガリレオ・ガリレイ]]』(見た目が細いことから)と呼ばれていたらしい。 == 受賞歴 == *(社)[[発明協会]], 内閣総理大臣発明賞, 2002年 *Society for Information Display, KARL FERDINAND BRAUN PRIZE 2003 *[[紫綬褒章]], 平成16年春の褒章 *International Electrotechnical Commission ([[国際電気標準会議]]), IEC1906賞 (2006) *IEEE Honorary Membership([[IEEE]]名誉会員賞)(2007) ==外部リンク== *[http://www.shi-pla.com/index.html 篠田プラズマ(株)ホームページ] {{DEFAULTSORT:しのた つたえ}} [[Category:日本の技術者]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:富士通の人物]] [[Category:東京大学の教員]] [[Category:広島大学の教員]] [[Category:富士通研究所の人物]] [[Category:広島大学出身の人物]] [[Category:山口県出身の人物]] [[Category:1948年生]] [[Category:存命人物]]
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